恋愛遊戯 02

物おもへば沢の蛍も我が身より

あくがれいずる魂かとぞみる

*               *

 自分が何故あの獣に惹かれたのか、正確なところを鬼灯は思い出せない。
 出会ったのは随分と昔であるし、当時の自分はまだ彼の腰までの背丈もない幼子だった。美しく大きな神獣の姿に目を瞠りはしたが、まだそれだけだったと淡く記憶している。
 互いに名乗り、言葉を交わすようになったのは、それから長い年月が経って、長じた鬼灯が閻魔大王の第一補佐官となった後のことだ。
 だが、何が理由かとと聞かれても答えられないほど相手が気に入らず、いがみ合い、罵り合い続けて早や千年近く。
 時代は変わり続けて、現世は二百年余も続いた太平の時を過ぎ、海の遥か彼方から押し寄せてくる大波に揺れ始めている。
 あの世は現世よりも他国との交流があるため、この波が一過性では終わらないことを鬼灯は予感していた。
 また動乱の時代が――地獄の法廷が亡者で溢れかえる時代がくるのだろうと予期しつつ、日々の膨大な執務をこなす。そして多忙の合間に、ふと、あの忌々しい神獣のことを考える。それが閻魔大王第一補佐官の日常だった。


 あの雨の夜以来、鬼灯は白澤には会っていなかった。
 そもそも異国の天国の住人と日本地獄の鬼である。共に東洋医学の研究者であるということ以外、個人的な接点は全くない。
 白澤が物好きにも日本の衆合地獄に通ってくるからこそ時折顔を合わせるだけで、それがなければ年に一度の学会の研究発表会で同席するのがせいぜいなのである。
 現に、鬼灯が衆合地獄へ視察に行く日程や時間帯をずらし、白澤の方も衆合地獄へ顔を出さなくなったらしい今、二人が顔を合わせる機会は、ほぼ皆無だった。
 元々その程度の接点しかない相手である。なのに何故、あの男に惹かれたのか。
 いがみ合いが、ただのいがみ合いでなくなるきっかけが何かあったと朧気には記憶している。だが、具体的なことが思い出せない。
 おそらく他愛のないことではあったのだろう。日常の会話の延長線上か、そんなようなもので、ある程度時が過ぎれば詳細を忘れてしまうほどの小さなきっかけ。
 けれど、それが時を経た今、大きく膨れ上がってこんな事態を引き起こしている。
 鬼灯にとって最大の誤算は、自分の想いを白澤に気付かれたことだった。
 無論、白澤が気付いたのは鬼灯に想う相手がいるということだけで、その相手が白澤自身だと気付かれたわけではない。
 そのことは不幸中の幸いだったと思うが、しかし、白澤が、お前が誰を思っていようが関係ないと重ねて告げたことは、思いがけず鬼灯の心を抉った。
 白澤は寛大さのつもりで言ったのかもしれない。あの神獣の性格を考えれば、その可能性は高い。
 だが、鬼灯には白澤の物言いは、お前が誰を好きだろうと興味はない、としか聞こえなかったのだ。
 お前の心がどちらに向いているのか聞く気もないと言われた時、自分の想いは知りたいと望まれるほどの価値もないものなのかと思わずにはいられなかった。
 同時に、白澤が口にする好きだという感情はその程度のものなのかと、自分との感情と比べてあまりの軽さに眩暈がした。
 普段ならば、鬼灯はそんな自虐的なものの考え方はしない。無闇に己を卑下するのは、自分であれ他人であれ最も嫌うところである。
 けれど、この件に関してだけは駄目だった。
 そもそもからして、受け入れられると思ったことのない想いなのである。自分の心に気付いた時からずっと否定し、押し潰そうとし続けてきた。
 その積み重ねが無理を生じたのだろう。長きに渡って不自然を強いられた心は疲弊し、負の方向に反応しやすくなってしまっている。
 そんな心で聞けば、寛大で優しいはずの言葉も、冷淡かつ薄情としか捉えられなくなる。それはもう、鬼灯自身にもどうすることもできないことだった。
 せめてあの夜、誰を好きなのかと聞いてくれていたら、と思う。
 そうしたら、こんな風に想いを完全否定されたような気分には、きっとならなかった。
 お前が誰を好きでもいいなどという狡い言い回しではなく、真正面から、僕を見てくれと言ってくれていたら、ここまで傷付けられたような気分にはならなかったはずだ。
 しかし、白澤は、自分がどれほど残酷なことを口走ったのか……自分の言葉がどれほど鬼灯を打ちのめしたか、おそらくは気付いてすらいないだろう。彼は自覚して相手を傷付けるほど、酷薄な性分ではない。
 けれど、現に鬼灯は今、こんなにもやるせない思いを強いられている。
 一体どういう因果なのか、誰もが優しいと褒め称える神獣は、鬼灯に対してだけは決して優しさを与えてはくれないのだ。少なくとも白澤は、鬼灯が望む形の優しさを見せてくれたためしは一度もない。
「そうは言ったところで、貴方から欲しいものが何だったのかなんて、もう私にも分かりませんけどね……」
 長く想いすぎて、そして同じだけの時間を諦めようと足掻き続けて。すっかり想いは疲弊してしまった。
 何を求めて惹かれたのかすら、今ではもう思い出せない。
 けれど、こうしてとどめを刺されたのだから、このままゆるゆると想いを朽ちさせてゆけばよい。そうすれば、きっと少しは楽になれる。



