星の還る処

 星がよく光る空の下を、鬼灯はゆっくりとした足取りで歩く。
 桃源郷の夜は実に美しく満ち足り、時折緩やかに吹き抜ける風は生ぬるい。
 正確には、桃源郷の気温は暑くも寒くもなく、実に心地良い体感温度である。しかし、炎熱の地獄である八大に慣れた鬼灯に言わせると、生温かい、ということになるのだった。
 ともあれ、小夜鳴鳥のような美しい小鳥の歌う声が細く遠く響き合い、それに声の良い虫が唱和する中を、月明かりに照らされた道をてくてくと歩く。
 やがて視界の先に、月の光を受けて白く輝いている桃林の傍ら、鄙びた木造の建物がぽつりと現れる。それが桃源郷随一、否、おそらくは三界随一の漢方薬局である極楽満月だった。
 温かな色の光が窓から豊かに零れ落ちるそこを目指して、鬼灯は、闇に光るような花びらがひらひらと風に吹かれて舞う中を歩く。
 そして、辿り着いたその扉を引き開けると。
「おかえり、鬼灯」
 明るく穏やかな声が鬼灯を出迎えた。
「ただいま戻りました」
 鬼灯が挨拶を返せば、料理中だったらしい白澤は杓子片手に微笑む。
「お疲れさん。すぐ御飯にするから、手を洗ってこいよ」
「はい」
 扉を開けた瞬間から鼻腔に飛び込んできたのは、食欲中枢を刺激する何とも良い香りである。是も非もなく鬼灯は洗面所に向かい、言われた通りに手を洗って台所へと戻った。
 この薬局の主である神獣白澤は、今日もいつもと変わらぬ風情でコンロの前に立ち、実によい手際で料理を仕上げている。
 傍らに鬼灯が立つと、美味そうな匂いが立ち上る中華鍋の中の菜を大皿に移し、ほい、と手渡した。
「今日は市場にいい魚が入ってたから、香糟魚片にしてみた」
 淡水魚の切り身をタケノコやキノコ類、野菜と共に油通しして、黄酒に酒粕、塩、砂糖、金木犀の花の蜜漬けを混ぜて風味をつけた汁で葛引き(葛粉でとろみをつけた餡をかけること)にする。実に風味豊かな山東料理だ。
 本当なら、四川風にうんと辛い揚げ煮にしたかったんだけどね、と笑う白澤は、鬼灯と一緒に暮らすようになってから激辛料理は一切作らなくなった。
 どうしても辛いものを食べたい時は、先に鬼灯の分を取り分け、それから自分の分にだけ豆板醤だの唐辛子の輪切りだのをたっぷり加えるのだ。
 辛いものが苦手な鬼灯にしてみれば、真っ赤な料理など目にするのも嫌というのが正直な思いである。しかし、それを口に出せば、白澤のせっかくの気遣いも台無しになる。ゆえに、何も言わないのが常だった。
 ざっと見渡したところ、今夜も一品、やたらと赤い料理がある。あれには箸を触れるまいと思いながら、鬼灯も配膳を手伝った。
 大皿に盛られた主菜の香糟魚片以外にも、幾つもの皿や碗が今夜もテーブルを色彩豊かに彩る。
 豚の骨付き腿肉を醤油と砂糖でこってりと煮た万三蹄、卵白に鳥のすり身を加えたふわふわの浮き身のスープ、榨菜や干しエビを叩いたもので味付けした青菜の炒め物、細切りした蒟蒻を甘辛く炒め煮にしたもの――これのうち半量が唐辛子で赤く染められていた――と、どれもこれも実に食欲をそそる色合いであり、香りを漂わせている。
 白澤の作る料理は、日によって和風だったり洋風だったり実に様々だが、今日は本来の腕を振るいたい気分だったらしい。久しぶりに本格的な中華料理で統一されていた。
 かといって、地域は特定せずに大陸全土のあちらこちらの料理を取り混ぜ、更には鬼灯の好みを考慮して、焼餅(小麦粉で作った丸くて平たいパン)ではなく日本風に炊いた白米を用意してある辺りが、なんとも白澤らしいと鬼灯は思う。
 長い長い歳月、地上を見守ってきた神獣にとっては、日本だの大陸だのという区分けすら本当は小さすぎるのだろう。良いと感じたものは何でもかんでも受け入れてしまう彼らしい食卓だった。
「よし、食おうか」
「はい」
 向かい合って座り、いただきます、と手を合わせるのは日本風だが、鬼灯が桃太郎を紹介する以前から、白澤は食前は常に手を合わせていた。
 おそらくは、生命に感謝するという異国のこの風習が気に入って、ずっとそうしているのだろう。
 そして、神獣である彼は本来、食物の摂取など必要ないはずなのだが、美味しいことは善いことだとばかりによく食べる。桁外れの健啖家である鬼灯には及ばないが、今夜もまた、自分が手掛けた料理を実に楽しそうに口に運んだ。
 鬼灯も負けじとばかりに、ほわほわと湯気を立てる料理に手を伸ばす。
「お前、万三蹄、好きだよね」
「ええ」
 肉は何でも骨付きが美味いと決まっているし、それを砂糖と醤油でこっくりと煮込んであれば、不味いはずがない。大鉢いっぱいの骨付き肉を鬼灯が次から次に白い骨のみにしてゆくのを、白澤は面白げに見やった。
「ま、そんだけ食ってくれると、僕としても作り甲斐があるからいいよ」
「はい」
 こくりとうなずき、またしばしの間、鬼灯は肉に集中する。
 そして、空っぽになっていた胃がやっと少し落ち着いたところで、ぽつりぽつりと今日一日のことを話し始めた。
 今日の閻魔庁での裁判のこと、獄卒たちのこと。あまり脈絡はなく、思いついたままに語る鬼灯の話を白澤は面白げに聞き、時には茶化し、時には意見を述べる。
 今夜も、とある部署の責任者から受けたという相談の内容に白澤は耳を傾け、料理をつつく箸の手を休めて首をかしげた。
「それはさ、仕事に対する不平不満とはちょっと違うんじゃないの? むしろプライベートの問題を引きずってる感じがするぜ、お前の話を聞いてると」
「貴方もそう思いますか」
「うん。お前がそう感じて話してるのなら、それを受けてるからかもしれないけどね。でも、その子の言った言葉だけを繋ぎ合わせても、どうもプライベートの人間関係に問題がある感じがするよ」
「ええ。だから仕事中も無闇に亡者に当たるような真似をしてる気がするんです。亡者を呵責するのは獄卒の務めですが、あくまでも仕事としてやってもらわないと困るんですよ。職場はストレス発散の場じゃないんですから」
「そうそう。でも、お前も大変だね。そんな訴えまで聞かなきゃいけないなんて」
「指導のためのアドバイスが欲しいと言われては、無碍にはできません。これくらいのことは現場でどうにかしてほしいのが本音ですが」
 溜息をつきつつ、鬼灯はふわふわの浮き身のスープを匙ですくう。
「うん。何にせよ、お疲れ様」
「はい」
 うなずき、そしてまた二人は他愛のない会話を続けながら、皿の上のものをすべて綺麗に胃の腑に収めた。
「御馳走様でした」
「お粗末様でした」
 再び両手を合わせ、片付けのために二人は立ち上がる。だが、すべての食器を流し台に運んだところで白澤は、もういいよ、と鬼灯の手を止めさせた。
「片付けは僕がやるから、風呂に入っといで。疲れた顔してる」
「別に洗い物くらい……」
「大した量じゃない。お前が風呂に入ってる間に終わるよ」
 二人で同じことをやっても仕方がないだろう、と諭されて、鬼灯は眉をしかめる。
 白澤の物言いはもっともらしく聞こえるが、一緒に皿を洗い、一緒に風呂に入れば、それぞれに時間短縮になる。別々に行動するのと、さほど時間の差が生じるわけではない。
「別に全部一緒にやったっていいでしょう」
「まぁ、そうだけど」
 譲らない鬼灯を見やり、白澤は溜息をついた。
「ちょっとでも早く休ませてやろうっていう僕の優しさなんだけどなぁ」
「気持ちだけ、ありがたくいただいておきます」
 心遣いは嬉しいが、二人しかいない家の中で、自分だけ先に寛ぐというのはどうにも落ち着かないものである。
 鬼灯がさっさと袖をたすき掛けにして洗い物を始めると、白澤はもう一度小さく溜息をついた。
「頑固者」
 仕方ないなぁと呟きを鬼灯に投げてから、白澤は台拭きを洗って固く絞り、食卓やコンロ周辺を拭き始める。
 その仕事は手際よくも丁寧で、鬼灯が中華鍋や鍋などの大物を含めて洗い物を終える頃、やっと白澤も自分の仕事を終えた。
「明日は何食いたい?」
「あり合わせでいいですよ。休みですから私も手伝えますし」
「うーん」
 何にしようかなぁ、と言いながら白澤は三角巾を外す。そして鬼灯を見やった。
「風呂に行く?」
「行きます」
 八大地獄の暑さに慣れている鬼灯は、一日中閻魔殿に居てもほとんど汗をかかないが、一日の疲れを癒すのに風呂に勝るものはない。ましてや、極楽満月の風呂は源泉かけ流しの露天風呂である。
「じゃあ、先に行ってて。風呂上りに飲むもの用意してから、僕も行くから」
「はい」
 今度は逆らわずに鬼灯は表へと出て、建物を回り込んで裏にある風呂場へと向かった。
 着替えもタオル類も全て置いてあるため、何を持っていく必要もない。そのまま東屋でするすると着物を脱ぎ、洗い場で体と頭をざっと洗ってから、湯船へと身を沈めた。
 心地よい熱さの湯に全身を浸すと、じわじわと熱が皮膚の表面から深い部分へと浸透してくる。その何とも言えない快さに目を閉じていると、洗い場の方で水音がして、程なく白澤が隣りにやってきた。
 互いにちらりとまなざしを交わしたきり、特に言葉もなく背を岩壁に預けて空を見上げる。
 降るような星は相変わらず数が多すぎて、星座を結ぶことができない。だが、一際明るい星の配置をどうにか見て取って、そうか、今は初夏なのだなと鬼灯は思った。
 職責上、当然ながら日々の暦は把握しているが、あの世には原則として四季がない。
 桃源郷が年中春であるのと同様に、八大地獄は年中夏の蒸し暑さであり、八寒地獄は年中真冬の極寒である。そこにいると自然、浮世の季節の移ろいには鈍くなってしまう。
 情緒のないこと極まりないが、鬼灯にとっての暦の移り変わりとは、地獄の繁忙期と自他の休暇を示すものでしかない。
 だが、本当はそうではないのだと知れるのが、この星空を見上げるひと時だった。


 鬼灯が、ここ極楽満月で白澤と一緒に暮らし始めたのは、まだ最近のことである。
 白澤のプロポーズを受け入れたのは、今から数えて十年ほども前のこと。多すぎる仕事を整理して、いずれは一緒に暮らそうと言われたのも、その時だった。
 白澤の提案は、どの角度から見ても悪いものではなかったから、鬼灯も同意はした。
 だが、既に数千年の間、日本地獄は鬼灯のほぼワンマンで回っていたのである。
 閻魔大王や極卒たちはその形に慣れ切っていたし、鬼灯自身も、いざ仕事を手放すとなると、それが些細なことであってもいちいち戸惑わずにはいられなかった。
 なにしろ、どんな仕事であれ突発的な問題であれ、鬼灯が出向いて判断し、処理をつけるのが一番早いのだ。だが、そんな片付け方をしている限り、いつまでたっても鬼灯の負担が減ることはない。
 意を決して鬼灯は、自らの下に多人数からなる実務集団を組織し、人材を選抜して育成し、自分が抱え込んでいた膨大な仕事を一つ一つ、彼らに委譲していった。
 極卒たちも最初こそ戸惑っていたが、途中、白澤が「あいつの仕事がもう少し減ったら一緒に暮らせるんだけどね」と酒の席で苦笑交じりに零したことで、二人が新婚なのに別居を強いられているということに気付いたらしい。
 一丸となって『鬼灯様を楽にして差し上げようキャンペーン』を張り、それからは鬼灯の改革も一気に速度が上がった。
 だが、亡者の裁判から地獄の管理、果ては総務経理まで閻魔庁の全分野を一人で切り回していた鬼灯の代わりとなる組織など、一朝一夕でできるはずもない。
 数多の困難や混乱を乗り越えて改革が実り、すべてが恙無く回り始めるまで、およそ十年の月日が必要だった。
 そして、やっとこの年度の初め、鬼灯は長年住み込んでいた閻魔殿から部下たちの手によって半ば強制的に送り出される形で、極楽満月に住まいを移したのである。
 以来、鬼灯は規則正しく週一回の休日を取り、残業はあっても日付が変わるまでに帰宅する、至極健全な生活を送っているのだった。


