Auld Lang Syne

 それは、近くのスーパーに今年最後の買い出しに行ったときのことだった。
 乾物売り場で立ち止まった臨也が、商品陳列棚を見つめながら、ぽつりと言ったのだ。
「……ねえ、シズちゃん。シズちゃんって蕎麦屋で働いてたことあるよね?」
「あ? あるけどよ、半年くらい……。それがどうした?」
「蕎麦の打ち方、知ってる?」
 そう問われた途端、静雄のこめかみがピクリと動いた。
「……一応教えてもらいはしたな。けどな、臨也君よぉ」
「ん? 何かな? 顔怖いよ、シズちゃん。男前が台無し」
「半年真面目に務めてよ、初めて蕎麦の打ち方を教えてもらったその翌週に、誰かさんのせいでクビになったんだよなぁ……。忘れたとは言わせねぇぞ、このクソノミ蟲」
 ぎろりと静雄は目を怒らせて臨也を睨んだが、臨也は絵に描いたような爽やかな笑顔を崩しはしなかった。
「やだなぁ、クソノミ蟲なんて今更呼ばないでよ。呼ぶんなら、ハ・ニ・ィ、でしょ? あ、ハートマークもつけてね?」
「うるせぇボケ。胸糞悪いこと思い出させんな」
「あはは、過ぎたこと過ぎたこと。細かいこと気にしちゃ駄目だよ、シズちゃん」
 笑いながら臨也は買い出しを続けようと、カートを押していってしまう。
 静雄もいささか機嫌が降下したものの、今更この程度の会話で本気で切れる気はなかったため、吐息一つで気分を切り替えてその後を追い、直ぐにカートを自分の手に取り返した。
 そして二人は、そのままショッピングカート山盛りの買い物を無事終えて、今年最後の外出は終わった、はずだったのだが。


 翌日の午前中、宅配便がマンションのチャイムを鳴らした。
 荷物を受け取った静雄が厳重に梱包されたダンボールを開ければ、そこに収められていたのは、なんと蕎麦打ち道具一式(蕎麦打ち入門DVD付き)と蕎麦粉と中力粉。
 インターネットで検索してポチれば、翌日には品物が届いてしまう。
 実に恐ろしい時代になったものだと静雄が呆れたのは一瞬のこと。
 一秒後には、背後を振り返って臨也を思い切り怒鳴りつけていた。





「だってさぁ、シズちゃんの打った蕎麦、食べてみたかったんだもん」
「だからって、いきなり年越し蕎麦かよ」
 いい歳して「もん」とか言うな、と顔を覗き込んでくる臨也の額を指先で小突き、静雄は同封されていたDVDに見入る。
「あー、そういやこんな感じだったな」
「思い出してきた?」
 わくわくとソファーに座っている静雄の背後から身を乗り出してくる臨也を、静雄はうざい、と顔面を軽く押しやった。
 指輪を交換してから、かれこれ半年。
 二人の新婚気分に変わりはないが、当初どことなくしおらしかった臨也は、最近すっかり以前の調子を取り戻し、うざさも絶好調である。
 静雄がキレないギリギリを見極めては、何かしら大小の悪戯を仕掛けてくるのだが、しかし、それを許容している自分も自分だと、静雄は既に諦めの境地だった。
「何とかなりそう?」
「できねえってことはねぇと思うけどな……でも一発目から美味く作るのは絶対に無理だぞ」
 そんなことができれば、世間に蕎麦屋はいらない。職人技がものを言う食べ物だからこそ、美味い店がもてはやされるのだ。
 だが、臨也はそんなことは気にする素振りもなかった。
「いくら俺でも、そこまで図々しくないよ。シズちゃんが作った蕎麦が食べられればいいんだから。味はこれからってことでね」
「また作らせる気かよ」
「勿論! でなきゃ、何のために蕎麦打ちセット買ったのさ」
 まったく悪びれず断言する臨也に、静雄は溜息をつく。
 『シズちゃんが作った』と繰り返し強調する臨也が決して可愛くないわけではない。それどころか、その図々しさも含めて愛しいと思うのだから、もう末期だった。
「失敗しても食えよ。あと、麺つゆはお前が作れ」
「了解。じゃあ、共同作業ね」
 にこにこと上機嫌で答える臨也に、バーカと呟いて静雄はDVDを消し、立ち上がった。




