春天
バンッと木製の扉が力任せに開かれる音に、扉に嵌め込まれた薄いガラスが激しく震える音が重なる。
この扉をこんな風に開ける存在を、白澤は三界広しと言えども一人しか知らない。
とうとう来やがったか、と半ば面白がるような心地でそちらへとまなざしを向けた。
「もう少し静かに扉を開けられないのか? うちの従業員が怯えるだろ」
実のところ、この扉が時折立てる轟音に慣れっこの兎たちは、一瞬長い耳をそばだてたものの、すぐ平静に戻って生薬を仕分け、刻み、すり潰す作業に専念している。
不意の来客もそれを承知しているのだろう。炯々と輝く瞳で真っ直ぐに白澤を睨み付けた。
「話があります」
何とも素っ気ない一言である。だが、込められた意味は、白澤には分かりすぎるほどに分かる。
わざとらしく肩をすくめ、兎たちに声をかけた。
「ごめんよ、君達。僕が呼ぶまで外に出ていてくれるかな。外に居る桃タロー君にもそう伝えてくれる?」
人払いを頼めば、兎たちは小さな鼻をふこふことうごめかして了承の意を伝え、一斉に扉に向かって客人の足元を跳ねながら外に出て行く。
そうして二人きりになったところで、不穏極まりない雰囲気を撒き散らしている客人は入り口の扉を閉め、更には念入りに内鍵までかけた。
「はい、どうぞ。誰も居なくなったよ?」
「――――」
カウンターに背を預けたまま促すと、客人は数歩、白澤に向かって足を進める。
僅かに翻る艶のない漆黒の衣と、そこからちらちらと見え隠れする血赤の長襦袢の取り合わせは、艶(なまめ)かしいというよりも毒々しく苛烈な力感に満ちている。
そう思わせるのは、それを纏っている人物の気配こそが、どうしようもないほどに猛々しく燃え盛っているからだった。
「――どういうつもりですか」
低い、地を這うような声が厳しく白澤を問う。
「どうって?」
はぐらかすように問い返せば、向かい合う相手の闇色の瞳の奥に地獄の業火が見えた。
ことの始まりは、衆合地獄だった。
実地監査を好む閻魔大王の第一補佐官はいつものように見回りに出て、そこで近況を尋ねた複数の相手――客引きや女性獄卒たちから、とある情報を訴えかけられた。
それぞれがひどく遠慮がちに、かつ、恐る恐る彼らが言うには、最近、某上客の遊び方がひどく大人しくなり、取り分けて妓楼には全く寄り付かなくなったため、何があったのか心配なのだという。
同時に、彼の遊び方が大人しくなった分、各店舗に落とす金も比例して少なくなったため、何となく衆合地獄全体の雰囲気が沈みがちで困っているというのである。
その上客の名は――言うまでもない。
全身から怒気を噴き上げながら、それでも口調ばかりは丁寧に説明した鬼灯に、さてどう説明したものかなと白澤は考える。
最近の自分の素行を鬼灯が聞き付けたら激昂するだろうことは、予想はついていた。
この鬼神は、とにかく自分の発した言葉を曲げられるのが大嫌いなのである。
可なら可、否なら否、己がそう決定付けたものが破られることが我慢ならないのだ。
生真面目さゆえでもあるのだろうし、生来の性格と長年の実績から生じる高い矜持のせいでもあるのだろう。
自分が最良と判断して裁可した結果、しかもお前も賛同したそれの何が気に入らないのかと、そう怒鳴り込んできたのである。
「僕が花街でどんな遊び方をしようと勝手だろ」
「ええ、勝手です。私はそれには口出しをしないと約束しました」
「じゃあ、何が不満だ?」
「わざわざ言わせなくても分かっているでしょう。それとも、それすら判断がつかないほど貴方は愚鈍な偶蹄類ですか。アメーバ以下の存在ですね」
苦々しげに一息に吐き捨てる。
白澤は、この男に可愛げを求めたことなど髪一筋ほどもないが、それにしても恋人に対する態度ではないよなぁと心の中で嘆息する。
「相愛の恋人に、どうして浮気をしないだなんて責められる男は、三界広しと言えども僕くらいのものだろうなぁ」
つい、そう呟けば、鬼灯のまなざしに燃える業火は一段と厳しいものになった。
