恋愛遊戯 01
暗きより暗き道にぞ入りぬべき
遥に照せ山の端の月
* *
白澤が、その若い女の鬼に気付いたのは、性分としか言いようがなかった。
吉祥の印を掌っているせいか、幸せそうな気配に引き寄せられるのは勿論のこと、嘆きの感情にも否応なしに反応してしまう。
何となく気を惹かれて暖簾(のれん)をくぐった居酒屋の片隅、白澤の視界に映ったのは二人連れの鬼女だった。
もともと明るくはない行燈の明かりの更に影になるそこで、彼女たちは酒にも肴にも碌に手を付けず、言葉にならぬ嘆きの気配を立ち上らせている。
片方の鬼女に肩を抱かれて目を赤くしている若い鬼女の姿は何とも痛々しく、白澤は自然にそちらへと歩を進めていた。
「大丈夫? どこか痛い?」
卓の近くまで寄り、下手に目立たせないよう、そっと声を低めて呼びかける。すると、泣き濡れた目と、そうでない目が揃って白澤を見た。
「白澤様」
「大丈夫?」
重ねて問うと、泣いている方の目に、また大粒の涙が浮かぶ。
彼女の涙の原因、すなわち痛みの理由が身体にあるわけではないことは、一見して分かっていた。肉体が痛む場合は、それがどこであれ動物は我慢するそぶり、あるいは庇うそぶりを見せる。
だが、彼女にはそれが無い。すなわち、彼女の痛みは肉体よりも更に内側にあるものから発しているに違いないのだ。
心身のいずれにせよ、白澤は痛みというものが苦手である。痛みを抱えているものが目の前にいると、無条件で痛みを癒し、苦痛を消してやりたくなる。そうしないと、自分の気分が落ち着かないのだ。ざわざわして、不快感にも似た感覚に苛まれてしまう。
これは瑞獣としての天質であり、白澤はどうあってもその衝動に逆らえなかった。
今も、自分の内なるものに素直に、彼女たちの向かい側、卓の空いていた席に腰を下ろす。すると、介抱している側の鬼女が少しばかり困惑した顔を見せた。
「僕がいない方がいいなら、直ぐに行くよ?」
困り顔をさせるのは本意ではない。だから、応といえば、直ぐにその場を離れるつもりだった。
だが、
「いいわよ、居てもらって……」
泣いている方の鬼女が、友人に細くそう声をかける。
「大丈夫。ううん、違うわ……。何か、ほっとしたの、白澤様のお声を聞いたら……」
赤く濡れた目が痛々しいが、そう言いながら白澤を見る鬼女は、ほっそりとした綺麗な顔立ちをしていた。
もっとも、笑顔の時ならともかく、泣き顔相手には白澤の享楽的な性分は疼かない。居てくれと乞われて、白澤は神獣あるいは薬師として彼女と向き合う。
すると、その空気を読み取ったのだろう。連れの方が遠慮がちに説明を口にした。
「あの……大きな声では言わないで下さいね。この娘、失恋しちゃったんです」
「やぁね、違うわよ。失恋なんてとうにしてたわ……。ただ、昨日までは、それを認められなかっただけ……」
泣き笑いで友人の言葉を否定する彼女の瞳から、また涙が零れ落ちる。
「お付き合いできませんっておっしゃるのを、私が無理矢理に押し切ったんです。それでもいいです、少しだけでもいいから私と過ごして下さいって……。でも、駄目ですね、やっぱり。女として好かれてもいない上に会えないと、苦しいばっかりで……」
彼女の語る言葉はひどく切ない響きだったが、相手の男を責めているようで責めていない。それが分かったから白澤は、ただ黙って彼女の言葉を聞いた。
「あの方なりに大事にはして下さったんですよ。会えない日がずっと続いていても、会いに行けそうにありません、すみませんって結び文を毎日のように届けて下さって……。簪をお土産に買ってきて下さったこともあるんです。珊瑚玉のとっても綺麗なのを」
「ああ、あれね。綺麗な桃色珊瑚のやつ。あんた、あれはどうするつもりなの。処分したいんなら、そういうのに詳しい人を知ってるけど」
「ううん」
泣きながらも小さく微笑み、彼女は首を横に振る。
「いいの。今は見るのも辛いから箪笥の底にしまっちゃったけど、いつかまた髪に挿したいから……。私に似合うと思って買ってきて下さったわけじゃなくて、単純に女なら綺麗な飾り物が好きだろうと思って買われただけかもしれないけれど……」
「……そう。いつか、こんな思い出なんか要らないわっていうくらい、素敵な人とまた会えるわよ」
「……うん、そうね。そうだといい……」
うなずいて、彼女はそっと袖口で涙を抑えた。そして、白澤を見る。
「すみません、泣き言を聞かせてしまって」
「ううん、いいよ。少しでも気分が楽になったんなら、僕が話を聞いた甲斐があったってことだから」
「……そうですね。言葉にしたら少し落ち着きました」
「うん。少し飲む?」
「……はい」
わずかに微笑んで、彼女はうなずく。
それを見届けて白澤は給仕を呼び、新たな酒と幾つかの肴を頼んだ。
きつい酒で酔うよりも、男のことを想いながら涙に暮れたいのだろう。泣き腫らした目をした鬼女が選んだ酒は、口当たりのやわらかい果実酒だった。
それから半刻、彼女の涙がほぼ引くまで白澤は付き合い、そろそろ、と杯を置く。
「それじゃあ、そろそろ僕は行くよ。勘定はツケといてもらうから、君たちはゆっくり飲んで。でも、帰り道は気をつけるんだよ」
もう遅いから、と優しく告げて立ち上がった。
だが、行きかけて、やはり気になったことは聞いておくべきかと思い直し、二人を見る。
「ちょっと聞くけれど……、君が付き合っていたのは、あいつ?」
穏やかにそう問いかければ。
鬼女二人の表情が凍った。
その顔色を見て、大丈夫、と白澤は微笑んでみせる。
「大丈夫、僕は誰にも言わないし、あいつの色恋沙汰に踏み込むつもりもない。君のことをネタになんかしないよ」
「……優しくして下さったんです。愛しては下さらなかったけど、大事にしようとして下さっていました。私が、それだけでは足りなかっただけです」
打ちひしがれた表情の中で、瞳だけは凛とした色をわずかに取り戻して、彼女は真っ直ぐに白澤を見上げた。
「あの方を責めないで下さい。あの方は最初から無理だとおっしゃっていました。色恋に目がくらんで選択を誤ったのは私です。私があの方に無理を強いたんです」
ほっそりとたおやかでも、芯は強い。その姿に、白澤は秋明菊を思った。
秋の大風に倒れても猶、咲き続けるたおやかに見えて強く美しい華。
あの男が彼女を拒み切れなかった理由が少しだけ分かった気がして、静かにうなずく。
「僕は何も言わないよ。どうしても眠れないときはうちの薬局においで。気分が落ち着く、うんと美味しいお茶を処方してあげるから。……君のこれからに幸多からんことを」
揃えて伸ばした人差し指と中指で彼女の頭に軽く触れ、祝福を贈る。
驚いたようにまばたきした彼女に微笑み、卓を離れると、慌てたように立ち上がった二人は深々と白澤に向かって頭を下げた。
暖簾をくぐり、独りになった白澤は夜空を見上げて一つ息を付く。
まだ子の刻にはなっていないだろうが、これから騒いで飲み直す気分でもない。今夜のところは大人しく帰ろうかと、夜道を歩き出す。
夜更けの衆合地獄は紅灯の巷(ちまた)の形容に違わず、華やかさに満ちている。