 ―――そう思っていたのに。



「桃の花……?」
 一日の執務を終え、閻魔殿の宿舎に戻った鬼灯は、自室の扉の前に白っぽい小さなものが落ちているのを見つけた。
 身をかがめ、拾い上げたのは小さな薄紅の花。
 桜に形は似通っているが、つんと尖った花びらの薄紅は一際濃い。薄闇に輝くような色合いは、見間違えるはずもない、仙桃の花だった。
 だが、桃源郷にしか育たない仙桃の花が、何故こんな所に落ちているのか。
 今日は桃源郷に使いなどやっていないし、向こうからも来てはいない。地獄で天国の関係者を見かけたという報告も受けていない。
 なのに、閻魔殿の中でも奥に位置する関係者以外立ち入り禁止区域に、どうしてこんなものがまるで風に吹かれて落ちたかのようにあるのか。
 考えられる理由は一つしかなかった。
「術……」
 何らかの術で、この花をここまで飛ばした。
 そんな真似をする相手の心当たりは一人しかいない。
 だが、何のために、と考えると、そこで鬼灯の思考は止まってしまう。
 小さな小さな花一つ。
 何の害もなさそうだが、逆に何の益もない。
 熟した実であれば食することもできるが、こんな小さな花一輪である。一体どうしたいというのか。
 しばし考えたが、答えが分からないまま、鬼灯はひとまず花を持って自室に入る。そして、行燈(あんどん)の蝋燭に火を入れてから寝台に腰掛けて、もう一度つくづくと花を見た。
 どれほど見ても、何の変哲もない一輪である。
 美しく澄んだ薄紅の花は、花柄をつまんだ鬼灯の指先でひたすら可憐に咲いている。
 しばらく見つめても何も起こらない。ならば、これは詫びの品だろうか、と鬼灯は思った。
 あの夜の白澤の言動は、公平な目で見ても不躾だった。そのことに気付き、詫びる気になったのなら、こんな花を術で贈ってくることも分からなくもない。
 だとしたら、何とも控えめな『ごめん』である。何となく、ひどく彼らしい、と鬼灯は思った。
 こんな小さな花一つで許せるのかと問われれば、間違いなく否だ。あの夜に鬼灯が抱いた怒りは、そんな軽いものではない。
 だが、感情に任せてこの小さな花を握り潰すことは躊躇われた。
 可憐に咲く花には何の罪があるわけでもない。たまたま今日、美しく咲いていたという理由だけであの男に摘み取られ、地獄の底に飛ばされたのだろう。
 そんな哀れな花に当たることは、鬼灯の性分から言ってもできないことだった。
 かといって、食べることもできない花をどう処分すればよいのか。まだ開いたばかりのものを屑籠に捨ててしまうのも少々忍びない。
 幾らか逡巡した後、鬼灯は立ち上がり、その花を研究用の卓の上に置いた。
 多忙のせいで、卓の上には実験道具や書籍が幾つもやや乱雑に載っている。それらの本の一番上に、小さな花をそっと載せる。
 行燈の明かりだけが照らし出す部屋の中、薄紅の花は無垢なまでに清らかで、その美しさをしばし見つめ、鬼灯は静かに目を逸らした。





            *           *





 いつも通り執務を終えて自室に戻った鬼灯は、鬼灯紋を掲げた自室の扉の前に、また白く小さなものを見つけて眉をしかめた。
 床にぽとりと落ちている小さな薄紅の花。いつもと同じ、今日開いたばかりと見える仙桃の花だ。
 それをしばらく見降ろした後、溜息をついて身をかがめ、拾い上げる。そしてそのまま鬼灯は扉を開け、自室へと入った。
 闇であっても物は見えるが、全くの不便が無いわけではない。慣れた手つきで行燈に火を入れる。
 それから、手の中の花をつくづくと眺めた。
 一度限りで終わると思った花の届け物は、あの日から今日までおよそ半年もの間、毎日続いていた。
 鬼灯が夜、自室に戻ると扉の前に小さな花が落ちている。仕事が立て込んで戻れなかった時は、徹夜した夜の数だけ、薄紅の花が部屋の主の帰りを待っている。
 その度に鬼灯は、小さな花を拾い上げて室内に入る。そんなことの繰り返しがずっと続いていた。
 おかげで、今や小さな卓の上には常に十輪近い桃の花が並んでいる。
 仙境の産だけあって、仙桃の花は簡単にはしおれない。だから、枯れるまではと置いておくと、結果的に花が積み上がってゆくのである。
 今夜もその花々の一番上に新しい花をそっと載せて、鬼灯はまた小さく溜息をついた。
 毎晩飽きもせずに花を贈ってくる男の意図が、全く分からない。
 詫びなら最初の花を受け取った時点で済んでいる。許したわけではないが、こうも繰り返し品を贈り続けられても迷惑でしかない。
 あるいは、鬼灯が、もういいです、と直接告げない限り、花を届け続けるつもりであるのか。
 想像をめぐらせながら、しかし、あの天の獣は、こうもしつこい性格をしていただろうかと鬼灯は不思議に思う。
 長年見ていた感覚からすると、あの獣は浮き雲の性(しょう)だった。
 何物にも囚われず、風任せに自由自在、気の赴くままにふらふらと彷徨っている。一つ所にとどまることもなければ、何かに強く執着することもない。
 そんな浮世離れした、まさしく天界の生き物だとずっと感じていた。
 その印象からすると、こうも長く特定の相手に花を届け続けるのは実に奇妙なことである。たとえ相手が女性であったとしても、あれはそんな真似をしたことはないだろう。
 女性への贈り物は絶やさないようだが、それは特定の誰かに対してではない。その時、目の前にいる相手に渡すばかりの贈り物であるはずだ。
 ましてや、この花を贈る相手は鬼灯である。詫びの意図があるにしても、やることの度が過ぎている。
 これではまるで、と考えかけて、鬼灯はそこでぴたりと思考を先に進めるのを止めた。
「―――…」
 危ないところだった、と唇を小さく噛み締める。
 これ以上を考えてはいけない。否、考えるべきではないのだ。考えれば考えるほど、深みにはまる危うい事象も世の中には存在する。鬼灯にとって、この問題はそういう類(たぐい)のものだった。
 毎日、小さく美しい花をひっそりと贈ってくる白澤の意図など、分からないままにしておかなければならない。そこに何か意味があるのではないかなどと、決して勘ぐってはならないのだ。
「……貴方が貴方でさえなければ……」
 小さな花の山を見下ろしながら、鬼灯は低く呟く。
 本末転倒ではあるが、彼が浮き雲のような性でさえなければ、鬼灯もここまで小さな花を受け入れることを拒まずとも済んだだろう。もう少し素直に受け止め、その意図を期待を込めて考えただろう。
 だが、白澤が白澤である限り、鬼灯はこの花を拒むしかない。
 一方で、白澤が白澤でなかったならば、この憂いそのものが生まれなかったとも分かっている。そうである以上、何もかもがどうしようもなかった。
 あんなろくでなし、と鬼灯は自嘲交じりに小さく眉をしかめる。
 ふわふわとした笑みも、へらへらとした笑みも、全て鬼灯以外のものに向けられたもので、こちらに対しては心底嫌そうな険のある表情しか向けない。
 だが、それで良かったのだ。
 自分でもどうして惹かれたのか分からないほど、浮わついた気性の生き物は元来好きではない。演技で喧嘩を売り、嫌がらせを重ねてきたわけでもない。
 叶わぬ想いから生じる鬱憤晴らしの一面がなかったとは言わないが、殴る蹴るの暴虐を働く時は、いつだって本気だった。
 その結果、滅多に男を個別に認識することがない獣の中で、特別いけすかない相手として強く意識されるようになったのは別に意図したことではない。しかし、鬼灯としてはそれで満足だった。
 それなのに、何故今更。
「こんな花ばかり……」
 この期に及んで、こちらの心を揺らそうとするのは止めて欲しい、と切実に思う。
 小さく可憐で美しい花。これは天上の楽園に咲き、豊かに実を結ぶべきものであって、こんな地の底でしおれ朽ちてゆくべきものではない。
 いずれどこかの時点で、こんな真似はもう止めろと伝えなければならないのだろう。その場面を想像するとひどく気が重かった。
 それとも、その前に飽きてくれるだろうか。飽きてくれればよいと思わずにはいられない。
「大嫌いですよ、貴方なんて」
 積み上げられた薄紅の花を見つめて小さく呟き。
 寝支度を始めるために、鬼灯は踵を返して卓から離れた。





