「ねェ、鬼灯様。お付き合いはそうしてOKなさったのに、どうして白澤様のことを信じるとおっしゃってあげないんですか?」
 これまで見てきた二人の様々な光景を胸に思い返しながら、お香は問いかける。
 先日、浮気しないと幾ら言っても信じてくれないと愚痴っていた白澤は、そう言いつつも、取り立てて嘆いている様子はなく悲壮感は微塵もなかった。
 その時はお香も、彼の品行不良は何千年も累積しているのだし、鬼灯が信用ならないと思うのも無理はない、だから、白澤も彼らしく鷹揚に構えているのだろうと解したのだ。
 だが、こうして鬼灯を目の前にしていると、どうも違う気がしてならないのである。
「どこをどうしたら、あの好色が浮気をしないというのを信じられるというんです?」
 闇色の瞳は、その奥にあるものを読ませようとはしない。
 だが、鬼灯は差し出された誠実を受取らないような性格ではないことをお香は知っていた。
 うわべだけの巧言令色には厳しく冷淡だが、真心は決してないがしろにしない。
 その点については、お香は強い信頼をこの鬼神に抱いている。
 その思いを込めて、真っ直ぐに鬼灯を見つめながら言った。
「白澤様は確かに軽薄ですけど、嘘はおっしゃらない方よ。あの方が口先だけの約束をなさるのを、アタシは一度も聞いたことありませんもの」
 だから、彼が浮気をしないと言ったのなら、それは誠心誠意からの誓いなのだとお香は思う。
 そして、それを鬼灯も分かっているはずだと。
 じっと見つめてくる彼の鋭いまなざしから目を逸らさずに、お香は問いかける。
 すると、驚いたことに鬼灯がすっと目線を逸らした。
 手を伸ばして徳利を手に取り、強い酒を手酌で枡に注ぐ。
 そして、それを飲み干す男の喉の動きをお香は見つめた。

 鬼灯の首筋は無駄な肉がなく、筋張っていて案外に細い。
 その中で目立つ喉仏が飲み干す動きに合わせて動く。
 枡を持つ手も同じく、筋が張っていて大きく、指が長い。
 しっかりした手首の骨はごつりと硬そうに皮膚を押し上げ、そこから綺麗に筋肉のついた太からず細からず゛の腕が伸びる。
 やや仰のいた横顔は端整で、半ば伏せられた睫毛は真っ直ぐに長く、目元にえもいわれぬ翳りを作っている。
 彼のことは幼い頃から知っていた。
 笑顔というものをまずもって見せない子鬼だったが、顔立ちそのものは愛らしい子だった。
 それから長じた今まで、彼のことはずっと間近に見てきたが、いつ見ても、とても美しい男だとお香は思う。
 持って生まれた造形美もあるが、それ以上に面(おもて)にも表れている厳しく凛とした気質や、肉体の隅々にまで行き渡っている業火のような気迫が、彼という鬼を内から輝かせている。
 近くに居過ぎたことと、根本的に好みのタイプではないことから、色恋の目で彼を見たことはないが、長じた彼に『男』を感じることは時折あり、その度に、彼に愛されるひとは幸せだろうと思った。
 仕事で多忙すぎるが、鬼灯は懐に入れた相手のことはとても大切にする男である。
 彼なりに細やかな気遣いを向け、深い愛情を傾けるだろうと確信できる誠実さが彼にはある。
 ただ、肝心の意中の相手に対してだけは、男の意地なのか稚気なのか、それらが激しくねじ曲がってしか表れないようだったから、本当に男というものは仕方がないわねと呆れ半分で見ていたのだ。
 そんな女には理解しがたい張り合いをしていた男たちも、しかし、千年余の月日を越えて、ようやっと正面から互いに向き合うことにしたらしい。
 それでも、彼の中にはまだ何かしらの意地なり、こだわりなりがあるのだろう。
 お香の問いかけは、どうやらそこに触れてしまったようだった。
 もっとも逆鱗というわけではなさそうなので、お香は従業員に新たな徳利を持ってくるよう合図をしながら、鬼灯が口を開くのを待つ。
 やがて、鬼灯は干した枡を手にしたまま、ぽつりと言った。

