星の還る処 −終章−
「お前さぁ、なんでまだ居るの」
うららかな桃源郷の午後。
木陰で本を読んでいた鬼灯は、前触れなくやってきてどさりと隣りに座った白澤へ、しんと静かなまなざしを向けた。
「いけませんか」
「いけなくないけどさぁ。でも、僕たちが結婚してからもう一億年が経つってお前、分かってる?」
「そりゃ自分のことですから」
「うん。ホント、なんでお前、まだ居るの」
膝を抱え、そこに顔を埋めて、はぁと大きな溜息をつく。
その心理は分からないでもなかったが、しかし、即座に反応してやるほど鬼灯は親切ではない。だから、一番意地の悪いことを口にした。
「浮気ができなくて困ってるんですか」
「馬鹿。そんなわけあるか」
「まぁ、確かに良くもってますよね。本当にこの一億年、一度も浮気してないんですから」
「だから、お前しか要らないって、何千回言わせれば気が済むんだ」
「言ってくれとは頼んでません。あなたが勝手に言ってるんです」
「お前、本当に冷たい」
「今更でしょうが」
一億年経っても変わらぬ悪態の応酬をしつつ、仕方がないと鬼灯は読んでいた本にしおりを挟んで閉じた。
現世ではとっくに消滅している紙の本が、あの世ではまだこうして普通に読める。昔ながらの書物が好きな鬼灯にとっては、実にありがたいことだった。
「それで、私がまだ居ることが何なんです?」
ようやくまともに尋ねてやると、白澤は抱えた膝に顔を埋めたまま黙り込む。
こうなると急かしても仕方がないことを鬼灯はもう知っていたから、彼がその気になるまでと空を見上げた。
一億年が経って現世は相当に様変わりしたのに、桃源郷の空は何も変わらない。うららかで眩しくて、背後の桃林からは囀り交わす小鳥たちの鳴き声が賑やかに聞こえる。
そして鬼灯自身もまた、初めて白澤と愛し合った時と同じ姿のまま、何一つ変わりはなかった。
「……一億年も傍に居てくれるなんて、思ってもみなかったんだよ」
やがて、ぽつりと白澤が口を開く。
「お前は絶対、そのうち居なくなるだろうと思って、ものすごく覚悟したのに。昔、話しただろ。お前がいなくなったらきっと狂うって。でも、お前が許してくれるって言うから、じゃあ、お前のいた世界を壊さないよう僕も頑張ろうって決めて。なのに、何でまだ、お前は居るんだよ」
「そりゃ、貴方の伴侶だからでしょう」
「―――へ?」
鬼灯がさらりと答えれば、白澤は間抜けな声を出して顔を上げる。そのきょとんとした顔に、どうやらこの神獣様は本気で気付いていないらしいと鬼灯は踏んだ。
天上の獣である白澤は元来、細かいことを気にしない。気が向けば研究者肌が顔を出すが、平常は至って極楽蜻蛉である。おまけに、時間の流れに対する感覚が大層鈍い。
だから、鬼灯がもう随分と長く傍にいることについても、深いところまでは考えが及んでいないに違いないと、前々から見当はつけていた。
だが、それが現実となると、溜息が込み上げてくるのを抑えようがない。
「貴方、本当に馬鹿ですね」
「なんでだよ!」
「考えてもごらんなさい。貴方は神獣でしょう? その身体は神力の塊であって純粋な意味での肉体ではない。しかも世界に只一匹の存在なのだから、本来は生殖の必要もない。だったら、その身体から吐き出されるものは何です? 私に注がれ続けているのは?」
「……神力……」
「はい、正解。それが私の鬼としては異常に長い寿命の答えですよ」
謎解きをしてやれば、白澤は呆然とした顔になる。
「ええ……。そんな理由?」
「他に説明がつかないでしょう。私はとっくに考えてましたよ」
一億年というのは鬼にとってもさすがに長い。鬼灯が鬼と化してから長い間知己だったひとびとも、十王や神族を除いては既に居なくなって久しい。
だが、その中で鬼灯だけはひとり、外見が老いることも力が衰えることもなかった。
最初のうちは、並外れた気力の強さが原因かと思われたが、やがて、それだけでは説明がつかなくなってきた。それで考えて出た結論が、白澤のせいだったのである。
「私の人としての魂は、鬼火によって足りない部分を補われています。鬼火は燃料みたいなもので、長い長い時間のうちには消費されてしまいますが、そこに毎日のように力の補給があったら?」
「……補給がある限りは、永遠に……生きられる?」
「おそらく」
うなずき、白澤の間抜けた顔を見て鬼灯は眉をしかめた。
