NOISE×MAZE
001:その人は誰
なんということだろう。
折原臨也とあろう者が、一瞬、目の前にあるものが理解できなかった。
否、正確に言うと理解できなかったのではなく、理解を拒絶した。それも反射的に。
何故なら、理解すれば、そこには面倒事しか存在しないと直感していたからだ。
まずい。
絶対的に、致命的にまずい。
逃げられるべきなら、逃げるべきだ。そんな言葉が脳裏を巡る。
正直、怒り狂って極簡単な日本語すら通じなくなった平和島静雄と対峙する時よりも、臨也は焦っていた。
だが、どうやって逃げればいいというのか。
敵──敢えて敵という単語を使うが、それらは自宅兼仕事場であるマンションの玄関の三和土(たたき)に、玄関ドアを背にして立っているのである。
そして、ここはマンションの最上階だ。脱出口は玄関しかない。
「帰れ」
ゆえに、無駄とは知りつつも、ひとまず臨也は告げてみた。
だが、この上なく冷たい言葉に、敵と認証したうちの片割れは、にっこりと笑う。
昔から変わらない、時として大いに神経を逆撫でされる、素晴らしくうざい笑顔で。
「やだなぁ、臨也。遥々訪ねてきた親友を、お茶も出さないで追い返すなんて、ひどいよ」
「呼び出しもしてないのに君がうちに来ること自体、有り得ないだろ。帰れ、今すぐこれを連れて」
「えー。無理だよ。せっかく連れてきたのに。ちゃんと引き取ってもらわないと」
「何のつもりだか知らないけど、俺には関係ない。こんなものは知らない。速攻で帰ってくれ、二人とも」
身のうちに湧き起こる嫌悪をギリギリのところで抑え付けつつ、素っ気なく言い放つ。
と、それまで黙ってやり取りを聞いていたそれが、臨也を真っ直ぐに見上げて、口を開いた。
「臨也は、俺が嫌いなの?」
ぞわわわ。
その声、その台詞を聞いた瞬間に臨也が感じたものを表す擬音は、それしかない。
声質そのものは、聞き覚えのあるものだった。
だが、発声が有り得ない。
選ぶ単語が有り得ない。
告げる表情が有り得ない。
──俺は絶対に! こんな声も出さないし、こんな表情もしない!
誰かをだまくらかそうとしている時は別だが。
しかし、本気であれ演技であれ、現実に目の当たりにすると気色悪いことこの上ない。
──大切な人に裏切られたかのような、悲しげで衝撃を受けた表情をした自分の顔などというものは。
「一体何なんだ、これは!?」
滅多にないことではあるが、とうとうキレかけながら臨也は叫ぶ。
すると自称親友は、にっこりと笑って告げた。
「そんなの、君のクローンに決まってるじゃないか。見れば分かるだろ」
分かってたまるか!
いつでも余裕の素敵で無敵な情報屋さん。そんな自分の看板を、目の前の自称親友と自分と同じ顔をした何か、に力いっぱい投げつける勢いで、臨也は叫んだ。
* *
いつまでも玄関で押し問答をしているわけにもいかず、心底嫌々ながら臨也はリビングに二人を上げ、話を聞いた。
それに際し、わざわざコーヒーをドリップで入れたのは、決してもてなすためではなく、自己の精神安定用である。
そうして聞いた話は、案の定、碌でもないものだった。
「つまりはさ、ネブラがいつものように非合法で非人道的な実験をしていたわけだよ。特徴的な才能を持った人物のクローンを作った場合、はたして、その才能の発露は、どの程度まで遺伝子により、環境に左右されるものなのかどうか。
あ、言っとくけど、計画そのものには私は全然関わってないよ。幾らなんでも、そこまで非人道的なことはしない。君や静雄本人なら是非にとも解剖したいけど、クローンで代用になるなんて思わないから」
「じゃあ、関係のない君が何故、これを連れてくるわけ?」
「それは父さんから頼まれたんだよ。研究室内での観察は一通り終わったから、本体のところへ連れて行って、反応を見てくれって。で、もう連れて帰ってこなくてもいいとも言ってたな。多分、実験そのものが終了したんだと思うよ。現段階においては、かもしれないけどさ」
そう言い、新羅はまじまじと臨也を見つめた。
「でも、君、平気そうだねえ。本体とクローンが同時に存在すると、脳共鳴を起こして発狂するって言う学説もあるんだけど、ガセだったんだ」
つまんないなぁ、と本気そうに呟く新羅に、臨也は心の底からの殺意を抱く。
つまり、なんだ。親友と呼ぶ相手が発狂しても構わなかったというわけか。
己の外道ぶりを自覚している臨也も、新羅に対しては、それなりの情も感じているし、これまで法外な治療費をぼったくられながらも世話になってきたから、今すぐに感情が決壊することはない。
しかし、こんなことが続くのなら、いずれ東京湾に人知れず沈むよう手配したくなるに違いないと思いつつ、口を開いた。
「で? これをどうするって?」
「どうも何も。君に引き取ってもらうに決まってるだろう」
「断る」
こんなものは絶対に要らない。身近に置きたくない。
クローンといわれれば納得するしかないほど、目の前に居る存在は自分にそっくりだった。ただし、家の中に迎え入れて気付いたことだが、身長が十センチ少し低い。
それで改めてじっくり観察してみれば、幼な子のようにきょとんとした自分には有り得ない表情を差っ引いても、顔立ちそのものが今の自分より少しながら幼かった。
結論からすると、これは今より少し若い頃──高校生の頃の自分に瓜二つの存在だ。
そして、瓜二つどころか、同じ遺伝子で構成されている。
そんなものは一卵性双生児でない限り、世界に一つあれば十分に過ぎる。
「とにかく返品だ。どこにでもいいから、連れて帰ってくれ」
「あれ、そんなこと言っていいの?」
わざとらしく首をかしげて見せる新羅に、臨也は眉をしかめる。が、何かを言う前に、新羅が言葉を続けた。
「見ての通り、この子は君と同じ顔なんだよ。こんな子を外に出していいと、本当に思ってる? ついでに言うと、この子は文字通り、実験室という名の温室育ちで、君と同じナイフとパルクールの技術を身につけて、それなりに訓練されているけど、気質は丸っきり世間知らずの無邪気な子供だ。
繰り返すけど、そんなのを本当に野放しにして──平気かい?」
新羅の言葉に、臨也は頭痛を覚え始めながら、改めて自分のクローンを見つめた。
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