しばし、無言でまなざしを交わした後、深い溜息をついた白澤は座ってもいいかと鬼灯に求め、手近にあった椅子に腰を下ろす。
今の鬼灯には座れと勧めるだけ無駄だと分かっていたから、そのまま五十センチ近い身長差の生じた相手を見上げた。
「この間も言ったけどさ、お前がきちんと色々考えて僕の浮気を認めたことは分かってる。僕も、お前のその考え方は嬉しいと思ったから賛同した。ここまではお前も分かってるよな?」
「ええ。説明を求めているのは、その後の行動です」
鬼灯の声にも口調にも、寛恕の響きは微塵もない。
何の因果で神獣の自分が、まるで重大な罪を犯した亡者であるかのように地獄の鬼神に責め立てられなければならないのか。
しかも、その鬼は先日、情を交わしたばかりの恋人である。
まったくもって不可解な気分で後ろ髪を掻き揚げつつ、白澤は答えた。
「繰り返すけど、嬉しかったのは本当なんだよ。世間一般の目で見れば浮気は罪だ。お前の言う通り、人なら死後は地獄に真っ逆さまだよ。
でも、お前は地獄の法に携わる身でありながら、僕たち二人の行く末を見据えて自分の中の法を曲げ、僕の浮気を認めた。現世でも今の日本にはもう姦淫罪なんてないから、当事者が責めない限り、浮気は罪にならない。お前は自分の中でそう納得して、それを僕に告げた。そうだろ」
「ええ、その通りです」
白澤を見下ろす鬼灯の目は、苛烈かつ冷ややかなままだ。
八寒地獄の永久凍土に八大地獄の燃え盛る業火が閉じ込められている。
それは限りなく恐ろしく、限りなく美しい生きた宝石と白澤の目には映った。
「僕にとっては天国のような申し出だったよ。これまでと何も変わらないまま、お前が僕のものになる。何一つ僕は失わない。最高の話だ」
「あの時も間違いなく、貴方はそう言いましたね」
「言ったとも。だけどねぇ、鬼灯」
「僕は、お前のその言葉を聞いた時点で、お前を裏切るような真似は絶対にするまいと心に決めたんだよ」
そう告げた途端、白澤を焼き尽くさんばかりの灼熱が鬼灯の瞳に燃え上がった。
その様を見つめながら、怒るなよ、とは白澤は言わなかった。それこそ無駄だからだ。
浮気を認める鬼灯の宣言を否定しなかったのに、心の中では正反対の結論を出していた。
それは鬼灯に対して嘘をついたことと何ら変わりがない。内容に関係なく、行為としては間違いなく不誠実だった。
加えて、内容もまた。
鬼灯が彼なりに考え抜き、納得した結論を真っ向から否定し、覆(くつがえ)すものである。
鬼灯からしてみれば、想いを通じたばかりの相手に対する最大限の誠意を足蹴にされたにも等しい。
これで怒髪天を衝かなければ嘘だった。
「貴方という人は……!」
彼愛用の金棒の環に置かれた鬼灯の手が激しく震える。
極楽満月には希少な生薬も数多く貯蔵されていると承知している鬼灯は、店内では滅多なことでは暴れない。
だが、そうと分かっていても金棒が振り上げられないことは、白澤の目にはいっそ奇跡だと映った。
いかなる葛藤が彼を苛んでいるのか、鬼灯は白澤から顔を逸らし目を閉じる。
こめかみに青筋が浮き上がり、伏せられた真っ直ぐな長い睫毛が震える。その端整な横顔を白澤は黙って見つめ続けた。
やがて少しだけ落ち着いたのか、鬼灯は苦く重い溜息をつき、疲れ果てた仕草で右手で半顔を覆った。
「白澤さん」
「何」
「貴方は本気でその誓いを守れると思ってるんですか」
問いかける鬼灯の声は低いものの、いつもの平静さを取り戻している。
感情の発露に素直な鬼灯が憤怒をここまで堪えるのは初めて見たと思いながら、白澤はしかし、寝た子を起こすような答えを返した。
「さあ?」
そう口に出した途端、半顔を覆ったままの鬼灯が片目でぎろりと睨みつけてくる。
「しょうがないだろ。ここで是(シ)と答えたら、お前、それこそ本気で僕を殺そうとするだろ」
「当たり前です!」
「言い切るんだもんなー」
これだから、と白澤は溜息をついて、行儀悪く椅子の上で両膝を抱え込み、膝頭に額をくっつけるようにして顔を伏せた。