「私は、あのひとを許せなくなることが嫌なんです」
 低く抑えられたその声は。
「信じて裏切られた時、自分がどれほどの怒りを抱くのか正直、想像がつきません。その挙句、あのひとを許せなくなることが一番嫌なんです。あのひとは、私が何をしようと許してくれるのに」
 告白にとても似ていると、お香は思った。
「対等でないとお嫌なの?」
「そこまで身の程知らずじゃありませんよ。私は人の子で、鬼です。神獣の心の寛さに太刀打ちできるはずがない。単なる意地です」
 そう言い、鬼灯は新たに従業員が運んで着てくれた徳利を見て、ありがとうございます、と続けた。
 新たな徳利をお香が向ければ、空の枡を差し出す。そしてまた、酒を煽った。
「でも、本当は裏切られることなんてないと信じていらっしゃるでしょ?」
「――それは半々です。あのひとは嘘を言わないというより、嘘をつく機能そのものがあのひとに無いことは分かってます。ですが、今言ったように私は、あのひとを許せなくなりたくないんです。だから予防線を張っているんですよ」
 全面的に信じられる存在だということは知っているし、芯のところでは信じている。
 それでも信じないのは自分にストッパーをかけるためです、と鬼灯は言った。
「あと、信じると言ったら最後、あの駄獣は舞い上がって手に負えなくなるでしょうからね。むしろ、そちらの予防線の意味の方が大きいです」
「それは確かに……」
 もともとの気質が浮かれ気味の神獣である。
 永久(とわ)を誓う恋人に真心を受け入れられたら、一体どんな反応をするか。
「けれど、一時のことじゃあないかしら? 白澤様はそうそう後に引く性格はなさってないでしょう?」
「その一時が鬱陶しいんですよ」
 返ってくる答えは、全くもって冷淡で彼らしいことこの上ない。お香は小さく笑った。
 そして、全てに納得する。
 鬼灯と白澤は、これまでと何一つ変わりない。
 ただ、もう少し正面から向き合うことにし、二人きりのやわらかな時間も共有することにしただけだ。
 二人とも所詮男であるから、相変わらず意地を張り合い、いがみ合いはするだろう。
 けれど、それは二人にしか通じないコミュニケーションであることは、これまでと何も変わりなかった。
「でも、安心しましたわ」
「? 何がです?」
「鬼灯様が幸せそうで」
 思いを丸めて直球をぶつけると、鬼灯の目が僅かに見開かれる。
 その闇色の瞳を見つめて、お香は言った。
「鬼灯様は幸せでないと駄目なんです。そうでなかったら、アタシたち獄卒は絶対に許しませんから」
 彼には珍しい、理解不能の色が秀麗な面に浮かぶ。
 何をさせても有能な鬼灯にも幾つかの欠点があるのだが、これが彼の一番駄目な部分だった。
 だが、その駄目な部分さえ尊いのだ。自分たち獄卒にとっては。
「鬼灯様はアタシたち獄卒の誇りなんです。鬼灯様がアタシたちの一番上にいて下さることが、どれほど頼もしく誇らしいか。だから、アタシたちは鬼灯様が不幸になることは絶対に許しません。その相手が偉大な神獣様であっても、一歩だって引きませんよ」
「――――」
「分からないって顔、なさってますね」
 お香が笑いかければ、鬼灯は目をまばたかせ、それから小さくうなずいた。
「私は貴方がたの上官です。ですから、信頼していただけるのはありがたいですし、そうでないと困ります。ですが、幸せを義務付けられるほどのことを私は何かしましたか?」
「してるんですよ、毎日」

