cat-and-dog 3

 なんか煙草臭い、というのが半覚醒の脳味噌が出した最初の結論だった。
 どうして煙草の匂いを感じるのか。自分は、たまにもらい煙草をすることはあっても恒常的な喫煙者ではないし、煙草の匂いの染みた仕事用のスーツは、寝室のクローゼットには絶対に吊るさないようにしている。
 それとも、何か煙草の匂いが染み付いた小物を寝室に持ってきてしまっただろうかと思いながら、目を開ける。
「───へ?」
 途端、思わず間抜けな声が零れた。
 仰向けに寝転がっているのだから、目に映るのは寝室の白いクロス張りの天井でなければならない。
 だが、臨也の視界いっぱいに映っているのは、何だか妙にざらざらした質感のクロス天井だった。白っぽいことは白っぽいが、ざらざらした陰影が薄茶色を含んでいる感じで、少なくとも目に爽やかではない。
「……どこ?」
 おそるおそる視線を動かしてみる。
 右側にあるのは太い鉄パイプ──見た感じではパイプベッドらしいもの、左側には冬にはこたつになるらしい小さなテーブル。そして、いずれもその向こうはすぐに壁だ。
 とても狭い、おそらくワンルームの部屋だろうということは見当が付いた。

「お、起きたか」

 ここはどこだ、と軽いパニックに陥っていた臨也は、不意にかけられた声に、びくりと反応する。
 だが、その低い声には聴き覚えがあった。
「シズちゃん?」
「シズちゃんじゃねーよ。せめて名前で呼びやがれ」
 初対面の際につけた渾名が未だにお気に召さないらしい静雄は、軽く眉をしかめて臨也に文句を付ける。
「……ここ、シズちゃんの部屋?」
「ああ」
 その答えに、臨也は一つ納得する。
 静雄が店が借り上げているアパートに住んでいるというのは知っていた。ということは、ここは店からもそう遠くない場所だ。
「焼肉屋で手前が潰れたから、うちに連れて帰ってきた。酔い潰れたナンバーワンを道に放り出しておくわけにもいかないだろ。店の評判に響く」
「ああ、まぁね。それには率直に感謝するよ」
 言葉を交わしているうちに、色々と思い出してくる。
 昨夜のプラカードを一定数壊したら焼肉を奢るという賭けは、その場での単なるノリだったが、いざ実現すると、どうせなら、と悪戯心が働いたのだ。
 といっても、大したことではない。単に静雄を酔わせて、色々と喋らせようと企んだだけなのだが、昨夜は酒好きの上客に付き合って普段よりは大目に飲んでいたのが仇になった。
 静雄に幾ら酒を注いでやっても酔う気配はなく、そうこうするうちに自分の方が酔いが回ってしまったのだ。焼酎のロックではなく、ビールくらいにしておけば良かった時には既に遅かった。
 出てきた肉を一通り賞味したところまでは覚えているが、その後はふっつりと記憶が途切れている。
 そのままプラカードマンに持ち帰りされるとは大いなる不覚だ、とまだ床に転がったまま、臨也が眉をしかめて考え込んでいると、静雄が再び口を開いた。
「手前、メシ食えるか?」
「は?」
「俺は腹減ってんだよ。手前が寝てたから、一時間くらい前に起きてから今まで、台所でガチャガチャやるのは我慢してやってたんだ」
「──はあ。そういうことなら、俺も起きたから、どうぞ?」
「おう」
 寝起きということもあって今一つ彼の会話のリズムが掴めないまま促すと、静雄はうなずき、その縦に長い図体で悲しいほど狭いキッチンスペースに立つ。
 そして、鍋をがちゃがちゃやっている様を見ながら、臨也はゆっくりと起き上がった。

 意識が飛ぶほど飲んだ割には、アルコールはもう殆ど残っていないようだった。仕事後の酒&肉のせいで胃は重い感じがするが、気持ち悪くはないし頭も痛くない。
 寝起きで思考が霞んでいるのは、低血圧に加え、昼夜逆転生活を送っていることが原因であるから、今更気にすることもない。
 特に体調は問題なし、と把握したところで、臨也は自分の格好を確かめた。
 きちんとシャツもスラックスも身につけているし、スーツの上とネクタイは壁際のハンガーにかけられている。布団も毛布もなしに床の上に転がされていたのは間違いなく、節々が軋む感じがあるが、それでも荷物としては最低限、丁寧に扱われたらしい。
 なんでシズちゃんがベッドで俺が床なんだよ、という文句は喉元まで出かかったが、寝起きの頭では喧嘩をするのも面倒くさく感じられ、臨也はゆっくりと立ち上がった。