            *           *





「お疲れですか、鬼灯様」
 いたわりに満ちる落ち着いた声でそう問われて、鬼灯ははっと我に帰る。
 傍らを見ると、お香がやわらかく笑んでこちらを見ていた。その手に徳利があるのを認めて、鬼灯は枡を差し出す。すると、お香は微笑んだまま酌をした。
 馥郁とした香りの漂う強い酒を一息に煽り、手を下ろして。鬼灯はお香の問いにまだ答えていないことを思い出す。
「そうですね。さすがにこれだけ多忙が続くと……」
「ええ」
 うなずき、お香はちらりと座敷にまなざしを走らせる。畳敷きの広いそこは、まずまずの客の入りではあるが、その割にはあまり賑やかではない。
 声高に騒ぐ客は少なく、いずれも少人数で、あるいは一人で細々と飲んでいるものが大半だった。
「最近ずっとこんな風なんです。現世が荒れると、地獄もあんまり良くはありませんわね」
「ええ」
「今に始まったことじゃあありませんけど……。戦国の頃だって結構ひどかったですし。あの頃も皆、ほとほとくたびれていて……。鬼灯様なんて、お部屋に戻られる暇もおありじゃなかったでしょう?」
「確かに、連続十日くらい自分の寝床で寝られなかったことも何度もありましたね」
 現世で大量に人が死ねば当然、地獄には亡者があふれる。
 七日ごとに亡者を次の裁きに送ることは、あの世の厳正な理(ことわり)として定められているため、どれほど大量の亡者が三途の川を渡ってこようと、裁きが遅滞することは許されない。
 これまでで最もあの世の状況が厳しかった時代は、日本中が群雄割拠していた今から二百五十年ほど前のことだ。それ以前にも戦乱は幾らでもあったが、何十年も延々と大量の人が死に続けることは、歴史上かつて無かったことだった。
 比べて今の地獄は、そこまでひどい状況ではない。だが、例年に比べて新規の亡者が多いことには変わりなく、鬼灯を筆頭とする法廷勤務の者たちが日々、忙殺されているのは間違いなかった。
「最近は? お眠りになられてます?」
 女性らしいやわらかな声で問いながら、お香は酒の酌をしてくれる。それを受けつつ鬼灯は、そうか、と気付いた。
 幼馴染みでもある彼女は、鬼灯が人から鬼へと化した理由を知っている。それゆえに社交辞令ではなく、芯から気遣ってくれているのだろう。
 ありがたい、と鬼灯は素直に思う。お香の気遣いにはてらいも媚びもない。彼女の気性のままに、ただ真っ直ぐに鬼灯に届く。
「眠ってますよ。寝なきゃ持ちません」
 穏やかに返し、鬼灯は酒が満たされた枡を傾けた。
「まぁ、楽だとは言いません。貴方に隠しても仕方がありませんから、正直に言いますが」
「ええ」
「冷害だろうが旱魃だろうが、飢えて死んだ亡者を見るのはね。今更動じるほど青くもありませんが、気分のいいものでもないです」
 現世で過去に例を見ないほど深刻な冷害と、それに伴う大飢饉が生じたのは数年前のことだ。
 冷害は二年に渡って続き、一旦落ち着いたかと見えたが、北の地でそこそこの作物が収穫できたのは僅かに一年限りで、その翌年は更にひどい冷害が襲った。
 こうも立て続けに不作が重なっては、もう食料などどこを探してもないような状態になる。自然、全国的に一揆や打ちこわしが起き、そんな人の世を嘲笑うかのように今も猶、冷害、蝗害と飢饉は五年余りに渡って続いている。
 これまでの累計の死者は、鬼灯が記録している限りでは二十万を既に超えていた。
 あの世へと来た亡者の姿は、既に肉体の頚木(くびき)を離れているため、死んだ時の状況にかかわらず、真っ当な五体を備えているのが普通である。
 だが、魂は生前の苦しみを記憶しているからだろう。飢えて死んだ者特有の絶望と狂おしい餓えを、鬼灯ははっきりと亡者の瞳に読み取ることができた。
 そして、それらの瞳の色は、鬼灯の意志に関わらず、古い記憶を僅かながらも揺るがせずにはいなかった。
 ―――何ヶ月も降らなかった雨。
 沢の水量が減るにつれて徐々にぎらつき始めた村人たちのまなざし。
 そのまなざしが自分をちらちらと見始めた時に感じた、根源的な不快感と――恐怖。
 白木を組んで造られた簡素な祭壇。
 その階段を昇る自分の小さな足。
 そして、目の前に広がっていた――恐ろしいほどに赤い夕焼け空。
 飢えて死んだ人々の目を見るたびに蘇ってくる古い古い記憶。
 それらに今更動じるほど若くはない。だが、一抹の気鬱を感じるのは、未だにどうしようもないことだった。
「でも、大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」
「はい」
 お香は賢い。うなずいただけで、それ以上は何も言わずに鬼灯の枡に酌をする。
 それを鬼灯もまた、黙って受けた。





