どの季節より痛い、春の孤独
夢見る頃を過ぎても −第三章−
1.風花
初めて出会った時。
あまりにも冷たい瞳の色に驚いたことを覚えている。
まるで氷のような、凍てついた瞳の色を彼はしていた。
その内に何が潜んでいるのか、探る取っ掛かりなど欠片もなくて。
天才の名を欲しいままにしている青年が、何故それほど他者を拒む瞳をしているのか、その時には理由が分からず、妙に気になって心に残った。
それが気になった最初の理由は、青年が只の知人ではすまない存在だったからだとは思う。彼が自分の補佐役として派遣された相手でなかったら、いずれ印象は薄れていってしまったかもしれない。
……けれど。
おそらく心に残った理由は、それだけではなかった。
綺麗、だったのだ。
触れれば切れるような冷たい彼の瞳の色は、それでも、何にたとえればいいのか分からないほど綺麗で。
何故か、次に会う時まで忘れられなかった。
後から思えば、それが始まりだった。
冷たかった瞳の色は、その後、数年も経たないうちに溶けていった。
そして、彼が自分を見る度に、その瞳が凍てついた色ではないことを確認して、小さな安堵を覚えるようになったのはいつのことだったか。
穏やかな瞳をした彼が傍に来ると、何故か、ふっと安心する。
そんな自分に気づいた当初は、まさかと思った。
他人を信頼することはできても、他人に何かを求めるような心が自分に残っているとは思わなかったから。
でも、そのうち彼の面影が……優しいまなざしが脳裏から消えなくなっていることを、認めざるを得なくなって。
否定しきれないと悟った時、自分の心を認める代わりに、それ以上を望むことを自分に禁じた。
自分には、そんな資格などないことを知っていたから。
もとより自分が生き延びることなど考えていなかったし、ましてや人並みの幸福を欲しがる気持ちなどなかった。
彼が傍らにあって、自分を補佐してくれる。
それだけでいいと、本気で思っていた。
その一方で、年月を重ねるうちに、彼が自分を見つめる瞳は加速度的に真摯なものへと変わっていった。
それに気づかないわけがなかったけれど、そんな瞳をしながらも何故か彼の態度は、あくまでも有能で忠実な補佐役としての範疇を出ることはなかったから。
とてもこまやかにこちらを気遣い、よく尽くしてくれてはいたが、取り立てて内心を匂わせるようなそぶりは一切なくて。
それが何故なのか不思議ではあったけれど、安心もしていた。
彼がそういう態度を取ってくれるのなら、こちらとしても、時折ひどく切なくなりながらでも、補佐し補佐されるだけの居心地のいい関係に満足していられたから。
本当に、本気でそれでいいと思っていたのだ。
もし戦況が激化しなければ、自分たちはあのまま──互いに本心を隠したままではあっても、穏やかで満足すべき関係でいられたのではないかと、今でも時折思う。
けれど、そんな平穏な状態を保てたのは、それほど長い時間ではなかった。
最初にバランスが崩れたのは、趙公明を封神した直後だった。
後々、彼は限界だったのだ、と言った。
あれ以上、耐えられなかったのだと。
己の内心の深い葛藤さえ押しのけてしまうほどに。
ただの補佐役の素振りを続けることは、あの時あれ以上できなかったのだと、少しだけ面映そうに、少しだけ自嘲気味に。
そっとこちらの髪に触れながらの言葉が、胸に痛いようで、愛しいようで。
それでも、嬉しいと思った。
───西岐を本拠と定め、周と国号を決定してからは、魔家四将、呂岳、殷郊と難敵ばかりの激しい戦いが続いて、自分は度々重傷ないし重症を負い、更に趙公明との戦いでは命を落としかけた。
戦いを注視していた彼を含む人々は、自分をかばってくれた楊任の魂魄が飛んだのを見て、一旦は自分が死んだと信じたらしい。
とはいえ、復活した自分の目には、彼はいつも通り冷静なように見えていた。
が、それが思い違いだと知ったのは、その直ぐ後のこと。
宿営地に戻ってきてから、今後の進軍のために二人きりで色々と打ち合わせをして。
そして、辞去を告げて天幕を出て行きかけ、足を止めた彼に、突然、抱きしめられた。
一瞬、心臓が止まりそうなほど驚いた自分に、
───今度ばかりは……駄目かと思いました。
と、彼は低くかすれた声で言った。
どういう意味なのか、分かりすぎるほど分かるその言葉に、返す言葉はなくて。
そのまま身じろぎもできなかった。
