いつか、どこかで

 そこは普段、赴くことのない街だった。
 静雄の仕事のエリアは、それなりの広さはあるが池袋周辺を中心とした二十三区内である。利用者が二十三区内の人間とは限らない出会い系サイトのツケの取立ての場合には、多少遠方に足を伸ばすこともあるが、それはよほど金額が大きい場合だ。
 営利を目的としているのだから、取立てのコスト(移動費+人件費)<ツケの代金の計算式が成立しない限り、静雄やトムが動くことはない。
 ゆえに、池袋から電車を乗り継いで一時間以上も移動しなければならないそこは、静雄にとっては見知らぬ街だった。
 遠く海の匂いのする駅から降り立ち、事前に教えられた通りに大通りから一本中に入ると、周囲には閑静な住宅地が広がっている。そして広い道沿いには、洒落たブティックやレストランやカフェ。
 池袋とは全然違うな、というのが静雄の正直な感想だった。
「……こっち、だな」
 駅からの方角と交差点名を確かめ、通りを歩いて角を曲がる。
 そんなことを繰り返した三度目。
 不意に静雄の足は止まった。

 目の前、十メートルほど先を歩く後姿。
 ファー付きの黒いコートではない。
 けれど、静雄が彼を見間違えることは有り得なかった。

 反射的に駆け出して、一気にその距離を詰める。

「臨也…っ!!」

 名を叫び、その右腕を掴み、相手が振り返るのは、全てほぼ同時の出来事だった。
 紅く透けるセピアの瞳が静雄を見上げる。
 それだけのことで、静雄の背筋はぶるりと震えた。

「シ…ズちゃん……?」
 珍しく満面の驚きを隠そうともせず、臨也は静雄の渾名を口にする。
「なんで、こんなとこに……?」
「それはこっちの台詞だ、ノミ蟲」
 掴んだ腕を引き、身体ごとこちらを向かせる。静雄の腕力の前では臨也はなす術もなく、思い通りに正面から向き合う形になった。
「手前、今までどこで何をしてやがった」
 獰猛に低い声でそう問いかけると、臨也は驚きの表情を薄く残したまま、まばたきして。
 それから薄い微笑に表情の全てを溶け込ませた。
「それはシズちゃんには関係ないんじゃないのかなぁ」
 その瞳で真っ直ぐに静雄を見上げたまま、臨也は微笑みを深める。
「だって俺、この丸三年、君には何も迷惑かけてないよ?」
 だから関係ないだろ。
 そう言って笑う臨也の表情は、あの頃とは全く違い、ひどく澄み切っていて。
 静雄は、続けるべき言葉を一瞬、見失った。



 臨也が新宿及び池袋から姿を消したのは、三年前のことだった。
 ある日突然、消えたのだ。
 もちろん、前兆がなかったわけではない。
 少なくとも静雄は、臨也がいなくなる少し前に、「この街でやりたいことは全部やっちゃったなぁ」という呟きを聞いていた。
 静雄のアパートの狭い布団の上で、座り込んだ膝を抱えるようにして呟かれたその言葉を、静雄は他人事のように聞いた。
 実際、臨也は他人だった。
 何かの気の迷いのように、新宿から舞い戻った臨也と静雄は身体の関係を持つようになってはいたが、それだけで、殺し合いの暴力の代わりにSEXの快楽を共有する、それ以上もそれ以下もなかった。
 そして、その頃の臨也は、とてつもない企みを池袋の街に対して持っていた。
 様々な人間を操り、池袋を戦場とも見まごう騒乱の場に変える。そんな愚かで凶悪な企みを着々と推し進め───。
 だが、静雄がそのことに気付くと同時に、臨也は姿を消した。
 企みも何もかも放り捨てて、池袋の街から居なくなったのだ。

「迷惑を……かけてねぇだと?」
 臨也の腕を掴む手に、ぎり、と力がこもる。
「ふざけたこと言ってんじゃねえ! 手前が居なくなった後、池袋の連中が元に戻るまでに、どれだけかかったと思ってんだ! 手前のせいで何人が傷付いたと思ってんだ!?」

 臨也が企みを放棄したとはいえ、それは臨界点間際でのことだった。
 複数の勢力がせめぎ合い、暴発寸前になっていた。誰もが情報に踊らされ、疑心暗鬼になっていた。
 高められていた圧力は行き場を失い、そのまま萎えたものもあったが、幾つかは制御を失って、そのまま暴発したのだ。
 その際の混乱はひどいもので、静雄もセルティや門田たちと共に、住人や街を守るために池袋中を駆け巡ることになった。
 臨也が最後の一手を打つ前にゲーム盤から手を離したことで、最悪の事態は免れたかもしれない。だが、それでもゲーム盤は地に落ちて砕け、多くの人間が傷付き、泣いた。
 少年少女たちの涙、悲痛な言葉。
 それら幾つもの出来事を、静雄は三年経った今、鮮明に脳裏に蘇らせて臨也を睨みつける。
だが、臨也は静かに澄み切った微笑を変えなかった。