 改めて高い位置から見てみると、本当に狭い部屋だった。畳に換算すれば六畳以上はあるが、しかし八畳はない。
 臨也よりも十センチほど背の高い静雄であれば、尚更に窮屈だろう。
「ねえ、シズちゃん」
「何だよ」
「よくこんな狭いとこ、暮らしてるね。もっと広いとこに引っ越さないの?」
「別に不自由はねえし」
 料理している背中に向かって話しかければ、ぶっきらぼうな答えが返ってくる。
「どうせ寝てるか、本でも読んでるかだから、これでいいんだよ」
「俺の生活だって、そんなものだけど……」
 有り余る収入があるからでもあったが、臨也は贅沢な生活が好きだった。
 広い部屋で、家具は吟味に吟味を重ねたシンプルで上質なものだけを数点。そこでは臨也は王様だ。
 仕事という制約はあるが、それさえこなせば、何時に寝て起きようと、何を食べて何をしようと誰にも咎められない。
 そうして、一人きりの時間をとびきり優雅に、怠惰に過ごす。それが臨也の余暇だった。
「まあ、シズちゃんは借金もあるから仕方ないか。……あれ」
 壁際に置いてあるダンボール箱に、ふと視線が吸い寄せられる。
 箱は蓋が開きっ放しの状態で、中に納められている文庫本の表紙が数冊分、見えた。近付いて覗き込んでみると。
「藤沢周平、池波正太郎、って……シズちゃん、時代小説好きなんだ? こんなに沢山……三十冊以上あるんじゃない?」
「面白いだろ」
「否定はしないけど……。でも、本なんか読むんだ」
 心の底からの驚きを込めて言うと、静雄は肩越しに振り返り、ぎろりと臨也を睨んだ。
「手前、俺をどれだけ馬鹿だと思ってやがる」
「えー、そりゃあメダカか水平線くらい?」
 すくいようのない馬鹿、あるいは果てのない馬鹿だと答えてやれば、静雄が手にしていた菜箸が矢のように飛んでくる。
 臨也はそれを身軽くかわした。
「箸は料理に使うもんであって、投げるもんじゃないよ、シズちゃん」
「うるせえ!!」
 怒声を上げる静雄に、臨也はけらけらと笑い、心の中で、そうか、と呟く。
 箱の中に納められている文庫本は、勧善懲悪や人情話といった快い読後感を残すものが殆どだった。こういうのが好きなのか、と思いつつ、更に面白いものはないかと目を凝らす。
 どうせなら愛用のAVくらい発見できないか、とテレビ周辺に視線を向けたが、それらしきものが見つからないうちに静雄が臨也を呼んだ。