「何です、その顔。嫌だったら離婚すればいいんですよ。貴方がそんな真似をしたら私はぶちキレて暴れますが、貴方が逃げたら追う術はないんですから」
「はぁ!? 離婚なんかするわけないだろ! てか、嫌じゃないし! どっちかっていったら嫌になるのは、お前の方じゃないのか!?」
「なんで私が嫌がらなきゃいけないんです」
「え。なんで、って……。だって、お前はもともと人間なんだし、永遠の命なんか望んでないだろ。なのに、このままじゃ僕といつまでも一緒に……」
「それの何が悪いんです」
「何が、って……」
重ねて問い詰めてやると、白澤は心底困った顔になる。それは泣きたいような表情にも見えて、鬼灯は溜息をついた。
「白澤さん」
「……何」
「私は貴方が好きだから、貴方と結婚したんです。そしてそのまま一億年も一緒に居るんです。そういう私に永遠云々を訊きますか?」
「……鬼灯」
情けない顔をした神獣を見つめ、きっぱりと鬼灯は告げる。
「永遠上等ですよ。貴方が私の手が届かないところへ逃げない限り、この世の終わりまで私は貴方と一緒に居ます」
「鬼灯」
「何です」
「本当に……お前、それでいいのか……?」
問う白澤の顔は、泣きそう、ではなく、泣く寸前の顔だった。
本当に馬鹿だなと思いながら、鬼灯はうなずく。
「好きなひとと一生一緒に居る。それの何が悪いんです?」
「……悪くない。悪くないよ」
そこまで言うのが限界だったのだろう。
顔をくしゃりと歪めた白澤は両手を伸ばす。そして鬼灯を強くかき抱いた。
「鬼灯……っ」
まるで溺れるひとがするように白澤は鬼灯に縋り付く。決して離すまいと、きつくきつく鬼灯を抱き締める。
「鬼灯、鬼灯、鬼灯……っ」
必死に名を呼ぶ声が涙に濡れていく。痩身が激しい嗚咽に震える。
それらのすべてを鬼灯は黙って受け止め、白澤の背に両腕を回した。
自分はここに居ると……決して居なくはならないと知らしめるように強く抱きしめてやれば、更にぎゅうと白澤の腕の力が強くなる。
そして白澤は、震える声で言葉を紡ぎ出した。
「居ないと……思ってたんだ。死ぬことのない僕と一緒に存在し続けてくれるものなんて……。世界に神族はいっぱいいるけれど、同族という意味では、僕は世界に唯一の存在なんだ。だから、僕は世界の終わりまで独りきりなんだと……」
これまで決して語ったことのない心を綴る言葉は、ところどころ嗚咽に途切れる。
その声を、響きを、鬼灯は何にも代えがたく、愛おしく思った。
「お前と出会って、お前を愛して愛されて。この一億年は全然寂しくなんかなかったけど、でもいずれ、お前も居なくなるんだと、ずっと思ってたんだよ」
「ええ。私もそう思ってましたよ。いずれは貴方を置いて逝かなければいけないのだと」
泣きじゃくる白澤の背を撫でながら、鬼灯も想いを打ち明ける。
同じように、これまでは告げなかった――告げる機会のなかった一番大切な想いを。
「いつか、貴方が夢の話をしたことがあるでしょう? もうずっとずっと前、私たちが結婚した頃に貴方が見た、私が死ぬ夢の話。あれを聞いた時、私は現実になればいいと思いました。
転生できれば、少なくとも魂だけは貴方に何度でも出会ってあげられる。それは一つの形の永遠に成り得るだろうと。世界の終わりまで続く貴方の孤独を、僅かなりとも埋めてやれるだろうと」
「鬼灯……」
「だから、貴方の傍に居ることで自分の命が延びているのかもしれないと気付いた時は、本当に嬉しかったんです。貴方に必要とされる限り、私は貴方の傍にずっと居られる。貴方の愛情が……私の命を繋いでくれる」
肉体を持つ生き物が死ぬのは当然であり、その世界の摂理に逆らえるものは本来、ありはしない。
だが、その摂理を捻じ曲げるほど、最愛の天の獣が自分を求め、愛していてくれる。そう気付いたとき、鬼灯は呆然とすると同時に魂が打ち震えるのを感じた。
心底愛されているのは分かっていた。だが、所詮は神族の愛情である。人の子であり鬼である自分には理解が及ばない部分があるとずっと思っていたのを、突然、目に見える形で突きつけられたのだ。
世界に在り続けることを願い、存在を傍にとどめ続ける。そう言葉にしてしまえば、神の力を持つ者のエゴであるのかもしれない。
我儘な子供が、お気に入りの玩具を手元に置こうとするのと変わりないのかもしれない。
そのために費やす力も、彼の力の総量に比べれば微々たる量の行使であるのかもしれない。