けれども彼は、それ以上は何も言わず何もせず、やがてゆっくりと離れ、驚かせてすみませんと軽く謝罪して、今度こそ本当に天幕を出て行った。
たった、それだけだったけれど。
それが、第二の始まりだった。
突然の抱擁から幾らも経たぬうちに、仙界大戦が始まって。
望むことを自分に禁じた以上、何も問い掛けることはできず、また、そんなきっかけもないまま、自分たちは崑崙山と金鰲島の総力を尽くした死闘へと突入した。
そして。
何故、彼があれほど真摯な瞳を向けてきながら、あくまでも補佐役に徹していたのか、ようやくその理由を知ったのだ。
───人ではない。
それだけの……けれど、どうにもならない事実が、彼の心を縛っていたのだと。
そう知った時、ただ胸が痛かった。
真実を打ち明けられるほどには信頼されなかったことを、悲しいとも辛いとも思わなかった。
そしてまた、自分が真実に気づかなかったことも。
気づいていたとしても結局、口に出して真実を確かめることはためらい、どうすることもできないまま同じ結果を迎えていただろうと分かっていたから。
何をも責める気にはなれず、ただ、表面には出さず苦しみ続けていた彼の心が、胸に痛かった。
その後、殻を脱ぎ捨てた彼が想いを告げてきた時に、受け入れたのは、半ば当然の成り行きだったかもしれない。
そこで彼を拒絶するほど残酷にはなれなかったし、それに自分自身、彼を拒絶すべき最大の理由を失っていた。
───仲間と親友に、彼らの命を託されてしまったから。
いずれ全てを終えた後、のうのうと生き延びる気はなかったのに、もう死ぬことなど出来なくなってしまったのだ。
死んでいった人々の生命──露と消えていった無限の可能性や思いや祈り、そして、少しばかりの心残りや無念。
そんな彼らの生きた証を受け止めなければならなかった自分は、その重みに打ちひしがれかけていたのかもしれない。
自分を許す気など微塵もなかったけれど、それでも彼に傍にいて欲しいと……傍にいてくれたらと、その時は本気で思った。
けれど。
それこそが残酷。
それこそが本当の罪の始まりだったと言うことに、その時の自分は気づかなかった───。
* *
「そろそろ潮時だと思うのだ」
静かに告げた太公望に、楊ゼンは特に表情を変えなかった。
いずれ言い出すだろうと、予測していたかのように、
「──どうされるつもりなんです?」
そう問うた。
窓の外は既に宵闇に沈み、残り少なくなった本日決裁分の書類に目を通しながら、宙に幾つも浮かんだ端末の画面を操作している青年から、太公望は静かに視線を逸らす。
そうして出てきた声は、常になく硬質だった。
「どこかの山奥にでも隠遁しようかと思っておる。皆に望まれたから留まっていたが……もう本当に仙界には、わしなど必要あるまい」
「僕はそうとも思いませんが……師叔がどうしてもと望まれるのなら、反対はしませんよ。封神計画が終わってもう随分と経ちましたし、蓬莱島も新たな仙界としての体裁は、もう整ってますしね。一人や二人、居なくなったところで、さして影響はないでしょう。確かに、いい頃合です」
「楊ゼン」
穏やかに返された言葉に、太公望は感情を消したまま、青年の名を呼んだ。
「おぬし、分かっておるのか?」
「……何をです?」
常にないほど完璧なポーカーフェイスを向けてくる太公望に不審を感じたのか、楊ゼンの声が少し低くなる。
そんな彼に、太公望は底知れぬ深いふちのような瞳を、まっすぐに向けた。
「わしは、おぬしと共に隠遁する気などないぞ」
その途端。
楊ゼンの顔色が変わった。
「────」
信じられないことを耳にしたと言いたげに目をみはり、何かを言いかけて再び唇を閉ざす。
対して太公望は、僅かに瞳を揺らしはしたが、それでも瞳を逸らしはしなかった。
「どういう……」
張り詰めた長い沈黙の後、ようやく楊ゼンは言葉を押し出す。
だが、その声も常になく低く、硬かった。
「どういうことです、太公望師叔」
「わしは一人になりたいのだ」
だが、太公望の声は揺らがない。
「おぬしの傍が居心地が悪いというのではないし、おぬしに愛想が尽きたわけでもない。──だが、もう人々と交わることに疲れた。そろそろ限界だ」
「そんな……!」
「聞き分けてくれぬか、楊ゼン。五年前、わしはおぬしたちの懇願を受けて、ここに戻ってきた。だが、おぬしたちが『太公望』と呼んでも、それは既にわしの本質を現さない。もうわしは『太公望』ではない。……それは、おぬしたちも分かっておることだろう?」