「こうして毎日のんびり風呂につかるなんて、前は夢のまた夢でしたもんねえ」
「そうだな」
 星を見上げながら呟くと、白澤が笑って同意する。
「一応、風呂には毎日入ってましたけど、忙しい時は湯船につかる暇なんてなかったですからね。比べたら、今の生活は本当に贅沢ですよ」
「普通に健全な生活をしてるだけだろ。贅沢と感じる方がおかしい」
「まぁ、そうなんですけど」
 鬼灯が肩をすくめると、ちゃぷりと水音が響いた。
「でも、今から思うと、私が仕事を全部抱え込んでいたのは、やっぱりおかしかったかなと思うんですよ」
「ふぅん?」
 興味深げに相槌を打つ白澤は、しかし、おそらく以前から分かっていたのではないかと鬼灯は思う。
 有能な部下が居ないわけでもないのに、膨大な仕事を一人で抱え込んでいるのは、やはり組織構造としては歪なものだ。外側にいた白澤には、その歪さが早くから見えていたはずである。
 だからこそ、一緒に暮らすという名目をつけて、鬼灯に意識改革を促した。そんな気がしてならないのだ。
「長い間、仕事をすることが自分の存在意義になっていたように思うんです。そうすることが自分の役目というか、義務だと信じていたというべきか……」
「前に言ってたもんな。子供心にも黄泉のために尽くそうと思ったって」
「ええ」
 十年前に聞かせた昔語りであっても、白澤にとってはつい最近の記憶なのだろう。鬼灯がかつて紡いだ言葉を、鮮やかに彼は蘇らせる。
「その決意で自分を縛っていた、ってとこか?」
「全てではないですけど、そういう一面があったことは否定できません」
 なにも、脅迫的な観念だけで自分が仕事を抱え込んでいたとは鬼灯も思わない。そこまで病的な精神状態であれば、少なくとも誰かが気付き、指摘するはずだからだ。
 鬼灯は間違いなく、好きで第一補佐官の仕事を勤めていた。それは強く断言できる。
 ただ、仕事中毒となった原因のうちのほんの僅か、根底の部分に、幼い頃に満たされなかった欠落を埋めようとした小さな欠片があった。それは否定しきれない事実だとも思う。
「私は自分の居場所が欲しかったし、孤児であることを理由に馬鹿にされない自分になりたかったんです。そういう私にとって、閻魔大王の第一補佐官という地位は望めるうちの最高の立場でした。別に、そんな野心を持って昇進しようとしたわけでもないですけどね」
「お前が抜擢されたのは大王様の判断だろ。聞いてるよ、最初は改革を手伝ってもらうための参謀役のつもりで抜擢したけど、あんまりにも仕事ができるから、伊邪那美様の代わりになってもらうことに決めた、ってさ」
 分かっているよと、白澤の声は穏やかだった。
「大王様は嬉しそうだったよ。ずっと前にちょっとだけ話した鬼の子が儂のことを覚えててくれた。儂が提案した名前を名乗っていてくれた。しかも、とっても賢くて仕事のできる子でね、若いのにすっごく頼りになるんだよ、って。いつも聞かされてたよ」
「……そんなことを……」
 あのアホ大王、と鬼灯は呟く。だが、白澤は笑ってそんな鬼灯をいなした。
「大王様はお前が可愛いんだよ。あの方にとっては息子も同然なんだろうな。それが分かってるから、お前だって一生懸命働いて尽くしてきたんだろ」
「――――」
「確かにお前がワーカホリックなのは、役に立たなければ居場所がなくなる、生きることさえ許されなくなるという幼児期の刷り込みもあるだろうよ。でも、その影響は些細なもんだ。お前はそんなに弱くない。
 僕が見ていたお前は、いつだってとても楽しそうに仕事をしていたよ。働くことが好きで、大王様が好きで、黄泉の世界が好きだから、お前は骨身を惜しまず献身してきたんだ」
「……分かったようなことを」
「分かってるんだよ」
 笑い、白澤は鬼灯に向かって手を伸ばす。そっと唇に落とされる口接けを、鬼灯は言葉とは裏腹に抗うことなく受け止めた。
「呆れるくらいタフで仕事中毒で、あの世の皆を大好きなお前が好きだよ」
「……まぁ、褒め言葉として聞いておいてあげます」
「うん」
 鬼灯が何を言っても、白澤は笑うばかりである。諦めて鬼灯は再び空を見上げた。
 満天の星を絶望と共に見上げたのは、もうずっとずっと昔の話だ。今でもあの時を思い出すことは稀にあるが、感情の区切りはついている。
 大焼処地獄に繋いである故郷の村人たちを解放する気にはまだなれないものの、いずれは、という思いは浮かびつつある。それは執念深い鬼灯にしてみれば、驚異的な気持ちの変化だった。
 こうして自分を振り返り、感情の起因を一つ一つ冷静に考え、受け止めてゆけるのは、やはり独りではないからなのだろうと思う。
 今の鬼灯の周囲には様々なひとがいるが、分けても白澤の存在は大きい。
 恩人でもある閻魔大王とはまた違う立ち位置で、すべてを受け入れてくれるひとがいる。その安心感がもたらすものの豊かさは、どれほど言葉を尽くしても表現することができない。
 あれやこれやを見透かされていると思うと腹は立つが、それでももう、白澤が居ない生活というのは考えられない。
 それが今の鬼灯の正直な思いだった。


 心地よい温度の湯につかっているうち、少しずつ思考は霞み、ぼんやりとした眠気が夜の底から忍び寄ってくる。
 すぐ横には白澤がいて、互いに一糸まとわぬ肌を晒しているが、仕事疲れの鬼灯に彼が無闇に手を出してくることは殆どない。寛いだまま目を閉じると、隣りでくすりと笑う気配がした。
「疲れてるんなら、上がってベッドに行けよ」
「――そうした方が良さそうですね」
 風呂で寝入ってしまったところで、鬼は簡単に溺死などしないが、こんなところで寝ても疲れは取れない。
 溜息をついて重い身体を引きずり上げるように立ち上がると、白澤もまた、立ち上がった。
 東屋に用意されていた今夜の浴衣は、白い地に大胆に金魚と流水を染め抜いた柄で、まるで登り鯉のような勢いで金魚が身ごろに泳いでいる。
 付き合い始めた頃から続く、鬼灯の衣装を誂えたがる白澤の性分は未だに変わりがない。おかげで箪笥の中の浴衣や普段着用の着物の枚数は、いつでもそれぞれ十を超えている。
 そんなにあっても仕方がないのだが、要らないと苦言を呈したところで効き目があるはずもない。鬼灯はとっくに諦めの境地で、とっかえひっかえ袖を通していた。
 寝支度を整えた二人は、そのまま洗面所で並んで歯を磨き、寝室に向かう。
 鬼灯があくびを噛み殺しながら寝台に上がると、それまで特に何も言わないまま傍にいた白澤が、うつぶせになりなよ、と穏やかに言った。
「肩から手と腰、筋肉がほんのちょっと張ってるだろ。さっきから見てたけど、少し動きが悪い」
「……ええ」
 今週は書類仕事が立て込んだせいで、利き手の右も、字を書く時に体を支える左も、それぞれに少々の疲れが溜まっている。そして、上半身に疲れが溜まれば当然、負担は腰や股関節にまで波及する。
 黙って穏やかな目をしていると思えば、そんなことを観察していたのかと眉をしかめつつ、鬼灯は素直に寝台にうつぶせて体の力を抜いた。
「じゃあ順番に調整していくから。ホント、お前は働き過ぎ」
「前に比べれば休みは増えましたよ」
「まぁね。日付が変わる前に仕事が終わって、シフト通りに休めるだけでも上出来だ」
 言いながら、白澤は鬼灯のくるぶしの腱、ふくらはぎと順に触れてしなやかさを確かめてゆく。
 疲れの溜まった筋肉を順番に揉みほぐし、じっくりと緩めてから、骨盤や脊椎のわずかなずれを指先で確かめ、一つ一つ丹念に調整を始めた。
「今週は、あんまり金棒を振り回さなかったんだな。殆ど座ってるか立ってるかだったろ。全然下半身の筋肉を使ってない」
「そうですね」
「もう少し暴れた方が筋肉はほぐれるんだけどなぁ。ここ、ちょっと痛いだろ」
 ぐ、と押された腰の一点に鈍い疼痛が走る。立っているときに一番負荷がかかる箇所だ。
「ま、お前の仕事内容から見れば、よくこれだけ筋肉や骨のいい状態を保ってるとは思うけどね。肩も大して凝ってないし。ホント、鬼は頑丈だよ」
 感心とも面白がっているともつかない口調で言いながら、白澤は鬼灯に深呼吸させ、吐く息遣いに合わせて体重をかけ、僅かな脊椎のずれを治す。
 こんな風に鬼灯が白澤の施術を受けるようになったのは、勿論、二人が付き合い始めてからのことである。
 白澤の言う通り、強靭でしなやかな筋肉を持つ鬼灯は、これまで肉体の不調に悩まされたことは殆どない。
 だが、体の使い方の癖から生じる筋骨への負荷はやはりあるらしく、調整を受けると元より悪くない調子が上々になるため、施術を拒んだことはなかった。
 うつぶせの次は仰向けになり、両手腕の調整を受けると、肩まですっと軽くなる。
 施術の間は集中しているせいか、白澤はあまり喋らない。彼が喋らなければ鬼灯も喋る必要はなく、黙って目を閉じていると、入浴中に迫ってきた睡魔が再び押し寄せてくる。
 抗い切れずにうとうととしていると、いつの間にか時間が過ぎたのだろう。身体にふわりと上かけがかけられる。数秒後、ベッドサイドの蓮の花の形をした貝殻細工のランプが消され、閉じた瞼の向こうがふっと暗くなった。
 そして白澤の温かな手が、さらりと頭を撫でる。
「おやすみ、鬼灯」
 その穏やかな声に、ああ眠っても良いのだなと、心の奥底で納得して。
 鬼灯の意識は、抗うこともなくやわらかな闇に沈んだ。



 やすらかに眠る鬼灯の寝顔を、白澤は優しいまなざしで見つめる。
 眉間の皺もない力の抜けた表情は、起きている時よりも幾らか若く見え、険がない分、顔立ちの端正さが際立っている。
「可愛いなぁ」
 身長は人型の自分と変わらず、ガタイも人型の自分より良い鬼であろうと、可愛いものは可愛い。湧き上がる愛おしさのままに、白澤は鬼灯の髪を梳き撫でる。
 癖のない黒髪はさらさらと白澤の指を流れ、仄かな温もりだけを残す。それがまたいとおしくて、白澤は微笑んだ。
 鬼灯と共に暮らし始めてまだ余り間が無いが、一番良かったと思うのが、この夜のひと時である。
 世界で一番大切な存在が、自分の傍らで安らいでいるのを見守ることができる。その喜びは、これまでに知ったどんな楽しみよりも白澤を満たした。
 無論、共に暮らす以前にも鬼灯の寝顔は散々に見ている。だが、朝になったら帰るのと、毎晩ここに帰ってくるのとでは、様々なことが決定的に違っているのだ。
 ただいま戻りましたと帰ってくるのを、おかえりと迎えてやれる喜び。
 空腹で帰ってきた彼が、家中に漂う美味しそうな匂いに、他の者には分からないほど微かに、しかし、確かに目を期待に輝かせるのを見る喜び。
 その期待が現実になった時の満足げな表情を見る喜び。
 そして、苛烈さで名を馳せる閻魔大王の第一補佐官が、自分の傍らで日向の猫のように寛ぎ、他愛もなく眠ってしまう喜び。
 それらすべてが特別な出来事ではなく、日常なのである。
 共に暮らす伴侶があるということがこれほど幸せだとは、過去の白澤には想像すらできなかったことだった。
 毎日、鬼灯の喜びそうな料理を考え、疲れが見える時には薬湯を処方し、整体や鍼灸の施術をしてやる日々。
 もとより他人に尽くすことは嫌いではない。だからこそ、ずっと昔から漢方薬局をも営んでいる。
 だが、最愛の鬼のために自分の持てる知識技術の全てを尽くしてやれることは、言葉にすることもできないほどの充足感を白澤にもたらしていた。
「そろそろ僕も寝ようかな」
 一晩中寝顔を見ていても飽きないが、神獣といえども休養は必要である。
 熟睡している鬼灯を起こさないようそっと体を横たえ、上掛けを肩まで引き上げる。そしてまた、生涯の恋人の寝顔をつくづくと眺めて白澤は微笑んだ。
「おやすみ、鬼灯。良い夢を」
 さらりと髪を撫で、目を閉じる。今夜もまた、よく眠れそうだった。





