どの季節より痛い、春の孤独





夢見る頃を過ぎても   −第三章−

2.幻月







 椅子から立ち上がった途端、軽い立ちくらみを覚えて、楊ゼンは端整な顔をかすかにしかめた。
「こんなにやわだったかな……」
 思わずそんな愚痴が口をついて出る。
 ───一月半もの長きにわたる昏睡状態から目覚めてから、既に三日。
 なのに、いまだに今一つすっきりしない体調が何ともいえず気に障り、今日は朝からあまり気分が良くない状態が続いていた。
 どうしてこんなことになったのだか、と思うものの、自分の記憶にあるのは、庵近くの川縁で太公望と短くも深刻ないさかいを起こし、その挙句に岩からもろともに落ちた、というところまでである。
 その衝撃で意識を失ったのだろうということは一応飲み込めたが、しかし、そのまま一月半もの間、昏睡状態にあったのだという太公望の言葉は、にわかには信じかねるものだった。
 たかが岩で頭を打ったくらいでまさか、と思うのだが、現実として、太公望に会いに来たのは例年と同じく桃花の盛りだったというのに、若緑に染まった庵の庭では、鮮やかな黄金色の山吹の花がそろそろ散り始めている。そんな花の移り変わりを目の当たりにしてしまっては、時間の経過を疑う余地はない。
 加えて、目覚めた直後に感じた手足の動きにおける言葉にしがたい違和感も、また揺るがしようのない現実だった。
 もっとも目覚めた自分に対して太公望は、一月半も寝たきりだったのに、これだけ動ければ立派なものだといってくれたのだが、それでも体の調子が中々戻ってこないのは困る。
 体の不調など、これまでにほんの数度しか感じたことがない分、体の切れが容易に取り戻せない現状は余計に不快だった。
 溜息をついて背筋を伸ばし、何とも表現しがたい心身双方の不快感を、いささか持て余しながら、楊ゼンは人気のない庵を出て、外へと足を踏み出す。
 見上げるまでもなく太陽は既に傾きかけていて、吹き抜けてゆく風も昼間に比べると幾分涼しい。
 風に揺れる木々のざわめきや鳥の声を聞くともなしに聞きながら、小ぢんまりとした庵の敷地を出て、雑木林の踏み分け道へ入ると、雑木林の中はブナを中心とした広葉樹林の薄い刃が陽光を透かしているためにかなり明るく、ひんやりとして少し湿った空気はどこまでも清浄に澄んでいて、知らず呼吸が深いものとなった。
 この道を一人で歩くのも、新緑の季節にこの雑木林に踏み込むのも、楊ゼンにとっては初めてのことだった。
 雑木林の中を細く続く踏み分け道は、太公望が毎日のように沢へ通ううちに出来たもので、楊ゼンがここを通るのは年に一度、彼の庵を訪ねて来た時だけに限られる。
 毎年、風がほのかにあたたかく感じられるようになった頃、ここを訪ねると、太公望は楊ゼンを庵の中に立ち入らせることを無言で拒む代わりに、この道を通って桃花の咲き乱れる美しい渓流へと誘うのが常だった。
 芽吹き始めたばかりの雑木林を抜け、眩しい春光の下、見渡す限りの薄紅の花に囲まれた時だけ、硬く張り詰めている太公望の気配がほんの少しだけ和らぐ──そんな彼を見るたびに、楊ゼンは幾許(いくばく)かの寂しさと安堵とを感じた。
 豊かに茂る樹木と美しい花、澄んだ渓流、様々な生き物。
 自分が案ずるまでもなく、ここでの生活は確かに今の彼に合っているのだろうと、こうして今、鮮緑に染まった森を目の当たりにしても納得せざるを得ない。
 あるがままの自然の中に、心身ともに疲れ果てたひとが何らかの慰めを見出すのは当然のことと言ってよかった。
 ましてや太公望は只人ではなく、並みの人間には厳しい深山での生活も何ら苦になるはずがない。むしろ、他者との接触を殆ど断った日々は、彼にとっては大いなる安息であるに違いなかった。
 ───あなたには……僕は必要ない。
 この大自然がある限り。
 ここにいる限り。
 あるいは、この世界がある限り。
 この美しい風景こそが、彼と自分とを隔てる壁になるのだと思いながらも、楊ゼンは、傾いた陽光が薄い葉を透かしてきらめく小道を先へと進む。
