「おかえり、シズちゃん」


 照明が煌々とついた部屋の中、少しだけ意地悪げな笑みで迎えた臨也を見た瞬間、静雄は、つまりこれは食ってもいいってことだな、と判じた。
 全てが始まったこの部屋で、あの夜と同じように待っていたのだ。
 しかも、昨日、わざわざ新宿まで会いに行ってやったというのにである。
 これはもう、頭からバリバリと食ってやらねば、むしろノミ蟲に失礼というものだろう、とほぼ三秒間のうちに結論に辿り着いた。
「おう。ただいま」
 答える口元に、自然と笑みが浮かぶ。人間、予想外のプレゼントがもらえれば嬉しくなるものだ。
 しかも、それが一番の大好物であれば殊更である。
 感情のままに手を伸ばし、さらさらと流れる髪に指を絡ませながらキスをすれば、臨也は少しだけ考えるようなそぶりをしながらも、目を閉じてキスを受け入れた。
「──帰宅早々、盛るわけ? 本当にケダモノだね」
「そのケダモノを待ってたのは誰だよ」
「まあ、待ち伏せてたのは否定しないけど。俺がお帰りって言った時の、シズちゃんの間抜け顔をもう一度見たくってさ」
「へえ。じゃあ好きなだけ見ろよ」
 ぐい、と顔を突き出してやれば、臨也は眉をしかめて頭を後ろに下げようとする。が、静雄の手が後頭部を食い止めた。
「おら、避けてんじゃねぇよ」
「避けるよ、そんな顔を突きつけられたら」
「見たいって言ったの、手前だろ」
「焦点距離ってもんがあるの。俺の視力は1.2だよ? 最低四十センチは離れてよ」
「それじゃあキスできねぇだろうが」
「しなくていい」
「嘘つけ」
 ぺらぺらと嘘ばかりを吐く唇を、もう一度キスで塞ぐ。
 キスなどしなくていいと言った舌の根も乾かぬうちであるのに、臨也は静雄を突き飛ばしも舌に噛み付くこともせず、しかし、だからといって積極的に舌を絡ませるのも躊躇われるのか、ただ成されるがままに静雄が甘い口腔を蹂躙するのを許した。
「──っ、ふ…、ぁ……」
 貪るような長いキスに臨也が感じ入ったような吐息を零すのを甘く聞きながら、クソッ、と静雄は毒付く。
 だが、仕方がないと臨也の身体から手を離して立ち上がった。
「シズちゃん?」
 途端、問いかけの意味を込めて臨也が静雄を呼ぶ。見上げたその瞳に疑問と、それから微かな不安を見て取り、静雄は、そうではないと臨也の頭をくしゃりと一つ撫でた。
「シャワー浴びてくる。今日、暑かっただろ。汗でベタベタでよ。自分でも気色悪いんだ」
「──あ、そう」
 だったらさっさと風呂行けば、と肩をすくめるようにして冷たく告げる臨也は、既にいつもの顔に戻っている。
 憎たらしい表情だったが、ここで突き放すつもりなのかと、咎めるよりも不安の濃い表情をされるよりははるかに良かった。
「五分で戻るから、逃げるなよ」
「そう言われると、何が何でも逃げなきゃって気になるよ」
「逃げてみろ、地の果てまででも追いかけてって、その場で犯してやるからな」
「どんだけ変態だよ」
 呆れ果てた口調で言った臨也だが、そんな真似しないくせに、と小さく呟いたのを常人より遥かに鋭い聴覚を持つ静雄は明瞭に聞き取っていた。
 その言葉に、当たり前だ、しねぇよ、と心の中で返しながら、静雄は狭い脱衣所で手早く服を脱ぎ捨てる。
 地の果てまで追いかけるのは間違いないが、その場で襲うような真似はしない。ここへ連れ帰ってきてから、じっくりと心身に言い聞かせてやるのだ。何もかも、魂のひとかけらまで静雄のものなのだと臨也が納得するまで。
(何のかんの言いながら、分かってんじゃねーか、あいつ)
 理解されている。ただそれだけのことにひどく満足するのを感じながら、静雄は一日の汗を熱いシャワーで流し、バスタオルでざっと水滴を拭った後、トランクスだけを穿いて部屋の方に戻った。
「──本当に五分ってどういうこと? まともに洗ったの?」
「汗流すだけなら十分だろ。後で、どうせまた入るしよ」
 先程と同じ姿勢で携帯電話をいじっていた臨也の隣り、だが、フローリングにではなくベッドの端に腰を下ろし、臨也を見下ろす。
 この角度からだと、頭の天辺にある左巻きのつむじが良く見えた。
 こうしてみる限り、つむじ曲がりじゃねえんだよな、へそ曲がりでもねぇし、つまり曲がってんのは根性か、根性曲がりなのか、と下らないことを思いながら、さらさらと流れる黒髪に指を差し入れる。