 お香の店を出て閻魔殿に戻り、積み上げられた仕事の山を崩せるだけ崩した後、限界を感じた鬼灯は部下たちに断りを入れて、仮眠を取るために自室に戻った。
 長い長い廊下を歩いた突き当たり、鬼灯紋を掲げた扉の前には今夜も白い花が落ちている。
 三つあったそれを鬼灯は身をかがめて拾い上げ、手のひらに載せた。
 そして部屋に入り、いつもと同じように行燈に火を入れて、卓の上に花を載せる。薄茶色にしおれてしまった古い花は、そっと摘み上げて僅かばかり惜しんでから屑籠の中に落とす。
 一連の作業が済むと、鬼灯は黙って花の山を見下ろした。
 初めて花が届けられた日から、もう何年が経っただろうか。今の現世の大飢饉が始まる前からだから、少なくとも五年を超える。数えたら、千五百余りの花が欠かさず届けられたことになるだろう。
 そこにあるものはなんだろうか、と鬼灯は考える。
 五年といっても鬼の五年と神獣の五年とでは、感覚に天と地ほども開きがある。人の子の感覚に換算したなら、五ヶ月と五日くらいの差だろうか。
 彼にとっては、少なくとも大した時間の経過ではない。
 だが、それでも毎日毎日、桃林に分け入り、花を選んで術をかける。それは何の意味もなくできることではないだろう。
 手の込んだ嫌がらせや、からかいの可能性も否定はできない。けれど、仙桃の木立の中でただ一輪を選び、術をかける神獣の姿を想像すると、不思議なほどに胸の奥が痛んだ。
「本当に、どういうつもりなんですか」
 五年前の夜のことを詫び続けているのか、もっと他の意図があるのか。
 ずっと考えるまいとしていたが、こうも続くと気にするなという方が無理になってくる。
 一度、会わなければならないのだろうか、と鬼灯は考える。
 この五年、極楽満月との取引は、全て部下を介してやってきた。その間、鬼灯自身が出向かなければならないほど取扱いが難しい生薬を発注する機会がなかったことは、幸運としか言いようがないだろう。
 ゆえに、鬼灯はあの夜以来、彼の姿を見ていない。彼の方もまた、然りだ。
 それでも花を贈り続けるということは、会って話をしたいことがあるという意味合いも含まれているのかもしれない。
「―――…」
 どうしたものかと思案しながら、鬼灯は指を伸ばして花にそっと触れる。小さな花は、みずみずしさを感じさせる仄かにひんやりとしたやわらかさで、鬼灯の指先を受け止めた。
「……そろそろ切れかけている生薬もありましたっけ」
 年単位で激務が続いている閻魔庁においては、現在、滋養強壮剤が必須である。とりわけ、人参、紅参、鹿茸といった強力な効用を持つ生薬は、どれほど在庫があっても多すぎるということはなかった。
 それらに加えて、少々特殊な配合を要する生薬の発注という体裁をとれば、鬼灯自身が桃源郷まで赴く口実を作れなくはない。
「会いたいかと言われたら、否ですけどね……」
 五年前の夜に感じた怒りそのものは、さすがに薄れてきている。だが、それ以外の感情はといえば何一つ変わらないままだった。
 誰のものにもならない、天の獣。
 誰にでも向ける慈しみを鬼灯にだけは決して向けない、優しくて残酷な美しい獣。
 こんな小さな花すら気にせずにはいられないのだ。目の前にすれば、必ず心が揺れるだろう。それは鬼灯の望むところではなかった。
 けれど。
 薄紅の花の小さな山を見つめて、鬼灯は薄い唇を引き結ぶ。
 いつまでもこんなことを続けていても仕方がない。このまま飽きるのでなければ、異様に気の長い神獣のやることだ。百年経っても、小さな花を贈り続けてくる可能性も皆無ではない。
「……もう止めろと、言いに行くだけです」
 そう、もう花などいらないと。
 こんなことをされても困るのだと、そして、貴方など嫌いだと、何千回、何万回と伝えた言葉をまた告げに行くだけだ。
 何も変わらないし、変えるつもりもない。
 そして。
 どれほど努力しようと変えられないことも、世界にはある。そのことを鬼灯は良く知っている。知り尽くしていると言ってもいい。
 しばしの間、仄かに光るような小さな花を見つめ。
 鬼灯は僅かな仮眠を取るために、そっと花から離れた。





            *           *





 五年ぶりに訪れた桃源郷は、相変わらず美しい世界だった。
 眩しい光に満ち溢れ、甘く清々しい花の香りがする風はどこまでも優しい。地の底の地獄とは、まさしく天と地の差だった。
 この中では自分の姿はさぞ禍々しく、血腥く見えるのだろうなと今更ながらのことを思いながら、鬼灯は若草に覆われた踏み分け道を歩く。
 仕事はどうにか調整して二刻ばかりの余暇を作ってあったから、急いで往復する必要があるわけではない。だが、それ以上に鬼灯の足は重かった。
 肚を決めての訪問ではあったが、白澤に会いたくない気持ちは依然として強い。
 それでも、いつまでも回避ばかりしていても状況が改善するわけではない。ゆえに、鬼灯は足取りを緩めたりはせず、真っ直ぐ極楽満月に向かった。