だが、神々から見れば取るに足らない有限の命しか持たない生き物にとっては、それはとてつもない力であり、とてつもなく大きな愛情だった。
ずっと傍にあって欲しいと願い、自らの力を削って命を吹き込み続ける。
そんな風に……そんなにまでも彼は自分を愛してくれているのかと理解した時、鬼灯の頬は自然に涙で濡れた。
ただ嬉しくて、幸せで、愛しくて。
今その時のことを思い出しても、胸が、目の奥が、ひどく熱くなる。
込み上げるものを懸命に押し殺しながら、鬼灯はゆっくりと腕の力を緩め、二人の身体の間に少しだけ隙間を作る。
そして、まっすぐに白澤を見つめた。
「私だって覚悟はしてましたけど、でも叶うことなら永遠に貴方と一緒に居たいと思ってました。それくらい、愛してるんです。本当に……貴方を愛してるんです」
そう告げた眦から、堪え切れなかった雫がとうとう一粒、転がり落ちる。
「鬼灯」
白澤もまた、透き通った水晶珠のような涙を零しながら、鬼灯の頬を両手でそっと包み込んだ。
「鬼灯。僕も愛しているよ。いくら僕が神獣だとはいえ、全身全霊で願わなければ、命を延ばすほどの力を与えることなんてできない。
僕は多分、お前を愛し過ぎたんだろう。お前を愛するあまり、無自覚にお前の命の長ささえ変えてしまったんだ」
でも、と白澤は続ける。
「お前は僕を許してくれるんだね。この愚かな僕を。そして、こんな僕を――」
「愛してます。永遠に」
躊躇うことなく鬼灯は告げた。
「その姿も、本性の姿も、へらへらと能天気に笑っているところも、全部丸ごと好きです。そういう貴方と、これからもずっと一緒に居たいんです」
「――うん。僕もだよ。お前の乱暴なところも口の悪いところも、全部ひっくるめて愛してる。世界の終わりまで、僕と一緒に居て欲しい」
そう言い、白澤は鬼灯を見つめる。
「前みたいにいい加減なのじゃなくて、きちんと言うよ」
「鬼灯、僕と結婚して欲しい。僕の伴侶になって、この世界が終わるまで僕と一緒に居て欲しい」
「はい。貴方がもう嫌だと言っても、絶対に離れてなんかあげません」
改めて求婚の言葉を告げ、それに答えて。
二人は涙に濡れた顔のまま、どちらともなく小さく笑う。
そして互いを抱き締め、深く唇を重ねた。
やわらかく舌を絡ませ合い、余すところなく触れ合う。与え与えられ、愛し愛されて。永遠に続くかと思われるほど長いキスを交わす。
とうとう息が上がり、耐え切れなくなったところで、やっと二人は唇を名残を惜しみつつも離した。
そして白澤は、すべての曇りを拭い去った晴れやかな顔で鬼灯を見つめる。鬼灯もそんな白澤をまっすぐに見つめ返した。
「これで本当に、永遠に一緒だ」
「望むところです」
互いの涙をぬぐい合い、白澤は宝物を抱き締めるかのように大切に鬼灯を両腕で包み込む。
その温かさに鬼灯は目を閉じ、白澤の背をぽんぽんと優しく叩いた。
「まぁ、そう言っていながら、明日いきなり消滅するかもしれませんけどね」
「はぁっ!? やめろよ、そんな冗談!」
「だって、先のことなんて分からないですよ。今、私が言ったのだって単なる憶測ですし」
「お、ま、え、なあ……!」
「何です?」
しれっと問い返せば、白澤は言葉に詰まる。そして、諦めたかのようにぎゅうぎゅうと鬼灯を抱き締めた。
「いいよ、もう。お前なら何でもいい。全部愛してる」
「自棄ですねえ。でも、もうチェンジは利きませんよ」
「しないよ!」
そればかりは断言し、白澤はゆっくりと息を吐き出した。
そして鬼灯を抱き締めたまま、ふふっと嬉しげに笑う。
「この先もずっと、僕たちはこんな会話をしてるのかな」
「してるんでしょうね。一億年後も十億年後も」
「この世界が終わるまで?」
「この世界が終わるまで」
断言し、断言されて。
二人はまた小さく笑う。
「ずっと一緒に居ましょうね」
「うん、ずっと」
そして二人は互いの温もりを感じたまま、目を閉じる。
小鳥たちの美しい囀りの中、緩やかに桃源郷の風が吹き抜ける。
永久に変わらぬ桃の香りのする風が、寄り添いあう一匹と一人の頬を優しく撫で、そしてやわらかに通り過ぎた。
在天願作比翼鳥
在地願成連理枝
天長地久有時盡
此恨綿綿無絶期
(願わくば、天に在っては比翼の鳥となり
地に在っては連理の枝となりますように
天地にいつか終わりの時が来ても
この恋が終わることは決してないでしょう
(愛しい愛しいあなたと、
世界の終わりまで、どうか永遠に。))
出典:「長恨歌」李白 抜粋
End.
<< PREV