星屑カレイドスコープ
四、氷蜜滴る
「これは? 箱書きは硯(すずり)となってますけど」
「硯? ……あー、あれだな。うん、大丈夫。只の硯だよ」
「本当に?」
「本当だって」
白澤がうなずくのを疑わしげに見やりながら、鬼灯は手元の木箱を持ち上げる。
先程、白澤が大丈夫と言った香炉の入った箱は全然大丈夫ではなく、開けた途端に微細な毒針が飛び出してくる仕掛けだった。幸い、針はどこにも当たらなかったし、当たったところで鬼は毒には強いから大したことにはならなかっただろう。
しかし、好き好んで痛い思いをしたいわけではない。鬼灯は仕掛けらしき穴も隙間もないことを目視で確認してから、慎重に蓋を取り、中身を包んでいる絹布を開いた。
「……確かに硯ですね」
「そう言っただろ」
「信じられると思ってるんですか」
冷たく応じながら鬼灯は、ずんぐりした楕円形の硯を手に取って様々な方向から眺めてみる。深みのある緑から黄褐色に至る色合いの石でできており、花鳥の精緻な飾り彫りが美しい逸品だった。
「これ、材質は何です? 端渓(たんけい)とは全然色が違いますが……」
「ああ、洮河緑石(とうがりょくせき)だよ」
さらりと答える白澤に、鬼灯は幾度目とも知れない絶句をする。
この倉庫に入るのは既に三度目である。珍品に驚かされることにはもう慣れたが、これもまた入手がひどく難しい幻の品呼ばわりされる代物だった。
「よくもまあ、こんなものばかり持ってますね」
「僕が手に入れた時は、まだ石が採れてたんだよ。採石場が洪水で無くなっちゃったのは……それを買ってから五十年くらい後かな。端渓より墨の切れがいいからさ、結構長く使ってたよ」
少しばかり懐かしげな目で白澤は硯を見つめた。
「でも最近は墨を使う機会がぐっと減ったから、大きい硯は邪魔でね。店には端渓の小さいやつを置くようにしたんだ」
「まァ私だって、最近は万年筆かボールペンばかりですけど」
「うん、今は便利になったもんだよ。万年筆が出た時は感動したもんな。時々インクさえ補充すれば、幾らでもすらすらと字が書けるんだから」
「ペンならうんと小さい字でも書けますからね。あれは本当に素晴らしい発明でした」
「筆で米粒に字や絵を描く人もいるけど、普通は無理だからねえ」
「あれは曲芸の域です」
うなずき、鬼灯は硯を元通りに絹に包んで箱に収める。そして丁寧に棚に戻した。
その間に白澤は、クリップボードに挟み込んだ紙の束に箱の中身を書き付ける。
先月にした約束の通り、鬼灯は仕事が休みになる度に、極楽満月に倉庫の中を見せてもらいに来ていた。
そのことについて白澤は嫌な顔はしなかったが、どうせ端から端まで見て回るのならと思ったらしい。収蔵物の目録を作るから手伝えと言い出したのである。
どんな品物が倉庫に収まっているのかは記憶していても、品物の場所はどこだか今一つ判然としない。その曖昧さを解消する良い機会だと閃いたのだろう。
鬼灯にしてみれば、倉庫の中身を見せてもらうことには変わりないし、白澤が付き添うのも変わりない。どうぞ御自由に、というところだった。
「それじゃ次に行きますよ。――箱書きないんですけど、これ」
「えぇ?」
平たく余り厚みのない木箱を差して見せる。白澤は鬼灯の肩越しに棚を覗き込んだ。
「何だろ。あ、結構重いなぁ」
「このサイズでこの重さですから、金属か石だと思いますけど」
「だよな。うーん……」
しばらく悩んでいた白澤だが、似たような箱は山程あるために答えが出てこなかったのだろう。
「ちょっと下がって」
鬼灯に少しばかり距離を取らせてから、ぱかりと蓋を取った。内に格別な封印などないことを確認し、中身を包んでいる絹布を慎重に開く。そして、ああこれか、と声を上げた。
「何です?」
「鏡だよ」