 うさぎ漢方・極楽満月は、相変わらず花に囲まれていた。
 豊かな桃林の傍ら、簡素な作りの木造の建物が、午後の日差しを受けてゆったりと寛いだ風に立っている。
 白澤の神族としての格を考えれば壮麗な殿舎に住まっていてもおかしくないのに、彼は鬼灯が知り合った千年前には、既にこの小さな薬局を営んでいた。
 そういえば、何故この商売を始めたかを聞いたことはなかったな、と鬼灯は思う。
 もっとも、答えは分かるような気がした。世界をありのままに眺め、慈しむのが性分の神獣である。
 薬局を開けば、趣味が実用となって皆の役に立ち、ついでに可愛い女の子たちとお近づきになれる。漢方の良いところは継続的な服用が可能であり、必要であるところだ。効用が明らかであれば、女の子たちも定期的に通ってくるに違いない。
 想像するに、そんなところだろう。
 込み上げる溜息を押し殺し、鬼灯は一つ深呼吸をしてから薬局の扉に手をかける。
 ゆっくり引き開けると。
「いらっしゃ……」
 明るく出迎えた声が途切れる。作業台の向こう、白澤は心底驚いた顔で鬼灯を見つめた。
「薬の注文に来ました」
 静かに告げながら、扉を閉めて店内に踏み込む。
 極楽満月の中は五年前と何も変わっていなかった。様々な生薬の入り混じった、ややくすんではいるものの清々しい香りと、何匹もの兎たち。
 そして、白い装束に身を包んだ痩身長躯の薬師。
 何一つ、変わりはなかった。
「これです」
 作業台の前に立ち、懐から書付けを取り出して彼の前に置く。
 呆けたようにこちらの顔を見上げていた白澤は、ぎこちない動きで鬼灯が差し出した書付けへと目を落とし、素早くそこに視線を走らせた。
 そして、ふっと表情を真顔に変える。
「……ちょっときつい処方だな。誰に使うつもりだ?」
「大王に。体力のある方ですが、さすがに最近は疲労が積み重なっているようですので。あの方にはこれくらいの処方でないと効きません」
「大王様か。……そうだな」
 分かった、と白澤はうなずき、立ち上がる。
「配合に少しかかる。待つ時間はあるか?」
「ええ」
「じゃあ、座って待ってろ」
「はい」
 最初からそのつもりでいたから、逆らわずに鬼灯は背凭れのない丸椅子に腰を下ろす。そして、歓迎の意を表すかのように足元にやってきた従業員の兎を膝の上に抱き上げた。
 白に茶色の模様がかかった兎は、以前もこうしてよく抱かせてもらった子だった。彼女の方も覚えていてくれたのだろう。御無沙汰してます、と小さく声をかけて、やわらかな毛並みをゆっくりと撫でる。
 動物を撫でるのも久しぶりだと思いながら、ふわふわの手触りを堪能していると、小さく硬質な音共に、作業台に茶道具一式が置かれた。
 見ると、白磁に赤い金魚を描いた茶杯に淡い水色(すいしょく)の茶が満たされている。問うまでもなく、鬼灯のために入れられた茶だった。
「……ありがとうございます」
「うん」
 短く礼を告げれば、白澤の方も短く応じる。そして彼は、処方を整える作業に戻った。
 百目箱の引き出しを迷うことなく開け、秤も使うことなく的確な分量を薬研に出してゆく。
「とりあえず五回分、調薬するから。強い処方だから、それ以上は一度に出せない。無くなったら、その時また。大王様の体調を診て注文を出せ」
「はい」
「……なんだったら、地獄まで出張して大王様を診てやってもいいぞ。お前だって診断はできるだろうけど、調薬してる暇はないだろ」
「今のところ、まだ大丈夫です。お気遣いには感謝しますが」
「――そう」
 うなずきながら薬研を使い始める白澤の横顔は、完全に薬師のものだった。生真面目で、信念と自信に満ちている。
 しばし、その横顔を見つめた後、鬼灯はそっと目をそらし、茶杯を手に取った。
 水色は淡い琥珀色に輝き、華やかな花に似た香りがふわりと漂う。一口、口に含むと、甘い余韻が長く後を引いた。
「いいお茶ですね」
「それ? 鳳凰山の蜜蘭香だよ。最近買い付けた茶葉の中では、まぁ上等のやつだな」
「なるほど」
 言われてみれば蘭の花に似た香りであり、蜜を思わせる甘い風味である。
 大陸の茶にはさほど詳しいわけではないが、鳳凰山は銘茶の産地の一つであったはずだ。となれば、これはかなり良い茶であるのだろう。
 大陸の茶の作法にのっとり何杯でも飲めるよう置かれた鉄瓶を取り上げ、鬼灯は茶壷(ちゃこ)に湯を注ぐ。しばらく置いてから茶杯に二煎目を注ぐと、やはり華やかで甘い香りが立ち上った。
「……気に入ったんなら、少し茶葉を持っていくか?」
 ごりごりと生薬をすり潰しながら、白澤が声をかけてくる。それに少しばかり考えてから、鬼灯は、いいえ、と答えた。
「いただいても今は入れる暇がないですから」
「そうか。……そうだな」
 日本地獄の現状を思ったのだろう。やや低い声で応じた白澤は、それきり作業に戻る。
 そのまましばらくの間、薬研を挽く音ばかりが響く静かな時が過ぎ、よし、と白澤は小さく呟いて手を止めた。
 棚の引き出しを開けて、薄く漉かれた鳥の子紙のような薬包紙を五枚取り出して並べ、手際よく調合した生薬を包む。それをやや厚手の紙でできた袋へと入れて、鬼灯に差し出した。
「使い方は分かるだろ」
「ええ。三日に一度、夕食後に、よく煎じたものを服用、でしょう」
「ああ」
 膝に抱いていた兎に、ありがとうございましたと告げて下ろし、極楽満月の印を押した白い紙袋を受け取る。
 しばらくその表を見つめた後、鬼灯はゆっくりと顔を上げた。
 正面からまなざしを合わせると、白澤の面持ちが硬さを帯びる。以前の、鬼灯が何か嫌がらせを仕掛けるのではないかと構える表情ではない。
「白澤さん」
「……何だよ」
 五年ぶりの名を呼べば、白澤は居心地が悪そうに小さく身じろぎした。
「桃の花」
 そう告げると。
 ぴくりと彼は反応する。
 それはどういう意味であるのか。白澤の反応を注意深く図りながら、鬼灯は続けた。
「貴方ですよね。どういうつもりです?」
 静かに切り込むと、白澤は困ったように小さく眉をしかめる。
「確かに僕だけど、どうって言われてもな……」
「意味はなかったとでも?」
 歯切れの悪い白澤に、更に一歩切り込めば、白澤もまた一層眉をしかめた。
「気に入らなかった? それならもう止めるよ」
「そういうことを言ってるんじゃありません。貴方の意図を聞いてるんです」
 止めて欲しいとは思っている。だが、その前に意図が問題だった。意味が分からないまま止めろというのは簡単だが、それでは根本的な解決にならない。
 白澤は何を小さな花に込めていたのか。それが鬼灯は知りたかった。
「ただの酔狂で、五年余りも私に花を贈り続けたわけではないでしょう。貴方は私に何を伝えたかったんですか」
 そう重ねて問うと。
「参ったなぁ」
 白澤は溜息混じりに呟く。そして目を伏せ、言葉を選ぶような表情を形作った。
 鬼灯は黙って白澤の答えを待つ。
 短いようで長いような、長いようで短いような奇妙な沈黙の後。
 白澤は大きく溜息をつき、ゆっくりと口を開いた。
「お前はさ、和漢の本草には詳しいけど、西洋の花言葉ってのは知ってる?」
「……概念としては」
 現世と異なり、あの世ではもう少し異国ともやり取りがあるため、海の向こうの知識や文物も多少は入ってきている。
 ゆえに、東洋で牡丹を美人、蓮を君子になぞらえるように、西洋でも花にそれぞれ定まった意味を持たせて贈ったり、美術品や宝飾品の図案とする優雅な習慣があることは、鬼灯も知識としては知っていた。
「ただ、具体的な花の意味は知りません」
「うん、そうだろうね。そういうのを記した書籍は、僕もまだ見たことがない。ただ、前に桃源郷を訪れた向こうからの客人が教えてくれたことがあったんだ」
「桃の……花言葉を?」
「そう」
 白澤は作業台にまなざしを落としたまま、鬼灯とは目を合わせようとはしない。
 そして、しんと沈む声で告白した。