現世の色街・吉原を模した方々の店の格子窓から、心を浮き立たせるような清掻(すがかき・芸者が奏する歌のない三味線の曲)や小唄、笑いさざめく男女の声が波のように響き合い、客引きの声もそれに負けじと姦しい。
普段ならそれで浮き立つ心が、しかし、今夜ばかりは奇妙に重い。
「聞かなければ良かった、とは言えないか……」
正直、耳にしたい話ではなかった。あの男にまつわる色恋沙汰など知りたくもない。
だが、今夜偶然、白澤と出会ったことで僅かなりともあの鬼女の心は救われた。つまり、これもまた神獣白澤のなすべきことだったのだろう。
定められた運命などというものはこの世にないが、それぞれになすべきことが巡り合わせとして目の前に顕れることは避けようがない。
鬼女の悲しみを癒すこと、同時にあの男の恋とも呼べない感情のもつれを知ることは、表裏一体の今夜の白澤に課せられた物事の巡りだった。
馴染みの客引きが次々と声をかけてくるのを、笑みと共に軽くいなしながら白澤は衆合地獄の目抜き通りを歩む。
ぽつりと頬に当たるものを感じたのは、ちょうど衆合地獄を出た地点だった。
「雨か」
桃源郷の雨はやわらかくはらはらと降る春の雨だが、八大地獄の雨は違う。炎熱の地獄であるだけに、日本の真夏の雨に似て大粒でぬるい。それが叩き付けるように天から降ってくる。
たちまちのうちに白澤は全身ずぶ濡れになり、小さく溜息をついた。
「あーあ、今日は厄日か」
おそらくは自宅に引きこもり、ゆっくりと書でも読んでいるべき日だったのだろう。占いを趣味としている鳳凰に今日の吉凶を聞いておけばよかった、と今更ながらの後悔をする。
本当は、白澤は自分でも、その開祖である伏羲ほどではないにせよ占筮は得意としている。
だが、根が何が起こってもどうにかなるだろうと捉える楽天的な性分であるだけに、吉凶を占おうという気分そのものが起こらないのだ。おかげでこうして時々、痛い目に遭ってしまう。
驟雨の中を透かして見れば、皆あわただしく家屋の中に避難したのだろう。辺りには鬼の子一人いない。
衆合地獄の入り口から桃源郷までは、まだ距離がある。ぬくみのある雨であるだけに体が冷え切るということはないが、不快感はどうにもしがたい。
もういいや、と白澤はその場で獣の本性に戻り、四つの足で濡れた地面を蹴った。
雲の上に出てしまえば雨など関係ない。晴れた渡った星空の下を疾風の勢いで軽やかに駆け抜け、ほどなく桃源郷に差し掛かる。
だが、足下を見下ろして、ありゃ、と白澤は眉を寄せた。
今夜は日本地獄のみならず桃源郷も雨であるらしい。あちらのどす黒い暗雲とは色味が異なるものの、やわらかく沈んだ色の雨雲が視界を遮っている。
ついていない、と諦めて白澤はそのまま下降し、薄い雨雲を抜けて桃源郷の大地に降り立った。
人型に戻れば、相変わらず衣服を含めて全身ずぶ濡れである。諦めて二足歩行で、桃源郷ならではのやわらかく煙るような雨の中、極楽満月までの短い距離をてくてくと歩く。
だが、前方、大きな柳の木の下に黒っぽい人影を見つけて白澤は、おや、と目を眇めた。
遠目には黒っぽいとしか分からなかったそれは、近付くにつれて段々と輪郭を定かにしてくる。黒装束の背の高い男、と判明した時点で白澤は大いに顔をしかめた。
間違いない。今夜もっとも会いたくない相手である。
しかし、気に障る相手であるからこそ、無視して通り過ぎることもできなかった。
この男相手にしか沸き上らない苛立ちを持て余しながら、白澤はゆっくりと歩み寄って、木立の手前で足を止める。
「何やってんだよ、お前」
苦い声で問いかければ、男は――鬼は、眦の吊り上った目をきろりとこちらへと向けた。
「見て分からないんですか。雨宿りですよ」
刺々しく答え、つんとそっぽを向いてしまう。胸の前でゆるく組んだ腕といい、柳の太い幹に背を預けている姿勢といい、何とも尊大で憎らしい。
可愛げがないとはこのことだと思いながら、白澤は、ふんと鼻を鳴らす。
「日本地獄も今夜は雨だったぜ。こんなとこで雨宿りする意味なんかないんじゃないのか?」
「……また衆合地獄ですか」
「僕がどこで遊ぼうと、お前には関係のない話だろ」
鬼の軽蔑に満ちた冷ややかなまなざしが、どうしようもなく白澤の神経を逆撫でする。
こんな目で神獣白澤を見る者は他にはいない。神獣は本来、何をしようと自由なのだ。世界の理(ことわり)を破るようなことをしない限り、誰にも咎め立てされることなどない。
ましてや鬼灯は、日本地獄のナンバー2とはいえ、所詮、神格もない一官吏でしかない。大陸の神獣を謗るなど、筋違いも甚だしいのである。
なのに、鬼灯は白澤に対しては決して遠慮しない。顔を合わせる度に白澤の放蕩を責め、好き放題に罵るのだ。
そして白澤もまた、他の誰には何と言われようと気にならないのに、この鬼の言葉にだけは反応をせずにいられない。
きついまなざしを向けられる度、鋭い言葉の刃をぶつけられる度、お前に何が分かると苛立ちばかりが腹の底からふつふつと立ち上る。
その感覚が白澤は何よりも嫌いだった。
吉兆の印とはいえ、白澤の内には荒ぶる獣の魂も確かに存在している。負の感情はその獣の部分を刺激してやまないのだ。
いつも楽しく笑っていたい白澤にとって、獣としての己が持つ荒々しさは、できれば心の奥底に沈めておきたいものだった。なのに、この鬼と居るとそれが叶わなくなるのである。
今夜もこれ以上、言葉を交わしていると、また感情を爆発させる羽目になりかねない。
雨宿りでも何でも勝手にしていろと思いながら、白澤は鬼に背を向けかけて――足を止めた。
そして、春の雨が己に降りかかるのを感じながら、じっと鬼灯を見つめる。
「何ですか」
白澤の視線を受けて、鬼灯は眉をきつくしかめる。だが、そこには僅かながらも険が足りなかった。
いつもの鬼灯ならば、もっと容赦のない罵倒を飛ばして、ことによっては手も出している。だが、今は腕組みをしたまま、柳の木陰から動かない。
ああもう!、と思いながら白澤は一歩を踏み出し、鬼灯の左腕を掴んだ。
漆黒の官服は、白澤の服ほどではないにせよ、しっとりと濡れている。一体いつからこの木陰にいたのか、あるいは木陰に入るまでに幾らかさまよい歩いていたのか。
「何ですか?」
「いいから来い!」
ぐいとその腕を引っ張って歩き出す。
「どこへ行くんです!?」
「うちに決まってるだろ!」
「はあ!?」
関わりたくなどなかった。この鬼に何を施したところで、決して温かなものは返ってこない。
だが、感じ取ってしまった痛みを無視して通り過ぎることは、白澤にはできなかった。
こんな時にも融通の利かない自分の天質を呪いながら、白澤は黙々と歩く。時折、鬼灯が手を振りほどこうと腕を動かすのが伝わってきたが、決して握る力を緩めることはしなかった。
そうして春の雨の中を歩くこと数分、二人は極楽満月に辿り着く。
表玄関の鍵を開け、室中に入った白澤は鬼灯を引きずったまま寝室に進み、衣装箪笥から手拭いを出して鬼に投げつける。
続けて二着分の着替えも取り出し、一揃いをまた鬼に投げつけた。
「とっとと着替えろ。風邪を引きたいわけじゃないだろ」
「着替えくらい、帰ればあります」
「だったら、どうしてさっさと帰らなかった?」
