・白鬼ですが、白鬼白を多分に含みます。

良夜

 僕が死ぬ時は世界が崩れる時だからね。
 永劫にも近い時を生きるのに、失うことを恐れていたら何も愛せない。
 だから、鬼灯。
 お前がいつか居なくなって、それから何億年経ってもお前を思い出せるくらい、お前を愛させておくれね。

*       *

 夜の狭間でけだるい息をつく。
 自分の肉体を他人に預けるのは、思ったよりも難しいことではなかった。慣れないことだけに違和感はあるにせよ、別段気分も悪くない。
 普段自分が使用しているものとは異なる、やわらかな肌掛けの感触を感じつつ目を伏せていると、気配が一つ、寝台に近付いてくる。
 ひたひたと響くのは素足が木の床に触れる音ではあるが、そこに忌まわしさは微塵もない。
 むしろ、ふわりと春風の気配が近付いた、そんな清々しさと芳しさを含んだ感覚が鬼灯の枕元まで押し寄せる。
 そして、
「ほら、水」
 喉が渇いただろ、とかけられた声に目線を上げれば、天敵ともいうべき神獣の化身が日本風の湯呑をこちらに差し出していた。
「……どうも」
 喉が渇いていたのは事実だったから、無闇に暴力をふるって水を零すような真似はせず、鬼灯は上体を起こす。
 その動きが常よりものっそりとしたものになったのは、つい先程までの行為がまだ身の内に響いていたからだ。
 だが、それはおくびにも出さず、鬼灯は湯呑を受取った。
 片手で掴める大きさの陶器の器に湛えられた水は冷たく、甘く喉を滑り落ちて全身を潤す。
 只の水であるにもかかわらず、それは素晴らしい甘露だった。
「桃源郷の水は美味いだろ?」
「……貴方に言われた途端、台無しになりました」
「かっわいくないねえ」
 せっかくの感慨に水を差され、眉間に深い立て皺を寄せて睨みつけてやれば、夜着の上衣を羽織っただけの白澤は寝台の端に腰を下ろし、けらけらと笑う。
 いつものように言い返してこないところを見ると、余程に機嫌が良いらしい。否、それよりも浮かれているのか。
 その原因が自分だと思うと何とも苛立たしく、鬼灯は本能の命じるままに白澤の脇腹に手刀を叩き込んだ。
「うぐぉっっ!!」
 完全に油断していたのだろう。まともに肝臓の辺りをどつかれて、白澤は腹を抱えて体をくの字に折り曲げ、くぐもった苦鳴を上げる。
 それを心地良く耳に聞きながら、湯呑を傍らの小卓に置いた鬼灯は、素知らぬ顔で彼に背を向け、寝台に再び横になった。
「お、ま、え、なあ! 人をどついといて寝てんじゃねーよ!」
 そんな鬼灯に、白澤は声を荒げながら圧し掛かる。
 だが、鬼灯にしてみれば、彼の言動など構うほどのものではない。
「私は明日も仕事なんです。極楽蜻蛉で暇人な貴方と一緒にしないで下さい」
 寝たいのだと言外に告げて、肌掛けを肩まで引き上げる。
「ここは僕の寝台だぞ! 少しは遠慮しろ!! つーか、うちだって明日は営業日だ!!」
 そう騒ぐ白澤を無視して目を閉じると、しばらくの間、彼はぶつぶつと文句を言っていたが、やがて諦めたのか小さく溜息をつき、右手を伸ばして鬼灯の髪に触れた。
 生薬を器用に扱うしなやかな指先が、癖のない鬼灯の髪を軽く弄び、梳きやる。
「まったく……何かが変わるかと思いきや、お前はお前のままだな」
「――変わって欲しかったんですか」
「いいや。これっぽっちも」
 目を閉じたまま問えば、白澤はさらりと笑った。
「むしろ、一度寝たくらいで変わられたら興醒めだよ。僕は別にお前が可愛いから欲しいと思ったわけじゃない。憎たらしくて腹の立つばかりのお前に惹かれたんだから、その印象がいきなり変わったら困るってもんだ。長い時間を過ごす間に、ゆっくり変わっていく分には構わないけどさ」
「変わりませんよ、私は」
 持って生まれた性分というものが誰にでもある。
 どれほど年月を経ようと、どんな経験をしようと変わることのない芯ともいうべき何か。
 時が姿を変え、性格の表面的な部分を変えたとしても、決して変わらないその部分がある限り、自分は自分だと告げれば、再び白澤はさらりとうなずいた。
「うん。お前とまともに知り合ってから……二千年近いか? お前の印象は、お互いに名前をきちんと名乗った初対面の時からちっとも変わってない。これからも簡単には変わらないだろうよ」
「貴方だってそうですよ、酒漬けの浮かれ偶蹄類。昔っから奈良漬と大差ないじゃないですか」