静かなその言葉に。
楊ゼンは両手を握り締める。
「今のわしは、『太公望』ではない。だが、『伏羲』でも『王亦』でも『王天君』でもない。それらの全てでありながら、何者でもない存在だ。既に、おぬしたち仙道や妖怪とも相容れぬモノなのだよ」
「……では、どうせよとおっしゃるんです?」
「楊ゼン」
「どうすれば良かったんですか、僕たちは!? あなたが何物であれ、失いたくないと願った僕たちは!? あなたを何と呼び、どう扱えばよかったんですか!?」
激しい声に……口調に、太公望はわずかに目を細める。
こちらを睨みつけるような楊ゼンの瞳は、激しい光を帯びていて。
それは、太公望の言葉が、これまで敢えて目を逸らしていた、致命的な核心をえぐった証だった。
太公望が既に太公望ではない。
それは自明のことだったのに、これまで誰も……太公望自身でさえ、分かっていながらも口にしたことはなかったのだ。
言葉にしてしまえば、逃げられなくなる。
抗いがたい冷酷な現実と向き合わなければならなくなるから。
誰も、決して口にしなかった。
けれど。
「……何も」
太公望は、全てを否定する。
これまでの全てを、静かに、非情に。
「おぬしたちは何もするべきではなく、何も呼ぶべきではなかった。わしが封神計画の終了後、一度だけ朝歌に顔を出したのは、また会おうという約束があの者達との間にはあったからで、それ以上の意味はなかった。
おぬしたちと再会するつもりがあれば、わしはいつでも蓬莱島に戻って来られたよ。だが、そうする気などなかった」
「───…」
「始祖の存在と共に、太公望も王天君も消えた。そう思って忘れるべきだったのだ。わしを探したことも、連れ戻したことも全て間違いだ。……それに応じた、わし自身も」
「何故……」
青年の声が震える。
「何故、今更そんなことをおっしゃるんですか!? この期に及んで、何故……!?」
血を吐くような叫びに、しかし太公望は眉一つ動かさない。
「もう限界だからだよ」
静かに……かすかな寂しさをのぞかせながらも、淡々と言葉を紡ぐ。
「今のわしは、ただ『そこに在る』だけの存在だ。まるで木石のような……。名をつけて呼ぶような存在でもないし、何かを為す存在でもない。……これ以上、『太公望』であることはできぬよ」
「──そんな……」
「うん?」
「そんな理由で、僕たちを捨てるんですか!?」
「───…」
正面から睨めつけた瞳は、ひどく傷ついた色をしていた。
この青年と初めて名を名乗りあってから、既に数十年が過ぎているが、こんな瞳の色は記憶にないな、と太公望は無表情の下に隠した心で思う。
仙道にとっても決して短いとはいえない時間を共にしながらも、自分の言葉一つで、いまだに彼はこれほどまでにも傷つく。
そのことをひどく愛しいと思いながらも、太公望は静かに答えを返した。
「そうだ」
短い返答には、かすかな救済を望む余地すらなくて。
曖昧さを拒む凛とした響きで、非情を肯定する。
「わしはわしに戻る。仙界には既にわしは必要ではなく、わしにも仙界は必要ではない。地上のどこか片隅で、石か朽木のように何も為さない存在として時間を過ごし、いずれは無に還る」
そう言い、太公望はかすかな微笑を含んだ表情で、自分の手のひらを見つめた。
「始祖の肉体のままであれば、大地に同化することも容易かったがのう。この体ではな。いずれ自然に土に還る日を待つしかない」
「──そんなことを許すと思っているんですか」
低い、硬い声が、聞く者を竦ませるような響きをひそませて、弾劾の言葉を紡ぐ。
「あなたがどう思おうと……あなたが何者であろうとなかろうと、そんなこちらの感情を無視した勝手な言い分に、はいそうですかと頷けると思っているんですか!?」
激しい憤りと共に、楊ゼンは言葉を吐き出した。
「あなたが今、『太公望』でなくとも、『太公望』あったことは事実だ。僕たちがあなたを望んだのは、あなたに何かをさせようと思ったからではなく、あなたが何者であれ、あなたという存在を失いたくなかっただけです。多くを望んだわけじゃない。ただ共に生きて欲しかっただけだ。なのに、それすらあなたは否定して踏みにじるんですか!?」
「好意の押し付け、とはでは言わぬよ」
対して、太公望は静かな表情を崩すことなく楊ゼンを見つめ返す。