「そうだね。言い訳にはならないけど、でも、俺は最低最悪の最後の一手は打たなかった。俺は本当は、あの子達に殺し合って欲しかったんだよ。でも、止めた。──そう言っても、君は聞いてはくれないんだろうけど」
「当たり前だろうが! どこまで腐ってやがるんだよ手前は!?」
「少なくとも、あんなことを企んでしまう程度には、かな」
 静雄の言葉をやんわりと肯定して、臨也は、腕を掴んでいる静雄の手に自分の手を添える。
「離せとは言わないから、少しだけ力を緩めてくれない? さすがに痛い」
「──このまま、へし折ってやったっていいんだぜ」
 言いながらも、静雄は少しだけ手の力を抜いた。
 たとえ臨也が相手であっても、人の骨の砕ける感触は、決して手のひらに心地良いものではない。それだけだ、と自分に言い聞かせるように心の中で呟きながら、改めて臨也を見つめる。
 すると、臨也は、また小さく微笑んだ。
「変わらないねえ、シズちゃん」
 それは外見のことであったのか内面のことであったのか。
 だが、変わらないのはお前の方だろう、と静雄は思う。
 綺麗に整った顔と、深く澄んだ声。何よりも紅く透ける瞳。三年という月日が嘘のように、臨也は何も変わっていない。
 ───否。
 一つだけ。
 浮かべる笑みだけが、あの頃とはまったく異なっている。
 あの頃の臨也は、こんな風には笑わなかった。少なくとも、静雄の記憶にはない。臨也の表情は常に大量の毒を含んでおり、特に静雄に対しては、それを隠そうともしなかった。
 なのに、今の臨也の笑みは綺麗に澄んでいる。それが不思議でもあり、静雄としては疑心を抱かずにはいられなかった。
 だが、そんな静雄の目の前で、やはり臨也は、ただの好青年のような表情を静雄に向ける。
「それよりもさ、シズちゃん。君は何しに来たの。見たところ一人だし、取立ての仕事とは思えないんだけど」
 そう問われて、静雄はこの街に来た理由を思い出す。
 他愛のない、だが断りきれない頼みを受けて、遥々電車を乗り継いできたのだ。その用事を果たさないわけにはいかない。
 だが、ここで臨也の腕を離してよいものか。
 葛藤する静雄の内心を呼んだのか、臨也は穏やかな声で、シズちゃん、と呼んだ。
「あのさ、別に俺は逃げないから。話をしたいんなら、歩きながらでも聞くよ?」
「…………」
「今の俺には、君から逃げる理由はないんだ。君にも池袋にも何かしようとしてるわけじゃない。まあ、あの頃のことで殴りたいって言うんなら、それは避(よ)けるけどさ。俺も痛いのは嫌だし」
 その言葉を聞いて、信じられるものか、と静雄は思う。
 だが、睨みつけたその先で、臨也は静かなまなざしをしていた。ほのかに笑み、ナイフを取り出すこともせずに静雄を見つめている。
「……チッ」
 小さく舌打ちして、静雄は手を離した。
 甘いのかもしれない。だが、このまま腕を掴んでいたら、返って負けだと感じたのだ。
 すると、臨也は揶揄するでもなく、ありがと、と短く告げた。
「折れてないし、手加減してくれてたのは分かるけど。でも、痣にはなってるよ、これ」
 軽く腕を曲げ伸ばししながらそんなことを言い、さて、と静雄を見つめる。
「で? シズちゃんは何しにここへ来たの?」
 もう一度尋ねられて、静雄は説明する必要があるのかと自問しながらも口を開いた。
 黙っていたら、この男を探しにきたとでも思われかねない。それは断じて有り得なかったから、自分の立ち位置を明確にするためにも、最低限の言葉は必要だった。
「うちの社長に頼まれたんだよ」
 少しでも気を落ち着けようと、煙草を一本取り出して火をつける。
 そして一吸いしてから、答えを待っている臨也に視線を戻した。
「今日、娘さんの誕生日なんだと。で、その娘さんが一度食べてみたいって言ってるケーキ屋に、誕生日ケーキを頼んだから取ってきてくれってな」
「それで、わざわざここまで?」
「悪ぃか」
「ううん。君らしいよ」
 そう言う臨也の表情には、あの頃のような嫌味はひとかけらも含まれていない。そのことをまた不思議に思う静雄の前で、臨也は小さく首をかしげた。
「この方角で、都内からわざわざっていうと……グランドール?」
「──知ってんのか?」
「そりゃあね。腐っても元情報屋だし、もう一年以上、ここに住んでるし」
「……元?」
 その接頭語に疑問を覚えて眉をしかめると、臨也はふわりと笑んだ。
「そう。もう辞めたから」
「何でだ」
「何でだろうね」
 笑って、臨也は、こっちだよ、と歩き始める。
「あ、おい」
 慌てて静雄も後を追い、直ぐにその隣りに並んだ。



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