「桃の花言葉は、『貴方のとりこ』なんだってさ」


 昼下がりの薬局内で、静かに告げられた言葉に。
 鬼灯は目を瞠る。
 目を瞠る以外の何もできなかった。
 声も出せない鬼灯をどう思ったのか、白澤はゆっくりと顔を上げ、小さく微笑む。
 その笑みはまったくもって彼らしくない、自嘲に満ちた、切なく歪んだ笑みだった。 
「伝わるなんて思ってなかったよ。いくら博学なお前でも、こんな西洋の習慣までは知らないだろうと思った。だから、この五年間、僕はうちの仙桃の花を贈り続けたんだ」
 でも、と白澤は続ける。
「お前にバレちゃったから、もう終わりだなぁ」
「――どうして、」
 問う声がわずかにかすれる。一呼吸おき、喉を整えてから鬼灯は改めて問うた。
「どうしてバレたら終わりなんですか」
「だって、意味が分かったら、お前はもう受け取らないだろ」
 自嘲めいた微笑みのまま、白澤は何もかも分かっているとでも言いたげに言葉を綴る。
「僕の勝手な独りよがりだったけどさ。毎日、桃林で一番綺麗な花を探すのは楽しかったよ。お前はどうせ、すぐに捨てていたんだろうけど……」
 そう言われ、すぐに捨ててはいない、と反論しかけて鬼灯はぐっと言葉を飲み込む。
 まったくもって似合わない表情といい、声の調子といい、白澤の言葉はすべて真実であるかのように聞こえる。だが、それを信じていいのかどうかは、まだ分からない。
 判断するのは、もう少し材料を集めてからにすべきだった。
 用心深く鬼灯は白澤を見つめながら、火種をもう一つ、二人の間に放り出す。
「五年前も、貴方は言いましたよね。私を――好きだと」
「ああ、言った」
 お前は怒ったな、と白澤は少しだけ遠い目をする。
「あの時、僕は本気で言ったよ。その気持ちは今も変わってない。お前が、どう受け止めるのかは知らないけど」
 どこか投げやりにも聞こえる『知らない』という物言いに鬼灯は眉をしかめる。
 五年前のあの夜と同じだった。
 お前の気持ちなど知らない、関係ない。あの時も、何度でも白澤はそう繰り返した。
 そして、五年を経た今も猶、その物言いは鬼灯の心を痛ませ、苛立たせる。
 何もかも、まるで時が止まっていたかのようにあの夜と同じだった。
「私が信じると思うんですか」
「それも五年前に答えたよな。――思ってないよ」
 相も変わらず、自嘲気味な笑みを浮かべて白澤は答える。
「お前は僕を信じない。そうだろ?」
「――ええ」
 信じられない。信じられるわけがない。
 強くそう思う一方で、しかし、目の前の白澤の様子はどうだろうか。
 彼らしくない笑みは真摯に見えないか。漆黒の玻璃のような瞳は打ちひしがれているように見えないか。
 分からない、と鬼灯は思う。
 目の前の神獣のことは、根底のところで理解できたことは一度もない。だが、今は表層に現れているものさえ、何が真実であるのか読み取れなかった。
 言うべき言葉をそれ以上見つけられないまま、鬼灯がまなざしを据えていると、ふっと空気を変えるように白澤が動いた。
「こうして話してるってことは、まだ多少時間があるんだろ。ついでだから、お前用の調薬もしてやるよ。顔色が良くない」
「私は別に……」
「お前が倒れたら皆が困るだろ。一徹二徹くらいの疲労ならしのげる処方にしておいてやる。ただし、常用はするなよ。ここ一番の時だけ使え」
 言いながら、白澤は早くも百目箱の方を向いている。先程と同様、迷いなく薬を引き出してゆく後ろ姿を見つめながら、鬼灯は、何故、と呟いた。
「何故、ですか」
 すると、白澤は百目箱に向かったまま小さく苦笑する。
「お前ね、僕にそれを聞く? 理由なんて今、言っただろ」
「―――…」
「これぐらいしかないだろ、僕がお前にしてやれるのはさ。あとは役にも立たない花を贈って迷惑がられるのがせいぜいだ」
 そう告げる背中を鬼灯は食い入るように見つめる。

 ―――何年も何年も贈り続けられた、小さな花。

 毎夜毎夜、薄暗い廊下に落ちていた花。その様はまるで、地獄の底で仄かに光る星のようだった。
 小さな物言わぬ花であっても、その姿は優しく、美しかった。
 確かに、ただ咲いて朽ちてゆくばかりの花だった。しかし、疲れ果て、鉛のように重い体を無理矢理に動かして戻ってきた部屋の前で、薄紅の花はいつも静かに出迎えていてくれた。
 やわらかな花びらは、いつでも死ではなく生の、溢れんばかりに清らかな光の匂いがした。
 そうだ、と思う。白澤がこの五年という期間に花を贈ってきたのは単なる巡り合わせに過ぎない。だが、この五年は、鬼灯が第一補佐官を務めてきた過去数千年の中でも指折りに過酷な歳月だった。
 そんな日々の中、毎晩部屋の前に落ちていた小さな花。
 贈り主の意図など分からなくとも、小さな花は鬼灯の疲弊し、ささくれた心を優しく慰撫してくれた。
 そして、今も。
「災害も、それで命が淘汰されるのも自然の摂理だけど、見ていて気分のいいものじゃないだろ。特にお前にとっては」
 そう告げられて。
 不意に、鬼灯の脳裏に遠い昔の光景が蘇る。
 あれは、今から千年余りも昔のこと。
 都が京に移ったばかりだったのあの頃も、今と同じくらいに気温が低い周期にあって、多くの命が飢えと寒さで消えた。今に比べれば現世の人口はまだ少なかったが、それでも閻魔庁は亡者で溢れていた。
 鬼灯もまた、毎日毎日、大王を補佐して亡者を裁き、眠る暇もないほどに働いていた。
 その最中、確かこうして同じようにこの薬局に赴いた時、彼と言葉を交わしたのだ。
 今と同じように彼は、自然の摂理だよ、と静かに言った。
 この世界の歴史を振り返れば、何度だって生物は滅びた。ひどい天災の中で生き延び、環境に適応したものだけが子孫を残した。淘汰こそが自然の摂理だよ、と。
 けれど、と白い神獣は少しだけ遠い目をして。
 人間は家を建て、堤を築き、食料を備蓄して、進化ではなく知恵で必死に生き延びようとしている。弱いものが淘汰される悲劇を免れようとしている。
 それは摂理に反することだ。淘汰されるべき弱いものが生き延びても、世界の益にはならない。
 けれど、僕はそうやって懸命にあがく人間が好きだよと。天に抗ってでも生きようとする姿が愛おしいよと、静かに言った。
 その静かに澄み渡った表情に、今よりいくらか若かった鬼灯は神の姿を見た。
 世界をつかさどる神は、どれか特定の種族を救ったりはしない。もっともっと広い目で世界を見ている。
 けれど、白澤の僅かに目を伏せた表情は、そのただ見ているだけの切なさを伝えていた。救うことを許されているのなら救いたい。どんな命でも本当は愛おしいのだと、彼は無言の内に語っていた。
 そんな彼の言葉を聞き、姿を見て。初めて鬼灯は救われたような気がしたのだ。
 かつて旱魃のために神への供物とされた自分。だが、丁と呼ばれた幼子の命が消えても雨は降らなかった。
 鬼灯自身は端から雨乞いの儀式など信じていなかったし、生きられるものならば生きたかった。そして、早すぎる死を強要した人々を心底恨んだ。
 白澤が好きだと言ったのは、天災に抗おうとする人々のことであり、その末に犠牲になった自分の事ではない。
 だが、神は特定の誰かの願いなど聞かない。誰かの命を救いもしない。ただ世界を終焉まで見つめるだけなのだと教えられて。
 けれど、それでも生きようとあがく様が愛おしいと言われて。
 初めて、鬼となるほどに思い詰め、世界を恨んだ幼い自分の我執をも許されたような気がしたのだ。
 何もかも身勝手な思いには違いないだろう。だが、その瞬間、すべては始まった。
 それまでただ、知識は尊敬に値するものの、それ以外はろくでなしだと思っていた神獣が、鬼灯の中で特別な存在に変わった。
 ああ、そうだった、と鬼灯は思い出す。
 白澤にしてみれば、語ったことすら忘れている言葉だろう。だが、それに自分は救われた。そして、それまでとは違う目でこの天の獣を見るようになったのだ。
 長い歳月を過ごすうちに遠くなってしまった、始まりの記憶。
 それを今、くっきりと思い出した。
 見つめる鬼灯のまなざしの先で、白澤はごりごりと薬研を使い続けている。的確な力加減で、薬を潰してしまい過ぎないよう、粒が均等になるよう丁寧に丁寧に挽いている。
 ほどなく白澤は手を止め、挽いた生薬の粒を指先で確かめて、うなずいた。
 そして、また五枚の薬包紙を取り出し、手際よく分けた生薬を小さく包んで紙袋に入れる。
「はい、できたよ」
 差し出された極楽満月の印入りの袋を見つめ、それから白澤の顔を鬼灯は見つめる。その視線をどう解したのか、白澤は小さく顔をしかめた。
「要らないっていうのなら別に……」
「白澤さん」
 否定的な言葉を口に仕掛けた白澤を、名を呼ぶことで鬼灯は押しとどめる。
 何、と眉をひそめた白澤を見つめたまま、鬼灯は小さく手を握り締める。
 後悔することになる予感は、ひしひしと感じていた。
 きっと上手くいかない。いくはずがない。
 自分と目の前の神獣とでは、何もかもが合わない。
 何よりも、これっぽっちも互いを信じることができない。
 ―――けれど、それでも。


