※午前パートと午後パートに分けてupします。
まずは前半部分をお楽しみ下さいm(_ _)m
※後半部分をupしました。
Happy Nation
折原臨也は、自分の運が悪いと思ったことはない。
普段の行動が行動なだけに、物事の最後に笑うことができないことは間々あるが、しかし物事が推移する過程を楽しめれば良いのだと考えているから、最後に痛い目に遭うことさえも愉快だと捉えることができる。
つまり、運が悪かろうが良かろうが、関係ないのだ。いずれであっても、臨也にしてみれば人生は楽しみでしかないのだから。
しかし。
(俺の運勢って、一体どうなってんだよ……)
実に珍しいことに、本日の臨也は、自分の運の悪さを激しく呪っていた。
頭も体の節々もずきずきとした痛みを持って、このままベッドではなく奈落に沈みこんでしまいそうなほど、全身がけだるく重い。
熱い。苦しい。
思考もまた、殆どその二言のみで占められている。
眠いようなのに、体が辛くて上手く眠れない。そんな状態でうつらうつらとしていると、不意に寝室のドアが静かに開けられた。
敢えてノックをしなかったのは、彼なりの思いやりだろう。足音を忍ばせて近付いてくるのを、普段ならば、何を妙な気を遣っているのだと笑うところだが、今の臨也はそんな気力すらなかった。
「ああ、起きてたか」
臨也がうっすらと開いた目で見上げると、静雄は屈みこんで髪を撫でてくる。
熱のせいで感覚は鈍っているが、優しい手の動きはそれでも心地良くて、臨也はそっと目を細める。
「まだ熱、高ぇな……。あんまり上がるようなら解熱剤を使えって新羅は言ってたけどよ、どうする?」
低めた声でそう問われて、束の間考えた。
解熱剤を使えば、おそらく熱は三十七度台まで下がる。だが、下がれば、それだけウイルスは繁殖するのだ。
原則的に、体温を上げて高熱でウイルスを殺してしまうしか、インフルエンザを治す方法はない。
ゆえにウイルスがまだ優勢な段階で下手に熱を下げると、解熱剤が切れた瞬間に肉体は体温を上げようとして必死に活動を始める。具体的に言えば、数時間にわたる激しい全身の震えだ。
歯を食いしばっても止まらない、瘧(おこり)のような震え。
全身を伝い落ちる冷たい汗の苦しさを過去に経験したことのある臨也は、それを思い起こして、力なく首を横に振った。
幸い、健康な成人男性で基礎体力はある。三日ほど高熱にうなされたからといって、命に別状はないだろう。
逆に、解熱剤を服用した後の反動による消耗の方が、肉体的には辛い。
そういうことを罹患した最初の段階で話しておいたからだろう、静雄は無理に服用を勧めることもなくうなずいた。
「じゃあ、もう少し頑張るか」
そんな風にいい、温かな手でゆっくりと髪を撫でてくる。
昨夜は入浴できなかったから、いつものさらさらとした手触りは失われているだろうに、そんなことを気にする様子もない優しさに、臨也は少しだけ目を閉じて。
そして、もう一度目を開け、まなざしでサイドテーブル上のスマートフォンを指した。
「これか?」
差し出されたそれにうなずいて、ひどく重く感じる腕を布団から出し、ゆっくりと画面を開いて文字を綴った。
口を利くのが億劫なだけではなく、喉をやられてしまったために声が出にくいのだ。無理に喋ろうとすれば咳き込んでしまう。
だから、臨也は昨夜からセルティのようにスマートフォンの画面を介して、静雄と意思疎通を図っていた。
これが一昔前なら、筆談しかなかっただろう。だが、体調が悪い時に字を書くのは本当に辛いものだ。
文明の進化に内心で感謝しながら、臨也は文字変換を確定して静雄に示した。
『おつかいを頼みたいんだけど、今日、日本橋まで行く時間ある?』
「今日? ……そうだな、午後の休憩時間なら一時間はもらえるから……。まあ、それまでの仕事の進み具合次第だけどな」
『じゃあ、三越に入ってる店に行って、品物もらってきて。店の方には俺の代理が行くって連絡しておくから。今日、引き取りに行く予定だったんだけど、こんな有様だからさ』
「もらってくるだけで、いいんだな?」
『うん。頼むよ』
「分かった」
ありがとうという言葉は、画面に打ち込むのではなく、まなざしで伝える。
すると、静雄は小さく微笑んだ。
『大丈夫だから、もう仕事に行って』
「……悪いな、休んでやれなくて」
『そんなことで謝らないでよ』
静雄の仕事にも、当然ながら毎月のノルマがある。達成できないからといってペナルティのあるものではないそうだが、会社に深い恩義を感じている静雄は、律儀にそれを守ろうとしている。
そして、今日は、ずっと逃げ回っていた大口の債務者の居所をやっと発見し、そこに踏み込むという話だった。
そんな日に、幾ら家族の看病のためとはいえ、休みを欲しいとは静雄には言えないに決まっている。
昨夜、臨也の熱が高くなった時点で、休みを申請するか否か相当に葛藤していたから、臨也にしてみればそれで十分だった。
「しんどいだろうけど、もし食えるようだったら何か食えよ。粥は炊飯器に入ってるから」
『うん。ありがと』
かすかにうなずけば、静雄もうなずく。
それを見届けて、臨也はスマートフォンから指先を離した。そして、手を布団の中に戻す。
すると、静雄が乱れた肩口の毛布をきちんと整えてくれた。
「じゃあ、行ってくるな」
もう一度、髪を撫でて、あらわになった額にキスをして静雄は離れてゆく。
その背中を、臨也はドアが閉まるまで見送った。
それから目を閉じて、静雄が出て行く物音に耳を澄ませる。
小さな話し声が聞こえるのは、寝室に入りたがるサクラを宥めているのだろう。
言葉は聞き取れないものの、優しい響きの低い声を聞いていると、じわじわと自己嫌悪が増してくる。
(なんで毎年、こんなことになっちゃうんだろう……)
思い出すまでもなく、昨年のこの日にも臨也はインフルエンザの高熱に喘いでいた。
あの頃はまだ一緒には暮らしておらず、波江から連絡を受けた静雄が看病に来てくれたのは、愛おしい大切な思い出だ。
だが、どうして一年後も同じ事になると思うだろう。
(急に寒くなったからなぁ)
基本的には頑丈な性質なのだが、一冬に一回のペースでひどい風邪やインフルエンザに罹るのは昔からだ。
室内の暖房を惜しまないせいで、返って薄着になってしまい、体を冷やして熱を出すというのが、すっかりパターンになってしまっている。
(今年は、ちゃんとお祝いしたかったのに)
こんな有様では、ケーキを買ってくることも、それを食べることもできない。
油断から来る体たらくを怒るような静雄ではないが、親身になって看病してくれる分、余計に臨也の情けなさは募った。
(早く熱を下げないと……)
熱が高いと熟睡することは難しい。だが、温かくして安静にしていれば免疫は勢力を取り戻して、いずれ、ウイルスは体内から消えてなくなる。
今の臨也にできることは、自分の細胞の力を信じて眠ることだけだった。
(ごめんね、シズちゃん)
吐く息の熱さにどうしようもない倦怠感と息苦しさを覚えながら、臨也は布団にもぐりこむ。
そして、安らかとは言いがたい眠りに、とろとろと落ちていった。
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