「おぬしたちの懇願に応じたのは、わしの中にもそれを嬉しいと思う心があったからだ。そうでなければ仙界には戻らなかった。事実、おぬしたちのことは今この時も愛しいと思うよ。……だが、それと、わしがわしであるということは別だ」
「別だと言われても、筋が通りませんよ! そんな理屈がありますか……!?」
「何と言われようとも、わしはここを出てゆく。もう決めたことだ」
「師叔!!」
「誰のことだ?」
淡い笑みと共に返された言葉に。
楊ゼンは絶句して目を見開く。
そんな青年に、太公望は更に笑みを深くした。
「のう? こんな問い一つにすら答えを見つける事ができぬ存在なのだよ、わしは。太公望であったが太公望ではなく、伏羲でありながら伏羲でもない。もう名も形も持たない存在であるはずなのに、『誰か』として存在し続けるのはもう疲れた」
深く澄んだ瞳で、楊ゼンを見上げる。
「今すぐにとは言わない。だが、今月の末までには、わしは蓬莱島を降りる。──おぬしは許してくれるだろう?」
その静かな微笑に。
最後の一言を告げた、奇妙に優しい響きの声に。
楊ゼンは一瞬、言葉を失う。
「──あなたは……」
低い声が、感情を抑えかねて揺らいで。
「あなたは一体どこまで残酷になれるんですか!? それとも僕にとって、あなたがどんな存在なのか分からないとでも……!?」
灼けつくような光を浮かべた瞳が、太公望を激しく見据えた。
「ええ、確かにあなたの願いなら、どんなことでも叶えて差し上げますよ。どんな無理な望みでも受け入れます。隠遁なさりたいというのなら反対はしません。──でも、それとこれとは別です!
一人になりたい? 僕からも離れて? そんなことを聞き入れると本気で思っているんですか!?」
「思っておるよ」
「───…っ」
だが、太公望は表情を変えることなく繰り返す。
残酷なまでに静かな声で。
「太公望のことも、太公望ではなくなったわしのことも、おぬしは知っておるし、いつでもわしの事を一番に考えていてくれる。──だから、おぬしは許してくれるだろう?」
一度決めたことは、決して翻意しない。
誰が何と言おうと、全て跳ね返して己の選んだ道を行く。
そんな存在の零す、確信に満ちた言葉に、楊ゼンは目を見開いて太公望を見つめる。
しかし、絶句したのは、ごく僅かな間だった。
「話にならない……!」
肩で大きく息をし、吐き捨てるように視線を逸らせる。
そして、拳が血の気を失って白くなるほど手をきつく握り締めて、楊ゼンは厳しいまなざしを再び太公望に向けた。
「師叔」
憤りを隠そうともしない瞳を、太公望は静かに受け止める。
「あなたは、確かにも何者でもないのでしょう。それは認めます。でも、あなたは何も分かっていない。あなたが何者であろうと、僕からあなたが離れていくなんて絶対に許さない。他人の気持ちを馬鹿にするのも限度がありますよ。──何があっても……あなたがどれほど望んだとしても、絶対に僕は認めませんから……!」
激しく言い捨てて。
楊ゼンは踵を返し、部屋を出てゆく。
スライドして再び閉ざされた扉を見つめ、太公望は静かに吐息を漏らした。
「……おぬしが何と言おうと……」
静かな表情から微笑は消え、宇宙の深淵のように冷えた色のまなざしが軽く伏せられる。
「おぬしなど、要らない。もう……要らない」
聞く者のいない部屋で、しんと呟いて。
太公望は長い間、そこに立ち尽くしていた。
* *
「君のことだから、いつか言い出すんじゃないかとは思ってたけど……」
頬杖をついたまま、太乙真人は頷いた。
彼が肘をついている大きな卓の上は、太公望でさえぱっと見には意味不明の図面やら計算メモやらで、雑然と埋め尽くされている。──否、卓上だけではなく室内全体が、得体の知れない実験器具や薬品や工具などで混沌としていた。
かつての崑崙山のラボもこんな風だった、と見るともなしに室内を眺めて太公望は思い返す。
あの頃、一体何度こことよく似た部屋に足を踏み入れたか数えようとして、止める。
十や二十ですむものではなかったし、また今はそんな時でもなかった。
「それ、もう楊ゼンには言ったのかい?」
「……うむ」
ちらりと向けられた視線を避けるように、太公望は小さく答える。
「いつ?」
「一昨日」
「で、当然聞いてくれなかったわけだ?」
「──それ以来、顔を合わせようともせぬよ」
「そりゃ徹底的に拒絶されたもんだね」