           *          *





 翌日、鬼灯が起き出してきたのは、日も高くなってからのことだった。
 寝ぼけまなこのまま、のっそりと寝室から出てきて、あくび混じりに「おはようございます」と呟く。
「おはよう。顔洗ってこいよ」
 とりあえず目を覚ませ、と白澤が笑いながら諭すと、はい……、と鬼灯はぼんやりしたままうなずき、目が覚め切っていない危うい足取りで歩いてゆく。
 そして、そのまま鬼灯は、洗面所入り口の柱に激突した。
 ゴン、と響いた鈍い音に思わず白澤は目を見開くが、鬼灯の立ち位置からすると、柱の角ではなく面で打ったらしい。大して痛みもないのか、額の右端をさすりながら鬼灯は洗面所に消えてゆく。
 唖然としたまま洗面所のドアを見つめていた白澤は、やがて小さく笑み崩れた。
「ホント、朝に弱い奴だよなぁ」
 特に血圧が低いわけでもないのに、鬼灯はとにかく寝起きが悪い。一緒に暮らす以前は、慢性寝不足のせいだと白澤は思っていたのだが、鬼灯によれば、昔から早起きは得意ではなかったのだという。
 仕事のある日は気合で起きるのだという説明を聞いて、つい笑ってしまい、思い切り殴られたのは、それほど前の記憶ではない。
 求婚し、それを了承されてから約十年が経つというのに、まだまだ知らないことがあるのは、何とも楽しい話だった。
「何をニヤニヤしてるんです」
 どうやら顔を洗って目が覚めたらしい。いつもの硬質な声が白澤の耳を打つ。振り返ると、紺の縞の着流しに着替え、すっきりした顔の鬼灯が立っていた。
「いや、結婚してから十年経っても、まだ色々と知らないことがあるもんだよなぁと思ってさ」
「そりゃあそうでしょう」
 何を今更、と鬼灯は呆れたように応じる。
「私ですら五千年以上、生きてるんですよ。十年なんて、そのうちのたった五百分の一じゃないですか。ましてや、最近までずっと別居だったのに、あれやこれやの全部を語り尽くせるわけがないでしょうが」
「だよねえ」
 小さく笑いながら、白澤は粥の鍋を杓子でかき混ぜる。
 生姜や葱などの香味野菜を加え、鶏がらスープで丁寧に炊いた粥は、米粒が綺麗にはぜ、実に美味そうな匂いを立てている。
 その鍋を覗き込み、鬼灯は、くすんと鼻を鳴らした。
「そろそろいいんじゃないですか?」
「うん。お碗、取ってよ」
「はい」
 たっぷり眠って起きた後だ。腹が減っているのだろう。鬼灯は、いそいそと食器棚から粥用の大きな碗を取って白澤に渡す。
 白澤がそれに粥をよそって渡すと、既に他の料理が幾品も並べられている食卓にその碗を置き、箸と匙を並べる。
 そうして用意が整ったところで、二人は席に着いた。
「それじゃあ、食べようか」
「はい」
 いただきますと手を合わせ、夕飯ほど重くはないが、しっかりした献立の朝食を二人はもりもりと食べ始める。
 粥には鶏肉は勿論のこと、野菜や乾物のきのこ類を細かく刻んだ具も入り、上には油条(揚げパン)を砕いたものを散らしてあるため、結構なボリューム感である。
 加えて、もやしの炒め物、蟹のすり身を使った蒸し物、昨夜の万三蹄の残りとくれば、不足などあるはずもない。
 昨夜と同様、他愛のない会話を交わしながらすべてを平らげた二人は、御馳走様でしたと手を合わせ、食後の茶を入れた。
「さてと。今日は何をする?」
「全然考えてませんでしたねえ」
 白澤が問いかけると、鬼灯は首をかしげる。
 一昔前の多忙とは異なり、今の鬼灯は週に一度の休みをきちんと取っている。だから、今日の休みも定期的なもので、突発的な休暇ではない。
 しかし、こういう規則正しい生活を始めて、初めて判明したことだが、鬼灯は案外、自由時間を使うのが下手だった。
 やりたいことが無いわけではない。むしろその逆で、『時間ができたらやりたいこと』を山のように溜め込んでいたため、今となっては何から手をつければよいのか分からない状態なのである。
 そのうち最大の懸案であった蔵書の整理だけは、白澤も手伝って先々週にようやっと片付いた。
 さて次は何をしよう、というのが先週と今週の課題であり、鬼灯は一週間前と同様、思案顔で頭をひねる。
「先週は一日中、本を読んで過ごしてしまいましたし……」
「雨も降ってたからね。あれはあれで良かったよ」
 しとしととやわらかく降る雨の音をガラス窓の向こうに聞きながら、丁寧に入れた茶と茶菓子を沢山用意し、本を積み上げて二人で読書にいそしんだ。
 面白い記述があれば互いに見せ合い、意見を戦わせて。
 ああでもないこうでもないと言い合っているうちに日が沈み、一日が終わった。
 何でもない一日だったが、十分すぎるほどに満ち足りていた。思い返しても、良い休日だったと白澤は思う。
「今日は天気もいいですし……久しぶりに土いじりでもしましょうか」
「あ、じゃあ、陳皮作りを手伝う気、ある?」
「まァそれでもいいですけど」
 柑橘類の表皮を薄く削ぎ、乾かしたものが陳皮で、極楽満月ではマンダリンオレンジで作っている。そのためのオレンジの皮を剥く作業を手伝って欲しいと白澤が告げると、鬼灯は嫌な顔をするでもなくうなずいた。
「あと、棗もそろそろ収穫時期なんだけど」
「いいですよ。それくらいの労働ならしましょう。最近、デスクワークばかりで運動不足ですしね」
「うん、助かるよ」
 多少は体を動かさないと、と言う鬼灯に、白澤は微笑んでうなずく。
 白澤は基本的に、鬼灯の休日の過ごし方については何も言わない。もし鬼灯がのんびり休みたいと言えば、当然、白澤はそれを最優先する。同じように、鬼灯が出かけたいと言えば、白澤はそれに付き合う。
 白澤としては何でもいいのだ。鬼灯が傍に居さえすれば、起きていようが眠っていようが構わない。それで十分幸せなのである。
 鬼灯もそんな白澤の性分を知っているから、主体性がないなどとは決して言わない。代わりに、たまに白澤が二人で何かしたいと言った時は、形ばかりの文句を並べつつも付き合うのが常だった。
「それじゃあ、さっさと洗い物を済ませてしまいましょうか」
「あ、僕がやるよ。お前は動きやすい格好に着替えてきたら」
「……じゃあ、お願いします」
「うん」
 屋外で作業をするとなると、和服の着流しはあまり実用的ではない。今は住み込みから通いになった桃太郎も、普段は裾を絞った括袴姿である。
 一旦、寝室へ引っ込んだ鬼灯は、程なく海老茶色の作務衣に着替えて出てきた。これも勿論、白澤が誂えたもので、模様のない無地の木綿紬だが、仕立てが簡素な分、鬼灯の凛とした雰囲気が際立つ。
 ちらりと見やって自分の審美眼に満足した白澤は、「鬼灯」と声をかけてから、固く絞った台拭きを軽く投げた。難なく片手で受け取った鬼灯は無言のまま、それで食卓を拭き始める。
 いつものことながら、二人がかりでの片付けは直ぐに終わり、白澤は鬼灯から受け取った台拭きを濯いだのを最後に、蛇口の水を止めた。
「はい、終わり」
「じゃあ、どちらから始めます? 陳皮か棗か」
「うーん。棗?」
「了解です」
 白澤も享楽的な性格ではあるが、体を動かすことは嫌いではない。そもそも、物ぐさであったら薬局など開いているわけがないのである。
 ちまちまとした根気の要る作業が好きなのは鬼灯もまた同じであり、その点も似たもの同士の二人は、連れ立って外へ出て、脚立と収穫籠を手に果樹園と向かった。
 棗の木は放っておくとかなり高くなるが、ここのものは実を収穫するために芯を止め、ある程度は枝を切り詰めてある。
 それでもやはり高さは三メートルほどはあり、二人はそれぞれ樹に脚立を立てかけ、登って、熟した実を摘み取る作業に取り掛かった。
「あ、そうだ、鬼灯」
「はい?」
「これさ、お香ちゃんに生のままのを幾らか持っていってあげてよ。前に出してあげたら美味しいって言ってたから」
 干してドライフルーツにすることが多い棗だが、実は生で食べても甘酸っぱく美味しい。
 以前、ちょうど収穫したところにお香が来店したことがあり、その時にお茶請けとして出したらひどく喜ばれたのだ。
「そうですか。いいですよ」
「うん。今回もいい出来だよね。桃タロー君がよく世話してくれるから、本当に何でも実付きが良くて助かるよ」
 干し棗が出来上がったら、幾らかは蜜煮にして鬼灯と食べようと考えながら、白澤はぷちぷちと実を摘む。
 ついでに一つ二つと実を齧るのは、ささやかな御愛嬌だった。隣りの樹にいる鬼灯も生の棗の味が好きらしく、頻繁に口がもぐもぐと動いている。
 そんな風に時折脱線しつつも二人の手は真面目に働き続け、幼児一人が入れるほどに大きな籠がそれぞれいっぱいになったところで、脚立から降りた。
 籠を担いで一旦、極楽満月へ戻り、軒下に広げた茣蓙の上に甘酸っぱい香りのする大量の棗の実を広げる。
 そこから、お香へ届けるために特に綺麗なものばかりを選び出して、白澤は持ち手つきの小さな籠に入れた。
「うーん、生の棗だけじゃ素っ気無いかな。美容に効くお茶かなんか添えようか」
「どうぞお好きに。花果茶とかどうです?」
「あ、いいねえ!」
 玫瑰や玫瑰茄の花片に様々なドライフルーツを合わせた花果茶は見た目が可愛らしく、風味も良い。白澤が調合するものは美容の効用も高く、懇意にしている女性に贈るにはぴったりだった。
「お前って朴念仁なようで、案外ツボは押さえてるよな」
「近年は女性の獄卒もますます増えてますからね。機嫌を取るというわけではないですが、女性の心理を思いやった気遣いは必要不可欠なんですよ」
「そりゃあ正論だね。女の子を怒らせちゃいけないよ」
 くすくすと笑いながら白澤は籠を一旦、冷蔵庫にしまう。
 そして今度は陳皮の材料であるオレンジを採るために、二人は再び果樹園へと向かった。
 オレンジは棗よりも遥かに実が大きい分、収穫籠の数も多くなる。二人はせっせと計四つの籠に鮮やかな橙色の実を山盛りにし、そこまで働いたところで鬼灯が空腹を訴えた。
「そろそろお昼にしませんか」
「あ、そうだね」
 作業につい夢中になっていたが、鬼灯が差し出した懐中時計を見ると、針は正午を過ぎている。
 それなら、と二人は極楽満月に戻って綺麗に手を洗い、台所に立った。
「たまには私が作りましょうか。というか、単に蕎麦が食べたい気分なだけなんですが」
「いいよ。確か、まだ乾麺が残ってたはずだし」
「はい」
 知ってます、と鬼灯はうなずく。
「鳥なんばでいいですか?」
「勿論」
 普段はもっぱら白澤が料理をするが、鬼灯も生い立ちが生い立ちなだけに、家事は一通りのことができる。特に好きというわけではないらしいが、手先が器用な分、何をさせても出来栄えは見事なものだった。
 何でも食べるよと白澤は笑って、それならと蕎麦に合う副菜を考え始める。
「出汁巻き卵と……、あ、フキノトウを取ってきて天ぷらにでもしようか?」
「はい、食べたいです」
「了解」
 ちょっと待ってて、と言い置いて、白澤は外に出る。
 桃源郷の良いところは、大抵の野菜や果物が年中収穫できることだ。
 極楽満月の裏手から二分ほど歩いたところに、蕗の小さな群生がある。そこを覗き込めば、みずみずしく成長した食べごろの蕗に交じってフキノトウもきちんと生えていた。
 現世では有り得ない季節を無視した混生だが、ここでは不思議でもなんでもない。白澤はフキノトウを十個ばかりと、蕗を一掴み分収穫して家の中へと戻った。
「ついでだから蕗も採ってきた。信田巻でも作ろうか」
「はい」
 開いた油揚げで具材を包み、薄味で煮含めた信田巻も鬼灯の好物である。早速、白澤は収穫物を流水で洗い、調理にかかった。
 鬼灯が蕎麦用のかえしを作る間に、白澤は出汁巻き卵を作り、蕗を一旦湯がいて信田巻を鍋に仕込んでから、天ぷらの衣を作る。
 そして二人は手際よく一気に料理を仕上げ、料理を食卓に並べた。
「蕎麦、久しぶりだなぁ」
