「それじゃあ、さ」
往生際悪く、白澤は切り出してみる。
「たとえば期限を設けるのは駄目なのか? たとえば、向こう千年は浮気しませんとか」
遠慮がちな申し出を、しかし、鬼灯は一顧だにしなかった。
「貴方はアホですか。いえ、失礼。最初から大アホの駄獣でしたね」
「ヲイ」
「馬鹿も休み休み言って下さい。向こう千年は浮気をしなかった。それならと千一年目に浮気されて、私が怒らないとでも思うんですか?」
「いや、だからそこは、また千年の約束を更新するとこだろ!?」
「嫌です。そんなこと面倒くさい」
更新しなければならないような約束なら最初からしない方がマシです、とにべも無い。
「そこまで信用ないのかよ!」
「あると思う方がおかしいだろうが! 自分の行動を一万年分振り返ってから言え!」
それを言われると返す言葉がなかった。ぐっと言葉に詰まり、白澤は肩を落とす。
そして、鬼灯を僅かな恨めしさを込めて見つめた。
いつ、どれほどまなざしを向けようと、目の前の鬼神は美しかった。そうでなかった瞬間を――醜く歪んだ彼を白澤は知らない。
顔の造作ばかりではなく、誰よりも強靭な意志と明晰な思考が、凛と揺るぎない彼の容(かたち)を造り上げている。
およそ三千世界において、これほど白澤の目を惹き付けてやまない存在は他にない。
日本地獄の至宝とも呼ぶべきこの鬼が欲しいと心底思い、そして手に入れたはずだった。
けれど、やはり鬼灯は鬼灯で、情のために世の理(ことわり)にそぐわぬ選択をすることはないのだ。
否、それは正しくない。鬼灯は白澤の浮気を認めたのである。それだけでも、彼の苛烈かつ根本のところで生真面目な性格を思えば、信じられないほどの最大限の譲歩だった。
ただ、その譲歩が白澤の望む方向性のものではなかった辺りが不幸であっただけである。
仕方ない、と白澤は自分自身の心に見切りを付けた。
「分かった。この件についてはお前の言い分を呑む」
「分かればいいんです」
白澤の敗北宣言に対し、鬼灯は傲岸にうなずく。
この野郎、と思いながらも白澤は、鬼灯に向けて人差し指を真っ直ぐに突きつけた。
「但し! 浮気をするもしないも僕の勝手だ。しろと言われてするもんじゃないだろ。この際だから遠慮なく揚げ足を取らせてもらうが、お前にできるのは僕の浮気を追認することだけで、行為そのものはお前が口出しをすべき問題じゃない。そうだろ?」
「チッ」
「どうしてそこで舌打ちする!?」
心底嫌そうな顔をした鬼灯に、白澤は思わずツッコミを入れる。
すると、鬼灯はひどく横柄な態度を隠そうともせず、両腕を組んで堂々と言い放った。
「いつ浮気をするか分からない宙ぶらりんな状況より、日常的に浮気をしていてくれた方がマシだからに決まってるでしょうが」
「だから、何でお前は僕が浮気すると決め付けるんだ!」
「貴方がこの先、一万年も二万年も浮気をせずにいられるとは到底、想像ができないからです」
それに、と顔色も変えずに鬼灯は続けた。
「貴方の性欲が全て私に向けられても迷惑ですからね」
「何でだよ!?」
「だって、どうやったって無理でしょうが。私は多忙な身です。貴方と月に何回会えると思ってるんですか」
「幾ら僕でも、お前相手に毎日やらせろとは言わないぞ! そこまで無理させる気なんかない!」
「貴方なんかのために無理をするわけないでしょう。仕事なら多少の無理はしますが、その分、僅かなプライベート時間は自分のために費やすことにしてるんです」
「〜〜〜ああ言えばこう言う……!!」
「お前ほどじゃねェよ」
ふん、と最後はべらんめぇに言い、鬼灯はそっぽを向く。
そんな鬼灯を白澤は苦虫を百匹ほどもまとめて噛み潰した顔で睨みつけていたが、そうしていても埒が明くわけではない。
肺の空気を全て吐き出すような大きな溜息をつき、無理矢理自分の気持ちにキリをつけた。
「とにかくだ。お前が僕をこれっっっっっぽっちも信用していないのは、よーく分かった」
「信用されてると思ってたんですか」
「夢見た僕が馬鹿だったんだよ」
「それはそれは。一つ賢くなれて良かったですね。アメーバからゾウリムシくらいには進化しましたか?」
「お前はもう黙れ!」