「もし、私も好きだと言ったら、どうします?」 


 そう告げると。
 白澤は眦が切れ上がった目を大きく見開いた。
 言葉を忘れたかのように鬼灯を凝視した後、何とも形容しがたい表情に顔を歪める。
 その顔は鬼灯が見た限りでは、泣き笑い、に一番近かった。
「ひどいことを言うね。お前の性分は知ってるけど、戯言にしてもひどいよ」
 その顔で紡がれた、その言葉に。
 鬼灯は言葉にならぬ痛みを覚える。
 もとより色よい反応を期待していたわけではない。だが、常と変わらぬ口調で反論する言葉を告げることができたのは、奇跡に等しかった。
「信じないんですか」
「僕は、お前が誰かを想ってることを知ってる。僕を心底嫌ってることもね」
 五年前に生じた勘違いは、今もまだ彼の中で生きている。ただ嫌悪の表情を向けられるよりも遥かに辛い、予想通りの返答に心が冷え切るのを感じながら、鬼灯は言い返した。
「貴方だって、私を嫌っていたじゃないですか。それを突然、好きだの何だのと言ってきたのは誰です?」
「僕は本気で嫌ってたわけじゃない。お前を見る度に苛立っていたのは本当だけど、それも、その理由が自分で分かってなかっただけだ」
 そして白澤は、咎めるようなまなざしで、改めて鬼灯を見た。
「お前、僕をどうしたいの? そんな嘘までついて」
 薄墨色の玻璃を無数に重ねたような漆黒の瞳には、あからさまに傷ついた色が滲んでいる。
 薄く笑んだ表情もどこか痛々しく、輝かしい存在であるはずの天の獣は悲嘆に暮れ、疲れ果てているようにさえ見えて。
「ああ、違うな」
 彼らしからぬ言葉を紡ぐ白澤の目の奥にちらちらと見え隠れする暗い影――あれは、絶望ではないのか。
 悲嘆と諦めが入り混じった暗い暗い色。
 閻魔庁の法廷で散々に見た。鏡に映る自分の目の中にも見た。
 人の世にはありふれた色だ。けれど、これは彼に……天の獣に相応しい色ではない。
「お前は僕に、何をして欲しいの」
 声もまた、諦め切ったような打ちひしがれた響きで、全くもって彼には似つかわしくない。
 なのに、その瞳、その声のまま、白澤はゆっくりと作業台を回り込んでくる。
 そして、丸椅子に座っている鬼灯の正面に立った。
 見たこともない彼の姿に気圧(けお)され、鬼灯は身動き一つできないまま彼を見上げる。
 そんな鬼灯を見つめ、淡く微笑んで。
 ゆっくりと白澤は身をかがめ、鬼灯に顔を寄せる。
 そして唇が触れ合う寸前で、静止した。
「抵抗しないの?」
「……どうしてですか」
 好きだと言われて、好きだと返した。普通ならば、ここでめでたしめでたしだろう。親密な触れ合いを拒絶する理由など、どこにも見当たらない。――本来であれば。
 だが、鬼灯は拒絶も避けもしなかった。動かずにいると、白澤がほのかに笑う。
「……お前は本当にひどいね」
 そんな言葉と共に白澤は動き、すっとかすめるように唇に温もりが触れる。
 そして白澤は、そのまま鬼灯を両の腕で抱き締めた。
 鬼灯は腰を下ろしたままであるため、白澤の胸の下辺りに顔が押し付けられることになる。
 少しばかり位置はずれていたが、それでもかすかに彼の鼓動が耳に届いて、鬼灯の胸の奥が掴まれたかのようにぎゅっと痛む。
 けれど、その次に聞こえた白澤の声は、そんな鬼灯の心を残酷なまでに切り裂いた。