「おい、メシできたぞ」

「は?」
「うどん。早く食わねえと伸びるぞ」
「──ええ?」
 メシ?、うどん?、と単語が理解できないまま、臨也はキッチンスペースの方を振り返る。
 すると、静雄が丁度どんぶりを二つ持って、こちらにやってくるところだった。
 こたつテーブルの上にどんぶりと箸を置き、腰を下ろす。その姿を臨也はまじまじと見つめた。
「……まさか、俺の分まで作ってくれたの?」
「一人分も二人分も変わらねぇからな」
「でも……」
 静雄は自分のことを嫌っているはずだ、と臨也は思う。
 静雄が店に入ってからというものの、この半年間、二人はひたすらにいがみ合い、喧嘩をしてきた。何かというと挑発する臨也のことが、静雄は大嫌いなはずだ。
 なのに今、こたつテーブルの上で、どんぶり鉢はほこほこと湯気を立てている。
 具は、ネギとシイタケと鶏肉という、ごくシンプルなものだったが、出汁と醤油の濃厚な香りが臨也の鼻腔をくすぐり、反応して胃がきゅうと疼いた。
「おら、さっさと食え。明け方に肉食ってても、うどんくらいなら入るだろ」
「あ、うん……。でも、その前に顔を洗わせて」
「あぁ?」
 さすがに寝起きのままの状態で、食事をする気にはなれない。そう思っての臨也の申し出に静雄は顔をしかめたが、仕方がないと思ったのだろう。洗面所はあっちだと示してくれた。
 小さなドアの向こうの狭くて小さな洗面台には、案の定、スキンケア用品は何もない。
 肌の手入れは自分のマンションに帰ってからにしようと、臨也は水だけで顔を洗い、口をすすいで、少しだけさっぱりした気分を味わった。
「……このタオル、洗剤の匂いがする」
 薄れた染めでどこぞの企業名が入った白いタオルは、清潔な匂いがして、ぺらぺらなのに、あっという間に水分を吸収してくれる。
 改めて見れば、洗面台や鏡の汚れもわずかなもので、案外に小綺麗に生活している様子が窺えた。
「なんかすごく意外……」
 静雄は外見の作りこそは悪くないが、やたらに喧嘩っ早いことやチンピラのような言葉遣いをすることが相まって、受ける印象は、ひたすらに粗暴で大雑把だ。
 そんな男には、ゴミだらけの部屋と万年床が似合いそうなものなのに、現実は狭いワンルームに最低限の持ち物だけで、質素かつ身奇麗に暮らしている。
 何とはなし、清貧、という言葉が浮かびかけて、臨也は慌てて頭を振った。
「シズちゃんには全っ然、似合わないって」
 そしてタオルをタオルかけに戻し、部屋に戻る。すると、静雄が焦れた様子で睨んできた。
「顔洗うのに何分かけてんだよ。俺は腹が減ってるっつってるだろうが」
「……待ってたの?」
「メシは全員揃ってから食うもんだって教わらなかったのかよ」
「──あー、そう、だね」
 意外過ぎる現実の連続に、付いてゆけなくなりそうになりながらも、かろうじて臨也はうなずく。
 そういえば遠い昔、幼い妹たちと食卓を共にしていた頃は、そうだったような記憶がある。一人暮らしが長すぎて、そんな習慣はとっくに忘れ去ってしまっていたのだが。
「よし、食うぞ」
「あ、はい」
 いただきます、と手を合わせた静雄に釣られて、臨也も、つい手を合わせてしまう。
 なんだこれ、と混乱しながらも箸を手に取り、おそるおそる、うどんを一本すすってみれば、濃い目の味付けは出汁が効いていて、家庭で作ったものとしては上等の味だった。
 え、なに、何でこんな美味しいの、と更に混乱しながらも、臨也はうどんをもう一口、二口とすする。
 何口食べても、やはり美味しかった。
「……ねえ、なんでうどんなんか作れるの」
「は? 子供だってできるだろ。乾麺茹でて、濃い目に出汁とって具を入れて味付けするだけだぜ」
「いや、それはそうなんだけど、そうじゃなくて」
 君が料理できることの方が不思議だと告げれば、静雄は嫌そうな顔になる。
「マジで手前、どんだけ俺のことを見くびってんだ」
「だってさぁ、イメージとしておかしいよ、色々。箸の使い方も綺麗だし」
「喧嘩売ってんのか、手前は」
「売ってないよ。でも、おかしい」

 バーテン服姿にサングラスでプラカードマンをしている静雄は、もっと粗暴で粗雑でいい加減でなければならないのだ。
 足の踏み場もないような汚い部屋で、コンビニ弁当を飢えた犬のようにガツガツと食べていなければならない。少なくとも臨也の中では、そういうイメージだった。
 なのに、今、目の前にある現実は何なのだろう。
 長年接客業を務め、人間観察に長けている自負のあった臨也にとっては、それこそ世界がぐらぐらするほどの衝撃だった。

「シズちゃんって詐欺師じゃないの、本当は」
「どっから来やがるんだ、その発想は。俺は喧嘩して物を壊す以外の犯罪を犯したことはねぇよ。人間相手は基本、正当防衛だしな」
「でも……」
「いいから、とっとと食え。いい加減、伸びちまう」
 それきりうどんを啜ることに専念し出した静雄を横目で見ながら、臨也も、もそもそとうどんを啜る。
 具の生シイタケは小気味良い歯ざわりで、一口大に切られた鳥のモモ肉は、噛むとじわりと肉汁のあふれる絶妙の火通し加減。出汁が濃いため味に飽きることもなく、最後の一口まで文句の付けようがない。
 悔しい、と思いながらも、臨也はついつい汁まで飲み干してしまったのだった。



NEXT >>
<< BACK