溜息まじりのような声に、あらら、と太乙真人は溜息を返した。
「……まぁ、彼の性格からすれば仕方ないかもね。どうせ君も、まともな理由は言わなかったんだろう?」
「────」
「わざと怒らせた? 彼が諦められるように」
「……別にわざとではないよ。自明のことを口にしただけだ」
「にしても、これまでにないくらい、ひどく怒らせたのには違いないだろう?」
呆れを含んだ口調で言って、太乙真人は手元にあった何かの部品を指先で転がす。
しばらく、その短い円筒形をした金属の塊をもてあそんだ後、彼は淡々と言葉を紡ぎだした。
「でもさ、太公望。やっぱり君の態度は逃げていることにならないかい。多分、君が思っているよりも現実の世界は優しくできてると私は思うよ」
「……おぬしの目に映る世界と、わしの目に映る世界は違う色をしておるのだろうよ。正確に言えば、わしの目には多分、世界など見えてはおらぬ」
「閉じこもってるっていう自覚はあるわけだ」
軽く溜息をついて、太乙真人は部品を転がすことをやめ、椅子の背もたれに体重を預けた。
「それじゃ、私も多少は対抗措置をとらせてもらおうかな」
「太乙?」
「君の邪魔はしないけどね。このまま完全に逃げ切られてしまうのは、やっぱり私も承服できないからさ。世界のどこに行こうと、糸電話くらいは君に持っていてもらうよ」
「糸電話?」
「そう」
笑顔で頷く太乙真人に、太公望は眉をしかめたが、青年の方は構わなかった。
「とりあえず、君の思う通りにやるだけやってみたらどうだい? 一度決めたことを止める君じゃないしね」
「太乙」
「できることなら、出て行く前に楊ゼンのことは一応、宥めておいて欲しいけどね。教主なんだし、彼が本気で不機嫌になると結構皆、怖がるからさ。──まあ、君にそんな気はないと思うけど」
そして、太乙真人は軽く笑んだまま、太公望を手招く。
胡散臭そうに顔をしかめながらも、太公望はそれに応じた。
雑然とした室内を横切って、椅子に腰を下ろした太乙真人の直ぐ傍まで近づく。と、指の長い青年の手が、ゆっくりと太公望の頬に触れた。
「太乙……?」
「君がどういう決断をしてもね、私は君の味方だから。どうしようもなくなった時には、見返りなしでも助けてあげるから、ちゃんと思い出すんだよ」
幼い子供に言い聞かせるように。
数十年もの昔、かつての仙界で先輩格の兄弟子として接していた頃のように。
太乙真人は穏やかに告げる。
「いいね?」
「───…」
彼が腰を下ろしているせいで、自分の方が目線が高いことを感じながら、太公望は太乙真人の漆黒の瞳を見つめる。
けれど、出てくる言葉は他になくて。
「──分かって、おるよ」
不器用な子供だった頃に戻ったように──否、本質や名前がどう変わろうと、あの頃から何も変わらないまま、太公望は呟くように答えた。
「今日の午前中に、太公望が私の所に来た」
開口一番、告げられた言葉に楊ゼンは僅かに眉をしかめた。
「昨日のうちに太乙や道行の所にも顔出したらしい。──どうやら本気らしいな」
携えてきた書類を遠慮なく執務卓の上に置きながら、燃燈道人は深みのある低い声で、淡々と言葉を紡ぐ。
「それで、太乙から私に提案があった。出て行くのは仕方がないにせよ、一応はあれも仙界の関係者だからな。完全に連絡を絶つことはせず、所在を明らかにしておくように要請したらどうかというものだったのだが、お前はどう判断する?」
「あの人が出て行くことを認めるんですか!?」
思いがけない燃燈道人の言葉に、楊ゼンは驚愕を込めて顔を上げた。
だが、目の前の男は動じるどころか、むしろ興味がなさげに冷めた表情で腕を組んだ。
「今のあれは厳密には仙道ではない。あの存在を蓬莱島に縛り付けようという方が、むしろ無謀というものだろう。やりたいようにやらせるしかないと私は思うが?」
「ですが……!」
「お前の気持ちは分からないでもない、楊ゼン」
感情のこもらない声で告げ、燃燈道人は窓の外へとまなざしを向ける。
「私とて、もし異母姉上が単身でどこかへ行かれるとおっしゃれば、何が何でも引き止める。止められなければ、共に行くか、余程信頼のおける相手に付き添いを頼む。──だが、もし本当に本気で異母姉上が全てを拒まれたのなら、私にはどうすることもできない」
そう言い、わずかに諦めにも似た吐息を燃燈道人は漏らした。
