「それじゃあ、俺、帰るよ。一晩お世話様。また店でね」
「おう」
 何とも言えない敗北感を抱えたまま、玄関先で臨也はそう告げる。
 そして靴を履き、出て行こうとしたところで、呼び止められた。
「臨也」
「ん?」
 何?、と問う間もなかった。

 振り返るのとほぼ同時に肩を捕らえられ、唇を奪われる。

「──んん…っ!?」
 驚き咄嗟に突き放そうとしたが、静雄の身体は重い石像のように動かない。それどころか薄く開いていた唇の隙間から、ぬるりとした感触と共に自分のものとは異なる体温が侵入してくる。
 熱い、と思った。
 人間同士であるのだから、体温にはさほどの差などないはずなのに、静雄の舌はやけに熱く感じられる。
 その舌に歯列を撫でられ、舌先をくすぐられて、臨也の中にもじわりとした熱が生まれた。
 舌先をきゅうと甘く吸われて反射的に縮こまらせると、追いかけるように熱い舌が更に入り込み、上顎をちろちろとくすぐり始める。そのくすぐったいだけではない感覚に、熱が疼きへと変わってゆく。
 ヤバイ、と思った時にはもう、臨也は敵の術中に落ちていた。
「…っ、ふ…ん、ん……」
 キスに応えるように静雄に身体をすり寄せた臨也は、その首筋に両腕を回して一心不乱に静雄の唇を貪り始める。
 対する静雄の右手は臨也の首筋を支え、左腕は臨也の細い腰をしっかりと抱き締めて、臨也の唇を貪ることをやめない。
 そのまま相思相愛の恋人同士のように貪り合い、求め合うキスを交わし続けた二人は、数分の後、ゆっくりと唇を離した。
「は…ぁ……」
 酸欠に喘ぎながら艶かしい吐息を零した臨也の口元を、静雄の指がぐいと拭う。
 そこでようやく臨也は静雄の顔を見上げた。
 抱き締め合ったままの体勢だから、まだひどく顔の距離は近い。
「なんで……?」
 目が覚めてからというもの、打ちのめされっぱなしで思考が付いてゆかない。ましてや、濃厚すぎるキスで酸欠気味になっていては、知恵が回るはずもない。
 だが、そんな臨也の混乱を、静雄は一言で吹き飛ばした。

「昨日の仕返しだ」

「は……?」
 ぽかんとして見上げれば、静雄はにやりと意地悪く笑う。
「どうせ覚えてねぇだろうけどな。昨日っつーか、今朝か。焼肉屋で手前がいきなりキスしてきたんだよ。俺が教えてあげるーとか言いやがってな」
「は、あ…、あ……!?」
「で、押しのけたら、畳に転がった手前は直ぐに寝ちまいやがってよ。その時に報復できなかったから、今、した」
 思ってもみない自分の醜態を告げられて、臨也は完全に石になる。
 全く記憶になかった。
 静雄が嘘をついているのではないかと疑ってみても、鳶色の瞳にあるのは面白そうな光だけで、あとは素直に澄んでいる。
 まさか、と思いながらも、臨也は恐る恐る問いかけた。
「俺が、したの? こんなキスを、君に?」
「いや。したのは間違いねぇが、触れるだけのバードキスだ。舌は入れてねえ」
「はあ!? だったら……!!」
「キスも知らねぇ童貞みたいに言われて、やられっぱなしでいられるかよ。倍返しするに決まってんだろ」
「バードキスだったんなら、倍返しどこじゃないだろ!?」
 二人が今交わしていたのは、フレンチどころかバキュームだ。バードキスなら何百回分に相当するか知れたものではない。
「離せよ!!」
 ぐいと肩を押しやれば、静雄は抵抗しなかった。
 静雄の体温からやっと解放されて、臨也は大きく深呼吸して息を整える。
「ホント、信じらんない。君がこんな破廉恥野郎だなんて思いもしなかったよ」
「今時、キスの一つで破廉恥だって騒いでりゃ世話ねぇな。手前は山の手のミッションスクールのお嬢さんか?」
「っ、君が相手でなけりゃ、こんなに騒がないよ!」
「そりゃ光栄だって言うべきなんだろうな」
「──死ね!!!!」
 本気で右手を振りかぶって、思い切り振り抜く。
 バシン、と小気味良い音が響いた。
 避けることなく平手を受け止め、目を細めた静雄の左頬に、くっきりと赤い手形が浮き上がる。
 その様を見て、ふん!、と臨也は出て行きかける。と、また静雄が呼び止めた。
「おい、臨也」
「何!?」
「今のキスとビンタでプラカード一週間分な。煙草が嫌なら、世界がぐらぐらするようなキスで払えっつっただろ」
「───本当に死ね!! 今すぐ死ね!!!!」
 にやりとした男くさい笑みと共に言われて、今度こそ臨也はブチキレる。
 乱暴にドアを閉め、騒音の苦情は静雄に言えとばかりにアパートの階段を走り降りた。
 そのまま勢いで数ブロック駆け抜け、人通りのない細い路地で足を止める。
「──何なんだよ、何なんだよ、もう……!!」
 キスだなんて、まるで覚えがない。
 焼肉屋では個室だったから、本当か嘘か確かめる術すらない。
 そして、何よりも。
「どこで覚えたんだよ、こんなキス……!!」
 世界がぐらぐらするようなキス。
 本当にその言葉通りだった。思わず我を忘れて、本気で応えてしまった。挙句、腰が砕けかけた。今だって膝ががくがくしている。
 これまでにも、女性相手ならキスだってその先だって経験はある。
 だが、キス一つでこんな状態になったことは一度もない。
「本当に何なんだよ、あいつ……!!」
 憤りを込めて、目の前の壁を叩く。と、手首に鈍い衝撃が走った。
「ったあ……。あ、さっきもあいつの頬、ぶっ叩いたんだっけ……」
 踏んだり蹴ったりだと思いながらも、脳裏に浮かぶのは、頬に立派な手形を残したまま意地悪く笑った静雄の顔ばかりだ。
 そして、ひどく熱く──蕩けるように甘かったキス。
 思い返すだけで、じわりと体温が上がる。
「──っ、本当にもう死んでしまえ……っ!!」
 もう一度罵り、臨也はぐいと手の甲で唇をぬぐって歩き出す。
 既に日は高いが、出勤時間までは、まだ数時間の間がある。
 いつもなら優雅な午睡を貪るところだったが、夕方にまたあの男と顔を合わせるのだと思うと、今日ばかりはさすがに眠れそうにもなかった。

End.

というわけで、臨也視点に戻りました。
シズちゃんが振り回されたら、次は臨也が振り回される番。
どうしようもない意地っ張りなシーソーゲームが好きです。

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