「──はぁ」
 カレンダーの日付を眺めて、臨也は一つ溜息をつく。
 仕事中にも何度も溜息をついては、波江に辛気臭い鬱陶しいと散々にののしられたが、知ったことではない。零れるものは零れるのだ。
「まさか、バレンタインまで続くとはね……」
 軽い気持ち、ではないにしても、ちょっとした苛立ちから始まった臨也のストライキは、既に一週間に及び、今日はもう二月十四日、バレンタインデーである。
 つまり、足掛け三週間も静雄とはSEXをしていない計算だった。
 無論、臨也自身もそう簡単に折れるつもりでストライキを始めたわけではない。だが、さすがに半月以上も空白が続くとは思っていなかった。
 もっと早い段階で静雄が宥めにかかってくるか、あるいはキレるかするだろうと踏んでいたのだ。しかし、常に臨也の予想の斜め上空をいく恋人が、そんな臨也が勝手に想定したセオリー通りに動くはずはなく。
 毎晩、ただ臨也を抱き枕よろしく腕の中に閉じ込めて眠るだけで、それ以上のことを強要してくるそぶりは何一つないまま、今日という日になってしまったのである。
「でもさあ、今更どんな顔で折れたらいいわけ?」
 臨也とて木石ではない。気分の上ではとっくに根を上げていたし、ストライキを始めた次の日には触れ合いたくてたまらなくなっていた。
 にもかかわらず、ストライキを継続したのは一重に意地ゆえだ。
 実に馬鹿な話である。
 だが、その底の浅さゆえに、返って臨也自身には解決不能な事態となってしまっているのは否めなかった。自分で張った意地を自分でへし折れるほど、臨也は器用ではないのだ。
「シズちゃんが力ずくで襲ってきてくれれば、全部解決するんだよ、ホント」
 そんな身勝手な呟きを零しながら、臨也は自分の薬指に嵌まったプラチナのリングを弄る。
 そもそもどうして、こんなことになったのか。
「なんであの時、俺はあんなに腹を立てたんだっけ……?」
 今更ながらに、臨也はあの夜のことを振り返ってみる。
 会話としては、何ということもない。静雄が「今夜はしない」と言っただけのことである。
 なのに、どうして自分はあれ程までにも怒ったのか。
「……いや、怒ったっていうより拗ねたっていう方が正しいのかも」
 あの夜、臨也は久しぶりに静雄と抱き合えると思っていた。だが、静雄はそれを拒んだ。臨也の体調がまだ万全ではないという理由で。
「……あれかな。楽しみにしてたデートをドタキャンされたとか、そういう感じにちょっと似てるかな」
 十日ぶりの快楽を共に味わい、甘い幸せに浸りたかったのに、駄目だと言われた。
 加えて、大丈夫だと言っているのに、それを否定された。
 そんな二重の意味で、水を差されて腹が立ったし、それに。
「少し悲しかった、のかも……」
 ぽつりと呟きが零れる。
 もとより臨也はプライドが天に届くほどにも高い。ゆえに、否定されれば反射的に腹を立て、相手を叩きのめすことを考え始める。
 だが、それとは近いようで遠い場所で、静雄に拒絶されれば悲しくなる、という密やかな事実があった。
 静雄と楽しみたいと思って口にしたことを駄目だと言われたら、プライドや意地とは全く別のところで、純粋に寂しいし、悲しい。恋をしているのだから、その感情は当然のものだ。
 けれど、そのプライドの高さゆえに、寂しさも悲しさも、感情の表面に昇る時には怒りへと変じてしまうのである。
 思えば昔からそうだった、と臨也はソファーに座ったまま、膝を抱えた。
 臨也は長い間、静雄に対する自分の想いを自覚しなかったが、その理由は、この無駄に高いプライドと、それを守ろうとする無意識の感情の動きに起因している。
 意のままにならない、愛してくれない相手を愛していると認めるのは、臨也の性格上、至難の技だったのだ。それよりも、苦しい切ない想いを怒りや憎しみに変じる方が、遥かに簡単だったから、まだ十五歳だった臨也の深層心理はそちらを選んだのである。
 そのねじくれた心理は静雄が臨也を愛してくれたことでほぼ解消したが、高いプライドは未だ健在であるために、時々こんな齟齬が起きてしまう。
「シズちゃんが俺のことを思って言ってくれてたのは、分かってたのになあ……」
 宝物のように大切にしてくれているからこそ、あの夜、静雄は臨也を抱こうとはしなかった。病み上がりの体に、ほんの僅かでも負担を強いることを厭(いと)ったのだ。
 けれど、臨也の感情は、恋人の気遣いよりも、期待していた喜びを奪われ、平気だと主張するのを否定されたことの方に反応してしまった。
 静雄の配慮は理解していながら、それでも尚、拒絶された悲しさ寂しさの裏返しで、腹を立てずにはいられなかったのだ。
「……よくシズちゃんは怒らなかったよね……」
 静雄の懐に入れた相手に対する呆れるほどの寛容さに改めて感じ入りながら、これからどうしよう、と臨也は考え、ローテーブルの上にまなざしを向ける。
 そこにあるのは、小さな紙袋だった。
 幾らストライキ中とはいえ、イベントをないがしろにするのは臨也の信条に反する。
 ゆえに、ちゃんとチョコレートは吟味の上に吟味を重ねて何日も前から用意してあるのだが、しかし、上手く渡せるかどうか。