「正直なことを言えば、太公望の態度にも言い分にも腑に落ちないものを感じないわけではない。しかし、理屈の内容はどうあれ、あれが蓬莱島を離れたがっていることだけは確かなのではないか」
それこそ、どんな口実でもいいから、蓬莱島を去ることさえできればいいと。
人々との関わりと絶つことができればいいのだと、そう望んでいるのではないかと指摘して。
燃燈道人は、改めて若い教主の顔を見つめる。
「始祖というものは本来、我々の想像を絶する存在だ。そして、あれは始祖としての記憶の上に人間としての記憶や、仙道、妖怪仙人としての記憶まで重ねている。到底、普通の神経で生きていけるものではあるまい」
「──だから、認めるとおっしゃるのですか」
「そうだ」
「あの人が僕たちを切り捨てるのを認めると……!?」
「楊ゼン、間違えるな。太公望は我々の所有物ではない。同朋であり、仲間ではあったが、それは既に過去の形だ。仙界は既に、あれの存在を必要としていない。居ても構わないが、居なくても構わない。そうではないのか?」
「────」
「私も張奎も、太公望の意志を認めた。監視するつもりも関与するつもりもないが、それでも最低限の消息さえ明らかにしていれば、どこへ行こうと自由にして構わないとな。後は、教主のお前の判断だ」
どんな判断を下そうと構わないが、公私混同はするなと暗に告げて。
燃燈道人は踵を返す。
「私も、今の太公望は無論のこと、王亦とも交誼があった。だから、存在を惜しむ気持ちがないわけではない。だが、あれはこれまで一度も、その立場から逃げることも自由になろうとすることもなかった。むしろ、ここまでよく持ったものだと思っている」
それが、自分が彼の意思を認めた理由なのだと、最後に告げて、彼は執務室を出てゆく。
均整の取れたその後姿を見送りもせず、楊ゼンは自分の手元に目線を落としたまま、唇を噛む。
何が正しいのか。
何が間違っているのか。
教主としての自分は、そして私人としての自分は、何をどうするべきなのか。
用意に答えの出ない……あるいは、答えを出したくない自問に、楊ゼンはきつくきつく自分の手を握り締めた。
用意というほどの用意は何もなかった。
所詮は、人外の身である。
それこそ身一つで出て行くだけのことで、出立までの猶予として定めた月末までの約十日間は、単純に挨拶回りのための時間に過ぎなかった。
それも、予想外にかつての仲間たちが、たやすく自分の意思を認めてくれたことで、あっさりと片はつき。
明日の朝、夜明けと共に太公望は、ここを出て行くつもりだった。
行き先は、地上の人里を遠く離れた、美しい渓流に恵まれた深山の中に建てた小さな庵。
お節介焼きのかつての兄弟子が、半ば押しかけのように作業を手伝ってくれたおかげで、あっという間に出来上がったその庵の中には、蓬莱島を降りる条件として示された通信機も備えられ、あとは主人が住み着くのをひっそりと待っている。
故に、もう何をすることもなく、太公望は私室の窓からぼんやりと外の闇を眺めていた。
少し前までは武吉や四不象が居て、何やかやと思い出話をしていたのだが、彼らも太公望に促されて名残を惜しみつつ自分の部屋へと戻ってゆき、今はもう物音は、せいぜい灯心の燃えるかすかな音くらいしか聞こえない。
ひどく静かだった。
そして、どれほどの時間が過ぎただろう。
不意に扉を叩く音が響いて。
太公望はびくりと振り返った。
「──誰だ?」
声をかけるのに少し間が空いたのは、こんな時間に尋ねてくる相手は一人しか思いつかなかったことと、まさか、という思いが交錯したせい。
けれど、
「僕です、太公望師叔」
扉越しに聞こえた声は、やはり彼のものだった。
「───…」
ためらったものの、ゆっくりと太公望は広い室内を横切り。
静かに錠を外して扉を開いた。
室内に楊ゼンを招じ入れたものの、その気まずさに太公望は少しだけまなざしを伏せる。
ここを立ち去る前に話をできるのは、これが最後の機会だと分かっているから、扉を開けたことを後悔はしなかったが、胸に満ちる苦さだけはどうにもならなかった。
「──本当に行かれるんですね」
「うむ……」
椅子を勧めても腰を下ろすことはせず、立ったまま、がらんと片付いた室内を見渡して楊ゼンが零した低い声に、太公望は小さく返す。
「何故なんですか……?」
約十日ぶりに聞く声は、どうしようもないほどに苦渋に満ちていた。