何故、本来の巣である地獄から離れて、こんな天国の端でぼんやりと雨宿りをしていたのか。
嫌になるほど白澤にはその理由が分かる。
「とにかく着替えろ。話はそれからだ」
くるりと背を向け、自分のずぶ濡れの衣服に手をかける。すると鬼灯の硬質な声が背を打った。
「貴方と話すことなどありません」
「お前がぼんやり雨宿りをしていた理由を知っていると言ったら?」
振り向かないまま、そう告げる。顔色など見えなくても、鬼灯が顔をこわばらせる様子は容易に伝わってきた。
彼がたじろいだのは、ほんの一瞬ではあるが、それだけあれば十分である。
身動きしない鬼を背後に感じながら、白澤は手早く衣服を渇いたものに取り換え、手拭いで濡れた髪を拭った。
「着替えたら、濡れた服はそこの衣桁(いこう)にでも掛けておけよ。気休め程度にしか乾かないだろうけど」
「……どうしてこんな真似をするんです」
振り返れば、相変わらずその場に佇んでいる鬼の闇色の瞳が、困惑とも憤りともつかない色に光っている。
その色を見つめ、白澤は静かに答えた。
「僕が『白澤』だからだろ」
天界の獣は、獣の身でありながら吉祥を掌り、癒しの術を持っている。そんな自分の本性に、獣であり世界の理を担う神族であるからこそ決して逆らえない。
何も難しくなどない、ただそれだけの話だった。
「着替えたら、こっちに来い」
言い置いて寝室を出、薄暗い店舗の中を移動して角灯に竈の燠(おき)から火を移す。さほど大きな明かりでもなかったが、作業台の辺りは温かな光に十分に満たされ、白澤は小さく息をついた。
正直、精神的には既にくたくただった。だが、あの鬼の話を聞いてやらねばならない。
聞きたい、痛みの原因を知りたいと騒ぐ本能に溜息を吐きながら、白澤は茶葉を選び、湯を沸かす。
そして二人分の茶杯を出したところで寝室の扉が開き、中から鬼が出てきた。
「……へえ」
白澤の服を貸したのだから、当然、纏う色は白である。そればかりでなく、鬼灯はいつも後頭部で一つに纏めている髪を下ろしていた。
未だ水分を含んで硬質な艶を放つ黒髪は、胸の辺りまでかかっている。
「結構長いんだな、髪」
「本当は切りたいんですけどね。これくらいないと纏められませんから」
「ふぅん」
服を白に変え、髪を下ろすだけで随分と雰囲気が変わる、と白澤は思った。
黒という色が持つ威圧感は消え、代わりに鬼灯が持つ、ある種の潔癖さと誠実さが白という色によって前面に押し出されている。そして、髪を下ろしている分、顔の輪郭が僅かにやわらかい。
この方がいいな、と思った。いつもの厳しく苛烈な姿こそが彼の本質だということは理解している。だが、これはこれで、今の鬼灯をよく表しているように白澤には見えた。
「座れよ。茶は立って飲むもんじゃない」
椅子を勧め、沸き始めた湯の加減を見つつ、茶の支度を進める。
そして、ゆったりとした所作で白澤は茶を丁寧に入れた。
「明前碧螺春だ。日本の緑茶に近いから飲みやすいと思うぜ」
「……大陸のお茶は嫌いではないですよ」
「ふぅん? お前、大陸に行ったことあるの?」
「……ええ。もう随分と昔の話ですが」
さほど長い間居たわけではないですが、あちらこちらを巡りました、と言いながら鬼灯は蓋碗を手に取る。そして、器用に指先のみで蓋をずらし、茶葉を避けて茶を口に含んだ。
「かなりの上物ですね」
「分かるのなら大したもんだ」
嫌味ではなく心から感心して、白澤は自分の分の茶を啜る。何とも言えない清々しい香りと共に、緑茶独特の渋みと甘みがゆっくりと広がる。鬼灯の言う通り、良い茶だった。
無言で一煎目を呑み干し、二煎目の湯の支度をしながら、白澤は静かに口を開く。
「今夜、衆合地獄の居酒屋で泣いてる若い鬼女に遇った」
そう告げ、まなざしを上げる。すると鬼灯は真っ直ぐにこちらを見つめていた。
揺るがぬ視線はいつもと変わるわけではない。ただ、目に浮かぶ光の強さが違っている。いつものように鋭く険しい。だが、いつもほどには炯々と光ってはいない。
この鬼も、こんな風に打ちひしがれることがあるのかと思いながらも、白澤は二つの茶碗に丁寧に湯を注ぎ、蓋を閉めた。
「彼女はお前を責めてはいなかったよ。無い物ねだりをした自分が悪かったのだと言っていた。――どうして最初に、きちんと振ってやらなかった?」
そう問いかければ、鬼灯はしばらくの間白澤を見つめ、やがてまなざしを逸らした。
「貴方には関係のない話です」
「僕だって関係したくなんかなかったさ」
はっと白澤は笑い捨てる。
「でも、どういう因果だか、僕は今夜あの子の傷心に気付いてしまったし、その帰り道ではぼんやり雨宿りしてるお前に遇った。だったら、僕は『白澤』だ。お前の話も聞くしかない」
痛みの理由を聞き、それなりの慰めを与えなければ、傷心に触れてしまったことによる心の疼きが収まらない。
不本意なのは白澤もまた、同じだった。
「実際のところ、何でこんな失敗をした? お前、こういうことからは上手く逃げてただろ」
目の前の鬼神が、案外に他者から想いを寄せられることが多いとは白澤も聞き知っている。だが、同時に彼がそういった色恋沙汰からは常に距離を置いていることも、白澤は承知していた。
白澤が知る限りでは、鬼灯はこれまで特定の相手と付き合ったことはない。なのに、今夜の醜態である。
「きちんと優しくできないのなら最初から関わるな。色恋においては、それが鉄則だろ」
「そっくりそのまま、貴方に返したいですが。貴方が女性とまともに付き合ったことなんてありましたっけ」
「僕は最初から、僕の軽薄さを受け流してくれる女の子としか付き合わない。まともに付き合うなんて考えたこともないよ」
「自慢できるような信条ですか、それが」
「少なくとも、お前みたいに女の子を泣かせたことはない」
ざくりと踏み込めば、鬼の闇色の瞳が一瞬強く燃え上がる。だが、真実は真実である。
彼も分の悪さを承知しているのだろう。鬼灯は顔をしかめつつも感情を爆発させることはなく、手元に視線を落として二煎目の茶を飲み干した。
「酒はないんですか」
「馬鹿言え。お前に出す酒なんかあるか。どうしても飲みたければ、滝に行って好きなだけ汲んでこい」
突き放せば、鬼灯は不機嫌そうに押し黙る。だが、立ち上がらないところを見ると、心から酒を飲みたいわけではないらしい。そもそも、自分に非があると分かっている時に酒に逃避するような男でもない。
幸いというべきか、供した茶葉は極上のものであるだけに七煎目くらいまでは香りが楽しめる。白澤は黙って新たな湯を二人の蓋碗に注いだ。
雨音がさやかに響く静かな夜の中で、ただただ茶を飲む。それはとても奇妙な感覚だった。
「――茶菓子くらいないんですか」
「こういう時でも、お前は図々しいな」
つまみを求める鬼灯に呆れながらも、白澤は立ち上がり、背後の戸棚から作り置きの菓子を取り出す。女性客が来た時に振舞うためのものだから、小麦粉と砂糖と白胡麻を練って捻り、上等の油で揚げた小さく甘い菓子だ。
湿気避けに蓋がぴったりと閉まる菓子鉢に入れてあったそれを、白澤は器ごと作業台の上に置いた。
鬼灯は直ぐに手を出し、一つをつまんで齧る。ぽりぽりと良い音が響いた。
「料理の腕は確かですよね、貴方」