「そうですか? 私は閻魔殿の食堂でたまに食べてますから、あんまり久しぶりという気がしないんですけど」
「うちも平日の昼間は桃タロー君がいるから、うどんとかも作ったりするけどね。蕎麦は最近、なかったな」
 言いながら白澤は蕎麦を啜り、美味い!、と顔をほころばせる。
 出汁を強く効かせた蕎麦つゆは濃厚で、やや甘みのある味付けが蕎麦や具の鶏肉に良く合う。美味いというのは、決して世辞や惚れた欲目ではなかった。
「私は蕗の薹の方が久しぶりですね」
「そういえば、天ぷらもしばらく作ってないな」
「ええ。食堂では天丼も食べますけど、山菜は季節物ですから」
「そりゃあそうだ」
 蕎麦は時間をかけて食べるものではないし、他の料理もそれほどの量を作ったわけではない。話しながらであっても、二人が食べ終わるのは、あっという間だった。
「大抵の料理って、作った時間より食べる時間の方が短いんですよね」
 空になったどんぶりを見つめ、小さく眉をしかめる鬼灯に白澤は笑う。
「それを言ったら、中華なんて食材に乾物が多いから、下ごしらえに一日とかざらだよ」
「ええ。それをやってのける貴方の根気には感心します」
「あ、褒められた?」
「そのつもりですけど」
「そりゃどうも」
 昔に比べれば随分と丸くなった鬼灯だが、手放しで褒めてくれることは未だに少ない。だが、この褒め言葉には裏もないようで、すとんと白澤の中に落ちてきた。
「嬉しいなぁ」
「……相変わらず安いひとですね」
 ニヤついていれば、鬼灯は素っ気無く肩をすくめ、立ち上がる。
「さあ、片付けてしまいますよ」
「うん」
 白澤も立ち上がり、また二人は手分けして後片付けを済ませる。それから表のオレンジの籠の所へと戻った。
「それじゃあ、やろっか」
「はい」
 陳皮の作り方はごく単純で、剥いた皮を一年ほど陰干しすれば完成となる。
 だが、ただ剥くだけでは終わらないのが、交際を始めるまで千年余も喧嘩を続けた破れ鍋に綴じ蓋の特徴だ。
 ナイフを手に椅子に腰を下ろした二人は、最初の一つ二つこそ並みのペースで作業していたが、徐々に競うように猛烈な勢いで手を動かし始める。
 二人とも手先が器用な上に、負けず嫌いも共通しているのが良いのか悪いのか。白澤が二つ剥く間に鬼灯が三つ剥けば、白澤も負けじとばかりに、鬼灯が二つ剥く間に三つを剥き返す。
「ちょっと、少しは手を緩めたらどうなんですか」
「そっくりそのまま、お前に返すよ! 休日なんだからちょっとはのんびりしろ!」
「貴方こそ偶蹄類らしく反芻してなさい!」
「僕を分類するな!」
 だが、負けず嫌いの一方で、すぐに物事が面倒くさくなる、というのも二人の共通点だった。
 かつては周囲が呆れ果てるほど延々と張り合ったものだが、一緒に暮らす仲ともなると、日常生活の中でそうそう勝負ばかりはしていられない。
 オレンジの籠が半分にまで減った時点で、競走に飽きた二人の皮剥きのペースは落ち、ひたすら黙々と作業するばかりになる。そして、丸のままのオレンジは残りわずかとなったところで、鬼灯の作業ペースが更に落ちた。
 おや、と白澤が隣りを見れば、午後の陽気が眠気を誘ったのだろう。鬼灯は、ナイフとオレンジを手にうつらうつらしかけている。
「鬼灯」
「……はい?」
 白澤が笑いをこらえて名を呼ぶと、いかにも眠そうな顔で鬼灯は返事をした。
「眠いのなら寝てしまえよ。この時間帯に眠くなるのは自然な生理現象だし、ちょっと寝ればすっきりするだろ」
「ですが……」
「構わないよ。これは仕事じゃないんだし、オレンジなんて積んでおいても逃げやしない。残りは明日、桃タロー君と一緒にやるよ」
「でも……」
「いいからいいから。ほら、おいで」
 白澤は立ち上がり、鬼灯の手からナイフとオレンジを取り上げて、その手首を掴む。そして、軽く引いて立ち上がらせた。
「白澤さん」
 どこへ行くのですか、という問いかけを聞きながら、白澤は軒下から最も近い仙桃の木の下へと移動する。
 仙界にのみ育つ桃は、緑葉を豊かに茂らせた枝に、可憐な花とまろやかな形の実を同時につけている。
 その葉陰の下、若草がやわらかく地面を覆っている場所まで来て、白澤は立ち止まった。
「うん、ここでいいかな」
「白澤さ……」
 名前を呼びかけた鬼灯には構わず、白澤は軽く意識を集中させ、一瞬のうちに人型変化を解く。痩身長躯の人としての輪郭がぼやけ、まばたき一つの間に白澤の姿は巨大な獣へと変じた。
 それから、首を伸ばして獣の口で鬼灯の作務衣の襟首をくわえ、自分の方へと引き寄せる。地面に腹ばいになり、鬼灯を具合よく自分の胴体に寄りかからせて、仕上げとばかりにふかふかの尻尾でその体をふわりと包み込んだ。
「寝てしまえよ、鬼灯」
「……ずるいです」
 動物好きの鬼灯は、白澤自慢の尻尾を使ったふかふか攻撃に殊の外、弱い。白澤としても奥の手だったが、それだけに効果は絶大だ。
 鬼灯は悔しげに眉をしかめつつも、両腕は既にもふもふを抱え込み、豊かな巻毛をそっと撫で始める。
 きらきらと虹をはじいて光る雪白の毛を指で梳き、そのやわらかな感触を手のひらで確かめて。
 一頻りもふもふを堪能した後、鬼灯はゆっくりと肩の力を抜き、頭を白澤の胴体にもたせ掛けた。
「寝る?」
「はい」
 目を閉じても鬼灯の手は、ほわほわと白澤の尻尾を撫でている。白澤は目を細め、小さく忍び笑った。
「お前は本当に僕の尻尾が好きだね」
「ええ。貴方の成分の九十五パーセントは尻尾です」
「そりゃひどいな」
 信頼しているという脳味噌さえ残りの五パーセントに含まれてしまうのかと白澤は苦笑する。
 しかし、鬼灯は眠そうな声と口調で、ゆっくりと続けた。
「でも、もしどこかでうっかり尻尾を落としてしまってきても、そんな間抜けな貴方を私は見捨てたりしませんよ」
 その言葉に。
 白澤は純金色の獣の目をまばたかせた。
 とても嬉しいことを言われたような気がして、既に眠りかけている鬼灯の顔を覗き込む。
「お前、僕に尻尾が無くてもいいの?」
「……はい。しょうがないから、許してあげます」
 返事が遅れたのは惑ったからではない。明らかに、眠くて返事が億劫だったからだ。
「……そっか。尻尾が無くてもいいのか」
「……は、い……」
 ささやくような呟きを最後に、鬼灯の呼吸が寝息へと変わる。そんな鬼灯を見つめ、白澤はふっと微笑んだ。
 鬼灯がこの本性の姿を何よりも愛していてくれることは前々から知っていた。子供心にも綺麗だと思ったんですよ、と結婚してから数年が経った頃に明かしてくれたこともある。
 同時に、成分の九十五パーセントが尻尾、というのが彼好みの戯言だということも知っている。
 それでも、だ。
 おそらくは一番気に入りの部分である尻尾が無くてもいいという言葉は、鬼灯の最大級の愛情表現であるように感じられた。
「本当にお前は可愛いよ」
 木漏れ日を受ける度に小さな虹をはじく雪白の尻尾を抱き抱え、気持ちよさそうに眠る最愛の伴侶を見つめて微笑んだ白澤は、自分もまた純金色の九つの目を閉じる。
 穏やかな昼下がりに鬼が一人と、天の獣が一匹、寄り添い合いながらまどろむ。
 それは桃源郷にふさわしい、何よりも美しい景色だった。






           *          *





「……ん……」
 ふっと意識が浮上して、鬼灯は目を開ける。腕の中のふかふかした感触と後背に感じる温もりの正体は考えるまでもない。
「白澤さん?」
「あ、起きたか」
 声をかけると、トーン自体は変わらないのに天地が謳っているかのような豊かな響きを持つ声が応えた。
「はい、起きました」
 うなずき、鬼灯は、またもや手の中の純白の毛をもふもふと撫でる。どれほど撫でても飽きないほど、ふわりと温かな毛はやわらかく、手のひらに心地よい。
「やっぱりこの尻尾、無くなったら困りますねえ」
「あれ、そう来る?」
「はい。見捨てはしませんけど、このもふもふがなかったら貴方の魅力は半減どこじゃないです。五パーセントですね」
「ひどいなぁ」
 さっきの僕の感動を返せよ、と白澤は苦笑しながら文句をつけてくる。
 そのことに何となく満足して、鬼灯は尻尾から手を離し、白澤の胴体に寄りかかっていた体を起こした。
「ああ、もうこんな時間ですか」
 目の前に広がる空の色は、透き通った淡い橙色から薄桃色のグラデーションに染まっている。
 一方、中天を超えた東の空は、まだ昼間の明るさを残した薄蒼色のままで、天上に広がる美しい色彩の移ろいは表す言葉もないほどに夢幻的だった。
「結構寝てしまいましたね」
「二時間くらいかな」
「十五分くらいで起きるつもりだったんですが」
「それだけ僕の尻尾が気持ち良かったってことだろ」
「……まぁ、そういうことにしておいてあげましょうか」
 肩をすくめて鬼灯は応じ、そしてまた、夕暮れが近付いた桃源郷の景色を見つめた。
 甘い花の香りを含んだ風は、時折頬を撫でる程度のやわらかさで流れ、背後の桃林からは賑やかに囀り交わす小鳥たちの声が聞こえる。
 傍らには、ずっしりとした巌(いわお)のような圧倒的な神獣の気配。
 この瞬間、何一つ不足はないという思いが、不意に静かに鬼灯の胸に湧き上がってきて。
「白澤さん」
 鬼灯は、そっと彼の名を呼んだ。


「私はこれまで五千年以上生きてきましたけど、間違いなく今が一番幸せです」


 遠い空を見つめながら、鬼灯は静かに言葉を綴る。
「親も家も何一つ持たずに人として生きて死に、鬼になった私ですが、今はきちんと居場所があります。沢山の人々に支えられて、成すべき仕事があって……。それだけでも十分幸せでしたけど、今は貴方もいる。何一つとして足りないものはありません」
「鬼灯……」
 驚いたように名を呼んだ白澤の気配が変わる。鬼灯が振り返ると、人型になった白澤がこちらを見つめていた。
 白澤の手が上がり、鬼灯の髪にさらりと指先で触れる。
「お前の幸せに僕も入ってるの?」
「当たり前でしょう。今更何を言ってるんです」
 呆れて答えれば、白澤は二、三度まばたきして。
 ふわりと笑った。
「そっか」
 笑顔のまま両腕を差し伸べ、鬼灯を抱き締める。
「好きだよ、鬼灯。僕は、お前が幸せならそれでいい。本当にそれだけでいいのに、お前は僕を幸せの一つに数えてくれるんだね」
 ぎゅうと抱き締められ、馴染んだ温もりと匂いを感じながら鬼灯はそっと目を伏せた。
「だから、今更だと言ってるんです。忘れたんですか、私は貴方を世界一幸せにすると約束したでしょう?」
 それはもう十年も前のことだ。白澤のプロポーズを受けた際に、鬼灯ははっきりと宣言した。
 白澤を幸せにするのは自分の役目で、それは絶対誰にも譲らないと。
 一度約束したことは必ず守るのが鬼灯の流儀だ。相手が誰であれ、どんな内容であれ、関係ない。
「昔ならいざ知らず、貴方が不幸で今の私が幸せになれると思うんですか?」
「――いいや」
 深く響く白澤の声に宿っているのは、どんな感情だろうか。
 穏やかな声はとても豊かで、無数の小さな虹が煌いているかのように響く。眩い、世界を照らす光そのもののような声だった。
「思わない。ただ、こんな風に言葉にしてくれるとは思わなかったから。すごく嬉しいよ」
 世界一幸せだよと告げられて、鬼灯は目を閉じる。
「……本当に貴方って、貪欲なのか寡欲なのか分かりませんね」
 昔から何度も思っていることを呟くと、小さく微笑む気配がして、頬にそっと温かな手が添えられる。促されるままに顔を上げれば、唇に優しい感触が重なった。
 目を閉じて鬼灯はキスを受け止め、白澤の背に両腕を回す。
 抱きしめ、抱きしめられて交わす口接けは、ただ愛おしい。ゆっくりとキスを交わし、唇を離したものの、白澤の唇は追いかけてきて顎先や喉元、首筋にやわらかな口接けを幾つも落とす。