鬼灯も虫の居所は決して良くないのだろう。逐一嫌味を挟み込んでくる恋人に、白澤はこめかみに青筋を立てながら沈黙を要請する。
そして、真っ向から鬼灯を見つめながら告げた。
「そうまで言うんなら賭けろよ、鬼灯」
「何をです?」
「僕が浮気するかどうか」
「……賭ける意味がないでしょう。負けた時の罰を恐れて浮気をしないというのは、倫理的にどうなんです?」
「だから! 最初からしないって言ってんだよ。それを証明するための賭けだ」
強い調子で言い切ると、鬼灯は闇色の瞳で白澤の真意を測るかのようにじっと見つめてくる。
そのまなざしから白澤は目を逸らさなかった。
「もし僕が浮気をしたら、一回ごとに、お前の言うことを一つだけ聞いてやる。欲しいものは何でもやるし、無抵抗のサンドバックになれって言うんならなってやるよ」
「なるほど。それは面白そうですね。貴方を剥製にして淫獣の像と銘打って、末永く衆合地獄の入り口に飾ってあげますよ、と言いたいところですが」
「が?」
「さっきも言いましたが、罰則はこの場合、無意味でしょう。貴方が負けても私は何もしません。私の主張が正しかったということが証明されるだけです。浮気を別れ話の口実にしたりもしませんから、安心していいですよ」
「……本当に信用ねーな」
「今更のことを」
ふん、と鬼灯は吐き捨てる。
そんな鬼灯を椅子に座ったまま見上げ、まぁいい、と白澤は切り替えた。
「お前がいいと言うんなら、負けた時のオプションは無しだ。でも、僕が勝った時の褒美はあってもいいだろ」
「……内容によります」
とんでもない内容の褒美のために張り切られるのも嫌だという態度を、鬼灯は隠そうともしない。
だが、そんな鬼灯の目をまっすぐに見つめ、白澤は言い切った。
「お前がこの世界から消えるまで僕が一度も浮気しなかったら、一回だけでいい。口に出して僕を好きだと言え」
さすがに意表を突かれた顔でこちらを見る鬼灯の視線を、白澤は正面から受け止める。
『好き』という可愛らしい単語なぞ、これまで鬼灯の口から一度も聞いたことはないし、聞けると期待したことも一度もない。そういう可愛げは微塵もない相手なのだ。
だから、これは千載一遇のチャンスだった。鬼灯が賭けに乗ってくれば、少なくとも一度は確実に聞くことができる。
じっと白澤が答えを待っていると、やがて、鬼灯の口元がよくよく観察しなければ分からないほど微かに弧を描いた。
「いいでしょう。今際(いまわ)の際に、清廉潔白な身の上の貴方が私の目の前に居たなら、その時は言ってあげますよ」
「好」
よし、と白澤はうなずく。
「絶対に言わせてやるからな!」
「期待しない方が賢明ですよ」
最後までつれないことを言いながら、鬼灯は懐から愛用の懐中時計を取り出す。そして慣れた仕草で蓋を開け、時刻を確かめた。
「言いたいことは言いましたし、そろそろ帰ります。仕事を抜けてきているので」
「え? せっかくなんだしお茶くらい、いいだろ?」
「貴方を殴って伸して折りたたむために一時間だけ確保してきたんです。余分はありません」
「一時間の休憩なら、あと十五分くらいは残ってるだろ!? 直ぐにお茶入れるから! 何なら地獄の入口まで僕が送るから!!」
「……本性の貴方で?」
「当然!!」
僅かに心動かされた様子を見せる鬼灯に、白澤は必死にうなずく。
とにかく動物好きの鬼灯は、神獣姿の白澤に対してだけは、ほんの僅かに点数が甘い。
使えるものなら自分の本性でも何でも使う勢いで期待を込めて見ると、極上の毛皮の威力はやはり絶大だったのだろう。
鬼灯は、さほど勿体ぶる素振りもなく、いいですよと応じた。
「やった! じゃあ鬼灯は桃タロー君たち呼んできて。皆でお茶にしよう」
白澤は喜色を輝かせて椅子から飛び降り、カウンター向こうの棚に仕舞ってある茶道具一式を取りに走る。
そして超特急で茶の支度を始めた白澤は、皆でという単語に意表を突かれたような顔をしていた鬼灯が、実に珍しいことに仄かな笑みを口元に刷いて、桃太郎たちを呼びに行くべく極楽満月の扉を開けて出て行ったことに気付かなかった。
End.
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