先程とは逆に鬼灯が肩越しに覗き込めば、白澤は箱を傾けて中身を見せてくれる。紅の絹に包まれたそれは、いわゆる銅鏡の裏側だった。円形で図案化された何かの獣と雲紋の浮き彫りが施されている。
「これはちょっと厄介というか……僕には実害がないんだけど、男が鏡を覗き込むと美女が、女が鏡を覗き込むと化け物が映るっていう困った代物だったんだよ」
「妖怪ですか?」
「鏡の中に映ってるものはね。この鏡自体は空間を繋いでるだけ。日本でいうと山姥みたいなやつが美女の姿で男を惑わせては、鏡の向こう側に引き込んで食ってたわけだ」
「成程。確かに貴方を害するのは無理ですね」
「そう。そんなもの惑わされる方が悪いと思うんだけど、ひょんなことで預かることになっちゃって。そこいらに放っておくのもなぁって、ここにある」
「へえ。でも、そうしたらその妖怪は飢えたりはしないんですか?」
「僕が言って聞かせたから、もうこの鏡の向こうには居ないよ。他の場所に住処を変えた。だから、これは単なる空間を繋ぐだけの呪物だ。しかも特定の場所にしか繋がってないし、向こう側から引っ張ってもらえないとそこには行けないから、そこに常に仲間でもいない限り、使い勝手の至極悪いやつ」
「成程」
納得して鬼灯は鏡の裏面に触れる。ひんやりとした金属の感触が伝わってくるばかりで他には何も感じない。
「その妖怪、どうせ引っ越すならうちの地獄に就職して欲しかったですねえ。男を貪り食うなんて、衆合地獄にぴったりじゃないですか」
「……お前ねえ……」
鬼灯としては真剣な発言だったのだが、白澤は呆れたように嘆息して、鏡を元通りに絹布に包み直して箱にしまう。そして矢立を取り出して、蓋の表に獣紋鏡と墨書した。
その筆跡は、唐代の名筆家を思わせる実に悠々たるものだ。ゆったりと伸びやかで淀みがない。
矢立自体は、二百年ほど前に現世日本で気に入って買ったものだという。桃源郷には時間の流れによる劣化は存在しないとはいえ、まったくもって物持ちの良い神様だった。
それから白澤は筆をボールペンに持ち替えて、リストに品物の名前を書き加えた。
「それじゃ次……。珊瑚根付って、ああ、あれか。これは桃タロー君にやろうかな」
「何です?」
小さな桐箱を白澤は無造作に開く。そこにあったのは薄紅色の珊瑚細工による桃の実だった。薄紅から白へのぼかしになる色合いをうまく使って本物そっくりに仕上げてある。
「桃は僕の国でも魔除けの霊果だからね。良い細工だなぁと思って買ったんだ。江戸の頃だから三百年くらい前かな」
「確かにこれは良くできてますよ。腕のいい職人の作品ですね」
「うん」
うなずき、白澤は箱の蓋を閉めて小さなそれを白衣のポケットに滑り込ませた。
「本当に色々ありますよね、ここは」
「だから目録が要るんだよ」
「だったら、どうして今まで作ってなかったんですか」
「そりゃあ面倒くさいから」
「威張って言うことじゃねぇだろ」
突っ込みつつも、鬼灯は同じ段に積まれた新たな木箱に手を伸ばす。
宝物やがらくたを満載した倉庫の棚はまだ幾つも残っており、お宝探しは当分続きそうだった。
「そろそろ休憩しようか」
白澤がそう言い出したのは、午後の探索が幾らか進んだ頃だった。懐中時計を取り出してみると、ちょうど三時を過ぎたばかりである。確かにおやつの頃合いで小腹も空いている。
連れ立って倉庫を出ると、陽光が眩しかった。無意識に鬼灯はまばたきを繰り返し、目を明るさに慣らそうとする。
倉庫は壁面を収納空間として最大限に利用するため、換気用の小さい窓が上の方にあるだけだった。白澤も鬼灯も夜目が利くために、薄暗いのは別に問題とならない。
ただ、暗い空間から外に出てくると、ああ外はこんなにも天気が良かったのかと少しばかり驚かずにはいられないのだ。普段、澄み渡った青空とは縁のない地獄で過ごしているだけに、桃源郷の空の美しさは鬼灯には格別なものとして目に映った。