「どうして今更、僕の前から消えていこうとするんです? 五年前に再会した時、傍に居て欲しいと言った僕に、あなたは頷いてくれたのに……」
「───…」
「愛想が尽きたわけではないと言いながら、今になって姿を消そうとする。あなたにとって、僕はその程度の存在ですか?」
十日前とは違う、憤りよりも痛みと苦悩を滲ませた声に、太公望は口をつぐむ。
痛いほど胸に響くその声に、今更返すべき言葉などなかった。
自分は彼を捨てていこうとしているのに、一体何を言えばいいというのか。
今でも愛していると言って、すまないと詫びて。
そうしたところで、どんな意味があるというのだろう。
夜明けまで、あと数刻。
それだけの時間しか、自分たちの間には残されていないというのに。
「僕はずっとあなたの傍に居たのに……全部無意味だったんですか? あなたには何も伝わらなかったんですか……!?」
ただじっと人形のように立ち尽くし、静かにまなざしを据える太公望に楊ゼンは手を伸ばす。
「あなたさえ居てくれたら、僕はもう何も望まないのに……!」
低い、絶望に満ちた声と共に、きつく抱きしめられて。
───そういうおぬしだからこそ、傍には居られない。
要らない、と心の中で呟きながら、太公望は目を閉じる。
もう抱き締め返せない楊ゼンの体から伝わる温もりが、ひどく心に痛い。
けれど、それすらもう言葉には出せなくて。
「どうしても……駄目なんですか?」
繰り返される問いに、
「もう決めたことだ」
非情な答えを返せば、一瞬、抱きしめる腕の力がすがりつくように強くなる。
が、それも僅かな間で、楊ゼンは想いを振り切るようにゆっくりと体を離し、そして、床に片膝をついて太公望を見上げた。
「師叔」
痛ましいほど真摯なその瞳の色には、普段の余裕など微塵もなくて。
「そうおっしゃるのなら……もう諦めましょう。あなたのおっしゃった通り、あなたは最初から、ここに留めていい存在ではなかった。──でも、一つだけ、僕の願いを聞いてもらえませんか」
まなざしを逸らすことをできないまま、太公望は目で先を促す。
それを受けて、楊ゼンは静かに口を開いた。
「年に一度でいい、あなたに会いに行くことを許して下さい。ほんの少しの時間で構いません。あなたの顔さえ見られたら、それでいいんです。──お願いです、太公望師叔。これを僕の出す条件として認めて下さい。これだけでいいですから……」
切々と訴える楊ゼンの声を聞きながら。
自分は一体何をしているのかと、太公望は自分への絶望にめまいさえ覚える。
誇り高く矜持に満ちた彼を──かつての自分の補佐役であり、それ以上の存在でもあった彼を傷つけ苦しめて、こうして膝をついて懇願するところまで追い詰めて。
なのに、それでも猶、彼を選ぼうとはしない、鉛のように冷たくこわばった傲慢極まりない己は。
自分が逃げ出すことしか考えられない、この心は。
一体何でできているというのだろう。
でも。
それでも、鉛のような心のどこかに、生爪を剥がされるような痛みを感じている。
痛くて痛くて、叶うことなら今すぐ彼の前に身を投げ出して、許しを請うてしまいたい。
───頷くべきではなかった。
自分のことなど忘れろ、と、そう言うべきだった。
けれど。
どうしてそんな事が言えただろう。
半端さが彼を傷つけることくらい分かっていた。
でも、今この瞬間に、これ以上彼の心をずたずたに引き裂くことはできなくて。
「──分かった」
表情を消したまま、短く答える。
「──ありがとうございます、太公望師叔」
懇願の色を浮かべていた瞳が、ほんのかすかに緩む。
が、いつもの優しい微笑は浮かばない。
浮かぶわけがなかった。
そして、ゆっくりと楊ゼンは立ち上がる。
「……明朝、地上まで僕が送ります。夜明け前にまた来ますから、それまでに出立の準備を整えておいて下さい」
「分かった」
静かな言葉を拒絶することなく、太公望が頷くと、
「では、夜分に失礼しました」
隙のない身のこなしで一礼し、楊ゼンは部屋を出て行く。
───やはり今夜も、その後姿をただ見送ることしか、太公望はできなかった。
翌朝は天気は良かったが、風が冷たかった。
既に花の蕾も膨らみつつある季節だというのに、上空の大気は真冬のように凍てつき、太公望が楊ゼンと共に庵の前に降り立った時には、風花が陽光にきらめきながら舞っていた。
