SUNSHINE CITY 01
どうしてこうなったのだろう。
どれ程考えても分からない、と思いながら、臨也は目の前の相手を見つめる。
リビングの長さが二メートルほどもある大型ソファーを定位置と決めたらしい静雄は、今夜も臨也が提供した毛布にくるまり、クッションを枕に安らかな眠りを貪っていた。
静雄がこうして臨也のマンションに泊まってゆくのは、一体何度目か。少なくとも片手の指には余る。
確かに最初に誘いをかけたのは、臨也だった。
───否、違う。
臨也は静雄の言葉に乗せられたのだ。『普通』に接すれば、『特別』にしてやるという、まるで悪魔の囁きのような言葉に。
そんな言葉を吐かせるきっかけを作ったのは臨也自身だったが、それさえも静雄が悪い、と臨也は思う。
熱を出して具合の悪い自分にとどめを刺さなかった静雄が、全ての元凶なのだ。
別に死にたがりのつもりはない。けれど、あの時あの場所で、この息の根を止めてくれていたならば、どれ程楽だったことか。
窓からの街明かりが薄く室内を浮かび上がらせる中で、臨也は気配を殺したまま、ソファーの傍らに膝を付き、眠る天敵を見つめる。
驚くほど端整で、優しさと精悍さが絶妙に溶け合った静雄の寝顔を、こうして眺めるのも何度目か。
だが、一度も静雄は眼を覚ましたことはない。
臨也がナイフを持たず、害意すらも一時とはいえ、心の隅の方に遠ざけているからだろうか。
天敵が直ぐ傍にいるのに無防備に眠るのは、これまで散々に殺し合ってきた自分たちの関係に一種の裏切りだと思いながらも、こうして眺めている間に静雄が目覚めなくてほっとしている自分が居ることも、臨也はそろそろ認めざるを得なくなってきていた。
シズちゃん、と吐息だけで小さく名前を呼ぶ。
静雄と出会ってから九回目の春は、もう目の前だ。
八年以上の年月をかけても変わらない静雄との関係に疲れ、熱に浮かされながら霧雨に濡れた池袋の街を彷徨っていたあの日から、既に二ヶ月が過ぎようとしている。
その間に二人の関係は、随分と変わってしまった。
といっても、池袋の街中で出くわせば、静雄が青筋を立てて自動販売機を投げつけてくるのは変わらない。おそらく静雄は野生の勘で、臨也が池袋の街に対して良からぬ企みを持っていることを察知しているのだろう。
だが、そんな静雄であるのに、休日の前日になると律儀に連絡を入れてくる。大概はメールで、『明日休みになった』というような至極簡単な文面だ。
そんなメールが届くたびに、臨也は無視しようかと考える。
だが、現実的にそうできたためしはなく、スケジュールをあれやこれやと組み替えて予定を空け、その旨をメールで送る。すると、本当に静雄はやってくるのだ。律儀にインターフォンを鳴らし、時には手土産すら持参して。
本当に何なのだ、と思う。
自分たちは天敵ではなかったのか。
目と目が合うだけで、殺し合いが始まる。そういう仲ではなかったのか。
とはいえ、心の奥底でそれだけではない関係を求めていたことは、否定しない。もうここまで来きてしまったら、否定できない。
けれど、それは有り得ない話だったのだ。
昔は一人きりで悔しげに苦しげに拳を握り締めている姿を、最近ならば人の輪の中で笑っている姿を、自分は遠くから眺めているだけで、彼の目はこちらに向きもしないし、こちらの言葉に耳を傾けることもない。
それは絶対の法則で、決して覆(くつがえ)らないもののはずだった。
それなのに。
「シズ、ちゃん」
細く細く名前をささやいて。
臨也はソファーの背もたれに片手を衝き、そっと上体を傾ける。
静雄の顔を見つめたまま、ゆっくりゆっくりとコマ送りのように顔を近づけて。
けれど、互いの唇が触れ合う二cmほど手前で動きを止め、かすかに震えるようなひどく臆病な仕草でそっと離れる。
それから、もう一度元の位置から静雄の寝顔を見つめて。
今度は右手の人差し指の指先を自分の唇に軽く押し当ててから、躊躇いがちにその指を伸ばし、ごく微かに静雄の唇に掠めて触れ──自分の唇に戻そうとして、少し惑った後、そのまま手を下ろした。
