「おい、出汁はどうなった?」
「今、かえし作ってるよー。あ、そっちはもう切るだけ? 早いね」
「切るだけ、って簡単に言うなよ。これが難しいんだからよ」
「へえ。俺もちょっとやらせてもらっていい?」
「おう」
興味津々で寄ってきた臨也に立ち位置を譲り、包丁を渡した。
「このこま板を当てて切っていくんだ。で、下まで包丁がいったら少し刃を傾けて、こま板を左にずらす」
「ああ、蕎麦屋の店頭で見たことある。へえ」
成程と納得したらしい臨也は、折り畳んだ生地の端の方にこま板を当て、それに沿わせるように慎重に包丁の刃を落とした。
もともと器用で料理も上手い彼である。すぐにコツを飲み込んだらしく、リズミカルに麺を刻み始めるのを見て、静雄はその場を臨也に任せ、つゆの鍋を覗きに行った。
鍋の中は、黒々つやつやとしたいかにも江戸前風のかえし(つけ汁)が出来上がっており、隣りの鍋には出汁がいっぱいに用意されている。
「このかえしを出汁で割るのか?」
「そう。その方が作りやすいって書いてあったからさ」
「へえ」
うなずきながら、静雄は少しだけかえしをおたまですくって味を見てみる。
甘めの濃厚な味は、確かに蕎麦つゆの味だった。
「いいんじゃねえ?」
「うん。蕎麦の方はこんな感じでいい?」
「ん?」
呼ばれて見に行けば、まな板の上に細く切られた蕎麦が既に半分以上出来上がっている。
「結構楽しいよ。シズちゃんもやる?」
「おう」
「じゃあ俺、海老天、作ってくるね」
「頼む」
年越し蕎麦の具を何にしようかと相談したとき、せっかくだから蕎麦粉の香りを堪能するために、ごちゃごちゃと具を載せるのはやめようということで二人の意見は一致したのだ。
シンプルに海老の天ぷらのみ。しかも、うちで揚げたものを。
揚げたての海老天を載せた、手打ち蕎麦。
それが二人で作る年越し蕎麦としては、考え得る限りの最大の贅沢だと思えたのである。
「まあ、蕎麦が美味けりゃの話だけどな……」
ぶつぶつとぼやきながらも、静雄もまた丁寧に蕎麦を切ってゆく。
少なくとも切っている感触では、蕎麦の生地はなめらかで、さほど悪い出来には感じられない。
あとは味だけだが、一体どんなものだろうか。
さすがにこればかりは食べてみないと分からないと思いながら、最後まで切り終えて、静雄は背筋を伸ばして詰めていた息を吐き出す。
振り返れば、臨也が軽やかな手つきで車海老を揚げているところだった。
「もう蕎麦も茹でるぞ」
「OKだよー。もう俺、おなか空いた」
「だな」
時計は、あと一時間ほどで紅白歌合戦が始まろうかという時刻だ。
紅白歌合戦には、弟の幽は歌手が本業ではないからと出場は辞退したものの、審査員で出ることになっている。
その晴れ姿はやはり見てやりたいと素直に思いつつ、静雄は寸胴鍋を用意して、そこにいっぱいの湯を沸かし始めた。
大きな鍋であるだけに、湯が沸くにも少しの時間がかかる。その間に静雄は蕎麦打ちの道具を片付け、テーブルの上を綺麗に拭いた。
「はい、海老天できたよ。美味しそうだろ」
「おお、でけぇな」
「そりゃあね」
奮発したもん、と臨也は楽しげに笑う。
「楽しみだなぁ、シズちゃんのお蕎麦!」
「素人が打った蕎麦だぜ。期待すんな」
「何言ってるの、ちゃんと見た目は美味しそうじゃない。俺の作ったつゆもいい味だしさ。絶対に美味しいよ」
二人で蕎麦を作るということがそんなにも嬉しかったのか、臨也のテンションはいつもにも増して高いようだった。
そんな臨也に小さく溜息をつきつつも、静雄も笑う。
無茶振りを食らわされた形ではあるが、最愛の恋人が嬉しそうにしていて悪い気がするはずがない。
「おい、あとネギも刻んでおけよ」
苦笑しながら声をかければ、
「はいはーい」
じゃあシズちゃんは蕎麦を茹でる係ね、と臨也は機嫌よく冷蔵庫からネギを取り出し、細かな小口切にし始めた。
そして、ぐらぐらと沸き立ってきた鍋の中に打ち立ての蕎麦を投入し、そっと掻き混ぜて。
茹でること三分、蕎麦は見事に出来上がった。
「すごい、本当に出来たね」
「出来るもんだな」
二本ずつ車海老の天ぷらを載せた蕎麦は自棄(やけ)に立派に見えて、二人は素直に感心する。
そしてテーブルの席につき、いただきますと手を合わせた。
箸を取り、一口するするっと啜る。
その後、五秒余りも沈黙した挙句。
「──美味しい……!」
臨也は大きな感嘆の声を上げた。
「シズちゃん、これ美味しいよ! すごい!」
「確かに初めてにしちゃ、上出来の味だな」
「何、その淡白な反応!? 初めてでこれなんて、すごいじゃん!!」
「あー、でもなぁ。おやっさんの打った蕎麦は絶品だったからよ。それに比べると、一番最初に打ったやつよりはマシかなってレベルだぜ、これ」
「何贅沢言ってるんだよ! 松月庵のオヤジさんは何十年と蕎麦打ってきた名人だよ? 比べる方が間違ってるの! これはこれで、ちゃーんと美味しいよ。少なくともスーパーで売ってる乾麺や生麺より遥かに美味しい!!」
力いっぱいに断言されて。
静雄はきょとんとした後、ふっと笑み崩れた。