 その感触は優しく、やわらかな花びらで撫でられているかのように心地よかったが、鬼灯は「嫌です」と白澤を突っぱねた。
「わざわざ外ですることはないでしょう。家は直ぐそこなんですから」
「あー。でも、せっかく盛り上がったんだし」
「だからって自宅の真横で盛る必要がどこにありますか。あと今日は汗もかきましたから、先に風呂です。これは絶対に譲りません」
「……お前って時々、潔癖なこと言うよね。普段は大雑把なくせに」
 呆れたように肩をすくめ、しかし、伴侶の強情加減を知っている白澤は、鬼灯を抱き寄せたまま一緒に立ち上がった。「じゃあ、風呂に行こっか」
「はい」
 まだ夕方前だとか、周囲が明るいとか、そんな野暮なことを言うつもりは鬼灯もない。
 単純に、寝台がそこにあるのに、わざわざ地面の上で抱き合う理由が分からなかったから、場所の移動を要請しただけである。睦み合う行為そのものに否やはなかった。
 二人は連れ立って、そのまま建物の裏手に向かい、温泉のほとりにある東屋で着ていたものを脱ぎ捨てる。
 それから洗い場でざっと汗を流し、湯船に体を沈める。すると直ぐに、実にさりげない仕草で白澤の手が伸びてきた。
 髪に触れ、頬を撫でる指先を鬼灯は拒絶しない。代わりに、自分もまた手を差し伸べて白澤に触れた。
「鬼灯」
 優しい声が名を呼び、寄せられた唇が左の目元にそっと押し当てられる。
 次いで、右の目元、額、こめかみ、頬と順々にキスを落とし、何故か唇を避けて、案外にほっそりとした顎先、喉元へと唇は降りてゆく。そうする間も白澤の手は鬼灯の髪を撫で、うなじを撫で、指先で優しい愛撫を贈った。
 そうして鎖骨まで口唇で肌を辿り、くっきりとした骨をかぷりと甘噛みしてから、白澤は顔を上げる。
「貴方ってひとは……」
 覗き込んでくる悪戯なその目に浮かぶ請求に溜息をついて、鬼灯は白澤の肩に置いていた手を上げる。
 なめらかな頬に手を添えるようにして固定し、その唇に口接ける。数度ついばむようにしてから噛み付くように唇を重ねると、白澤もまた鬼灯の背を抱き寄せた。
 やわらかな舌を絡め合い、熱い口腔をまさぐり合う。弱い部分を見つけては舌先で執拗にくすぐる手管に、互いの喉が小さく鳴った。
 ゆっくりと唇が離れても、白澤の手は止まらない。鬼灯の背をゆっくりと撫で下ろし、そしてまた撫で上げる。ゆるゆるとさするように背を撫でられて、鬼灯は仕返しとばかりに、白澤の肩口を血が出ないほどの強さで噛んだ。
 骨格は鬼灯の方がしっかりしているが、白澤とて華奢というわけではない。太く浮き出た鎖骨に軽く牙を立て、その窪みに舌を這わせてやると、小さく含み笑むのが感じられた。
 女性相手ならば乱暴すぎる愛撫も、神獣相手ならば何の問題もない。興に乗って鬼灯は、白澤の肉体の湯から出ている部分を万遍なく甘噛みし、最後に肩口にぐっと歯形を残した。
「っ、こら、そんなに噛むな」
「噛みやすそうな肩をしてる方が悪いんです」
「どんなだよ」
「こう、ちょうど私の歯の並びにしっくりくる筋肉のカーブというか」
「僕はお前に噛ませるためにこういう形になってるわけじゃないぞ」
「じゃあ何のためです?」
「そりゃあ、こういうことするためだろ」
 悪戯めいた言葉と同時に白澤の指先が、するりと腰を滑り降りる。際どいところまで指を滑らされ、思わず小さく背をのけぞらせた弾みに、胸の辺りまでが水面から覗く。
 すかさず白澤は、濡れた小さな尖りを唇で捕らえた。
「……っ…」
 やわらかく吸われ、ちろりと舌先でくすぐられて鬼灯は息を詰める。同時に腰の窪みにも指先を這わされて、反射的に白澤の二の腕を掴めば、白澤は小さく笑った。
「おいたはここまでだよ、鬼灯」
 甘くそう囁き、再びゆっくりと小さな尖りをいたぶり始める。舌先で軽く、だが執拗につついた後、優しく吸い立てながら唇だけで甘噛みし、更に先端に舌を這わせる。
「っ、……ん」
 愛されることに慣れた体は素直に反応し、触れられる度に微弱な電流のような快感が疼きとなって、深い部分に沈殿してゆく。鬼灯は思わず零れかける声を喉の奥で押し殺しながら、敏感な個所への愛撫を受け止めた。
「気持ちいい?」
 一旦唇を離した白澤は悪戯に笑みながら、ほの赤く熟れた尖りをくりくりと指先で転がす。分かり切ったことを聞くなと鬼灯が軽く睨めば、更に笑って反対側の尖りに吸い付いた。
 触れられていなくとも目覚め、待っていたそこは、唇でやわらかく食まれただけでも甘い感覚が走る。
 鬼灯は目を閉じてその感覚を追いながら、白澤の背を抱き寄せ、濡れたうなじをゆっくりと撫でた。
「っ、ふ……、っく、あ」
 心臓に近い方が感覚が鋭いと俗に言うが、鬼灯も例に漏れない。触れられれば触れられるほど敏感に張り詰める小さな尖りのうち、左側を丹念に舐め転がされて、どうしようもない疼きが込み上げる。
 だが、白澤はその程度で容赦するような男ではない。頃合と見たのだろう、しばらくの間、放っておかれていた右側をも指の腹でくるりと撫でた。
「っあ……!」
「うん、いい声」
 思わず鬼灯が高い声を上げれば、白澤は嬉しげに含み笑い、猶も執拗に口唇と手指の双方を使って丁寧に愛撫する。
「んっ、あ、っ、もぅ……っ」
 鬼灯が反応を抑え切れず身体を震わせる度に、背が露天風呂の岩壁に当たる。
 痛みなど感じてはいなかったが、それに気付いた白澤は鬼灯の背を引き寄せて抱き上げ、対面座位の形で膝の上に座らせた。
「え……?」
「これなら背中が傷付かないだろ」
 咄嗟のことで理解が追いつかなかった鬼灯が目を開けると、白澤がこちらを見上げ、悪戯に笑っているのが見えた。
 確かに、彼の言う通り、この体勢ならば鬼灯の肌が岩で傷付くことは殆どない。
 しかし。
「……私は寝台がいいと言いませんでしたっけ?」
 低い声を出して咎めれば、白澤はにっと笑う。
「最後まではしないよ。前戯だけ」
「逆上せます!」
「大丈夫だって。僕だって楽しみたいんだから、そこまで無茶はしない」
「信じられ、っ……!」
 不信の言葉を口にしようとした瞬間、白澤は湯面から出ていた小さな尖りに吸い付く。赤く熟れ切ったそこは、極軽く舌先をかすめられただけでもピリピリと甘く痺れた。
「っふ、あ、あぁ、んっ」
 大きくのけぞった身体は白澤の腕がしっかりと支えてくれたが、体勢の不安定さに、鬼灯は反射的に白澤の肩にすがりつく。しかし、それは捕食者の前に美味を差し出すだけの行為だった。
 すかさず白澤は鬼灯を支えていた両腕のうち、右手を離して鬼灯の胸元に滑らせる。そして、しなやかな指先で小さな尖りを優しく撫で、楽器を爪弾くかのように軽やかに弾いた。
「あ、っく、……あ、やっ」
「ねえ、鬼灯」
 先程と同様、左右を同時に責め立てられて平静でいられるわけがない。成す術もなく白澤の背に爪を立て、びくびくと身体を震わせる鬼灯に、白澤の甘い甘い声が囁きかける。
「このまま達っていいよ。そろそろ限界だろ」
「っ、嫌、です……っ、んんっ」
 淫魔のようなその誘いかけは、どうにか鬼灯の耳に届いたものの、その間も白澤の愛撫は続いている。嫌だと鬼灯は首を横に振ったが、喘ぎながらのそれは、ゆらゆらと頭を揺らした程度にしかならない。
 せめてもとばかりに白澤の肩に思い切り爪を立てたが、それくらいで止まるような神獣でもなかった。
「ね、鬼灯。達って? 可愛いお前を僕に見せて」
 蜜のように甘い声で囁きながら、白澤は執拗に胸元だけを可愛がり続ける。
 二人の身体の間で既にはち切れんばかりに育った鬼灯の熱には触れず、それどころか、互いが触れ合わないよう距離を開け、鬼灯の腰も動かせないようがっちりと腕で抑え込んでいる辺りが狡猾だった。
「胸だけで達くのは気持ちいいだろ? お前はもうそれを良く知ってるね?」
 言葉と共に胸元に軽く歯を立てられて、鬼灯はびくりと身体を背筋を跳ねさせる。
 白澤の言葉は事実だった。この好色漢と十年も結婚生活を続けていれば、大抵の行為は経験させられていない方がおかしい。
 もっとも白澤は鬼灯を傷付けるようなプレイは絶対に避けるから、鬼灯が教えられたのは、真実気持ち良いことだけに限られている。
 だが、気持ち良すぎて辛い、という感覚を白澤は理解しているのかどうか。
 胸元への愛撫だけで導かれるドライオーガズムもそのうちの一つで、他はろくに触られていないにもかかわらず、全身がぐずぐずに熔けてしまう。
 そうなるとその後がまた大変で、感覚が鋭くなりすぎた身体を猶も執拗に責められ、連続で達き過ぎた挙句に失神してしまうことも少なくない。
 だから嫌なのだと主張するのだが、そのぐずぐずに熔けた鬼灯をいたく気に入っているらしい白澤は、構うことなく責め立ててくるのだ。
「やっ、い、やっ、嫌、ですっ」
 もう止めてくれと懇願しても、白澤は愛撫の手を止めない。一方、鬼灯の両腕もまた、目の前の淫獣を突き飛ばせばいいものを、その肩にすがりついたまま動かない。
 最愛の伴侶に教え込まれた快楽を拒絶するのは、鬼灯の精神力をもってしても、ひどく難しいことだった。
 相手が白澤である限り、何をされても感受したいという気持ちの方がどうしても強く働いてしまう。
 気持ちいい。辛い。もっと欲しい。
 矛盾する三語ばかりが鬼灯の蕩けた脳内をぐるぐると回る。
 そして、そんな鬼灯の状態は、百戦錬磨の白澤には筒抜けであるのだろう。
「嫌だって言いながら逃げないんだよなぁ。本当にお前は可愛いよ、鬼灯」
 小さく含み笑いながら、硬くしこった小さな尖りをこりこりと指先で転がされて、鬼灯はきつく目を閉じたままのけぞる。
「っふ……あ、……んんっ」
 もう限界が近いことは分かっているのに、白澤の言う通り逃げることができない。首筋にすがりついた手で後頭部の毛でもむしってやればよいものを、実際は絹糸のような手触りの濡れ髪に艶かしく指が絡むばかりだ。
 胸への愛撫は中心への愛撫や挿入と違い、快感にはもどかしさが伴う。今すぐもっと敏感な部分に触れられたら、あるいは熱く逞しいもので貫かれたら即、絶頂に至ることができるのに、それが叶わない。
 だが、そのもどかしさに耐え、焦れてているうちに、じわじわと全神経が灼熱に侵食され始める。
「――やっ、も……っ、駄目、だと……っ」
「ふぅん。じゃあ、あともう少し?」
 直接的でない分、達けそうで達けない感覚が長く持続するのがこの責めの特徴であり、責める側の醍醐味でもある。
 だが、白澤もそろそろ良いという気分になったのか、愛撫の形を単調で速いリズムに切り替えた。
「ひ、ぁ、ああっ、ん、っあ……!」
 小刻みに舌先と指先で転がされ、つつかれて、鬼灯は全身を激しく震わせる。
「い、やっ、や……だ、もうっ」
 巧みに責められ、真っ白に焼き付いた脳裏に快感だけが、みるみるうちに膨れ上がってゆく。鬼灯がすすり泣いても、白澤は止めない。
「や、っあ、も……、いく……っ」
 達く、と数度かすれた声で訴え、そのまま鬼灯は昇り詰める。びくびくと震えながら全身を引き攣らせる鬼灯を、白澤はしっかりと抱きとめた。
「ふ……ぁ、あ……」
 射精を伴わない絶頂は余韻を長く引く。ぐったりと白澤に寄りかかっていた鬼灯だが、少しずつ呼吸が整い、意識もはっきりとしてくる。
 そして、
「大丈夫?」
 と、もっともらしく労わる声を掛けられた時点で、鬼灯はキレた。
「このエロ偶蹄類!!」
 ゼロ距離であるために、殴るのも蹴るのも威力を乗せることは難しい。ゆえに、容赦なく鬼灯は白澤の両耳を千切らんばかりの勢いで引っ張った。
「あだだだだっ!! 千切れるっ、千切れるから!!」
「嫌だって言ったでしょうが!!」
「でもお前だって悦んで、あだだだだだっ!!」
「死ね、この駄獣!!」
 罵声と悲鳴が飛び交い、しばしの騒ぎの後、やっと風呂場が静かになる。