「……お前が褒めるなんて、明日は嵐だな」
「ムカつく人ですね。滅多にない褒め言葉くらい、素直に受け取っておいたらどうですか」
「やなこった。後が怖い」
ふん、と振り捨てながらも、白澤はもう一種類の菓子を取り出す。こちらは小麦粉と砂糖と油脂を練って丸く平たい形にし、上に杏仁(アーモンド)を載せて焼いた、やはり一口大の菓子だった。
その蓋も開けて菓子鉢を置けば、鬼灯はこちらにも手を伸ばす。
さくさくとした歯ざわりの焼き菓子を一つ食べて、揚げ菓子の方を指差した。
「私はこちらの方が好きですね。固くて歯応えがありますし、揚げてある分、香ばしい。胡麻の風味もいいです」
「ふぅん。固すぎてヤだっていう子もいるんだけどね」
鬼という種族は歯まで丈夫である。そういえば、揚げ菓子の方が好きという子は鬼の娘が多かったな、と白澤は思い返す。
その間も、鬼灯は菓子をつまんでいる。食べ方は二種類の菓子をほぼ交互で、何の勘の言いながら食感や風味の違いを楽しんでいるように見えた。
やっと少し気持ちがほぐれてきたかと思いながら、白澤はまた新たな湯を杯に注ぐ。
そして杯に蓋をしてから、静かに口を開いた。
「しつこいと言うだろうけど……。どうしてお前、こんな真似をしたんだよ。お前らしくもない」
「――そうですか?」
「そうだよ。女の子を傷付けて、自分もへこんで……。そういう真似をする馬鹿、お前は嫌いだろ」
「嫌いですね」
「即答するなよ」
溜息をつき、白澤は自分の蓋碗を手に取る。そして、まだまだ香りの衰えない茶を一口啜った。
「綺麗な目をした子だったな。真っ直ぐで潔い……」
あの、ひたむきなまなざしの強さ。少しだけ似ていると思ったのだ――目の前のこの鬼に。
どこか同じ匂いのする男と女だと思った。
けれど、それでもおかしいのだ。一時とはいえ、鬼灯が彼女の手を取ったということが、白澤はどうしても腑に落ちなかった。
「彼女の目を見た時、お前が拒み切れなかったのも分かったような気がしたけど、実際のところはどうなんだ。お前は本来、そういう印象に流されるような奴じゃないだろ」
「人のこと、勝手に分析しないでくれませんか」
「分析してるわけじゃないっての」
素直に答えるはずがないのは分かっていたが、何となく徒労感に襲われて、白澤は溜息を押し殺す。
気を紛らわせるように自分も焼き菓子に手を伸ばし、一つ口に放り込めば、菓子はほろりと崩れて杏仁の香ばしい風味が後に残った。
そしてまた、目の前の鬼のことを考える。
いつもと異なり、自分からは口を開こうとせず黙々と茶を喫し、菓子をつまんでいる様子からは何一つ窺えない。ただ、悔いていることだけは分かる。それだけだった。
あの鬼女の何に惹かれたのかは、きっと語らないだろう。だが、傍に在ることを許そうと思うくらいには、彼女はこの鬼の心を揺らしたのだ。
一体、どんなまなざしで、どんな言葉を捧げたのか。
考えても詮のないことだと思いながらも、白澤は思いを巡らせることを止められなかった。
「お前はさ、ああいう子が好みなの?」
「顔貌(かおかたち)のことを言ってるんでしたら、見た目に基準を置くことはありません」
「じゃあ、何にこだわる?」
「……顔じゃなかったら中身と答えるしかないでしょう」
奇妙な言い方だと思った。表情もである。実に面白くないことを口にしているかのように不機嫌さが覗いている。
そう、まるで、こだわりたいのは中身であるはずなのに、実際は中身だとは言い切れないような。
―――あるいは、中身が本来好みではない相手に、心ならずも惹かれているような。
そう思い至った時、何かが白澤の内側でぞくりとざわめいた。
気取られるな、と白澤は反射的に通常通りの呼吸を心がける。この距離では、ほんの僅かな乱れですら鬼灯は気付くだろう。自分が彼の言葉で動揺したということは、決して悟られたくなかった。
蓋碗の蓋を取りながら、ちらりと確かめれば、鬼灯は相変わらずのどこか憂鬱げな無表情で視線を卓上に落としている。
さすがに今夜は、彼も自分のことで手一杯であるのかもしれない。そうであれば良いと思いつつ、白澤は新たな湯を注ぐ。そしてまた、蓋を閉めた。
この辺りにしておいた方がいい、という警告は先程から脳内で鳴り続けていた。今夜の自分が、この鬼の内面に踏み込み過ぎているという自覚は当然ながら、ある。
だが、ここまで彼は白澤の踏み込みを許容している。抱えている悔恨ゆえだろうが、この機会を逃したら、もう当面尋ねることができないことが幾つもあるということは、もはや白澤の中では確信だった。
―――何を、どこまでなら答えてくれるのか。
何故そうまでして、この鬼のことを知りたいのかという根源的な問題は頭の片隅に押しやり、白澤は慎重に言葉を探す。
「お前好みの中身って、どんなの?」
敢えて先程の微妙な言い回しには触れず、男同士が顔を突き合わせて飲んでいれば必ず出るような、ありふれた問いかけを口にする。
すると、鬼灯はつまらなそうな口調で言葉少なく答えた。
「……誠実で、ひたむきで、嘘をつかない人がいいですね」
「だったら、あの子はそれに当て嵌まってたんじゃないのか」
「否定はしません」
否定はしない。だけど、違ったのだろう。
好みのはずの女性を大切にする以外、この不器用な鬼は何一つしてやれなかったのに違いない。突き放してやることも、愛してやることもできなかったのだ。
そのことを鬼灯自身も深く悔いている。雨の桃源郷で寄る辺なく佇んだ挙句、今ここに居るのもそのためだろう。
だが、朴念仁である分、恋愛沙汰に関しては身綺麗な彼が、何故こんな事態を招いたのか。そのことがどうしても理解できない。
否。
一つだけ白澤は可能性を思いついていた。
異性の好みを語るときの不機嫌な、つまらなさそうな声と口調。
そこから導き出される、本当に淡い淡い確率だが、たった一つだけ、鬼灯が彼女に手を差し伸べてもおかしくない理由。
その可能性に基づいた続く問いを発すれば、鬼灯が激する可能性は少なくなかった。
にもかかわらず、問いを口にすることを決断させたのは、治癒者としての天質だったのか、或いは、もっと違う欲求によるものだったのか。
白澤自身にすら分からなかった。
「お前はさ、彼女を憐れんだの? それとも、彼女に逃避しようとしたの?」
その問いは、どこまで正鵠を得ていたのか。
定かではなかったが、ぴくりと鬼灯は反応し、炯々と光るまなざしが白澤を見る。そこにあからさまな拒絶を見出して、白澤は、ああ、と絶望するように納得した。
肉体はいつでも正直なものだ。全身の血が逆流するかのように激しく鼓動が鳴り、冷水を頭からかけられたような感覚が背筋を走り抜ける。
だが、表情ばかりは完全に殺して、白澤は淡々と問いを続けた。
「彼女に自分の影を見たの?」
鬼灯は鋭くこちらを睨みつけたまま、答えない。そのまなざしと沈黙こそが答えだった。
「お前、一体、誰相手にそんな絶望的な恋をしてるの」
そう問うた途端。
瞬時に怒気を閃かせた鬼灯は、蓋碗を持ったままだった手首を翻した。
中にまだ残っていた茶と茶葉ごと、蓋碗が飛礫(つぶて)の勢いで白澤の顔面めがけてぶつけられる。だが、激昂を予想していた白澤は、それを難なく片手で受け止めた。