やわらかな草を踏んで極楽満月に戻り、手を洗う。
そして白澤は、何やら鼻歌を歌いつつ冷蔵庫を開けたり閉めたりして茶の支度を始めた。
一応の客人としてやることのない鬼灯は、手持無沙汰のままカウンターの椅子に腰を下ろし、白澤の手際を眺める。
指の長い器用な手はすいすいと流れるように動き、またたく間に茶器の用意を済ませ、透明な切子ガラスの器に甘そうなものを盛り付けて鬼灯の前に置いた。
「汁粉ですか?」
小豆色のとろりとした中に、もっちりつやつやの白玉団子と涼しげな半透明のタピオカが浮いている。まばたきして鬼灯が問うと、白澤は笑った。
「今日は冷やし汁粉にしてみた。ここに四季はないけど現世は夏だからね。それらしいことしないとさ」
「――貴方ってそういうところ、マメですよね」
「うん。好きだもん」
関心半分呆れ半分で言えば、白澤は屈託なくうなずく。
「あ、どうせだからかき氷も入れる? 氷あるよ?」
ふむ、と鬼灯は考える。冷えた汁粉にかき氷が入ったら? それはそれで、また美味いだろう。
白澤の言う通り、こうして座っていても暑くもなんともないが、抑揚のない気候に任せていては歳時記めいたことは何一つ楽しめない。
それは僅かな四季の変化はあれど、常に蒸し暑い地獄でも同じことだ。気温など無視してやりたいようにやるのが、あの世で長く暮らすコツといえばコツだった。
「でも、かき氷なら私は宇治抹茶の方が好きですね」
「あー。抹茶蜜は作ってないなぁ。今から作って冷やすとなると……」
うーん、と白澤は考え込む。だが、直ぐに何かに気付いたように顔を上げた。
「氷蜜の用意はないけど、飲み頃の果実酒なら色々あるぜ。山査子(さんざし)でも梅でも猿梨でも。何がいい?」
提案されて、成程と思う。
甘い果実酒なら十分、氷蜜の代用になるだろう。糖度や風味は勿論、色も鮮やかなものが少なくない。
「山査子、気になりますね」
「了解。じゃあ、ひとまずこれ食べてからかき氷作ろう」
「今からやるんですか」
「思い立ったが吉日ってね。白玉はまだあるから、かき氷にもトッピングできるよ」
「……まぁいいでしょう」
冷やし汁粉に浮いている白玉は実に美味そうである。見た目に違わず、味も触感も極上だろう。白澤の料理の腕はもうよく知っている。
このもっちりしたものが自家製の果実酒と共にかき氷の上に載ったら、それはまた美味いに違いない。その魅力には抗えず、鬼灯は素直に応じた。
ひとまずはいただきますと手を合わせ、添えられていた黒漆塗りの匙を取る。一口すくって運べば、品のいい甘さがひんやりと口に広がった。
きちんと甘いがしつこくはない。くどくならない程度に塩を利かせてあり、上等の水羊羹のようにするすると喉を通る。
続いて白玉を一つすくって食めば、もちもちとした触感が楽しかった。噛んでいるうちに糯米特有の甘さがじんわり出てくるのがまた美味い。
半透明のタピオカも弾力のある歯触りで、つるりと口腔を通り抜けてゆく。
「貴方、いっそ漢方薬局は廃業して、甘味屋か小料理屋でも開いたらどうです」
「やだよ。料理はあくまでも趣味だ」
鬼灯の戯言に白澤は笑った。
「まぁ漢方の場合、食事も療法の延長線上だけどね。でも僕の本領は薬師だよ」
さらりと切り返されて、ここで藪医者と罵れたら面白いのに、と鬼灯は思う。しかしながら、彼自身が認めている通り漢方医としての腕は大したものだし、仕事に関しては間違いなく誠実である。
少しばかりの悔しさを覚えながら、鬼灯は冷やし汁粉の最後の一口を口に運ぶ。その優しい甘さを存分に堪能してから、桂花緑茶で後口をすっきりと洗い流した。
「御馳走様でした」
「お粗末様」
鬼灯の礼をもう驚きもせずに受け止めて、白澤は二人分の器を重ねる。そして、流し台へと運んだ。
「で、かき氷ってどうするんです?」
「あー、氷削りは台所。氷は冷凍庫の中」
「運べってことですか」