 蕎麦の作り方は、つまりは蕎麦粉とつなぎの中力粉を合わせ、水を加えて捏ね上げて伸ばして畳んで切る。それだけのことである。
 が、それだけのことが大変に難しい。
 一つ一つ丁寧に扱わなければ、絶対に美味い蕎麦はできない。
 静雄は、かつて働いていた蕎麦屋の主人にそう教わった。
 それから見様見真似で、一度だけ打たせてもらったことがあるものの、勿論、客に出せるような代物ではなく、その日の店のまかないになった。
 筋は悪くない、と笑ってくれた主人は、今頃どうしているだろうか。そう思ったところで、静雄の機嫌は自然と低下した。
「本気で俺は、手前のせいで不幸続きだったよなぁ……」
「だーからー、蒸し返すの止めてっての。どんなに不機嫌になったって過去は変わらないよ? それとも、離婚したいとでも?」
 肩をすくめて言う臨也に、静雄は、ふんと鼻を鳴らす。
「馬鹿野郎。お前みたいなノミ蟲、野放しにできるかよ。一生責任持って面倒見てやるに決まってんだろうが」
「上等。だったら、過去を振り返るなんて無駄なことしないで、美味しい蕎麦作る努力してよ。人間の目が前向いてるのは、未来を見るためなんだから」
「もっともらしいこと言ってんじゃねえ」
 言いながらも、静雄はかつて教わったことを思い出しながら、丁寧に蕎麦粉と中力粉を合わせた中に湯を加えてゆく。
 丁寧に丁寧にかき混ぜているうち、小さな球状に粉がまとまり始めるのを覗き込んで、臨也が感心したように目をまばたかせた。
「へえ、こんな風になるんだ」
「麺つゆはどうしたよ」
「今、だし取ってる最中。沸騰してくるまで暇なんだよ」
 そう言いながら、興味津々の様子で臨也は鉢の中を覗き込んでくる。
 気が散らないことはなかったが、取り立てて邪魔になるわけでもなし、静雄は好きにさせておこうと臨也を放って、生地をひとまとめにし、丁寧に練り始めた。
 捏ねることおよそ十分、最後に外から中に細かく丁寧に寄せては、ぎゅっとまとめることを繰り返すうちに、表面はなめらかになり、中心に菊の花のような模様が出来上がる。
「こんなもんかな……加減がちっと分からねぇが」
「おおー、すごいすごい」
「出来上がってから言えっての。おら、鍋の方、湯が沸いてきたぞ」
「あ、昆布出さなきゃ」
 静雄が顎でコンロの方を示せば、臨也はパタパタとスリッパを鳴らして離れてゆく。
 すると、代わりに今度は鈴をチリンと鳴らして、サクラが足元に寄ってきた。
「ミィ」
「あー、悪ぃな。今は構ってやれねぇよ」
 拾ったときはほんの子猫だった彼女も、今は成猫より少しだけ小さいくらいにまで育っている。だが、静雄と臨也がよってたかって可愛がっているせいか、甘えっぷりは子猫の時以上だった。
「臨也、こいつ何とかなんねぇか?」
「あー、サクラ? 鰹節の匂いにつられてきちゃったのかな」
 それとも単に構って欲しいだけかな、と言いながら臨也は、鍋の火を弱め、厚削りの袋の中から新たな一枚を取り出し、サクラの頭の上でひらひらさせた。
「ほーら、サクラ。厚削りだよー。欲しい?」
「ミャーォ」
 臨也の悪ふざけに、サクラは足踏みしつつ、ねだる時特有の長鳴きをしながら一生懸命に厚削りを見上げる。
「こら、あんまりからかってやるなよ」
「いいのいいの、サクラは俺のこと好きだもんねー」
 たしなめるような静雄の声を臨也は笑い流し、そして、その場にしゃがみこんでサクラに厚削りを与え始めた。
 その様子を横目で見やってから、静雄は捏ね上がった生地を台の上で伸ばし始める。
 まずは丸く、そして大きく広がってきたら、今度は四角くなるように広げるのだが。
「この四角くってのが難しいんだよな」
 店でやらせてもらった時には、結局大きな小判のようになってしまったことを思い出しつつ、静雄は生地が割れてしまわないよう、丁寧に打ち粉を振りながら麺棒を転がした。
  「まあ、こんなもんかな」
 素人のやることだから、まな板のように美しい四角には当然ならない。少々いびつ、かつ、角が丸いながらも長方形らしくなったところで、静雄は手を止めて臨也を振り返った。



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