 鬼灯と白澤が知り合ったのは、正確には遥か数千年ほども昔の神代にまで遡る。
 ただ、出会いの記憶はいずれにおいても鮮明ではなく、話をつき合わせて、ああ、あの時の相手はお前だったかと認識しただけであるため、知り合ったうちにはカウントできないのだ。
 それでも、地獄に来て間もない子鬼の時、中国の制度を学びに行った時と、度重なって顔を合わせた以上、一人と一匹の間には何らかの縁があると見るべきなのだろう。
 だが、しかし。
(その挙句が、この現状とはね)
 意識していがみ合うようになってから、かれこれ千年余。
 その末路がこれであると思うと、物心付いて以来泣いた記憶のない鬼灯ですら目頭が熱くなるような錯覚に襲われた。

「お願いだから死んでくれませんか、この駄獣」
「お前ね……。前々から思ってたけど、僕を神獣と認める気がこれっぽっちもないだろう」
「あるわけないです」
「即答するなよ!」
「真実を隠してどうするんですか。私にはそういう姑息な趣味はありません」
「あーあー、お前はそういう奴だよ」
 忌々しげに溜息をつき、白澤は気を取り直したように言葉の調子を少しだけ改めた。
「あのさぁ、わざわざ言いたかないけど、一応は恋人とか情人とかいう間柄になったわけだよ、僕もお前も。態度を改めろとは言わないけど、その現実くらいは認めろよ」
「認めてるから文句付けてるに決まってんだろうが」
「おやおや」
 ドスを効かせた低い声で毒づけば、白澤は呆れたように肩をすくめる。
 そしてまた、飽きもせずに鬼灯の硬質な黒髪を梳き撫でた。
「ま、お前のそういう偏屈なとこも嫌いじゃないよ。腹は立つけども、退屈しなくて済む」
「お前に褒められても嬉しくない」
「うん、僕も口が曲がりそうだ」
 告げる白澤の声は笑んでいる。おそらく表情も面白げな笑みを浮かべているのだろう。
 そう思うと、また付きたくもない溜息が鬼灯の胸の内に込み上げた。




 自分たちがこんな風に時間を過ごす羽目になっているのは、成り行きであったともいえるし、千年に渡って膠着状態だった現状に見切りを付けた結果だともいえる。
 鬼灯が白澤を嫌いだと公言し続け、また事あるごとに暴虐を振るってきたのは決して嘘ではないし、照れ隠しでもない。
 正真正銘掛け値なしに、顔を見れば無性に腹が立つ相手なのである。
 しかし、逆に見れば唯一、無条件に腹が立つ相手であるということが何を意味するか、自分で自分を理解できないほど鬼灯は愚鈍でもなかった。
 そもそも鬼灯は、名付け親でもあり、自分を引き立ててくれた恩人でもある閻魔大王に対しても、殴る蹴るぶん投げるの仕打ちを躊躇わない性分の持ち主である。
 だが、決して大王を嫌っているわけでも軽蔑しているわけでもない。
 本心としては、むしろその反対で、大王の人格にも才覚にも一目置いているし、篤い恩義も感じている。
 一方、白澤に対しては、才覚には一目置いているものの、性格や素行についてはこれっぽっちも評価していない。
 にもかかわらず、鬼灯は閻魔大王に対しても白澤に対しても、同じように容赦のない呵責を繰り返しているのである。
 閻魔大王と白澤、全く違う存在であるこの一人と一匹をを同一線上に押し並(な)べてみれば、鬼灯にとって白澤がどういう存在であるのか自ずと知れようというものだった。
(神獣というだけあって丈夫ですしね、この男は)
 ド突こうが落とし穴に落そうが、大怪我をする様子もなく次に会う時にはけろりとしている。
 そして、鬼灯を大嫌いだと言う割には、白澤は自分からは攻撃を仕掛けてくることがない。
 つまるところ、自分が繰り出す理不尽な攻撃を空恐ろしいほどの寛(ひろ)さで許容されているのだと気付いたのは、いつ頃のことだったか――。
 既に記憶は定かではないが、そのことに気付いた時から鬼灯の感情は、自覚を伴って明確に動き出したのだと断言できた。
 一方、白澤の方の心象がどうであるのかは、鬼灯の理解の外にある。
 この神獣は分かりやすく単純であるように見えて、底が知れない。
 そもそも人間の形態を取って人間臭く見えていても、神格を持った存在である以上、思考そのものが人間とは違うのである。
 ゆえに、彼が自分にどうして執着したのかは、聞いたところで真には理解できないだろうから、わざわざ確かめようとは思わない。
 鬼灯にとって必要な現実は、自分の内に彼に対する複雑な感情があることと、そういう彼が自分に何らかの執着と関心を持っているらしいことの二点だけだった。

 そんな一人と一匹が千年余もいがみ合い、内心ではそれを楽しみもして過ごしてきた。
 そんな自分達のまなざしが、ふと近い距離で重なり――先に一歩を踏み出したのは、白澤の方だった。
 だが、鬼灯も、仕掛けられた口接けに眉をしかめつつも拒まなかった。
 拒むだけの合理的な理由が見つからなかったのだ。
 その結果が、今、だった。



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