「そう。僕は果実酒を出してくるからさ」
役割分担だと言われてしまっては仕方がない。鬼灯は立ち上がり、白澤について台所へと向かう。
そして指示されるままに棚の上から氷削りを下ろし、冷凍庫から出したかち割り氷を中に詰めた。
氷削りは昔ながらの手回し式の奴である。時間の流れから切り離されているため新品同様のぴかぴかだが、随分と型式は古い。
戦後すぐくらいのものかと見当をつけながら、鬼灯は下に白澤が出してくれたレトロガラスのボウルを置き、上部のハンドルを回し始めた。
ゴリゴリと固い音がして、直ぐに雪のような氷の剥片が器に吹雪の勢いで舞い降り始め、みるみるうちに小高い山へとなってゆく。
「かき氷を作るなんて久しぶりですよ。屋台では毎年のように買って食べてますし、甘味屋でもたまに注文しますけど」
「結構楽しいだろ」
「まぁ面白いですけど」
ガラスボウルが山盛り一杯になるのと、氷削りに詰めた氷が無くなるのは、ほぼ同時だった。
鬼灯は氷を詰め直し、二つ目のガラスボウルを同じように人工の雪で満たしてゆく。鬼の腕力をもってすればなんということのない作業であり、またたく間に二人分のかき氷が出来上がった。
「できましたよ」
「はいはい。それじゃあ、果実酒より取り見取りっと」
鬼灯が氷を削っている間、せっせと果実酒の瓶や壺から酒を汲み出していた白澤は、卓の上にピッチャーに入れた果実酒を並べる。
「端から順に、山査子(さんざし)、金柑(きんかん)、梅、山桃、猿梨、山桜桃梅(ゆすらうめ)。どれがいい?」
透明なガラスの中で、様々な色合いの果実酒がゆらりと光を透かす。その様を見比べ、鬼灯は薔薇色がかった酒を手に取った。
「金柑も気になりますが、まずは山査子で初志貫徹としますよ」
「ふぅん。じゃあ、僕は金柑にしようかな」
氷蜜として使い余した分は、普通に飲めばよいだけである。また足りなければ、壺に幾らでもある。気兼ねなしに鬼灯は気に入ったものを選んだ。
果実酒をかき氷にかけると、淡い色彩が氷の上に広がる。綺麗なばかりでなく香りも佳い。
更にその上に、白澤がもちもちつやつやとした白玉団子を三つずつ載せる。
美味しそうなものに美味しそうなものが加わり、単なる水の固体であるはずのかき氷は、この上なく魅惑的なおやつに変身して鬼灯に誘い掛けてくるようだった。
「いただきます」
たかがかき氷ではあるが、果実酒も白玉団子も、次代を紡ぐはずだった果実や穀物のいのちが幾つも重なり合ってできていることには変わりない。二人はきちんと手を合わせて一言唱えてから匙を手に取る。
一匙すくって口に含むと、鮮やかな果実の香りがいっぱいに広がった。
「美味しいですねえ」
「そりゃあね。僕が漬けた酒だし」
「その一言さえなければ、もっと美味しかったでしょうが」
「真実だろ。現実を直視しろよ」
軽口をたたきながら、数口食べた時。
鬼灯の前に白澤のかき氷の器が、すいと押し出された。
「金柑も美味いぜ」
一瞬きょとんとし、味見してみろと言われているのだと理解して、それならばと鬼灯は一匙、金柑のかき氷をもらう。
山査子のバラ科特有の華やかな甘酸っぱさとは異なる柑橘類のさわやかな甘酸っぱさが、真夏の涼風のように舌の上を通り抜けてゆく。これもまたとても美味だった。
「本当に貴方、料理を専業にしたらどうです?」
「だから嫌だって言ってるだろ」
けらけらと白澤は笑い、器を取り返す。山査子の味見をしないのは、自分が造った酒の味くらいよく分かっているからだろう。
その様子を見るともなしに見つつ、山査子のかき氷を口に運びながら、やはり、と鬼灯は思った。
最近何となく感じていたことなのだが、どうやら自分は思っていたほどには白澤に嫌われていないらしい。むしろ、好感を抱かれているようにすら感じることもある。
今のこともそうだった。