もっとも完全に無事にとはいかず、蓋と碗の隙間から零れた茶が手指を濡らしたが、湯温は既に下がっている。ぬるい茶は直ぐに冷たい雫となって、白澤の指先から滴り落ちた。
「景徳鎮は投擲武器じゃないぞ」
「でしたら直接、息の根を止めて差し上げますよ」
八大地獄の業火を凍てつかせたような声で言った瞬間、鬼灯は動いていた。
強い踏み込みと同時に椅子から腰を浮かせて作業台を軽々と飛び越え、両膝蹴りの要領でそのままの勢いと全体重をもって白澤を床に押さえ込む。
鬼の右手は喉輪に、左手は右肩に、両脚は両脚に。僅か三秒ほどの間に、白澤は仰向けの形で完全に身動きを封じられていた。
「さて、どう料理されるのがお好みですか」
喉元を掴む手にぐっと力を込めながら、鬼灯は鬼火すら凍りつかせるような声で言う。
「この目を抉ったら、再生するのにどれくらいかかりますかねえ?」
「お前が期待する程度には速いよ」
「成程。では私は一日中、貴方の目を抉り続けていられるわけですね」
「そこまでお前が暇な奴ならな」
「少なくとも朝までは時間があります」
恐ろしげな言葉を次々と繰り出す鬼灯の顔は、完全な無表情だった。
借り物の白装束に、半ば乾いた黒髪がはらりと落ちかかる。その隙間から見える顔には、普段、機嫌を損ねた時に見せる険悪さはかけらもない。ただただ冷たいばかりだ。
本気で怒るとこんな顔になるのか、と思いながら白澤は鬼灯を見上げた。
「お前は……こんな時にしか、僕には本気で向き合わないんだな」
喉元を押さえ込まれ息苦しい中、そう呟けば、鬼灯は不審げに眉をしかめる。何を言われているのか分からないという顔だった。
そう、分からないだろう。こんな形でしか鬼の激昂を――本気を引き出すことができなかった者の気持ちなど、この男に分かるはずもない。
けれど。
「僕だって、真剣には向き合ってこなかったけどな」
何一つ分かっていなかったのは、自分もまた同じだった。
今更の悔恨に囚われて自嘲めいた言葉を吐けば、鬼灯は更に顔をしかめる。
「何を、言ってるんです」
問われ、考えて。
「世迷い言、かな」
そう答える。
言う価値などないのに、言わずにはいられない文句。世迷い言と称する以外、他に表現のしようがなかった。
先程の問いを発すれば、鬼灯が激怒するだろうことは分かっていた。
隠している心情を暴露されて喜ぶ輩などいない。ましてや、暴き立てた相手が嫌いな存在であれば尚更だ。
なのに何故、今になって虎の尾を踏もうと思ったのか。
知己を得て数千年、本格的に険悪な仲となってから千年。嫌いという言葉に嘘はなかったが、しかし、この相手を本気で怒らせたことも怒らせようとしたこともない。
ずっとこの距離、この関係で過ごしてきたのだ。
なのに、怒らせた。敢えて、逆鱗に触れた。
何故か。
―――だって、僕は。
千年間壊れなかった、いがみ合うばかりの関係は安寧であり、同時に怠惰でもあったのだと今になってようやく白澤は理解する。
それは細波一つが立つだけで壊れてしまう、儚い氷のようなものでしかなかったことも。
そう、何も気付かないまま薄氷の上で踊り続けていたのだ。変わらぬ日々がこれから先も、ずっと続くのだと信じ切って。
日々の怠惰と楽天に流れて、自分の心さえきちんと見ようとはしていなかった。
「馬鹿だねぇ、僕も」
「だから、何を言ってるんです」
貴方が馬鹿だということは否定しませんが、と鬼灯は困惑の色がやや差した顔で問う。
その鬼灯の目を白澤はまっすぐに見上げた。
角灯は作業台を照らすようにしか置いていないため、影になる床の上は昏い。だが、獣の目を持つ白澤には闇は何の障害にもならない。
鬼の目を持つ鬼灯の瞳もまた、暗闇などまるでないかのように真っ直ぐに白澤を見つめている。
その目を見つめたまま、白澤はゆっくりと自由になる方の左手を上げ、喉元を押さえ込む鬼灯の腕に触れた。
込められた力にぴんと固く張り詰めている筋肉と、その直ぐ奥にある固い骨格。触れた瞬間に、そのいずれもがびくりと震える。
「お前が、誰のことをそんなに想ってるのかは知らない。聞く気もない。聞いたってどうしようもないからね」
この鬼が誰を想っているのか。そんなことは知るだけ無駄だった。知ったところでどうにもならないし、何かが楽になるわけでもない。
欲しいと思ったら手段を選ばないように見えるこの男が、胸の内に苦しい想いを押し込めていること。それだけが分かれば、もう十分だった。
―――お前は僕のものにはならない。
今更ながらの現実を、白澤は苦く噛み締める。
千年もの間、天敵同士であり続けた。でも、そんな日々には何の意味もなかったのだ。
現に、鬼の目は自分を見ようとはしない。その心がこちらに向けられることは決してない。
この距離にありながら……千年もの間、いがみ合い続けていながら、なんと遠い存在なのか。
実は誰よりも近いと……周囲の人々が言うように実は『似た者同士』だと心の奥底で感じていたのは、きっと自分だけだったのだろう。
この鬼の心の中に、自分は居ない。
熱く激しい唯一無二の心は、他の誰かのものだった。自分には触れることさえ許されない。
けれど。
それでも。
「僕じゃ、駄目なの?」
見上げたまま、静かにそう告げた途端。
鬼の目が僅かに見開かれた。
「は……?」
薄暗い中、闇色の瞳が自分を見つめている。今ばかりはそのまなざしを逸らさないで欲しい。そればかりを思いながら、白澤は繰り返した。
「僕ならお前を世界で一番大切にしてやれる。僕には何の役目もあるわけじゃないから、お前だけで僕の世界をいっぱいにすることができる。それじゃあ足りないか?」
「――何を、言ってるんです……」
「分からない?」
問えば、鬼灯は何かを言いかけて口を閉ざす。
見下ろしてくる表情から察するに、言葉の意味が分からないわけではないのだろう。ただ、意図が分からない。見つめるまなざしがそう告げている。
「嘘じゃないよ。僕は嘘はつかないし、できない約束もしない」
それもまた、神獣としての性分だった。
天地を自由に駆けることのできる獣に嘘をつくべき相手などいないし、嘘をつく必要もない。知るべきではないと判断した真実を告げないことはあっても、偽りを口にすることはないのだ。
だが、それを目の前の鬼神が信じるかどうかは、別問題だった。
「――意味が分かりません」
「だったら、もっと分かりやすく言おうか?」
そう提案すれば、鬼灯ははっと表情を緊迫させる。だが、制止の言葉を彼が口にするよりも早く、白澤は音を紡ぎ出していた。
「お前が好きだ」
目の前で鬼灯の瞳が大きく見開かれる。
茫然自失という態で白澤を見つめ、そして。
次の瞬間、喉輪に置いた右手に体重を乗せて白澤の首を締め上げた。
「本当にこのまま縊(くび)り殺してやろうか……!?」
鬼の中でもずば抜けた剛力を誇る鬼灯の腕力は尋常なものではない。人間であれば勿論のこと、鬼であっても頚骨をへし折られていただろう。
見た目より遥かに頑強な白澤とて、さすがに息が詰まった。呻き声も出せずに、かけられる圧力にただ耐える。
何秒、否、何分が過ぎたのか。やがてわずかに鬼灯の力が緩む。