「本当に、なんで貴方みたいな馬鹿と結婚したのか、自分で自分が分かりませんよ」
 鬼灯は白澤を一睨みして伴侶の耳から手を離し、その体を押しのけつつ立ち上がりかけて――よろめいた。
 頭から湯に倒れこみかけるところを、当然のように白澤の腕が抱き止める。
「馬鹿はどっちだよ。ドライの後、そんなすぐ動けるわけないだろ」
「誰のせいですか!」
「僕のせいじゃなかったら、お前をこんな風にした犯人を微塵になるまで引き千切って殺すね」
 しれっと言われて、思わず鬼灯は言葉に詰まる。
 そんな鬼灯を腕に抱いたまま、白澤は笑った。
「とりあえず寝室に行こうよ。お前だってまだ辛いだろ」
「……だから、誰のせいだと」
「責任は取るさ。これまでで最高に気持ちよくしてやるよ」
「要りません!」
 ぎゃあぎゃあと騒いでるうちに、昂ぶった熱は多少の落ち着きを見せたため、鬼灯はどうにか白澤の手を借りずに立ち上がる。そして、支えようとする白澤の手を振り払い、東屋へと向かった。
 正直、動くのは辛かったが、意識のある状態で人型の白澤に運ばれるのは御免こうむりたい、その一心で湯に濡れた体をぬぐい、浴衣を羽織る。
「どうせ直ぐに脱ぐのに」
「だからといって、裸で家の中を歩きたくなんかありません」
 並んで同じように体を拭いていた白澤が口を挟んでくるのをぎっと睨み付け、鬼灯は帯を締める。そして、母屋に向かって歩き出した。




「とりあえず冷たいものを下さい」
「はいはいっと」
 家の中に入って鬼灯が一番最初に欲しがったのは、当然ながら水分だった。
 普段なら湯上がりに冷たいものは出さないのだが、今日は仕方ないだろうと、白澤は手早く用意した美しい薄紅色の茶を氷を満たしたグラスに注ぐ。
「花果茶ですか」
「お前もこの味、好きだろ」
「それは、まあ」
 うなずき、鬼灯は甘酸っぱいジュースのような茶を一息に飲み干す。そして、おかわり、とグラスを差し出した。
「美味い?」
「はい」
 料理や茶については、鬼灯は常に素直にうなずく。そして、こくこくと二杯目も飲み干す様を見つめながら、白澤は微笑んだ。
 冷たい二杯の花果茶で、湯上りのほてりは少し落ち着いたのだろう。鬼灯は小さく溜息をつく。
 だが、その頬はまだ桜色に上気し、長い睫が影を作る目元には隠しきれない艶がある。
 いかにも肉体の疼きを持て余しているような、なまめかしい風情に白澤は片手を伸ばし、鬼灯の濡れ髪を、すいと指先で梳いた。
 その感触に、鬼灯がこちらを見る。濡れたような艶を帯びた闇色の瞳も、今は誘っているようにしか見えない。
「寝室に行く?」
「……ええ」
 鬼灯は小さくうなずき、グラスを置いて先に立って歩き出す。
 そして辿り着いた部屋のベッドに上がると同時に、二人は互いに手を伸ばし、唇を重ねた。
 高められた欲望は限界に近かったのに、やせ我慢して平静を装っていたのはお互い様だ。二人は深く舌を絡め合い、ひたすらに互いを求める。鬼灯の両腕は白澤の背に回り、白澤の両腕も鬼灯をかき抱く。
「好き、だよ」
「私も……」
 キスの合間に交わす睦言も、互いの唇に呑み込まれる。
 風呂場での戯れから多少なりとも時間が空いた分、どちらの肌も最愛の伴侶を求めて飢え狂っているようで、どうやっても欲しいと思う気持ちが止まらない。
 何度も角度を変え、唇を重ねるうちに二人の体勢は少しずつ崩れ、やがて寝台に沈み込む。そこでまたひとしきりキスを交わしてから、白澤はやっと愛撫を首筋へと移した。
「だから、直ぐに脱ぐことになるって言ったのにさ」
「裸で歩いて来られるわけがないでしょう」
「いいだろ、それはそれで」
「嫌です。自分もですが、貴方が全裸で歩いてるのも見たくありません」
「どうせベッドの上では全部脱ぐのに」
「それはいいんです。貴方、すっぽんぽんで台所に入るつもりですか」
「やらしいことやった後は服着るのが面倒な時もあるんだよ。仕方ないだろ」
「それと風呂上りに裸でうろつき回るのは、別の話です」
「何だそりゃ」
 分からねー、と呆れながらも、白澤は鬼灯の浴衣の前を少しずつはだけ、あらわになる上気して淡い桜色に染まった肌に唇を落とす。
 日に焼けていない肌は白く、きめが細かくて、どれほど触れても飽きない。そして、胸の中心にある先程散々に可愛がってやった尖りにも、ちゅっと音を立ててキスをすると、鬼灯はびくりと身体を震わせた。
「ごめん、赤くなっちゃったな」
「あ、やまる、くらいなら……っ」
「それは無理。だって僕は、お前を可愛がりたいんだから」
 抗議の内容を先取りして告げると、鬼灯はぎっと睨んでくる。だが、その目はやはり濡れたような光を湛えていて、誘っているようにしか白澤には見えなかった。
「お前、本当に自覚ないよね」
「何が、です……っ」
「色々なことがさ」
 白澤はゆるゆると鬼灯の胸や腹に指を滑らせ、なめらかな感触を楽しむ。手を動かす度に鬼灯が反応し、小さく眉根を寄せる表情が何とも艶めいていて、視覚の面でも飽きるということはなかった。
「こういう時、自分がどれくらい色っぽく見えるか、とかさ。その顔にどれくらい僕がそそられるか、とかさ……」
「そ、んなの……知る、必要、ないでしょうが」
 ちゅ、ちゅ……と音を立てながら、白い肌の上に花片のような跡をつけてやると、一層艶めかしさが増す。
 閻魔殿に住み込んでいた頃の鬼灯は専ら大浴場を使っていたから、白澤も跡を残すことは自重していた。だが、今は外で服を脱ぐことはまず有り得ないため、服に隠れる位置ならば何の問題もない。
 それが嬉しくて、白澤は鬼灯の肌の上に幾つも幾つも薄紅の小さな花を咲かせた。
「私は、自分の見た目になんか、興味、ありませんし」
 愛撫を受け止めながらも、鬼灯はまだ抗議を続けている。いつものことながら元気だなぁと聞き流していた白澤は、しかし、次の一言で固まる。
「そんなもの、貴方が、知っていれば……いいでしょう」
 閨での自分がどう見えるかなど、貴方だけが分かっていればいいと。そう言われて、思わず白澤は目を瞠る。
「……それで、いいんだ?」
「どうしてもというのなら、馬鹿馬鹿しいですけど研究し尽して、あざとく誘ってあげますが」
 そう言われて白澤は少しだけ考える。だが、否、という結論に落ち着いた。
「いや、いい。だって今でもお前、時々ものすごくあざといし。これ以上意図的にやられたら、お前、本気で服着る暇がなくなるよ。てか、この寝室から出られなくなる」
「……どうしてそうなるんです」
「そりゃあ僕が僕だからだろ」
 わざと淫蕩に微笑み、白澤は寝台に両手をついて鬼灯を見下ろす。
「大陸随一の好色漢と結婚したんだ。それくらいお前も覚悟の上だろ」
「だから、そんなにやりたければ浮気しろと最初に言ったでしょう」
「僕はもう、お前しかいらないの!」
 断乎とした口調でそう告げてやれば、鬼灯は顔をしかめる。内心はどうあれ、この鬼はこういう時に嬉しそうな顔をする性格ではない。
 今も深い溜息をつき、まなざしを伏せて言った。
「――だったら好きにして構いませんけど、加減はして下さい。明日は仕事なんです」
「分かってるよ」
 結婚してから十年、房事を理由に鬼灯に仕事を休ませたことは一度もない。鬼灯が本気で嫌がることや、世間での彼の評価を落とすようなことは絶対にしないと決めているのだ。
 それを分かっているからだろう。鬼灯はゆるりと両腕を上げ、白澤の首筋に絡める。
 自分の魅力になど興味ないと言いつつも誘いかけてくる濡れた瞳に、白澤はゆっくりと身をかがめ、唇を重ねた。
「好きだよ、鬼灯。愛してる」
「はい」
 深く絡み合い、睦み合うキスの後、囁けば、鬼灯は表情を仄かに甘いものに変える。
 未だに滅多に笑うことはないが、いつもよりやわらいだ表情は、白澤の目にはただ美しく、いとおしく映る。
 目にしただけで胸の一番深い部分に温かな灯火がともるような、その笑顔未満の表情が白澤はとても好きだった。
「鬼灯」
 何度も繰り返し名前を呼びながら、なめらかな肌に触れ、口接けを落とす。脇腹の辺りで結ばれた帯を解き、少しずつ浴衣をはだけてゆく。
 温泉でぬくめられた肌は、麝香と龍涎香が入り混じったようなくすんだ甘い香りがして、白澤を心地よく酔わせた。
「――っ、ん……」
 はだけた裾から手を差し入れ、綺麗に筋肉の張りつめた内股を撫でてやると、鬼灯はくぐもった吐息を小さく零す。声を押し殺してしまうのがまた可愛くて、白澤は一層優しく鬼灯に触れた。
「ここ、気持ちいい?」
 他の場所よりも皮膚の薄い内股の際どい部分を、ゆっくりと指先で行きつ戻りつくすぐってやると、堪えきれないようにその辺りの肌がひくつく。
 湯上りの素肌に浴衣を着ただけだから、下着は身に着けていない。こういう時、和服はいいと思いながら太腿から下腹部までの辺りを手のひら全体で撫で上げてやると、また小さな声が上がった。
「っ、ふ……、ぁ」
 目を閉じ、快感を味わっている表情が可愛くて、白澤は薄く開かれた唇を自分の唇で塞ぐ。
 そのまま深いキスをしながら、片手で鬼灯の胸元をいじり、もう片方の手でさらさらとした手触りの下生えを梳くように撫でてやれば、鬼灯はびくびくと体を震わせた。
「……っ、殺す気、ですかっ」
 キスをしながら敏感な個所に同時に愛撫を受けるのは、さすがに苦しかったのだろう。酸欠も相まって赤く潤んだ目で鬼灯は白澤を睨み上げてくる。だが、やはりその顔も白澤には可愛らしいばかりだった。
「お前はこの程度じゃ死なないだろ」
「そういう問題じゃない!」
「あれ、酸欠が快楽をもたらすってことくらい、お前も知ってるだろ」
「だからって窒息させられてたまりますか!」
「させないさせない。ただ、お前が可愛かったから我慢できなかっただけ」
 機嫌直せよ、と髪を撫で、角の付け根にキスを落とす。そのまま幾つも顔にキスを落としていれば、やがて観念したのか馬鹿馬鹿しくなったのか。鬼灯は溜息と共に体の力を抜いて、元通り寝台に身を沈めた。
「本当に……馬鹿でしょう、貴方」
「矯めて言うなよ」
「矯めて言うに値する馬鹿の癖に、何を生意気なこと言ってるんですか」
「だーかーらー、もう黙れって」
 ちゅっと音を立てて唇に口接け、顔を覗き込む。鬼灯の目は呆れてはいるものの怒ってはいない。そのことに白澤は微笑み、もう一度頬に唇を寄せた。
「それじゃ続きするよ」
「……勝手にして下さい」
「うん」
 微妙な許しだが、これはいつものことだ。了解とばかりに白澤は再び鬼灯の肌に触れた。
 敏感なところを余すことなく触れ、散々に煽り、焦らしてからやっと最も過敏なところに指を伸ばす。ゆるゆると周辺を撫でてから熱くなったそこに指先を這わすと、鬼灯の腰が引きつるように揺れた。
 当然ながら、そう簡単に解放を許してやる気はない。しとどに濡れ始めているそこの輪郭を恐ろしくゆっくりとした指の動きでなぞり、手のひら全体を使って触れるか触れないかくらいの圧力でやわやわと握り込んでやる。
「……っ、や、っあ、く……っ」
 たまりかねたように切れ切れに嬌声を上げる鬼灯の下腹がひくひくと震えている。
 シーツに爪を立て全身で耐えている様子が何ともいやらしく、白澤は小さく笑んだ。
「気持ちいいんだね。じゃあ、ここをこうしたら……?」
 全体をやわらかく包んだまま、人差し指だけをそろりと先端に這わせる。溢れ出している透明な雫を塗り伸ばすように丸く形をなぞり、焦らしておいてから、指先で軽くタップするように鈴口を刺激する。
「ひ、あっ、や、っあ、やめ……っ」
 極軽い動きであっても、この上なく過敏になった場所に対する責めとしてはきつすぎるのだろう。固く閉じた鬼灯の目尻に涙が滲み、一滴零れ落ちる。
 その艶かしい表情を見つめながら、白澤はしみじみと呟いた。
「ホント、昔に比べると感じやすくなったよな」