嫌いな相手に自分の皿を差し出すわけがない。ましてや、相手が迷って選択しなかった味を敢えて選び、味見させるなど有り得ない。
百歩譲って、自家製果実酒の味を自慢したかったのだとしても、それならそれで全ての酒を飲ませればよいだけの話である。自分の食べ物を分け与える必要などないのだ。
加えて、冷やし汁粉のこともある。
今日ばかりでなく、鬼灯が倉庫見学に訪れる度に白澤は何かしらのおやつを用意してくれていた。
一番最初の時は、桃子凍布甸と呼ばれるマンゴープリンの桃版、二回目の時は、無花果(いちじく)を砂糖と桂花陳酒で煮たコンポートを冷やして手作りアイスクリームを添えたもの。そして三回目の今日は冷やし汁粉である。
幾ら料理が好きだとはいえ、嫌いな相手にこれだけ手の込んだおやつを出すのは、これまたおかしい。
それらの奇妙な点を拾い集めてゆくと、どうやら白澤は、あれほど嫌っていた千年来の喧嘩相手を気に入り始めているらしいという結論にしか辿り着けないように思えてならなかった。
しかし、こちらとしてはそのことをどう受け止めればよいのか。鬼灯はまだ反応を選びかねている。
一番の問題は、当の白澤が鬼灯への親切をあまり意識的にやっていないのではないかと思える点だった。
今のかき氷の味見にしても、白澤の思考としては、おそらく『何となく』行われた結果だろう。
長年の喧嘩相手に一口食べろと自分のものを差し出すのは、意識してやるにはいささか恥ずかしい行為である。しかし、白澤はその恥ずかしさを自覚していない。
天然と言えば聞こえがいいかもしれないが、つまるところ、この神獣は少々抜けているということである。あるいは――無意識の領分で親切にしようとするほどに、こちらのことを気に入り始めているということだ。
女性相手ならば普通に発揮される優しさを、当たり前のように向けられる。そのことをどう解せばいいのか、鬼灯の中にはまだ答えがない。
けれど、一つだけ言えるとしたら、それは決して嫌な気分ではなかった。
かき氷をしゃくしゃくと食べ進めながら、一方、自分はどうだろうか、と鬼灯は考える。
金魚の万華鏡。あれをきっかけに白澤の態度は少しずつやわらかい方向へ変わった。対して、自分は何か変わっただろうか。
一つ一つ自分の行動を思い返し、やはり以前とは違うな、という結論に鬼灯は達する。
少し前の自分なら、白澤が味見してみろと差し出したかき氷を素直にもらいはしなかっただろう。貴方のおこぼれなんか要りませんとか何とか、冷やかな拒絶の言葉を紡いでいたはずだ。
白澤が格別にこちらの神経に触ることをしなくとも、敢えてあげつらい、殴り飛ばすきっかけをむしり取る。それが常の自分だった。
だが、金魚の万華鏡をこの店で見つけてから今日まで、鬼灯は白澤に暴力をふるった記憶がない。
万華鏡の礼をしに来た時、聚宝盆を届けに来た時、そして倉庫を見せてもらいに来た三回。この二ヶ月程で白澤に会ったのはこれだけの回数だが、いずれも鬼灯が金棒を振り上げるきっかけはなかった。
他愛ない罵倒の応酬はあっても、きつい口喧嘩に発展することすらない最近の自分達を振り返り、棘が抜けてしまっているなと鬼灯は思う。
けれど、そういう自分の状態も嫌ではなかった。
おかしい、妙だと思いはするが、極楽満月で供される飲食物は美味いし、倉庫の収蔵物やそれにまつわるあれやこれやの逸話を聞くのも面白い。
つまるところ、白澤が自分のことを以前のようには嫌ってはいないように、自分もまた、この神獣のことをこれまでのようには嫌ってはいないのだった。
「白玉も本当にいい味ですね」
「そうだろ」
感じた通り正直に褒めれば、白澤は自慢げに笑う。だが、その笑顔には明らかな嬉しさも滲んでいる。
たとえ鬼灯からのものであっても、気持ちのこもった賞賛には彼は喜ぶのだ。
それとも、もしかしたら。
―――私だから?