ほっと安堵しながら首を絞められる苦しさに閉じていた目をゆるゆると開けば、闇の中に炯々と燃え上がる鬼の眼(まなこ)が映った。
地獄の業火のようなその色は、確かに憤怒の色だったが、そればかりではない、と白澤は見て取る。
憤怒の奥底にかすかに見え隠れする、嘆き。或いは絶望。或いは苦悩。
彼がずっと押し殺してきたものが、今、ほのかに白澤の目にも映っていた。
「嘘じゃ、ないよ」
潰されかけた喉からは、蟇蛙ようなざらついた声しか出ない。だが、そのかすれた声を聞かせた途端、憤怒の色も痛みの色も強くなる。
だが、それもそうだろうと白澤は冷静にそれを受け止めた。
世界で最も嫌う相手に、隠していた内面を暴かれ、挙句に想いを打ち明けられたのだ。いずれか一つでも我慢ならないだろうに、二つを畳み掛けられたら、どんな気分になるか。
一言では到底表現できない最低最悪の思いでいることは、容易に想像がついた。
憐れんだと思ったのか、傷心に付け込もうとしていると思ったのか。それとも、性質の悪いからかいか企みだとでも思ったか。
いずれも不正解だったが、そうと取られても仕方のない状況ではある。
けれど、白澤の真意は一つだけだった。
―――僕を見て。
他の誰かにしか向けられていないそのまなざしを、僅かでもいい、こちらに向けて欲しい。
僅かでも、その心に触れることを許して欲しい。
ただ、それだけだった。
叶わぬ想いを抱えて苦しむ鬼を憐れんだのでは決してない。自分の方が憐れみを乞うているのだ。
ほんの僅かでも……ひとかけらでもいい、その心を投げ与えてはくれないかと。小さくて無力な獣のように願っているのだ。
「信じると、思っているんですか」
「無理だろうね」
冷たい憤りの顔のまま、否定を口にする鬼灯に、白澤も同意する。
千年もの間、顔を合わせる度に嫌いだと繰り返してきたのだ。そして、自分もまた、己の心を深くは考えようとはしてこなかった。
そんな自分の想いに気付け、理解しろという方が土台無理だということくらい、百も承知している。
「僕自身だって、自分がお前をどう思っているか、今夜まできちんとは分かってなかったんだ。なのに、今すぐ信じろなんて言わないさ」
自分がこの鬼のことを特別な存在として捉えていることは、さすがに理解していた。
顔を合わせる度に苛立ち、罵声の応酬を繰り返すのに、それが奇妙に楽しいと思える瞬間も度々あって、どうしても関わることを止められない。その執着めいた感情は、恋慕に良く似ているとも思ってはいた。
だが、自覚はその程度のぬるさであったのだ。
今夜、彼の心が他の誰かに向けられていると知って、激しく動揺し絶望する自分に気付いて、初めて想いの深さを自覚した。
いつの間に、この鬼に対する恋慕がこれほど深く根を張り、枝葉を茂らせていたのかは分からない。
だが、気付いてしまった以上、もう戻れなかった。
「でも、いい加減な想いでもないよ。冗談なんかでお前をこんなにも怒らせるもんか」
「まだ冗談の方がマシです」
「お前にとってはそうかもね」
ふっと白澤は苦笑する。
「それで、どうするの。この場で、僕の首の骨でもへし折る?」
そうしたいと思っていることは、炯々と光ったままの瞳の色からも分かる。だが、鬼灯は先程のようには腕に力を込めなかった。
「頚椎を砕いたところで、貴方は死なないのでしょう。無意味です」
「目を抉り続けるって話は?」
「……貴方相手にそんな労力を使うのも馬鹿馬鹿しい」
そう言い、鬼灯は白澤の首元からやっと手を離す。そして、ゆらりと立ち上がった。
「帰ります」
低く呟かれた声に、白澤は何か言おうと思ったが、咄嗟に言葉が出てこない。その間に、鬼灯は着替えるつもりなのだろう。白澤の寝室へと向かった。
残された白澤は上半身を起こし、締め上げられていた首もとに手を当てる。おそらく鬼の手の形に鬱血していることだろう。
朝になれば綺麗に消えているだろうが、長時間圧迫された皮膚も薄い筋肉も、今はずくずくと痛んでいた。
否、痛んでいるのは肉体ばかりではない。
無様だな、と溜息をつく。
そのまま、ぼんやりと激昂した鬼灯との遣り取りを思い返しているうちに小さな物音がして、鬼灯が戻ってきたことを白澤に知らしめた。
慌てて立ち上がれば、元通りに黒闇と血赤の衣を纏い、髪を結い上げた鬼灯が作業台の向こうにいた。濡れた衣は乾き切っていないだろうに、その不快感は白い顔からは窺えない。
内心はどうあれ、表面的には冷静さを取り戻した目で真っ直ぐに白澤を見つめ、鬼灯は静かに口を開いた。
「お借りした服は、洗濯してお返しするのが筋でしょうが……」
「ああ、いいよ。そのまま置いていって」
「はい」
短く応じ、そして、鬼灯は言葉を選びかねたかのように再び口を閉ざす。
そんな鬼灯の様子を見て、白澤は機先を制した。
「さっき僕が言ったことだけどさ」
そう告げれば、鬼灯の肩がぴくりと揺れる。
「今は信じなくてもいい。でも、いつかは分かって。繰り返すけど、僕は嘘はつかない」
「信じられると思ってるんですか」
「今は無理だろ。僕だってそんな馬鹿じゃない。お前の目に自分がどう映ってるかくらい、分かってるよ。でも、それを変えたいと思ってるのも事実だ」
心からの言葉だったが、鬼灯の目に浮かぶ不信は変わらない。だが、それも仕方のないこととして白澤は受け止めた。
「目に映る姿なんて、印象一つで変わる虚像だ。僕だって今夜、衆合地獄であの子の存在を知って、こっちに帰ってきた時にお前を拾わなかったら、お前は恋の一つも知らない朴念仁だと思ったままだったよ」
「私は……!」
誰にも恋などしていないとでも言いたかったのか。だが、何と否定したところで、見えてしまったものはもう変えようがない。
白澤はすっと右手を掲げて、鬼灯の反論を止めた。
「いいよ。お前の心が僕に向いてないのは分かってる。どっちに向いているのかを聞く気もない。ただ、お前が僕の手を取ってくれるのなら、そんな辛い想いはさせないのにっていう話だ」
そう告げた途端、また鬼灯の瞳に強い憤りの色が浮かぶ。
もう一度首を締め上げたいような、今度こそ確実に息の根を止めたいと思っているような目の色だったが、不死に近い神獣に何をしても無駄だと判断したのだろう。
ふいとまなざしを背け、出入り口に向かって歩き出した。
「帰ります」
「うん」
憤怒と苛立ちの響きもそのままに辞去を告げ、出て行く。それを白澤も止めなかった。
ばたんと扉が閉まる音を聞き、傍らにあった丸椅子へと腰を下ろす。
そして、大きく息をついた。
「くそ……」
何一つとして、上手くいったという感触はなかった。
慰めや嫌しどころではない。自分がしたことは、あの鬼の心を抉り、自分をも傷付けただけだ。
今日という日がなければ、どんなにか良かっただろう。何一つ知らないままでいれば、こんな想いを自覚することもなかった。少なくとも、自覚の先延ばしはできていたはずだ。
けれど、もう駄目だった。
あの冷徹極まりない鬼神が、壗ならぬ恋に苦しんでいる。その事実は白澤をどうしようもないほどに打ちのめした。
一体、誰を愛しているというのか。
鬼灯は性格こそ多少奇天烈であれど、決して悪人ではない。加えて、あの容姿である。地獄での地位も相応のものであり、本気で望めば手に入らない相手の方が少ないだろう。