 一番最初に抱いた時から鬼灯は感度の良い方だった。だが、結婚して十年の歳月を経た今、比べ物にならないほどその身体は蕩けやすくなっている。
 基本的な性欲の強さでは白澤の方が遥かに勝り、比例して鬼灯を抱く回数が圧倒的に多かったことも影響したのだろう。少し苛めてやるだけで反応し、もっとと淫らに欲しがる様は、性格のきつさが変わらないだけに、ひどく欲望をそそった。
「本当ならこのままイキ狂わせてあげたいんだけど、僕もそろそろお前の中に入りたいんだよね」
 露天風呂で戯れていた時から欲望に耐えていたのは白澤も同じである。
 ゆっくりとした手付きで鬼灯の熱を可愛がりながら、片方の手をベッドサイドの小引き出しに伸ばす。中から取り出した小瓶の蓋を開け、傾けて、仄かに甘い香りのする特製の潤滑液を手のひらにたっぷりと取った。
 幾ら鬼灯が抱かれることに慣れているとはいえ、入念な下準備もなしに挿入するような真似は、白澤は決してしない。
 粘液がしたたり落ちるほどに濡らした指先で蜜口の周囲を優しく撫で、そこが欲しがってひくつくのを存分に堪能してから、やっと指先を埋める。
 散々に焦らされたそこは既に熱く蕩け、白澤が指を半ばまで挿入したところで動きを止めれば、嬉々として柔襞が絡み付いてきた。
「お前のここ、滅茶苦茶とろけてるね。熱くてやわらかくて……入れたら最高に気持ちよさそうだ」
「……っ、馬鹿っ」
 睨みつけられても、快楽に染まって潤んだ瞳では何の迫力もない。本当にお前は可愛いねと笑いながら、白澤はゆっくりと指先を柔襞に這わせ、敏感なところを探る。
 だが、幾つかあるとびきり過敏な箇所には触れず、敢えて避けていれば、もどかしさを訴えかけるかのようにきゅうっと締め付けがきつくなった。
「なぁに、もっと欲しいの?」
 挿し入れた指をゆるゆると動かしながら、悪戯に顔を覗き込んでやると、先程よりも更に情欲に駆り立てられた目が白澤を睨む。
「あ……たり、まえ、でしょう……っ。どれだけ、遊ぶ、気……ですかっ」
「うーん。お前がそういう減らず口を叩く余裕もなくなるくらいまで?」
「死ねっ!」
「残念。僕は死なないんだなー」
 くくっと喉の奥で笑いながら、白澤は鬼灯の唇についばむだけのキスを落とす。
「でも、お前に嫌われたら困るから、意地悪は止めるよ」
「嘘だろ絶対……っ」
「うん、嘘かも」
 鬼灯が眦を更に怒らせるのも構わず白澤は笑い、そろりと指を半ばまで抜いて、もう一本を添えて再び挿し入れる。二本の指でゆるゆると柔襞を撫でさすり、押し広げるようにしながら優しくいたぶってやれば、鬼灯は再び目をきつく閉じて、堪えきれない甘い声を上げた。
「ふ、ぁ……や、あっ、ん、ん……っ」
 だが、まだ白澤は過敏な箇所を避け、その丸みを帯びたしこりの周囲ぎりぎりばかりをやわらかく押し揉んでやる。
「やっ、白澤さん……っ!」
「うん」
 焦らすな、と名を呼ばれて、白澤はうなずく。だが、鬼灯を弄る指先は一瞬そのしこりを撫でただけで、またさほど敏感でもない部分への愛撫に戻った。
「い、や……っ、もう、嫌です……っ!」
 この行為が始まった時から、鬼灯は一度も決定的な愛撫を与えられていない。唯一の解放は、露天風呂での胸元への愛撫によるものだけだ。
 どれほどの熱を体内に溜め込み、燻らせているのか、白澤を詰る鬼灯の目からまた一粒二粒、涙が零れ落ちる。
「お、わったら……っ、絶対、なぐり……ます、からっ」
「はいはい」
 お前本当に元気ね、とここまで快楽に蕩けながらも、まだ暴言を口にする鬼灯の気力に白澤は苦笑する。
「それじゃあ、殴られないように、お前には今夜も失神してもらおうかなー」
 わざと淫蕩に目を細めながらそう告げれば、びくりと鬼灯の身体が反応する。闇色の瞳がきっと睨み付けてきても、もう遅かった。
 笑んだまま、白澤は身を屈めて鬼灯の耳に囁き込む。
「うんと気持ち良くしてイキ狂わせてあげる。可愛いお前がとろとろになっちゃうまでね」
「……っ」
 ついでとばかりに尖った耳を噛み、複雑な形の耳殻にたっぷりと舌を這わせる。わざと淫猥な水音を立てつつ耳孔を舌先で犯してやれば、たまりかねたように鬼灯は細い声を上げてすすり泣いた。
「……っく、あ、や、いやだ……っ」
「うん、じゃあもっとね」
「やっ……!」
 拒絶の言葉を要求の言葉にすり替えて、白澤は鬼灯の胸元にも指先を触れる。赤く腫れ上がったそこを優しく指の腹で転がしてやれば、面白いくらいに挿入している指が締め付けられた。
「っあ、あ、ふ…ぁ……っ」
 溜まりに溜まった情欲を猶も煽るばかりの意地の悪い愛撫に、鬼灯の身体はかわいそうなほどびくびくと跳ねる。
 いつも強い光を宿している闇色の瞳も、今は情欲に濡れて霞み、焦点を失いかけているようだった。
 そろそろ頃合いかな、と見て取り、白澤はゆっくり指を鬼灯の中から抜く。
「う、ぁ……」
 散々にいたぶられた蜜口は甘く濡れて開き、苛むものを求めてひくひくと震えている。その様を確認してから、白澤は鬼灯、と呼んだ。
 そっと頬を撫でてやれば、うっすらと開かれた闇色の瞳がとろりと甘く白澤を見上げる。
「入れるよ?」
「―――はい……」
 かろうじて正気を保ってはいるらしい。こく、と小さくうなずいて鬼灯はゆるゆるとした動きで両手を上げ、白澤の首筋に回した。
 キスをねだるその仕草に白澤は微笑み、うんと優しく薄い唇に口接ける。
「愛してるよ」
「私も……愛してます」
「知ってる」
 それは途方もなく幸福なことだと思いながら、白澤は甘くかすれた囁きにうなずく。そして、鬼灯の腿裏に手をかけ、綺麗に筋肉のついた脚を大きく押し開いて蜜口に自分の熱を添わせた。
 先端を押し当てた状態でゆるく突いてやれば、蜜口ははくはくと食むような動きを見せる。同時に、
「は、くたく、さん……っ」
 入れて欲しいと懇願する声で呼ばれて、白澤は陥落した。
「うん、今あげるよ」
 ゆっくりと腰に体重を乗せ、少しずつ鬼灯の身体に自分を含ませてゆく。少し押して、きつくなったら少し引く。そんなことを繰り返すうちに、重みのある熱塊はずるりずるりと熱い柔肉に沈んでゆく。
「ひ、あ、……ぁ、んっ」
 指と熱塊とでは、体積そのものも比べ物にならない。慣れているはずのその感触と重みに鬼灯は切れ切れの喘ぎを上げながら、小さく首を横に振る。
 無意識のその仕草は拒絶ではなく、襲いくる快楽に耐えかねてのものだと分かっていたから、白澤は二人を深く繋ぎ合わせる動きを止めることはしなかった。
 やがて、最奥まで届いたところで白澤は息を吐き出し、体重を乗せていた腰から力を抜く。
「あー、くそっ、すげぇ気持ちいいー」
 鬼灯の中はひどく熱く、やわらかな襞が侵入者に怯えているとも悦んでいるとも判じがたい動きで、ひくりひくりと震えながら絡みついてくる。こうして包み込まれているだけで蕩けてしまいそうな心地よさだった。
「鬼灯、大丈夫か?」
 これだけ柔肉がひくついているということは、半ば達きかけた状態なのだろう。今すぐ動いて揺さぶってやりたいのを堪え、白澤は鬼灯の様子をうかがう。
 汗に濡れた前髪をかき上げ、こめかみの辺りから優しく梳き撫でてやっていると、ほどなく鬼灯が瞼を開けた。
 ぼんやりと霞んだ眼を数度まばたかせ、ゆらりと視線をさまよわせてようやく白澤を捉える。
「大丈夫か?」
 もう一度尋ねてやると、呆としたままのまなざしで、鬼灯は小さくうなずいた。
「白澤さん……」
 かすれた声で名前を呼び、何、と問う白澤にまた両手を伸ばす。だが、今度はキスをねだるのではなく、背に両腕をぎゅうと回して白澤を抱きしめた。
「鬼灯……」
 好きです。ずっと傍にいて下さい。
 精一杯の切ない想いが言葉ではなく伝わってくるようで、白澤も込み上げる愛しさに駆られ、鬼灯を強く抱きしめ返す。
「鬼灯」
 こんな風に過ごすようになって、まだ十年だ。白澤が存在してきた時間に比べたら、ほんの一瞬ですらない。にもかかわらず、この十年は、白澤にとってそれ以前の時間と同等以上の重みのある日々だった。
 どれほど一緒にいても想いが尽きる気配はないどころか、日増しに深く、強くなる。
 心の形が変わりにくい自分の特性上、たやすく気持ちが移ろうことはないということは分かっていた。
だが、特定の存在に執着し続けるばかりか、更に心を傾けてゆくことが起こるなどと、どうして予想するだろうか。
 結婚したばかりの頃は、いずれ鬼灯が摂理に従って消滅しても生きていけると思っていた。
 しばらくの間は深く深く嘆くだろう。だが、沢山の愛しい想い出を抱いて、永い時間を超えてゆけるはずだと。
 しかし、今はそう断言できる自信がない。
 本当に鬼灯が消えてしまったら、自分はどうなるのか。悲嘆のあまり、狂える神になりはしないか。
 神族にも時折そういうことは起こり得るのだ。憤怒が激しすぎたり、悲嘆が強すぎたりしたとき、神々は感情のままにその強大な力をもって我が身を変質させてしまうことがある。
 輝かしい雪白の神獣が、世にも醜悪な魔獣となったら鬼灯はきっと嘆くだろう。
 だが、その時には彼はもういないのだ。狂える魔獣となった自分でも愛してくれるだろうかと思いを馳せることすらできない。
 これまで何一つ恐れたことのない白澤だったが、その途方もない虚無を思うと、全身が塵と化すのではないかと思えるほどの恐怖を感じずにはいられなかった。
「鬼灯、鬼灯。本当にもうお前だけがいればいいよ」
 頬をすり寄せ、狂おしく白澤は囁く。
 ―――世界一幸せにすると言ってくれた。
 共にいる今が一番幸せだと言ってくれた。
 貴方の幸せが私の幸せだと言ってくれた。
 冷静に考えれば、それはとても愚かしい言葉だ。そもそも白澤は不幸せになどなるはずがない。ゆえに、神獣白澤を幸せにしようと考えたものなど過去には一人もいない。
 だが、そんなことは鬼灯とて百も承知だろう。それでもこの優しくて愛しい鬼は本気で白澤の幸せを願い、白澤が想像もしなかった本物の幸福を教えてくれたのだ。
 こんな存在は、長い長い時間の中でも初めてだった。
 失えない。何があろうと失えない。失ったら、きっと自分は狂う。世界を祝福する瑞獣が、世界を呪う狂獣と化してしまう。
「この世界はお前の愛する世界だ。壊すわけにはいかない。けれど、お前がいなくなったら壊さない自信がないよ」
 すがるように鬼灯を抱きしめる。体重こそ乗せないよう加減はしていたが、苦しいだろうと思っても力を緩めてやることができない。
 すると、ゆるりと鬼灯の手が白澤の背を撫でた。
「白澤さん」
 甘くかすれてはいる。だが、明晰さを取り戻した声が、静かに白澤を呼ぶ。顔を上げ、見ると、鬼灯は声と同じく静かな目で白澤を見上げた。
 そして、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「先のことは分かりません。ずっと一緒に居ますと約束してあげられたらいいですが、それはできない話です。でも、この命がある限りは、私は貴方から離れたりはしません」
「鬼灯」
「先を考えたら私たちには別れしかない。その時、貴方が狂っても私は止めてあげることができない。だから、先に言っておきます。本当はぶん殴ってやりたいですが、貴方が狂っても私は貴方を許して、愛します」
 その言葉に。
 白澤の心の中にある何かが打ちのめされる。
「――お前、許してくれるの?」
「はい」
「狂って世界を呪って壊そうとする僕でも?」
「はい。本当は、私のことを想うなら思いとどまってくれと言いたいです。でも、先に逝く私がそんなことを言っても白々しいだけでしょう。貴方が狂うのを止めてあげられない代わりに、私はその狂った貴方を愛し続けます」
 とてつもないことを静かに告げ、鬼灯は仄かに自嘲めいた淡い笑みを浮かべた。