そして、ぎゅっと唇を噛む。
───一体何やってるんだよ、俺は……。
キスどころか、子供めいた間接キスさえ完成させることができない、なんて。
自分がしていることの情けなさ、惨めさに泣きたくなる。
「ねえシズちゃん、俺はもう、こんなのは嫌だよ……」
ずっとずっと、静雄に振り向いて欲しかった。
ここに自分が居るということを、認めて欲しかった。
けれど、こんなぬるま湯のような関係が欲しかったわけではないのだ。
休日の度に、肩を並べてのんびりとプリンやケーキを食べながら、レンタルDVDを鑑賞する関係など、望んでなんかいなかった。
だからずっと、ナイフを振り回し、策を巡らせて、彼が一番嫌がる形での攻撃をし続けてきたというのに。
あっさりと静雄は、そんな臨也の努力を踏みにじり、まるで無かったことにしてしまった。
「酷いよ、シズちゃん……」
ずっとずっと、どんな手段を使ってでも静雄の『特別』になりたかった。
その『特別』は、決して『友達』という意味ではなかったのに。
でも、静雄にとっての『特別』は、これまで彼には一人もいなかったという、普通の友達、で。
そんなことは最初から分かっていて、だから『普通』になどなりたくなかったのに。
静雄が口にした『特別』という言葉に惑わされて、堕ちてしまった。
そんな自分の愚かさに反吐が出る。
ならば、休日を告げるメールを遮断してしまえばいいのに、彼が再び手の届かない距離に遠ざかってしまうことが怖くて、それすらもできないのだ。
そんな現状が、苦しい。
苦しくてたまらない。
ずっとずっと出会った時から苦しかったのは事実だが、今の苦しさとは質も重みも違う。
かつての苦しさは、手の届かないものに何とか手を届かせようと虚しい努力を続ける辛さだった。
対して今の苦しさは、欲しかったものがやっと手の届くところにきたというのに、それは既に欲しかったものとは異なる色合いをしていて、なのに、全てを失ってしまうことが恐ろしくて指先を触れることもできない。そういう哀しさだ。
そして、その苦しさは、かつてのものよりも遥かに絶望に近い。
殺し合っているだけであった頃は、自分たちの関係は変わらないという安心感も心のどこかにあった。
だが、『特別』という名の『普通』に落ち着いてしまった今は、もうこれ以上は変わらない、動かせないという袋小路に嵌まってしまった感覚が重くのしかかってくる。
「俺が欲しかった『特別』と、君が欲しかった『特別』は違う。そんなことは最初から分かっていたのに……」
それでも、自分の知らない、これまで知ることができなかった静雄の顔が見たくて、誘いに乗ってしまった。
そして、うっすらと涙を滲ませた横顔に、初めて向けられた温かなまなざしに、思わず我を忘れて、何かを願ってしまったのだ。
決して叶わない、何かを。
───愚かな感情だと分かっていたから、ずっと認めたくなかった。
叶うはずがない、手に入れられるはずがないと分かっていたから、心の奥底に押し込めて、ずっとずっと気付かないふりをしてきたのに。
彼がこんな無防備な寝顔を見せるから。
毎度毎度、休みの度に訪ねてきては、自分が煎れたお茶やコーヒーを疑いもせず口にするから。
その度に何かが──押し込めてあったはずの想いが、ざわりと騒いで。
日毎にそのざわめきは大きくなって、今はもう。
───抑えていることさえ、息苦しいほど、に。
だが、そんな臨也の心情も知らずに、静雄は無防備で綺麗な寝顔を見せ続ける。
臨也が今、ここに居ることにすら気付かずに。
「シズちゃん、俺は……」
呟きかけた言葉は音声にならず、夜の静けさに解け消える。
そのままもう何を言うことも、何をどうすることもできず。
臨也はのろのろと立ち上がり、足音も気配も殺したまま、二階の自分の寝室へと戻った。
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