ちらりと思い、さすがにそれはないかと鬼灯は打ち消す。
けれど、白澤は快さげな笑顔のまま、ガラスピッチャーに入れた果実酒を指した。
「まだ種類あるけど、もっとかき氷食べるか?」
「いえ。むしろそのまま飲みたいです」
「どれ?」
「梅を。氷入れてもらえますか」
「了解」
直ぐに白澤は立ち上がり、艶々とした黒志野の筒茶碗に氷を入れて戻ってくる。そして、やや大ぶりなそれに梅酒を満たした。
「三年ものだから美味いぜ」
「いただきます」
口をつければ、華やかな梅の香りと強い酒精の香りが心地よく入り混じって立ち上る。何ともふくよかでまろやかな味が舌の上に広がった。
本来は辛口のきつい酒が好きな鬼灯だが、甘い果実酒の佳さが分からないわけではない。山査子酒や金柑酒と同様に、この梅酒もとてもよい風味だった。
「美味いです」
「うん」
先程と同じように素直に賞賛すれば、白澤は笑う。その笑みはついぞ鬼灯には向けられたためしのないもので、ただ明るく穏やかである。
だから、少しだけ試すようなつもりで鬼灯は言ってみた。
「それにしても、私相手にこんな美味いものばかり出してもいいんですか」
「んー?」
問えば、白澤はきょとんとして、それから己の胸の内を顧みるような顔になる。
「言われてみれば、そうか。でも、お前、美味そうに食べるし飲むからなぁ」
食わせ甲斐があるんだよな、という答えは実に彼らしく極楽蜻蛉でのほほんとしたものだった。
「私としては、ここに来る度に美味しいものが食べられるわけですから、文句はないですけど」
「だったらいいじゃん」
脳味噌綿あめの神獣は、鬼灯の答えにそれなら何の問題もないだろうと微笑む。
その様子を見つめ、やはり、一連のことはあまり意識的にやっているわけではないのだろうと鬼灯は結論付けた。
これまで二人の関係は、主として鬼灯が喧嘩を売り、白澤がそれに応じるというものだった。だが最近、鬼灯が暴力を振るってこなくなった。だったら喧嘩をする種もないわけだし、お互い気持ち良く過ごせるようにしよう。
白澤の思考をトレスするならば、おそらくはこんな感じだろう。
別にそれはそれで悪くない。以前のように派手な喧嘩を繰り広げないことをつまらないとは鬼灯も感じていない。今の状況は間違いなく心地の良いものだ。
―――けれど。
「御馳走様でした」
「もういいの?」
「飲んでばかりじゃ作業が進まないでしょう。他の酒は、また次の時にいただきます」
「それもそうか」
鬼灯は果実酒を呑むために極楽満月にやってきたわけではない。そのことを思い出したのだろう。白澤は立ち上がり、流し台に空になった食器を運んだ。
「じゃあ、倉庫に戻るか」
「はい」
連れ立って外へ向かい、踏み分け道を歩きながら鬼灯は考える。
二人の間の距離感は昔から変わらない。掴み合いの喧嘩をする相手との距離は自然、手を伸ばせば届く距離になる。何とはなし友好的になった今もその距離は同じで、片手を上げれば白澤に触れることができる。
触れようと思えば触れるけれど、敢えて触れはしない距離。
仕事中にはさほど珍しくもない距離だが、それ以外で鬼灯が他人をこの距離に入れることは殆どない。例外はシロくらいのものだ。
だが、白澤はそのことに気付いていないのだろう。代わりに、傍らの鬼にいきなり殴られるのではないかという警戒もしていない。ひたすらに無防備な横顔を晒している。
この距離間の居心地は悪くない。悪くないが、もし、もう少し変えようとしたらどうなるのだろうか。
自分は勿論のこと、白澤はどう反応するだろうか。
薄暗い倉庫の中は、呪物の封じを兼ねて定期的に焚くという清浄な薫香の香りがほのかに残っている。そこに足を踏み入れながら、悪戯の計画を練る子供のような心持で鬼灯はしばしの間、考えを巡らせた。
今日のノルマである棚一つ分の確認作業が終わったのは、夕刻だった。
倉庫から戻ってきて手を洗った二人は、さて、と壁のカレンダーを見る。
「次はいつにする?」
「そうですねえ」
倉庫の確認作業は一日がかりになるため、その日は極楽満月は臨時休業となる。ゆえに事前にある程度、予定を擦り合わせておく必要があるのだ。