だが、彼は道義は守る方だ。相手に恋人がいたり、恋仲になれぬ事情のある相手であれば、敢えて理性的に割り切ろうとするに違いない。
けれど、心の底では割り切れずに苦しんでいる。そんな鬼灯のことなど知りたくはなかった。
そして、そんな彼の想いを知って傷付き、絶望している自分自身にも。
絶対に気付きたくなどなかった。
彼が誰のことを想っているのか、知ろうとは思わないと繰り返したのは本心である。知ったところで、どうしようもないことには変わりない。返って、相手の存在を知り、具体的な嫉妬に駆られる方が白澤は怖かった。
普段は意図的に縁遠くしている負の感情に囚われてしまったら、天界の獣としての本性が荒ぶりかねない。
深刻な怒りや憎しみに駆られたら、神獣の力は相手が人であろうが鬼であろうが簡単に引き裂いてしまう。そんな真似は白澤の望むところではなかった。
「第一、お前の好きな相手を殺したって、お前は僕を愛さない。そうだろ?」
その結果など、分かりきっている。単なる嫌悪が心底からの憎悪に変わるだけだ。
嫌われるくらいなら構わない。今までもそうだったのだ。だが、憎まれるのはさすがに辛かった。
「どうしてお前だったんだろうなぁ……」
自分を見る時のきついまなざしを思い出して、白澤は自嘲気味に呟く。
口を開けば毒に満ちた罵詈雑言ばかりが飛び出し、時には拳や金棒まで飛んでくる。時折、奇跡のように穏やかな一時が訪れることもないわけではないが、決して長続きすることはない。
大嫌いと言い、大嫌いと返し、馬鹿と言い、馬鹿と返し。
あの鬼との間に温もりに満ちたものを育めたことなど一度たりともない。
「お前なんて、可愛くも優しくもないのに」
可愛い子も優しい子も、天界にも地獄にも無数に溢れている。そんな子達と楽しく遊んでいた日々は十分に幸せだった。
なのに、一体何が足りなかったのか。
あんな鬼に、一体何を求めて惹かれたのか。
「お前は僕のことなんて、愛してくれないのに」
呟けば、やるせなさに涙が一粒、零れ落ちる。
何のことはない。あの鬼が苦しんでいる恋情地獄に自分もまた、足を踏み入れただけのことだった。
その地獄に墜ちてしまえは、鬼も神獣も関係ない。
報われぬ想いを嘆いて、泣いて、身悶えて。
その果てには何もない。
待っているのは、茫漠たる砂漠のような寂寥ばかりだ。
ああ、今夜、自分は恋を自覚すると同時にその恋を失ったのだと今更ながらに気付いて。
天の獣は、しばしの間、両の目から涙が零れ落ちるのに任せて哭いた。
夜更けの閻魔殿は人気が少ない。
その中を足早に通り抜けて自室に戻った鬼灯は、後ろ手に締めた扉に背を預ける。だが、それだけでは足りずに、その場にずるずると崩れ落ちた。
「―――…」
感情を整理しきれずに、右手で顔を覆う。だが、胸の痛みは治まらない。
その全ては――少なくとも殆どは、あの神獣のせいだった。
今日は久しぶりの休日で、少し前から交際していた女性と高天原デパートまで出かけた。少し遠出したいと言われて付き合ったのだ。
だが、一日中楽しげに微笑んでいた彼女は、天界の美しい黄昏の中で薄れゆく残照よりもなお美しく微笑み、もう終わりにしましょうと告げた。
ありがとうございましたと、貴方の不器用で優しいところがとても好きでしたと優しい声で言われて、上手く大切にできなくてすみませんでしたと謝るのが精一杯だった。
実際、付き合っていたといっても、その半年の間、二人きりで会ってやれたのは両の手にも足りない回数でしかない。そのことに彼女は何一つ文句を言わなかった。
だが、それでも辛かったのだろう。本当は、もっときちんと愛されたかったのだろう。
ほんのわずかに共にいられるだけでいいと彼女自身が最初に言ったとはいえ、それで満足できる者などいるはずもない。
それでも彼女は最後まで一言も鬼灯を責めなかった。
涙を見せない別れの笑みは、彼女の高い矜持と鬼灯への思いやりの表れ。
結った髪に挿された、自分が贈った珊瑚の簪が残照の中で胸が痛むほどに美しく光っていたのを、きっとこの先も長い間忘れることはないだろう。
送ると申し出たのを彼女は一人でと断って地獄へ帰って行き、残された鬼灯は、どうすることもできずにその場に佇んでいた。
やがて細かな雨が降り出したことに気付いて、やっと少し離れた所にあった柳の大木の葉陰にまで退避したのは、周囲が完全に夜となった頃。
またそこでぼんやりと雨を眺めながら、彼女を大切にできなかったことの悔恨と、その理由を考えていたところに、あの神獣が通りかかったのだ。
天敵が雨宿りをしているところなど放っておけばよいものを、何をとち狂ったのか、彼は強引に鬼灯を連れ帰り着替えを押し付けた。
そればかりか、香りよい熱い茶を出し、茶菓子を出して、こちらの痛みを和らげようと努めてきた。
そう、あの一連の行動は、決して嫌がらせではなかった。天上の獣らしい性分のままに、その手を差し伸べてきただけのことである。そこまでは鬼灯にも分かる。考えるまでもない。
だが、その先は。
彼の言動をどう解釈して受け止めれば良いのか、まったく分からなかった。
嫌がらせであったのか、性質の悪い冗談であったのか。
あの時、確かに白澤の目は真剣であるようには見えたと思う。表情も声音も、何もかも本気であるようには見えた。
しかし、そこに真実があると、どうして思えるだろう。どうして信じられるだろう。
「貴方が私を好きだなんて……」
有り得ないでしょう、と嗤う。
第一、『お前だけで僕の世界をいっぱいにすることができる』とは何なのだ。
そんなことがあの神獣にできるのであれば、色街一の放蕩者として名を馳せることなど決してなかっただろう。
これまで一度も特定の相手を作らず、またその気もないことを公言してきた口で誠意を語ろうとする、そのこと自体がお笑い種(ぐさ)だった。
おまけに白澤は、鬼灯の心情を看破はしても、相手のことは聞いても仕方がないの一点張りで、その心の行方を知ろうとはしなかった。
それは一体、怠惰なのか、狡さなのか、無関心なのか。判断する術(すべ)は鬼灯の中にはない。分かるのは、白澤は一方的に言葉を紡いだだけで、こちらの言葉など聞く気はなかったということだけだった。
もっとも、聞かれたところで、答えるつもりは毛頭なかったのだから、その点はおあいこなのかもしれない。
そう、真実など言えるはずがなかった。それこそ、白澤の言葉以上の最大のお笑い種なのだから。
「貴方みたいなろくでなしを……だなんて」
呟く端から、乾いてかすれた笑いが零れる。
「でも、私が一体、他の誰を好きになると思うんですか」
確かに周囲を見渡せば好人物は幾らでもいる。丁々発止でやり合える相手ともなると多少限られはするが、各庁の第一補佐官などは切れ者揃いだし、彼らと会話をするのは素直に楽しいと感じる。
しかし、本気で遠慮も気遣いも無しに物を言えるのは、三界広しといえども閻魔大王と白澤の二人だけだった。そして、閻魔大王は親も同然の存在である。
消去法でいっても、心惹かれる対象になり得るのは一人しかいないのだ。
それなのに。
「私と千年もいがみ合っておいて、気付かないどころか、とち狂った告白とはね……」
