Day Dream -Precious Day- 01

 高層マンションを見上げながら、念のため、電話をかけてみる。
 だが、予想通りに応答はない。
「ったく、あの馬鹿……」
 溜息をついて携帯電話をポケットにしまい、代わりに財布から鍵を取り出して、静雄はマンションのエントランスに向かった。




「邪魔するぞ」
 合鍵を使って勝手に立ち入った室内の照明は、薄明かり程度に落とされていた。
 しんと静まり返った広い部屋には一見、人の気配はない。だが、静雄の少々人間離れした感覚は、メゾネット式の二階に馴染み深い気配を感知する。
 軽く眉をしかめ、だが、そちらに向かう前にキッチンへと足を向ける。
 ざっと見回すと、連絡をもらった通りにレトルト食品が申し訳ばかりにコンビニの袋に入ったまま、カウンターに放置されていた。
 中身を確かめれば、それなりに胃に優しそうなものばかりではある。どうやら矢霧とかいう秘書の女は最低限の気遣いはしてくれたらしい、と思ったものの、しかし。
「あっためるだけってのもな……」
 呟き、少し考えてから静雄はワイシャツの袖をまくり上げる。
 そして、勝手知ったるキッチンのカウンター下を開け、取り出した三合ばかりの米を磨いで、手際よく炊飯器にセットした。
 それから、やっと二階へと向かう。
 階段を昇って直ぐのドアを開け、そっと中に踏み込んで。
 臨也、と声はかけなかった。足音を殺し、静かにベッドに近付く。
 そして枕元に立って見下ろしても、ベッドの上の臨也は目を覚まさなかった。
 そっと手を伸ばして頬に触れると、ひどく熱い。額には冷えぴたが貼ってあるが、既にぬるくなってしまっており、大して意味は無さそうだった。
「──こんだけ具合悪いんなら、俺を呼べよ」
 溜息をつき、この様子なら簡単には起きないだろうと、静雄は臨也を見つめる。
 頬も額も、触れた感触は乾いていたから、熱はまだまだ上がっている最中なのだろう。呼吸は浅く、頬も赤らんでおり、見るからに苦しげだった。
 頼りない冷えぴたよりも、直接冷やしてやった方が楽だろう、と思いついて静雄は踵を返す。
 そして洗面器一杯の冷水とタオルを片手に戻ってきて、ベッドの端に腰を下ろし、冷水で濡らしたタオルを絞って、冷えぴたをそっとはがした額に載せてやる。
「心配させてんじゃねぇよ、馬鹿ノミ蟲」
 溜息未満の呟きを零して。
 少しずり落ちていた掛け布団を肩まで引き上げてやり、熱を孕んだ黒髪をそっと梳いた。




「……シズちゃん……?」
 臨也が意識を取り戻したのは、静雄がここに来てから一時間ほどが経過した頃だった。
 ぼんやりと目を開け、ニ、三度まばたきする。その動きさえも、ひどく物憂げで本調子ではないことが知れる。
「気がついたか」
「なんで……?」
 状況が把握できないのだろう。ぼうっとした目付きで静雄を見上げ、問いかけてくる。
「お前の秘書に連絡もらった。矢霧とかいったか」
「波江……?」
「そうだ。移るのが嫌だから看病はしたくないけど、雇い主に死なれるのも困るっつってな」

 見知らぬ番号から静雄の携帯に連絡があったのは今日の夕刻、数時間前のことだった。
 訝(いぶか)りながらも出てみれば、聞き覚えのない女の声が、「折原の秘書で矢霧という者よ」と名乗り、そして、臨也がインフルエンザで寝込んでいること、発熱して二日目の今日になって、やっと闇医者からタミフルの処方を受けたものの、容態はあまり良くないことを淡々とした口調で告げた。
 挙句、「あなた、看病してやってくれないかしら。私はインフルエンザを移されるのは嫌だし、かといって、今、折原に死なれても困るのよ」とのたまったのである。
 そして、静雄は恋人が寝込んでいると聞いたら、放っておけるような性格ではない。
 やむを得ず、トムに事情を説明し、いつもよりも少しだけ早めに仕事を上がらせてもらって、ここに来たのだった。