「そうは言ったところで、所詮、口約束です。消滅してしまったら、もう私は何もできない。だから、せめてこうして言葉を貴方に遺すんです。貴方がいつか、私の言葉を思い出して少しでも慰められるように。一分一秒でも長く、世界に対して優しい貴方のままでいられるように」
「鬼灯」
 じわりと言葉にしがたい想いが白澤の胸に広がる。
 元は人の子の身でありながら、鬼灯はできる精一杯で自分を愛してくれる。そう思うと、たまらなかった。
「愛してます、白澤さん。どんな時でも、何があっても」
「――うん」
 うん、と白澤はうなずく。まばたきをすると、涙がほろりと零れて頬を伝った。
「ありがとう、鬼灯。お前がそう思ってくれているなら、僕はきっと耐えられる。お前の居た世界を壊したりせずに、慈しみ続けることがきっとできる」
「はい」
 いつになく優しい目で鬼灯はうなずき、白澤の頬に残る涙の跡を指先で拭って、背を引き寄せる。ついばむようなキスを幾度か繰り返し、それからゆっくりと唇を重ねる。
 白澤もまた、愛しい鬼のすべてを味わうかのように深く深く舌を絡めた。
 想いの丈を伝え合う長い長いキスを終えて唇を離すと、鬼灯はまた白澤を見上げ、言った。
「先のことを考えても仕方がありません。今は私を愛して下さい。そういう時間でしょう? 私を失神させるんじゃなかったんですか?」
「あー。お前を愛する時間には同意だけど、無茶する気は失せたよ。っていうか、最初から失神するまでやる気なんかない。お前は明日、仕事だろ」
「覚えてましたか」
「当たり前だって」
 忘れたことなんか一度もないだろ、とやっと白澤も笑顔を取り戻す。
 そしてもう一度、鬼灯の唇に触れるだけのキスをした。
「それじゃあ続き、しようか」
「はい」
 うなずく鬼灯の身体の熱をもう一度高めるため、白澤はゆっくりとその肌に手を滑らせる。何度もキスを繰り返しながら敏感な場所ばかりを優しく丁寧に撫でると、しなやかな身体はすぐに甘く蕩けてゆく。
 触れる度、口接けを落とす度に、白澤を包み込んでいるやわらかな肉がきゅうと締まる。ひくりひくりと飢えたようにおののいている柔襞の感触を熱に感じて、白澤は微笑んだ。
「好きだよ、鬼灯」
 甘く囁きながら、ゆるりと腰を動かす。焦らしに焦らされ、やっと与えられたその刺激に鬼灯は声にならない嬌声を上げ、全身をびくびくと震わせた。
「――っあ、あ、っ、ん……っ」
 一気に突き上げてしまいたいのを強引に抑え込んで、白澤は丹念に鬼灯の敏感な部分を擦り上げてゆく。長すぎる前戯の間、ろくに触れてやらなかった前立腺のしこりを重点的に責めてやれば、耐えかねたように鬼灯の目から涙がほろほろと零れた。
「ぁ、ひっ、あ、ああっ」
「鬼灯、鬼灯」
 鬼灯の快楽中枢が限界を訴えていることは百も承知で、白澤は猶、しなやかな身体に一層の愛撫を加える。自分が与えるすべてを受け止め、甘やかによがり泣く鬼灯がたまらなく愛おしい。
 だが、もう随分と焦らしてしまっていることだし、一度先に達かせてやろうと、感じやすい場所ばかりを狙って突き上げ、雁で擦り立てる。
 すると、不意に二の腕を強い力で掴まれた。
「――ゃ、です……っ」
「え?」
 何が、と見下ろせば、鬼灯は泣き濡れた目で白澤を見上げていて。
「先に、達くのは……嫌、です」
 過ぎる快楽に唇をわななかせながら、鬼灯は懸命にそう訴えた。
「達く、なら……っ、一緒に……」
 震える声と共にまた新たな涙がほろりと零れ、こめかみを伝い落ちてゆく。その様に、白澤の胸は痛いほどに締め付けられた。
「鬼灯」
 汗に濡れた髪を撫でてやると、鬼灯は二の腕を掴んでいた手を離し、白澤の首筋に回す。
 好きです、傍に居て下さいと訴えかけるその仕草に、白澤はやっと気付いた。
 有限の命を持つ鬼灯は、白澤が思い悩むよりもずっと以前から、自分いつか居なくなることを重く受け止めていたのだろう。
 それでも白澤を選び、命のある間に精一杯愛し合おうと心を砕いていてくれたのだ。
「鬼灯、好きだよ。ずっとお前の傍に居るから……」
 艶やかな漆黒の髪を撫で、濡れた目元に口接けながら、白澤は自分の鈍さを心底、歯痒く思った。
 鬼灯にはある生と死が自分にはない。ゆえに、死生に係わる機微にはどうしても疎くなってしまう。だが、鬼灯はそのことすらも許してくれているのだろう。
 本当にどれほど愛しても足りないほどに愛おしかった。
「一緒に……いこう」
 優しく囁いて、再びゆるりと腰を使う。途端に、鬼灯はびくりと身体をのけぞらせながら甘い声を上げた。
「鬼灯……っ」
「――っ、あ、やっ、そ……こ、やぁ……っ」
「ここ?」
「ひぁっ、や、駄目、そこは、駄目っ……」
 白澤が動く度に、たっぷりと使った潤滑液がくちゅり、ちゅぷりと淫らな水音を立てる。わざとその音を響かせながら、最奥の弱い個所を小刻みに責め立ててやると、鬼灯は半ば意味をなさない嬌声をとめどもなく零し始める。
「あ、っ、ん……んっ、ふ、ぁっ」
 それでも時々、一瞬理性が浮上するのか、単なる癖なのか、声を抑えようとするのがひどく可愛らしい。そんな意地は、ほんの数秒後には解けてしまうから、尚更にいじらしく白澤には感じられた。
「は…く、たく、さん……っ」
 もう達きたい、とすがるように名が呼ばれる。肩に回された両手も、先程からきつく爪を立てられている。鬼灯は爪を短く摘んでいるから血こそ出ないが、痛みがないわけではない。
 だが、それらも全て、鬼灯を愛していることの証だった。
「うん、もう少し、な」
「や…っ、も……無理、っ」
 自分もあと少しだから、と声をかけると、きちんと聞き取ったらしい鬼灯は、嫌だと首を横に振る。
「早く……っ、はくたく、さ……」
 快楽にとろけて霞む目を懸命に開き、鬼灯は訴える。その間も柔襞は狂い泣くようにひくつきながら白澤の熱に絡みつき、舐めしゃぶるような動きで絶頂を誘った。
「鬼灯、いいよ……お前の中、ものすごく気持ちいい」
 自分の方が蕩けてしまいそうな錯覚を覚えながら、白澤は鬼灯の最も敏感なところを丹念に突き上げる。
「ひ、あ、あぁっ、や、そこ、っあ、」
 緩急をつけてとろとろになった最奥を優しくかき混ぜてやれば、もうたまらないのだろう。鬼灯の唇から引き攣った嬌声が噴き零れた。
 だが、それでもまだ絶頂には至らない鬼灯に、もしや、と白澤は思い至る。ここまで焦らしすぎたために、感じすぎてかえって達けなくなっているのかもしれない。
 ならば、と白澤は鬼灯の熱に手を伸ばした。
「――っ、っ……!!」
 ずっと放っておかれたそこはぐずぐずに濡れそぼり、ひくひくと苦しげにおののいている。白澤は手のひらにやわらかく包み込むようにしながら、親指の腹でそっと先端に触れた。
「ふぁ…っ、あ、あぁ……っ!」
 丸みを優しく撫で回してやれば、完全に目の焦点を失った鬼灯の唇が、はくはくと空気を噛んで震える。
 白澤の熱を深く呑み込んでいる秘処も、柔襞が助けを求めるかのように熱塊にすがり、きつく締め上げる。
 だが、白澤はそのままもう容赦せずに最奥までを速い動きで突き上げ、手の中の熱を手のひら全体で擦り立て、撫で回した。
「やあっ、っ、ん、あ、ひぁ……っ!」
「達っていいよ、鬼灯……っ」
「あ、や、は…く、たく、さ……っ」
「大丈夫、僕も一緒に達くから」
 鬼灯の右手に自分の左手を重ね、手のひらを合わせてしっかりと指を絡める。途端、ぎゅうと指が縋り付いてくるのがたまらなく愛おしかった。
 そしてそのまま白澤に導かれて鬼灯は昇り詰める。
「っあ、あ、―――っっ!!」
 最後は声にならぬ声を上げ、全身をのけぞらせて激しく身体を震わせる。
 絶頂痙攣の起こすきつい締め付けに、白澤も低く呻いて堪えに堪えていた熱を鬼灯の中に解き放った。
「――鬼、灯……」
 とてつもなく深く激しい快感の余韻と虚脱感に全身の力を奪われたような感覚に襲われ、白澤は鬼灯の上に倒れ込む。女性相手ならばこんな真似は出来ないが、鬼灯なら人型の白澤の体重くらいで潰れたりはしない。
 鬼灯のどくどくと脈打つ鼓動を聞きながら、同じくらいに速い自分の鼓動を聞く。
 重なり合った胸は二人分の汗にぬるついていて、でも風呂は晩御飯の後でいいや、とけだるさの極地で考える。
 そんな風に余韻に浸っているうちに呼吸はゆっくりと鎮まってゆく。白澤は重い体を思い切って動かし、鬼灯から自分自身を抜いた。
「……っ、ん……」
 ずるりと粘膜が擦れ合う感覚に、鬼灯が小さく呻く。やっと解放された蜜口からは透明な潤滑液と白濁した粘液がとろりと溢れ出して、ひどくエロティックな光景を作り出す。
 白澤は自分の悪い心が沸き立つのを抑え込みつつ、ティッシュを取って手早く鬼灯と自分の後始末を終えた。
「鬼灯、生きてる?」
「……勝手に殺さないで下さい」
 呼びかけると、かすれた低い声が返る。
 あれだけ嬌声を上げ続ければ、声が涸れるのも当然のことだろう。だが、治癒力の高い鬼灯のことだ。朝になれば元の美声に戻っているはずである。
 身体の疲労も同様であり、何の心配もない。満足して、白澤は鬼灯の隣りに自分の体を横たえた。
 そして、まだ余韻が抜け切らないのだろう。けだるげな鬼灯を見つめる。
「眠っていいよ。疲れただろ。晩飯ができたら起こしてあげる」
 声をかけると、しどけなさを残した闇色の瞳がきろりと睨んだ。
「……また無茶をしてくれましたよね……」
「お前が可愛すぎるのが悪い」
「毎度毎度、同じ言い訳が通ると思ってんですか」
「だって他に理由なんかないし」
 笑って言い、白澤は指を伸ばして鬼灯の前髪を梳く。汗に湿ったままの髪は、まだいつものようにはさらさらとは流れない。
「それにさ、本当に嬉しかったんだよ」
 告げると、鬼灯の眉間に浅く皺が寄る。快楽に理性を飛ばしていても、交わした会話の内容は覚えているのだろう。
 だが、やがてふっと鬼灯は肩の力を抜いて目を閉じた。
「雰囲気に流されたのは否めませんが、全部本当のことですから。いいですよ、そのまんま覚えていて下さって」
「――それ、もし駄目だって結論出てたら、僕が記憶を失うまで殴るつもりだったろ、お前」
「当たり前です」
「当たり前にすんな」
 軽く抗議して、白澤はまた笑う。
「何度も言ったけどさ。本当にお前だけがいればいいよ、鬼灯。お前がいるだけで僕は幸せになれる。その後も、お前がいた記憶があれば、きっとこの世界の最後まで笑っていられるさ」
「……そうして下さい。でないと、おちおち死んでもいられません」
「うん」
 うなずき、白澤は寝台の上を少しだけ移動して、鬼灯に触れるところまで近づき、ぴたりと寄り添った。
「鬱陶しいですよ、白豚さん」
「うん。でも、もうしたら御飯作りに行くから。それまでちょっとだけこうしてて」
「……本当に仕方のないひとですね」
「うん。お前がいないと本当に駄目だ」
「……知ってます」
 小さく呟いた鬼灯は右手を上げ、白澤の頭をぽんぽんと撫でる。
 そして、ことりと白澤の肩口に頭を寄せた。
「鬼灯?」
「少し寝ます。御飯できたら起こして下さい」
「うん。おやすみ」
 微笑んで、今度は白澤が鬼灯の頭を撫でる。程なく鬼灯の呼吸が穏やかな寝息へと変わる。
 安心しきった表情で眠る鬼灯を見つめ、白澤は白い角の付け根にそっと口接けを落とした。
「お前が僕に出会ってくれて本当に良かった。ありがとう、鬼灯」
 愛してる、と囁いて、白澤は鬼灯を抱き寄せたまま目を閉じる。
 このまま寝てしまえば、おそらく空腹が限界に達した鬼灯に蹴り起こされるだろう。それはそれでいいや、と思いつつ、白澤の意識も鬼灯と同じやわらかな眠りへと沈んだ。

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