「ごめん、って言えればいいんだろうけど……」
 静雄と恋人同士という関係になって二年余りが経過した今も、臨也は自分の非を認めて謝るということが苦手だった。
 軽い調子で気持ちを込めずになら、幾らでも謝罪の台詞を言える。だが、本心から悔いて謝ったことは、これまで二十数年生きてきた中で、数えるほどしかない。
 だが、こんな馬鹿げた状況は、もういい加減に終わりにしたかった。
 静雄は臨也の態度に怒りこそしないが、拗ねた臨也を持て余し、どう対処すればいいのか困惑しているのは、一緒に暮らしていれば否が応でも伝わってくる。
 そして、臨也もまた、静雄に余計なことを言わせないよう常に言動にはぐらかしを含めているため、日常のやり取りも何かと不自然かつ、ぎこちなくなってしまっている。
 自分が始めたこととはいえ、さすがにもう限界だった。
「──うん、シズちゃんが帰ってきたら謝ろう」
 上手く言えるかどうか自信はないが、きちんと向き合えば、勘のいい静雄のことだ。必ず臨也の気持ちを汲み取ってくれるだろう。
 そしてチョコを渡して、仲直りをすればいい。
 そう心に決めると、少しだけ気持ちが楽になった。
「あー、でも本当に俺、どんだけシズちゃんを好きなんだって話だよね」
 静雄の言動に一喜一憂して、気分が上昇したり沈み込んだりを繰り返して。
 そんな極々平凡な恋を一体何年続けているのだろうと思うと、自分のことながら呆れるようなくすぐったいような奇妙な気分だった。
 これが他人事だったら面白いだけなのに、と思いつつ、抱えた膝に顎を乗せ、ぼんやりと時間が流れるのに任せていると。
 ソファーの端のクッションの上でずっと眠っていたサクラが、ぴくりと反応して頭を上げた。
 三角耳をそばだて、おもむろに起き上がって軽く伸びをしてから、フローリングの上にぴょんと降りる。そのまま尻尾を真っ直ぐに立てて、とことことドアに向かって歩いてゆくのに、臨也は恋人の帰宅を知った。
 それから待つこと一分。
 玄関のドアを開け閉めする音が聞こえ、ほどなくリビングのドアが開く。
 途端に、待ち構えていたサクラがニャァと鳴いた。
「ただいま、サクラ」
 長身をかがめ、足元に体を擦り付けてくる黒猫を静雄は軽く撫でる。それから、顔を上げて臨也を見た。
「おかえり、シズちゃん」
「おう」
 ストライキ中とはいえ、目に見える様な喧嘩をしているわけではない。むしろ、日常は変わりのないよう装っていたから、朝晩の挨拶もこの三週間、欠かしたことはなかった。
 臨也がソファーから立ち上がり、歩み寄れば、肩に軽く手を添えられて触れるだけのキスが唇に落とされる。
 そして、至近距離で目を合わせて。
 あのさシズちゃん、と呼びかけようとした時。
「これ、やる」
 おもむろに小さな紙袋を差し出された。
「へ?」
 見れば、見慣れたロゴは静雄の気に入りの池袋にあるパティスリーのものである。だが、紙袋の大きさからすると、プリンや杏仁プリンといったアントルメ(生ケーキ)ではない。
 受け取り、そっと中を覗き込むと。
 艶のある赤い包装紙でラッピングされた、小さな箱が収められていた。
「食いもんで釣るわけじゃねぇけどよ。それやるから、いい加減に機嫌直せ」
「────」
「今日はバレンタインだろ。幾ら何でも、こんな日まで喧嘩続ける必要ねぇだろうが」
「……喧嘩、じゃないけど」
 でも、と思いながら臨也は箱の中の小さな包みをじっと覗き込む。
 きゅう、と胸の奥が引き攣れるように疼くのは、切なさだろうか。それとも愛おしさだろうか。
「どんな顔して買ったの、これ」
「別に普通だ。普段からこの店で、しょっちゅうケーキ買ってるからな。それに今年は男からチョコやるのも流行なんだろ?」
「──よくそんな流行、知ってたね」
「トムさんがな、言ってた。目当てのキャバクラの女の子にチョコ贈るっつって張り切ってたんだよ」
「へえ」
 それならありそうな話だ、と臨也は納得して背後を振り返る。
 そして、ローテーブルに歩み寄り、置いてあった紙袋の中から有名ショコラティエの綺麗にラッピングされた小箱を取り上げて。
 再び、静雄の前に立った。
「はい、シズちゃん。これは俺から」
「──おう」
 ありがとな、と静雄は低く告げて臨也が差し出したチョコレートを、当たり前のように受け取る。
 それだけのことに馬鹿みたいにほっとしながら、臨也は静雄にゆっくりと抱き付いた。
 外回りで冷たくなったダウンジャケットの感触を確かめるように、ぎゅっと抱き締めると、同じように背を抱き締められる。
「ごめんね、シズちゃん」
 その言葉は不思議なほど自然に口から滑り出た。
「おう」
 すると、静雄もほっとしたのか、大きく息をつき、それから臨也を抱き締める腕にぎゅっと力を込める。
 そのまま大きな手のひらに背や髪を撫でられる優しい感触に、臨也はそっと目を閉じて、静雄の胸に体重を預けた。



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