太公望の新しい住まいがある場所は、取り立てて峻険の地というわけではなかったが、あたり一体が霊峰として名高い高峰に連なっているために山麓にも人里はなく、人間が足を踏み込むことはまずない静かな深山の一角であり、山の中腹の雑木林の片隅を切り開き、建てられた庵はこじんまりと質素に佇んでいた。
「静かな所ですね」
「うむ。だが、もう少しすると、この先の渓流沿いは一面の花に埋まるよ」
「そうですか」
すべてを諦めたかのように淡々と応じる楊ゼンを、太公望は見上げる。
「おぬしには本当に世話になった。どれほど言葉を尽くしたところで足りぬだろうが……最後まで我儘を聞いてくれたことに感謝しておるよ」
「……いえ…」
楊ゼンの表情は静かだった。少なくとも──表面上は平静を装っているように見えた。
「今更心配する必要などないでしょうが、どうぞお体には気をつけて……何かあれば、いつでもご連絡下さい」
「大丈夫だよ。太乙が要らぬというのに山程薬丹をよこしたし、こんな山奥で一人きりでいれば、問題というほどの問題が起きることもあるまい」
淡く笑んで言えば、僅かに楊ゼンの表情が揺れる。
だが、それ以上は特に何も言おうとはせず、
「──では、また……」
昨夜と同じく、静かに一礼して、楊ゼンは空間を転移するべく片手を上げる。
その姿を太公望は、庵の前に佇んだまま見送って。
けれど。
亜空間を開くための線を宙に描いたところで、突然、楊ゼンは身を翻した。
「太公望師叔!」
「よ……」
思いがけない動きに驚いて名を呼ぶ間もなく、きつく抱きすくめられて。
「師叔……!」
そのまま唇を重ねられる。
「───っ・・・」
むさぼるように激しい、狂おしいほどの口接けに、なす術もなくたやすく意識は絡め取られて。
膝がくず折れそうになる寸前に、ようやく解放された。
「師叔」
低い声に、乱れた呼吸を何とか整えようと努めながら太公望が目を開くと、楊ゼンの痛いほど真摯な瞳が間近で見つめていた。
「あなたが御自分をどう思われていても……どれほど厭っていらっしゃっても、僕はあなたの全てを愛しているんです。それだけは、どうか忘れないで下さい……!」
そう言って、もう一度きつく太公望を抱きしめ。
華奢な体を突き放すように楊ゼンは身を翻し、再び亜空間への入り口を開くと、振り向きもせずにその中へと消えた。
「────」
それを呆然と見送って、太公望はゆっくりと崩折れるように地面に膝をつき、その場に座り込む。
何が辛くて苦しいのか、すべてを失った今、もう分からなかった。
死んでしまいたいほどの胸の痛みさえ、どこか遠くて。
金剛石のように白く輝きながら舞い散る風花の中。
ただ泣きたいと、それだけをぼんやりと切望するように思った。
けれど。
心がひび割れたかのように、涙は出てこなかった────。
* *
何度も何度も間違いを繰り返して、罪を重ねてきた。
断ち切る機会は、その度ごとにあった。
けれど、断ち切れるだけの強さが足りなかった。
でも、もう限界など、とうに過ぎているのだ。
これ以上、罪を重ねたくない。
楊ゼンを傷つけたくない。
だから、これで終わり。
もう二度と、夢を見ることなど望まない。
───嘘とごまかしで固めた夢の幕が、今、下りる───。
....To be continued
ようやく更新できました、第3章第1話。
今回は回想編です。
もともとの原稿は、原作で太公望=伏羲の設定が出てくる以前のものだったため、封神計画終了後の仙界の設定も、まったく異なる描写になっていたのを今回、すべて書き改めました。なので、一応元があるとはいえ、7割は書き下ろしの文章です。
で、設定を原作に沿わせたら、初版以上に楊ゼンはへたれキングになり、師叔も身勝手な酷いひとに☆
まぁ、ある意味、へたれ×女王様というのが、私の楊太におけるデフォルトなのかもしれません(-_-;)
所詮メロドラマ、と深く考えるのはやめて一気に書いてしまいましたけれど、やっぱり書きにくいです。
昔の私は、一体何を考えてこんな話を作ったのか・・・・。いくらスランプだったとはいえ、限度があると思うんですけど。
こんな作品に付き合うのもいい加減嫌になってきたので、頑張って何とか今年中に終わらせます。
なので皆様、ニトロ代わりに生ぬるいエールを、ダメダメ管理人に贈ってやって下さいm(_ _)m
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