馬鹿馬鹿しい、と鬼灯は天井を仰ぐ。
白澤が、どういう意図で好きだなどと口走ってきたのかは知らない。しかし、それを受け入れる気にはおろか、信じる気にさえならない。
第一、信じたところで、それが幸福な結末になるとは到底思えなかった。
「万が一、本気だったとしても、貴方の本気なんて一体どれだけ続くんです? 三日? それとも一日ですか?」
ずっと見てきたから分かる。あの獣は相手など誰でも良いのだ。存在を受け入れて、抱き締めて眠ってくれるのであれば相手など問わない。
それは鬼灯に言わせれば獣の本能に等しく、一夜の恋ですらなかった。比べるならば、子孫を残すための猫の恋の方がまだ遥かに高尚だろう。そんなものに身を任せる気は毛頭ない。
ゆえに、胸の内にくすぶる想いはこのまま誰にも知られることなく、永遠に闇に葬ってしまうのが正しかった。
「本当に最低ですよ、貴方」
好みを問われて答えた、誠実で、ひたむきで、嘘をつかない人という言葉。そこに込めた皮肉にさえ気付きはしなかった。
それどころか、こちらが誰に想いを向けているのかさえ知ろうともせずに、自分ならそんな辛い思いをさせないのになどという戯言を吐いた。
好きだよと紡がれた言葉が、誠実さに裏打ちされた正真正銘の愛の告白であったなら、どれほど嬉しかったか。
せめて、かけらでも真心を信じることができたなら、どれほど幸せだったか。
けれど、現実は残酷なものだ。夢想すらしたことのなかった告白は只の戯言でしかなかったなどと、一体どんな茶番劇か。
だが、茶番劇を仕掛け、演じたという点では、鬼灯もまた似たようなものだった。
彼女もこんな思いだったのだろうかと、鬼灯は別れたばかりの相手に思いを馳せる。
軽薄に彼女に接したつもりはないが、誠意が足りなかった点では白澤と何ら変わりはない。
愛してやれないことは分かっていた。なのに、捨て身でひとを恋うる彼女のひたむきさに、自分がそうできないからこそ、突き放し切ることができなかった。
白澤の言う通り、きちんと優しくできないのなら関わるべきではなかったのに、ほんのわずかな一時でもよいと乞う彼女の目を見ているうちに、心が揺れた。
実に忌々しいが、神獣の推測は全て当たっている。彼女の告白を受けた時、鬼灯は彼女の中に自分を見たのだ。
そして、捨て身でぶつかってきた彼女とそうできない自分を対比して、彼女の蛮勇とも結うべき勇気に敬意と憧憬を抱いた。
だが、そんなものは愛情でも何でもない。それが分かっていたからこそ――彼女を振り切れなかったことに少なからぬ罪悪感があったからこそ、精一杯に大事にしようと努力はした。現世に出張に行った際にも美しい珊瑚の簪を見かけて、似合いそうだと買い求め、贈りもした。
けれど、そこには彼女が真実求めるものが、決定的に、どうしようもなく欠落しており、それを埋めることは鬼灯には決してできなかった。
どこまでも一方通行だった男と女。
そんな関係に耐えられなくなったのも当然だと鬼灯は思う。
ひとに言わせれば、自分から乞うたくせに半年で根を上げるのかという謗りになるのかもしれない。だが、それはありとあらゆる手段で想いを伝えても報われない苦しさを知らない者の感想だ。
自分が彼女の立場であれば一月たりとも耐えられないからこそ、別れを告げた彼女の気持ちは鬼灯には実によく理解できた。
「もっとも、私ならボコボコに殴ってますがね……」
今夜だって、たかが戯言一つに激昂する自分を止められなかった。知ってか知らずか、こちらの想いを嬲るような言葉を吐く駄獣を縊(くび)り殺してやりたいと本気で思った。
これほど激しい怒りを覚えたことは、鬼になって以来、記憶にない。真心を抱く者にとって、当の相手からの虚言ほど心を傷付け、神経を逆撫でするものはないのだ。
だが、彼女が最後まで怒りを見せなかったのは、女性ならではのしなやかさだろうか。彼女の一流の矜持だろうか。
綺麗なひとだった、と思う。だが、それ以上には想ってやれなかった。そのことを心底申し訳なかったと思わずにはいられない。
自己憐憫と同情と。そんな浅ましいものしか、彼女には向けてやれなかった。
だが、そんなものでも欲しいと気の迷いを生じてしまうのが恋情の恐ろしさだ。
僅かでも自分を見てくれるのなら。
ほんの短い時間だけでも、存在を独占させてくれるのなら。
それだけで全てが報われると錯覚してしまう。
真実欲しいものは違うのに、憐れみだけでも良いと自分で自分を騙してしまう。
それを押し留めるものは唯一つ。意地という名の矜持だ。
彼女は一瞬、己の欲に負けた。だが、半年で己の矜持を立て直した。その潔さ、強さが美しかったと心の底から思う。
比べて、自分は。
「最初から諦めているのは、潔いとは言わないだろうな」
得られないと分かっているから、欲しいとは口にしない。それはひどくずるい。
だが、想い想われることができないのであれば、そんな感情など押し殺して、せめて対等でありたかった。
否、鬼と神獣では最初から格が違う。だから、対等である振りをしていたかったというのが正しい。
幸いとでも言うべきか、鬼灯が挑発すれば、あの神獣は直ぐに意地の張り合いに乗ってくる。罵詈雑言の応酬をしている間は、対等であるかのように錯覚できる。それで、ここまでの千年はやってこられたのだ。
だが、ここから先は。
今夜のことを思い返し、しかし、問題ないと鬼灯は自分に言い聞かせる。
「変わるはずなどないでしょう」
どういうつもりでかは分からないが、あの告白が真実であるはずがない。だとすれば、関係が変わる要素など何一つ存在していない。
白澤は白澤で、自分は自分で。
これからも、これまでと変わることなく時を過ごしてゆけるはずだった。
そう考え、ちり……と痛む胸の奥のことは無視して、鬼灯はずっと座り込んでいた床から立ち上がる。そして、軽く衣服を払い、部屋の奥へと向かった。
少し気分をすっきりさせようと、着替えを手に大浴場へと足を運び、一風呂浴びる。
だが、洗い髪を手ぬぐいで拭いながら自室に戻ってきても、頭の中を締めるのは今夜の一連の出来事ばかりだった。
初めて向けられた気のする、真摯な深い色の瞳。
お前が好きだと真っ直ぐに告げた、よく透る心地よい声。
その全てが真実であってくれたなら。
どうしても、そう考えずにはいられない。
だが、彼に想われる要素が自分に何一つないことは良く分かっていた。自分は女ではないし、可愛げのかけらもない。第一、あの神獣との間に優しいものを築こうと努力したことなど一度もない。
大嫌いだと公言し、暴虐の限りを尽くし。その結果、彼が他の誰にも向けない険悪な表情と暴言を向けてくる。それでずっと満足してきたのだ。
本当にこれが自分かと呆れるほどに情けなく、愚かしい。
だが、それでも。
「私は貴方が……」
言葉は声になりきらず、夜の静寂(しじま)に溶けて消える。
まなざしを伏せ、唇を固く閉ざして、鬼灯は濡れ髪を乱暴に拭う。
今はただ、朝まで何の夢も見ずに眠れることを願うしかなかった。
to be contined...
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