「永遠に変わらないものなんて無いんだよ。年々歳々花相似って言ったって、数千年前にはその花は無かったし、数千年後にもその花は無い。山だって海だって一万年もあれば見事に形が変わる。
でもさ、その時その花が咲いていたのは決して嘘じゃないんだ。まばたきに満たない僅かな刹那であっても、夢幻じゃない」
「だから、私を裏切るまいと思った貴方の気持ちも嘘ではないと言いたいんですか」
「是」
短く答えると、今度は鬼灯が深い溜息をついた。
そしてそのまま、極楽満月の店内にはしんと重苦しい沈黙が落ちる。
一分か二分か、十分か二十分か。
時の流れも分からなくなるような静寂の後。鬼灯は変わらぬ重い声で白澤の名を呼んだ。
「白澤さん」
「うん」
「貴方のその誓いを私が信じて、その後、もし貴方がその誓いを破ったら、私は二重の意味で貴方に裏切られることになるんです」
「二重?」
瞬時にはその意味するところが分からず、白澤は伏せていた顔を上げ、鬼灯にまなざしを向ける。
彼の闇色の瞳には、既に燃え盛る業火の色は無かった。ただ、どこまでも深く澄んで沈んでゆく。いつも通りの鬼灯のまなざしだった。
そのまなざしで、ひたと白澤を見つめたまま、鬼灯は続けた。
「そうです。一つ目は、言葉で交わした約束を破ったという裏切り。もう一つは、貴方を信じた私を虚仮(こけ)にしたという裏切りです」
言葉と、心と。
その二つを同時に裏切ることになるのだと鬼灯は告げる。
「私は自分の口で信じると言ったら、本当に信じます。口先だけの約束は嫌いですから。できない約束は最初からしません。その代わりに、その信じたものに裏切られることも我慢がならないんです」
落ち着いた鬼灯の声は、深い淵を流れる冷たく澄み切った水のようだった。
白澤の周囲でゆっくりと旋廻して渦を巻き、そして静かに鼓膜を圧し、内に染み透ってゆく。
「貴方の言う『真実』については否定しません。貴方が真実というのなら、それは真実なんでしょう。ですが、私は貴方の誓いは信じません。信じた相手に裏切られて平静で居られるほど、できた性格はしてませんから」
信じるのならば純粋に信じる。白澤の今現在の想いと誓いが本気であることは信じても良い。
けれど、約束そのものは――否定する。
そんな鬼灯の結論に対して非を唱えることは、白澤にはできなかった。
数千年の後には、美しい花を毎年咲かせた大樹も枯れ果てると知り尽くしている身である。
鬼灯もまた、そのことを知り尽くしている。
そんな流転が常である世界の中で自分だけが変わらないと告げたところで、目の前の鬼神は決して信じない。
天の星々ですら生まれては消えるのだ。不変を信じろと言っても、この超合理主義者が信じるわけがない。
どうしたものか、と白澤は鬼灯を見上げながら考える。
本音を言うならば、信じて欲しかった。
他人の目にどう見えていようと、白澤はこうであろうと決めたことは貫く主義である。
逆の言い方をすれば、できないことは最初からやらないのだ。
自分がやりたいことに逆らわず、在るがままに過ごす。それは云わば、永劫の刻(とき)を超えるものの生きる知恵のようなものだ。
無理は魂を濁らせ、存在そのものを疲弊させるのだと、この世に生じた時から本能的に白澤は知っていたから、一度も自らの欲望に逆らったことは無い。
そして、あの日あの時、鬼灯を絶対に裏切りたくないと思ったのも、また本心である。白澤が本気でそう在りたいと思った以上、心が翻らない限り、それは不変となる。
だが、『心が翻らない限り』と注釈がつくことだけは、神獣の存在をもってしてもどうにもならなかった。
心は翻るのだ。どんな存在であっても、必ず。
ただ、白澤はこの件に関してだけは、自分の心は変わらないと確信していた。
そもそも心変わりするような生半可な気持ちで、この鬼神に手を出せるわけがない。
しかし、それを具体的に証明する手立てがどこにも見当たらないのである。
明瞭に証明して見せない限り、この恋人が誓いを信じることは決してないというのに。
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