 ほどなく清流の音が耳に届き始め、やがて若緑のトンネルの出口が見えてきて。
 その先──花崗岩の巨石の上に、座り込んだ小さな後姿が見えた。
 歩みを止めることなく近付いても、こちらの気配に気付いているのだろうに、彼はかたくなに振り返ろうとはせず。
「師叔」
 すぐ後ろに立って声をかけると、ようやく太公望は首をひねってこちらを見上げた。
 そして、
「──体の調子は良いのか?」
 何を考えているのか計り知れない静かな表情で、そう尋ねてくる。
「ええ。……隣り、いいですか?」
「うむ……」
 歓迎されているようではなかったが、一応の了承を得て、楊ゼンは人一人が座れるかどうかという間隔を空けて、白灰色の巨岩の上に腰を下ろす。傾きかけた太陽の光をちょうど正面から受け止めている石は、人肌に触れているかのように程よく温かかった。
 そのまま二人は何を話すでもなく、しばしの間、無言で清流を眺める。
 夕暮れに近付きつつあるこの時刻、せせらぎには水晶のようなきらめきはなかったが、変わりに水面が淡く黄金色を帯び始めた陽光を反射して輝いている。もう少し時が経てば、それこそ目の前の渓流はまばゆい金色の光の流れとなるはずだった。
 このまま時が止まれば、と思う一方で、途切れることなく目の前を流れ、過ぎ去ってゆく水を眺めるうちに、ゆっくりと思考はまとまりを失くして言葉も意味を成さなくなり、無に近付いてゆくような錯覚に囚われる。
 流れゆく水に自我の一部がさらわれてゆくのか、それとも一瞬一瞬の繰り返しでありながら、永劫に変化しないようなせせらぎを眺めているうちに、時を数えることを忘れるのか。
 心の表面をなでてゆく澄んだ水の感触を感じながら、楊ゼンはそっと隣りに座る太公望の横顔を盗み見た。
 ───太公望は今日一日、楊ゼンの前に姿を現そうとはしなかった。
 夜明けと共に太公望は庵を出て行き、その後、一度も戻ってくることはなく。
 遠くに行ったわけではなく、すぐ近くに……ここに居ることは気配で伝わったものの、拒絶されていることははっきり感じられて、気だるさの消えない体を持て余しつつ、自分はどうすればいいのか、どうするべきなのかと自問して半日を過ごした。
 そして、夕刻近くなった今も。
 ようやく傍に寄った自分に対して、太公望は何一つ言葉をかけようとはしない。
 おそらくは、こうしてある程度動けるようになった今、彼の留守中に出て行くことを望まれていたのだろうと思いながら、楊ゼンは目を伏せる。
 今も自分のまなざしを感じただろうに、まるで気付かぬように無心に清流を見つめている横顔。
 まるで大河のように茫漠としていて、確かにそこにあるのに、決して手に触れることの出来ない水面に映った月影のような、凛と冴えているのに表情の消えたおもざしは、何もかもを拒絶しているようで、楊ゼンは言葉をかけることを苦く諦める。
 ……本当は、一月半前、言いかけて言えなかったことをもう一度、この場所で言うつもりで、ここへ来た。
 けれど──まだ多分、早すぎるのだ。
 封神計画が終了してから二十五年。太公望がこの地に隠遁してからは二十年。
 仙道には決して長い時間ではないが、楊ゼンにとっては十分過ぎるほどに長かった。
 だが、いくら他人が『もう二十年』と思っても、彼にとっては『まだ二十年』に過ぎない。
 二十年もの間、大自然の中に身を浸し、美しい風景を見つめ続けていても、いまだに何も癒せてはいないのだと、静かな横顔が語っている。
 ───そう。  何一つ、変わっていない。
 全てを拒絶し、諦めてしまったような静けさも、この世界の何をも映さなくなった瞳も。
 あの頃──隠遁したいと言い出した頃の彼と。
 まるで二十年の歳月などなかったかのように、同じ瞳、同じ横顔、同じ気配。
 改めて見てみれば、何一つ変わらないまま太公望は、あの頃と同じように沈黙のうちに全てを拒んでいる。









....To be continued












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