「何、シズちゃん」
「いや……マジで、お前って可愛いな」
「はあ!?」
「すげぇ可愛い」
くつくつと笑いながら、静雄は左手を伸ばして臨也の頭を撫でる。
素人が打った蕎麦を、これだけ美味い美味いと褒める恋人が日本広しと言えど、一体どれくらいいるだろうか。
実にたまらなかった。
「次に打つ時は、もっと美味いやつ作ってやるからよ」
「……なんかよく分からないんだけど。何がツボに嵌まったの?」
「教えねぇ」
教えてたまるものか、と思う。無意識だからこそ可愛いのだ。
意識的にやられては面白くもないし、また、態度に出さないよう無理に我慢されても困る。
そう思って拒絶すれば、臨也は分かりやすく拗ねた。
「……シズちゃんって、本当に憎たらしいよね」
「そうか?」
「そうだよ。最近、可愛くないこと多い」
「可愛くてたまるか」
肩をすくめて、静雄は大きな車海老の天ぷらに食いつく。
すると丸々とした海老は、ぷちりと口の中ではじけるような食感と共に濃い旨味が広がり、その鮮烈さに思わず目をみはらずにはいられなかった。
「この海老、すげぇ美味いな……!」
「あー、そりゃね。この海老、デパ地下で一番高いやつだから。最初はお正月用にしようと思ってたんだけどさ、せっかくだし」
「はぁ!? たかが年越し蕎麦のためにか!?」
「たかが、じゃないよ。年越し蕎麦だもん、シズちゃんの手打ちの」
つんと拗ねたままの顔で言われて、静雄は呆れると同時にじわりとした感情が湧き上がるのを感じる。
まったく、どれほど手打ち蕎麦を楽しみにしていたというつもりなのか。
心の底から馬鹿だと思った。だが、その馬鹿がどうしようもなく可愛く、いとおしいのも、違(たが)えようのない事実で。
本当にこいつも俺も仕方がない、と溜息をつきつつ、静雄は海老天をもう一口齧る。
「……すげー美味いぜ、これ。蕎麦つゆとも良く合うしよ」
「俺が作ったんだもん。当然だよ」
正直なところを告げれば、まだ拗ねた気配を残しながらも機嫌が少し上向いたのを、静雄は敏感に感じ取る。
年が変わるまでにもう少し機嫌を取ってやるかな、と思いながら、残りの蕎麦を啜った。
羽島幽平(審査員)と聖部ルリ(赤組トリ)のツーショットがやたらと強調された紅白歌合戦も無事に終わり、行く年来る年が始まるのを肩を並べて見るともなしに見つめる。
「今年も、もう終わっちゃうね」
「そうだな……」
色々なことのあった一年だった、と思う。
二人の関係が劇的に変わった昨年ほどではないが、それでもサクラを拾い、共に暮らし始めて、指輪まで交換した。
本当に充実した幸せな一年だったと思いながら、隣りを見れば、臨也は膝の上で丸くなったサクラを撫でていて。
その左手の薬指には、いつものようにプラチナのリングがひっそりと輝いているのに静雄は目を細める。
そっと手を伸ばして、その左手を取れば、臨也は何、と顔を上げた。
交代で風呂に入り、紅白歌合戦を見ているうちに機嫌はすっかり直って、静雄を見上げるまなざしは澄んでやわらかい。
その表情を愛おしく思いながら、静雄は臨也の指輪を嵌めた薬指に、そっと口接けた。
「シズちゃん……?」
「一人じゃねぇのって、いいなって思ってよ。去年だって年越しはお前と一緒だったし、その前も実家で親といたけどよ……」
「……そうだね」
ただ恋人同士というだけだった昨年とは、今年は明らかに違う。
法律上は何ら変わりなくとも、気持ちの上では全く違う何かが静雄の中にはあり、それは臨也も同じなのだろう。ことんと静雄の肩口に頭を寄せてきた。
「来年もまた、年越し蕎麦作ってね。俺もまた海老天、作るから」
「そんなに気に入ったのかよ」
「うん」
楽しかったし美味しかったし、と言われては逆らいようがない。
分かった、と静雄はうなずく。
そのまま聞くともなしに、TVから聞こえてくる除夜の鐘の音に耳を傾ける。
やがてTVに表示される時刻を見て、静雄はサクラを膝に抱いたままの臨也に、そっと口接けた。
薄くやわらかな唇の感触を感じ、舌先で表面を優しくなぞれば薄く開かれた唇の奥に誘い込まれる。
そして、ただひたすらに優しく甘く互いを感じ合っているうちに、時報が新年を告げて。
ゆっくりと離れた二人は、そのまま間近で目を見交わし、微笑む。
「明けましておめでとう、シズちゃん」
「おめでとう。今年もよろしくな」
「うん、こちらこそ」
くすくすと小さく笑い合って。
二人はもう一度唇を重ね、今度は新年最初のキスを存分に堪能した。
End.
Auld Lang Syne=オールド・ラング・サイン。『蛍の光』の原曲。
英語圏では大晦日のカウントダウンに歌われます。
2011年ラストの作品です。
今年も本当に色々なことがありましたが、ここまでお付き合い下さって、ありがとうございました。
それでは皆様、どうぞ良いお年をお迎え下さいm(_ _)m
2011.12.31.
古瀬晶 拝
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