 こちらを斜めの角度で見上げた臨也は、小さく眉をしかめたが、静雄の手を振り払いはしなかった。
「……シズちゃんって俺の髪、触るの好きだよね」
「悪ぃかよ」
「悪いとは言ってないけど。それより自分の髪を乾かしたら?」
 そう言い、臨也は静雄の手を逃れて、すいと立ち上がる。どうするのかと見ていたら、部屋の隅に置いてあったドライヤーを手に戻ってきて、床を指差した。
「下に降りて。場所交代」
 その言葉に、どうやら乾かしてくれるつもりがあるらしい、と気付いて静雄は心底驚く。が、臨也の機嫌を損ねては意味がないため、表情の動きは最低限にとどめて大人しくフローリングに降りた。
「どういう風の吹き回しだよ」
 驚きを憎まれ口に変換すれば、臨也にとっては受け入れやすかったのだろう。「濡れた髪が肌に触るのって気持ち悪いんだよ」と気のなさそうな返事が返ってくる。
「あと昨日、買出しに付き合ってもらったからね。その借りを返したいってとこかな」
「ふぅん」
 それならプリンを買ってくれただろ、とは突っ込まない。機嫌を損ねては以下同文だからだ。
 だが、それならば何故なのだろうと、ドライヤーの熱い風と、髪を梳く臨也の指を感じながら目を閉じて静雄は考える。
(原因は昨日、だよな。タイミングからいって)
 もしかしなくとも、昨日の逢瀬は臨也にとっては不満の残るものだったのだろうか。
 疲れていたとはいえ、静雄に気遣われた形で共にいた時間の半分を眠って過ごしてしまった。常に優位に立ちたがる意地っ張りには、それが悔しかったということは十分にありえる。
(借りが返したい、っつーのは本音かな。単に会いたくて、って会いに来るほど可愛い真似する奴じゃねぇだろうし)
 根性曲がりで意地っ張りの臨也の心理は、いつまで経っても静雄には、あまり正確には読めない。気分や機嫌なら読めるが、根底のところで何を思っているのかということは常に謎だった。
 だが、こうして会いにきてドライヤーを使ってくれるということは、二人で過ごす時間が嫌いではないのだろうというくらいのことは推測できる。
(ちっとは、触りたいとか思っててくれりゃ嬉しいんだけどな)
 このひねくれた相手にどこまで期待しても良いものやらと思いながら、やわらかく髪を梳く臨也の指の感触を追い続ける。
 細い指先に髪を梳かれ、地肌を撫でられるのは、性的なものとは全く違う感覚で、この上なく気持ちよかった。
「はい、終わり」
 程なく臨也はドライヤーのスイッチを切り、手櫛で乱れた静雄の髪を軽く整える。
 そのいつになく優しい指先の感触に、一体どんな顔をしているのかと思い、振り返ってみれば。
「何?」
 いつもの表情を装ったのだろうが、セピアの瞳には隠し切れていないやわらかな色が見え隠れしており、それを認めた途端、静雄は言葉にならない感情が湧き上がるのを感じた。
 臨也、と吐息だけで名前を呼んで手を差し伸べ、首筋を引き寄せる。その動きに逆らわず、臨也は上体を屈めるようにして静雄のキスを受け止めた。
 体重を支えるためだろう、剥き出しの左肩に乗せられた手のひらの重みと温もりに、更に胸の奥がぎゅっと詰まる。
 ゆっくりと舌を絡ませ合い、そこから生まれる甘さを堪能してから唇を離せば、ほのかに目元を染めた臨也の何とも言えない色合いの瞳が静雄を見つめた。
「──自分はシャワーを浴びておいて、俺にはその時間はくれないわけ?」
 いつもよりふっくらと赤みを増して濡れた唇が動き、言葉を形作るのがひどく艶(なまめ)かしい。
 このまま貪り食いたい衝動を腹の底に押しとどめて、静雄は形のいい耳から首筋までのラインを指先でするりと撫でた。
「そこまでがっつきゃしねぇよ。行ってこい」
 そう告げると、直ぐに立ち上がるかと思った臨也は静雄を見つめたまま、瞳だけで微かに笑む。
 その色がひどく艶っぽく、どこか意地が悪いと思った時。
「要らない。ここに来る前にシャワーは浴びてきたから」
 ひそめた声で甘く囁き、臨也は静雄の首筋にするりと腕を回す。
 そして、もう一度臨也から重ねられた唇に、静雄はもう何の遠慮もすることなく、差し出された臨也の全てを心ゆくまで貪った。

End.

NEXT >>
<< PREV
<< BACK