 日々、閻魔大王の横に立ち、大量の書類をさばき、地獄中を足繁く視察して回る。
 その姿を見るだけで、獄卒は安心するのだ。
 今日も地獄は恙無(つつがな)い、たとえ平穏無事でなくとも、きっと大丈夫だと。
 そして鬼灯の多忙に思いを馳せ、お休みになっておられるのだろうか、あまり無理をされていないといいが、と考える。
 そんなかけがえのない上官に、彼が遠慮なく甘えることのできる恋人ができたと聞いて、自分たちがどれほど安堵したか。
 しかも、相手は吉祥の兆しであり、漢方の祖たる白澤である。
 鬼灯の健康管理もこれからはきっとしてくれるだろうと、獄卒たちの期待は厚い。
 そして、白澤もまた。
 先日、彼が店を訪れた際に、お香が獄卒を代表してその旨を告げたならば、彼は一二もなく、笑ってうなずいてくれたのだ。
 分かっているよ、絶対にあいつを傷付けたり不幸になんてしたりしないよ、もしそんな真似をしたら獄卒総出で八つ裂きにしてくれていいよ、と。
 それを聞いて、どれほど嬉しかったか。
 その場に居合わせた獄卒たちが、どれほど大きな歓声を上げ、その場には居ない上官のために何度乾杯をしたか。
 だが、情はあるのに愛されることに疎い鬼灯は、そんな獄卒たちの祈りにも似た思いに気付かない。
 けれど、それで良かった。
 恐ろしく有能なのに好意には少々鈍い、鬼神鬼灯のままで、自分たち獄卒には十分だった。

「すみません、分かりません」
「鬼灯様は鬼灯様のままでいいってことですわ。それからもう一つ、こちらは分かりやすいと思いますけど、女性獄卒の中には本気で鬼灯様に憧れていた子もいるんです。その子たちのためにも白澤様と幸せになって、彼女たちの想いを佳い思い出に変えてあげて下さいな」
 そう告げれば、鬼灯はまた驚いた目をする。
 彼が衆合地獄に視察に来るたび、一体何人の女性獄卒や亡者たちが熱いまなざしを送っていたことか。
 お香が知るだけでも、一人や二人といった数ではない。
 まったくもって色恋沙汰には鈍い、朴念仁の第一補佐官様だった。
 思いがけない事実を突きつけられたせいだろう。
 鬼灯は少しばかり困ったような無表情になり、やがて小さな吐息と共に口を開いた。
「吉祥を告げる瑞獣と一緒にいるんです。不幸になんかなりようがないですよ」
「ええ」
「あのひとがへらへら笑ってる様子を見ると、色々と気が抜けるんです。能天気すぎて腹も立ちますけど、私は――」
 あのひとのそういう所が好きなんです、と、それはとても素直な告白だった。
「そうなんですか」
「ええ。ですから、心配しないで下さい。私は大丈夫ですから」
 そう言い、鬼灯は枡を長卓に置く。
 そして、長居をしました、と言った。
 時計を見れば、既に零時を回っている。
 もう少ししたら、シフト交代した夜勤務の獄卒たちが店に押し寄せてくる頃合である。
 一方、鬼灯の勤務時間は、定時は朝から夕方までだ。そろそろ休まねば明日の勤務に障るのだろう。
 お香が従業員に合図をして勘定をさせ、金額を提示すると、内容を一瞥した鬼灯は現金で支払った。
 衣服と揃いの漆黒に鬼灯紋を染め抜いた愛用の札入れを懐にしまい、立ち上がる。
「それじゃ、また来ます」
「ええ。ありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 目下に対しても礼節を守る鬼灯は、金棒片手にぺこりと会釈して去ってゆく。
 眠りを知らない花街の色とりどりの明かりに照らし出される鬼灯紋。
 鮮やかに夜に浮かぶそれが見えなくなるまでお香は見送り、それから、ほうっと吐息を零して。
 弟のように愛おしい、そして、誰よりも敬愛する鬼神の幸せを心から祈りつつ、店内に戻った。

End.

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