LOVE IS WAR

 そっと優しいキスが降ってくる。その温かな感触を臨也は喜びと共に受け止めた。
 交際を始めて、かれこれ二年。共に暮らして十ヶ月。指輪を交換して八ヶ月。
 それだけの月日を共に過ごしていれば、キスなど最早、日常茶飯事で、一日に何度しているか知れたものではない。
 だが、たとえ幾分かは惰性に流れていたとしても、キスはキスだ。
 キスをする直前の静雄が自分を見る瞳の色も、優しかったり激しかったりする舌や唇の動きも、キスの後のうっとりと甘く溺れるような余韻の中で見る静雄の顔も、どれもこれも馬鹿みたいに臨也は好きだった。
 加えて、夜の寝室で交わすキスには、更に秘密めいた意味が加わる。
 自然に期待が胸に湧き上がるのを感じながら、静雄の首筋に両腕を回そうとした途端。
 触れた時と同じように、そっと唇が離された。
「──シズちゃん?」
 場所は寝室、それもベッドサイドに並んで腰を下ろしている状態である。
 ならば、このまま自分も相手もないくらいに蕩け合い、貪り合うべきではないのか。そう思いながら静雄を見つめると、静雄はキスをする前と同じ、ひどく優しい目の色のまま、臨也の頭を軽く撫でる。
 そのいかにも他意のなさげな優しい仕草に、臨也は相手の意図を悟って、きつく眉をしかめた。
「……ねえ、シズちゃん?」
「ん?」
「まさか、今夜もしないつもり……?」
 半ば意図的に声を低めた問いかけに、静雄は僅かに眉を動かす。
「──不満か?」
「当たり前だろ!」
 間髪入れずに言い返せば、静雄は少しだけ考えるような目をした。
 が、もう一度、ぽんと臨也の頭を撫でて。
「諦めろ」
 さらりと言われた言葉に、臨也は思わず柳眉を逆立てる。
「はぁ!?」
 思い切り不満げな声になったが、構ったことではない。大事なのは、己の主張をはっきりと相手に伝えることだった。
「諦めろって何だよ!! 一体、何日してないと思ってるわけ!?」
「何日って……お前が寝込んでからだから、十日間くらいか?」
「そうだよ! いくらインフルエンザに罹ったって言ったって、十日もあれば回復するっての……!!」

 臨也が毎年恒例になりつつあるインフルエンザに罹ったのは、先月の終わり、静雄の誕生日の直前のことである。
 セオリー通りに三日間高熱を出したものの、その後はゆっくりと回復に向かって、今はほぼ完全に復調している。
 にもかかわらず、この目の前の朴念仁は。

「でもまだ、完璧には戻ってねえだろ。この辺の肉、落ちたまんまだし」
 するりと指先に首筋を撫でられて、そのくすぐったいような微妙な感触に、臨也は小さく息を詰める。
「…っ…、こんなとこ、元から脂肪なんてついてないよ!」
「ンなことねぇよ。元々細かったのが、更に細くなってるっつーの」
「細いったって、所詮、男の首だよ!? 女の子に比べたら遥かにしっかりしてるっての!」
「それは否定しねえけどな。でも、まだ体重が戻り切ってねぇのは事実だろ」
「あと一キロかそこらだよ! 水でもたらふく飲めば戻る数値だろ!」
「それは只の水ぶくれだろ。体重が戻ったとは言わねえよ」
 臨也が何と言ってもいなしつつ、静雄は再度、ぽんと臨也の頭を撫でる。
「とにかく、今夜はしねえ。諦めて寝ろ」
 きっぱりと言い切られ、臨也は苛立ちが極限に達するのを感じた。
 思わず、無理矢理にでも跨ってその気にさせてやろうかと思った時。
「言っとくが、俺を無理やりにその気にさせようとしやがったら、両手両脚を縛り上げてやるからな」
 男は、メンタル面が性感に強く影響する女性と違い、直接的な刺激を受ければ簡単に欲情してしまう。それをよく分かっているからこその静雄の牽制だったが、もともと不機嫌MAXである臨也の臍を曲げさせるには十分過ぎた。
「……へーえ。そんなにシズちゃんは俺としたくないわけだ?」
 低くドスの効いた臨也の物言いに、静雄は耳聡く反応する。
「したくないとは言ってねぇだろ。今夜はしないっつっただけだ」
「でも、NOはNOだよね?」
 あ、そう。それならいいよ。
 そう心の中で呟きながら、臨也は静雄から離れ、広いクイーンサイズのベッドの上を横切った向こう側、自分の定位置の羽毛布団にもぐり込む。
「おい、臨也」
「うるさいよ、シズちゃん。今夜はもう寝るんだろ」
 静雄に背を向けながら、つんと言い返せば、静雄が小さく溜息をつくのが聞こえて。
 臨也は目を閉じて、ぐっと手のひらを握り締めた。
 別に臨也も性欲の権化というわけではない。むしろ、性欲はそれほど強い方ではないだろう。
 だが、静雄とのSEXは素直に好きだった。
 最愛の恋人と触れ合い、身体を繋げて歓びを分かち合うことが幸せでなかったら、何を幸せというのか。
 だからこそ、やっと体調が戻ってきたと確信できた今夜は抱き合いたかったというのに。
 臨也の体調が優れなかった間中、静雄はひたすらに臨也を甘やかしてくれた。
 気遣うように触れる手指や宥めるようなキスは、ひたすらに優しくて、不調にあえぐ心に染みたけれど、もどかしく物足りなかったのも事実なのだ。
 夕飯の時には、完全に食欲を取り戻した臨也を見て、静雄も元気になったなと喜んでいてくれたから、てっきり今夜はするものだと思っていたのに。
 おそらく静雄としては、用心のためにもう一晩二晩、我慢しようという腹なのだろう。
 それくらいのことは分からないわけではない。
 けれど。
(シズちゃんの馬鹿……!!)
 パートナーがOKだと言っているんだから、男なら据え膳を喰らえ、と心の中で恨み言を連ねながら、臨也はどうにかして眠ろうと務める。
 その背後では、静雄が同じようにベッドにもぐり込み、肩まで布団を引き上げる気配がして。
「……おやすみ」
 低く告げられた言葉に、臨也はきゅっと唇を噛み締めた。