「お前、俺には隠し通す気だっただろ」
 事情を説明しているうちに、意識がはっきりしてきたのだろう。静雄を見上げる臨也の紅を帯びたセピア色の瞳に、しまったと言いたげな光が過ぎるのを静雄は見逃さなかった。
「急な仕事が入っただとか、くだらねえ嘘つきやがって。具合が悪いなら悪いって、正直に言えっつーんだ」
 そういう趣旨のメールを静雄が受け取ったのは、三日前のことである。
 つまり、インフルエンザに罹ったと気付いた時点で、臨也は静雄を遠ざけようとしたのだ。仕事が一段落したらまた連絡するから。そんな風にわざわざ書き添えて。
「……だからって、呼んでもいないのに何しに来たんだよ」
「看病しに来たに決まってんだろうが」
 何を分かりきったことを、と言い返せば、臨也は顔をしかめる。
「要らないよ。帰って。ついでに合鍵も置いていって。こんな風に毎回、不法侵入されちゃ敵わない」
「毎回ってなんだ。合鍵をこういう使い方したのは今回が初めてだろうが」
「一度やったら味を占めるのが人間なんだよ。あ、シズちゃんは人間じゃないけど、その辺は化け物でも大差ないだろ。確かに合鍵を渡したのは俺だけど、だからといって好き勝手出入りしていいと言ったつもりはないんだよ。ただ、俺が仕事で手を離せない時とかに、いちいち椅子から立って鍵を明けるのが面倒だったから、渡しただけなんだし」
「──臨也」
 べらべらと、これが病人かと疑うほど立て板に水の勢いで喋る臨也に、静雄は心の底から溜息をついて名前を呼んだ。
「何」
「俺を怒らせて帰らせようとすんのは止めろ。つーか、お前も分かって言ってんだろ。俺が、お前の居ない時に好き勝手、ここに出入りするわけねぇってよ」
「──そんなの、分かんないだろ。合鍵持ったら使いたくなるのが人情ってもんなんだからさ。それを忘れて渡した俺が馬鹿だったんだ。だから、返して」
「返すかよ、馬鹿」
 もう一度溜息をつき、右手を伸ばして、臨也の黒髪をわしゃわしゃと乱暴にならない程度に撫でる。
「俺に弱みを見せたくねぇってのは分かる。でもしょうがねぇだろ。こんな熱出して、秘書にも見捨てられて、一人でどうする気だったんだ」
「──新羅には往診してもらったよ」
「だからって、あいつは傍について看病してくれるような奴じゃねぇだろうが。こういう時に俺を便利に使わねえで、一体いつ使うつもりなんだよ」
「……世界征服するとき、とか?」
「ンなもん、俺が協力するわけねーだろ。勝手に一人でやってろ。目一杯、邪魔してやるからよ」
「……シズちゃんて、絶対に俺を愛してないよね。俺の悲願を邪魔しようだなんてさ。しかも、ぼっち扱いして」
「手前の友人なんざ、新羅と門田以外に知らねぇし、あいつらがお前の世界征服に手を貸すわけねぇし。ノミ蟲の悲願なんてのは、踏み潰されるためにあるに決まってるだろ」
 そう言う間も、静雄の右手はずっと臨也の髪を撫でており、臨也も気力が無いだけかもしれないが、それを振り払いはしなかった。
「とにかく、俺はもう来ちまったんだからよ。お前は黙って看病されてろ」
「……ヤだよ。俺は黙ったら死んじゃうし」
「死なねぇっての。それにな、臨也」
 名前を呼んで、臨也と目を合わせる。
「どうせ俺は、インフルエンザだろうが何だろうが移りゃしねぇからよ。心配する必要なんかねぇんだよ」
「……心配するわけないだろ、シズちゃんみたいな体力馬鹿のことなんか」
「俺は心配すっけどな。お前が熱出したって聞いたらよ」
「…………要らないよ。帰れ」
「お前の熱が、もう少し下がったらな」
 ああ言えばこう言う臨也の頭を、ぽんぽんと軽く撫で、さて、と静雄は話題を切り替えた。
「食欲はねぇだろうけど、何か食えるか? 飲まず食わずじゃ治るもんも治らねぇし、新羅の置いてった薬も、食後って書いてあったしな」
 そう問いかけると、臨也は目を伏せたまま少し考える素振りを見せ、食べるよ、と呟いた。
「君の言う通りなのはムカつくけど、食べなきゃ体力維持できないし」
「分かった。じゃあ、待ってろ」
「……何作ってくれる気か知らないけど、それ作ったら帰ってよ」
「お前の言うことを、俺が聞いたことがあったか?」
 無駄なことを言ってんじゃねぇと笑って、静雄は寝室を後にする。
 そして階下に降りてから、携帯電話を取り出した。



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