手帳をめくり、向こう半月ほどの予定を鬼灯は確認した。
「今のところ、私が一番暇になるのはお盆ですね」
「盂蘭盆会か」
ふむ、と白澤はカレンダーを見やる。
極楽満月のカレンダーは太陽暦と太陰暦が合わせて記載されているものだった。大陸の年中行事は今も太陰暦に合わせて行われるものばかりであるために、世界標準の太陽暦だけでは用をなさないのである。
「うちは十三日が七夕の節句なんだよな。だから、この日は最初から休みの予定なんだけど」
「じゃあ、その日にしますか」
「いいよ。特に予定は入ってないし」
この日は女の子達は忙しいから相手をしてもらえない、とぼやく白澤は放っておいて、鬼灯は手帳に予定を書き込む。
大陸の七夕は、針仕事の腕の上達を願う女子の祝祭だ。もともとは一年で最も陰の気が強まる陰月陰日、つまりは七月七日を祓うための祭儀だったのだが、そこに織牽の伝承が加わり、今の形になっている。
一方、鬼灯にとって、亡者が地獄から居なくなる盆休みの間は、書類仕事を纏めて片付ける良い機会だった。だが、お盆初日の一日くらい私用に充てても大きな支障はない。
旧暦の七夕をここで過ごすのならば、それはそれでよい休暇となるだろうと思われた。
「旧暦の七夕の頃って、ペルセウス座流星群の最大期でもありますよね」
手帳を閉じながら、ふと思いついたことを口にしてみる。白澤はあっさりとうなずいた。
「そうだよ。英仙座流星雨。今年のピークは十二日の深夜じゃなかったかな」
無数の星が夏の空一面に飛ぶ。流れる星が凶兆とされた時代の大陸で、その極大に達する頃を陰の気が最大に高まる日と見たのは当然のことだろう。ゆえに人々は天を鎮めるために星を祭り、安寧を祈った。
もっとも天の側であるあの世では、星に願いをかけたりはしない。ただ、流れる星という美しい天体ショーを愛でるばかりだ。
「でしたら、十二日の夜に酒でも持参しましょうか。どうせ一番よく星が流れるのは明け方ですし、私の仕事はどうせ残業になりますから、終わってから来ればちょうどいいでしょう」
「え? お前が持ってきてくれるの?」
「ええ。たまにはいいでしょう」
暗に夜通し飲みましょうかと誘いかけると、白澤は少し驚いた顔になる。だが、すぐに笑った。
「いいよ。じゃあ、肴は作っておく」
「はい」
うなずきながらも、不思議だった。
こんな風に自分達が約束を交わすなど、やはりおかしい。数ヶ月前であったら、まず考えられないことだった。
けれど、今は奇妙さは感じても違和感は感じない。長年、飽きもせずにいがみ合ってきた自分達だが、決して気のせいではなく心の距離は近付いてきている。
今の距離でも十分、心地いい。だが、このまま距離を更に詰めたなら、どうなるのか。
それがどうしても知りたくて、鬼灯の心は逸り始めている。
自分は、そして白澤はどう反応し、何を感じるのか。
その先に何があるのか。
遥かな昔、幼馴染達と一緒に様々な悪戯を仕掛けた頃とどこか似た心持ちで、鬼灯は次にまたこの神獣に会う日のことを思う。
「それでは、また来ます」
「うん。再見」
またな、と片手を上げる白澤に見送られて、鬼灯は極楽満月の出入り口に向かう。
だが、戸に手をかけたところで、白澤の声が背を追いかけてきた。
「そういえば今日は年で一番、大きな満月が昇る日だよ。そろそろ月の出を過ぎた頃だから、今から帰るならちょうどよく見えると思うぜ」
「ああ、そうでしたか」
常におどろおどろしく雲が流れてゆく地獄では、月の満ち欠けはさほど意識されるものではない。そういえばニュースでそんなことを言っていた気がするなと思いつつ、鬼灯はうなずく。
そして店を出れば白澤の言う通り、宵空に昇り始めている目を瞠るほどに大きな満月が、道のほぼ正面にあった。
地平線に近い今はまだ赤みを帯びた色をしているが、高度が上がるにつれて美しく冴え輝き始めるのだろう。それは二ヶ月前に白澤と共に飲みながら見た月よりも、きっと一際眩しいに違いない。
見事な月をしばしの間見つめた後、鬼灯は通い慣れた道をゆっくりと歩き始めた。
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