「手前……いい加減、機嫌直せよな」
「は? 何のこと?」
 俺は全然機嫌悪くないけれど?、とにっこり笑って返してやれば、静雄は苦虫を噛み潰したような顔になる。
 その顔を見上げながら、臨也は腹立ちを綺麗に押し隠して、いつもと何ら変わらない調子で続けた。
「ごめんね、このところ忙しくってさあ。今日もすごく眠いんだよ」
 目の下、ちょっと隈ができちゃってるし、というのは決して嘘ではない。
 仕事柄、パソコンのモニターや携帯電話の画面を見ている時間はかなり長い上に、最近の眠りは時間はともかくも、浅くて熟睡した感じがないのだ。
 ゆえに、ごく薄くではあるが目の下の血色が悪くなってしまっているのである。
「俺だってしたくないわけじゃないけど、多分、今やったら途中で寝ちゃうと思うんだよね」
 だから、ごめん、とすまなさそうな笑顔を向ければ、静雄がもう何も言えなくなることを、臨也は良く知っていた。
「じゃあね、俺、もう寝るから。シズちゃんも夜更かししちゃ駄目だよ」
 言いながら、ひらひらと右手を振り、ダブルベッドの自分のスペースにもぐり込む。
 そして、数分後に静雄が溜息をつきつつ、隣りにもぐり込んでくるのを感じていれば、不意に静雄の腕が身体に回され、背後から抱き締められた。
「──しないよ?」
「……分かってるっての」
 それでも、と抱き込んでくる腕の温かさに、臨也は少しだけ迷ってから身体の力を抜く。
 触れ合っている背中や肩、脚から静雄の体温が伝わってくる。低体温気味の臨也には、その温かさが心地良い。
 けれど、パジャマ越しでなければもっと、と考えて、臨也は慌てて思考がその先に進むのを押さえ込んだ。
 身体の奥がきゅっと疼くような感覚がしたが、気にしてはいけないと自分に言い聞かせて目を閉じる。
 ───馬鹿な意地を張っているのは重々承知していた。
 臨也が体調不良を理由に、静雄とのSEXを拒み始めてから、かれこれ五日。
 原因は極単純──病後の臨也の体を気遣って、静雄が据え膳を食わなかった。それだけのことである。
 だが、臨也は猛烈に腹を立てたのだ。それこそ、こんな馬鹿げた性的ストライキを始めてしまうくらいには。
 そして、生来の捻くれて負けず嫌いな性格ゆえに、一度張り始めてしまった意地は容易なことでは崩すことができず、結果、臨也は触れ合いたいのに触れ合えないという二律背反を自ら生み出して、欲求不満を持て余す羽目に陥っていた。
(何もかも全部、シズちゃんが悪いんだ。バーカ、おたんこなす、唐変木)
 そう心の中で呟き、なじりながらも、背面に感じる静雄の体温を感じ取ろうと臨也の心身はさざめいてしまう。
 ───こんな風に抱き締めるのではなく、いっそのこと力尽くで奪ってくれたら。
 そうしたら、もう馬鹿な意地など張る必要はなくなるのにと、つい考えずにはいられない。
 その膂力に任せて強引に組み敷かれたら、こちらも力の限りに縋り付いて、その背に、その肩に爪を立て、噛みついてやるのに。
 けれど、妙なところで優し過ぎる静雄は、臨也が自ら受け入れる意思表示をしない限り、決して無理強いはしてこない。
 その代わりに、こんな風に抱き締めてくるのだ。もういい加減に機嫌を直せと。馬鹿な真似をしていても大事にしたいと思うくらいには大切なのだと。
(シズちゃんの馬鹿……)
 心の中でもう一度、そう呟いて。
 全身を包む静雄の体温と匂いに誘い込まれるように、臨也はゆらゆらと浅い眠りに落ちていった。



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