「もう誰の代わりでもいいよ。誰の代わりにでもなってあげる。そんなお前でも、僕は欲しい」


 思わず目を瞠る鬼灯に気付く様子もなく、白澤は強く抱き締めてくる。反射的に逃れようと鬼灯は体に力を込めたが、彼の腕の力は強く、ほんの僅かでも彼から自分を引き離すことはできなかった。
「私は貴方を誰かの代わりになんかしたりはしません」
「――うん」
 おだやかにうなずく白澤の声は、鬼灯の言葉など微塵ほども信じてはいない。
 抱き締めてくる腕の力に抗いながら、鬼灯は懸命に言い募った。
「聞いて下さい、私が好きなのは本当に――」
「僕だって言うんだろ。分かってるよ」
 いいんだよ、と優しく宥めるように言われて。
 鬼灯は憤るよりも早く、手足の力がふつりと萎えてゆくのを感じる。
 突っぱねたくても手足に力が入らない。罵ろうとしても喉から言葉が出ない。
 自分らしからぬその腑抜けた状態を何と言うのか、鬼灯はよく知っていた。
 人は心を打ち砕かれた時、大切なものを無残に踏みにじられた時、衝撃のあまり動けなくなることがある。事によっては、そのまま心が壊れてしまうこともある。
 数多の人々によって絶望と名付けられた虚無が、急速に鬼灯の心を蝕んでゆく。
 あの遠い日、鬼と化した時のようだった。奈落の底に落ちてゆくような昏い思いに取り付かれながら鬼灯は、けれど、と鈍くなった思考で思う。
 信じていないというのならば、自分も同じだった。
 五年もの間、花を贈り続けてきた白澤の真意を知りたいと思ったし、信じてみたいとも思った。
 だが、信じているかといえば否だ。そんなことは起こりえないと、心の中では完全否定している。
 こんな風に悲痛なまでに想いを告げられても、完全な嘘ではないかもしれないが、せいぜいが一時の気まぐれだろうと疑っている。
 それでも良いと思ったのだ。
 上手くいくはずなどないと分かっていた。信じてもらえるはずなどないと分かっていた。それでも、告げたかったのだ。
 決して手の届かない天の獣に、叶わぬと知りつつも、何百年もの間ずっと引きずり続けてきた想いを伝えてみたいと思った。
 所詮は衝動に任せた告白であり、見返りなど期待していたわけではない。
 それだけなのだから、この現状は正しい。正しいのだから、傷つく必要も絶望する必要もない。
 それなのに。
「ひどいのは貴方の方ですよ……」
 小さく呟くように詰り、鬼灯は白澤の腕の中で目を閉じる。
 もう何が真実であるのか、考えても分からなかった。
 白澤は自分を好きだと言い、自分は彼を好きだと言う。なのに、互いに互いの言葉を一寸たりとも信じようとはしない。いっそ、滑稽だった。
 そんな鬼灯の想いなど知りもしない白澤は、ただただ抱き締めてくる。
 もう二度と離すまいとするようなその腕の力が、どうしようもないほどに虚しく、悲しかった。
 だが、茶番劇はまだ終わりではなく。
「休憩時間はどれだけ取ってるの」
 不意に問われて、鬼灯は目を開け、まばたきをする。
「……え?」
「お前、最初から僕と話をするつもりでここに来たんだろ。だったら、半刻やそこらの休みじゃないよな? 現にもうお前がここに来てから半刻近いのに、まだお前は帰るって言わない」
 淡々と綴られる白澤の言葉は正鵠を射過ぎていて、鬼灯は即答することができない。
「一刻? 二刻?」
「……どうして、そんなことを聞くんです」
 用心深く、というよりは警戒感に満ちた声で鬼灯は問い返す。すると、白澤は笑いもせずに答えた。
「言っただろ、僕はお前が欲しいって。このまま帰したら、お前はきっと後悔して無かったことにしようとする。次に会った時は、お互いに忘れましょうって言うんだ」
「それは――」
「言うだろ? お前なら」
 駄目押しされて、鬼灯は否定し切れない。既に告白を後悔しているし、無かったことにできればとも思っている。
 今は白澤の腕を振り払えずにいるが、地獄に戻れば、また普段の自分を取り戻せるだろうとは思う。そうしたらきっと、お互い忘れようと白澤に言いたくなるに違いなかった。
「僕はお前からそういう言葉を聞きたくない。これきりで終わりになんかしたくないんだよ」
「白澤さん……」
「無理強いをする気はない。お前が本当に嫌だって言うんなら、このまま帰らせてあげる。でも、できることならほんの少しでいい、僕の言葉を信じたふりをして、今、僕のものになって欲しい」
 その言葉の意味するところを正確に理解して、鬼灯は小さく目を瞠る。
「私は……男ですよ」
「勿論。それでもお前が欲しい」
 抱きたい、と告げられて。
 知らず、鬼灯の身体はかすかに震えた。
「貴方のものになったら……どうなるんです?」
「大事にするよ」
 白澤の答えは平明だった。
「うんと大切にする。お前の嫌がることはしないし、お前がして欲しいことは何でもしてあげる。絶対に裏切ったりしない」
「は……」
 誠実極まりないように聞こえる、その実は不埒な男の常套句に、思わず鬼灯は小さな嘲りを含んだ吐息を零した。
 早速の嘘だ。たとえ今は本気で言っているとしても、それは雰囲気に流されているだけで、いつかは必ず嘘になる。
「それを信じろと言うんですか」
「信じろなんて僕は一度も言ってないよ。信じたふりをしてくれたら、それでいい」
「ふり……」
 鸚鵡返しに呟きながら、白澤は徹頭徹尾こちらの言葉を信じる気はないのだと、改めて鬼灯は確信する。だが、それも仕方のないことなのだろう。
 この五年、否、これまでの千年近い日々。その間、鬼灯は一度も彼に親しもうとはしなかった。そのツケが今、回ってきているのだ。
 白澤の心の壁は、どれほど鬼灯が言葉を尽くしても到底崩せない。鬼灯もまた、自分の壁を崩してよいと思えるだけの確信が持てない。
 互いに分厚い壁を隔てたまま、何故信じないのだと互いを詰りあっている。その様は最早、悲劇ですらなく醜悪な茶番劇だった。
 ここまで茶番が続くのなら、いっそのこと誘いに乗ってしまっても良いのではないか。そんな魔魅にそそのかされたような考えが、ふと鬼灯の脳裏に浮かぶ。
 その愚かしい考えを否定し、捨て去るには、鬼灯もまた、長い長い恋煩いに疲れ過ぎていた。
 心が通い合わなくとも、抱き締められた白澤の腕の中は温かい。
 今この瞬間、この身を彼に求められている。嘘と不信ばかりの中で、そのことだけはかろうじて真実なのである。ならば、それに身を任せて何が悪いことがあるだろう。
 何をしたところで、この想いが報われることはないのだ。悔いてばかりのこの片恋に、もう一つ深い後悔が重なるだけだと思えば、それは至極たやすいことであるかのように感じられた。
「本当に大事にしてくれるんですか」
「するよ。僕は嘘はつかない」
「そうですか」
 白澤の声も自分の声も、虚ろに胸の内に反響する。
 自暴自棄にも似た虚無に囚われつつ、鬼灯は言葉を紡いだ。
「だったらいいです。貴方のものになります」
 そう告げれば。
 白澤の気配が一瞬こわばった。
「――本気で、いいと言ってる……?」
 ずっと背に回されたままだった腕の力が緩み、指の長い手が鬼灯の頬にかかる。仰向くように顔を上げさせられ、鬼灯は抗うことなくまなざしを白澤に向けた。
 白澤は至近距離で、そら恐ろしいほどに真剣な目をしていた。その目で真意を探るかのように鬼灯の目を見つめてくる。
「私は嘘なんかつきません」
 まっすぐに見つめ返しつつ、主張すれば、白澤のまなざしがふっと歪んだ。
「――うん」
 先程と同じ、全く信じていない顔で悲しげに小さく微笑み、白澤はうなずいた。
「信じるよ。だから、僕のものになって」
「はい」
 白澤は、鬼灯が彼を信じたふり、愛しているふりをしているのだと思っているのだろう。そして、誰か、名も知らぬ想い人の代わりにしているのだと。
 その思い込みを訂正する気力ももうないまま、鬼灯はうなずく。
 後悔することは分かっていた。今この瞬間ですらこの場にいることを悔いている。
 だが、それでももう良かった。
「貴方のものにして下さい」
 貴方が好きです、と囁きながら、両手を伸ばして彼の襟元を引き寄せ、そっと触れるだけの口接けをする。
 そんな鬼灯を白澤は傷付いたままの瞳で見つめ、微笑んだ。
 そして、ゆっくりと鬼灯を抱き寄せて口接ける。直ぐに深くなるそれを鬼灯は目を閉じて受け止める。
 想いの丈を告げるような甘く優しい口接け。
 なのに、裏腹に心はひどく悲しく、ただ冷えてゆくばかりだった。

to be contined.

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