SACRIFICE  -ultimate plumage-

12. turning point








 研究室に入ってきたその姿を一目見ただけで、彼の四肢がひどく傷ついていることに気づいた。
 秀麗の一言に尽きる顔の左半分、左目を覆う眼帯と、その上下に伸びる無残な傷跡ばかりが目立つが、見るものが見れば、歩く時にわずかに右足の動きが遅れること、左肩がかすかに上下することはすぐに分かるに違いない。
 満身創痍としか言いようのない姿で、しかし、青年の気配は研ぎ澄まされていながらも穏やかに落ち着いていて。
 それだけで、太乙が彼をなぜ気に入ったのか、分かるような気がした。







「しかし……手紙で分かってたつもりだけど、本当にひどいね」
「さすがに写真までつける気にはなれませんでしたから……。驚かせてすみません」
 熱い茶を満たしたカップを片手に、青年は淡い苦笑を唇ににじませる。
「いや、いいんだよ。どんな姿になろうと、命を失うよりはいい。絶対にだ」
「ええ」
 初めて──少なくとも再生されてからは初めて聞く青年の声は、耳に心地よい低めのテノールで、不思議とこちらを安心させる響きをしていた。
 楊ゼンと名乗った彼は、ある程度の情報は太乙から得ているのか、こちらに対して性急に何かを問いかけたり説明したりしようとする様子は全く見せなかった。かといって存在を無視するのでもなく、ただ、この場に呂望も居合わせていることを受け入れた上での自然な態度で、太乙と言葉を交わしている。
 その二人の様子を、呂望は黙って見つめていた。
 あるいは、もしかしたら無言のうちに感じていたのかもしれない。
 ───見ていれば分かる、と。
 いつか、会えば分かるよ、と言われた時と同じ響きの声が、彼を紹介された時に聞こえたような気がして。
 ただ、青年の顔と科学者の横顔を等分に眺める。
「僕もどんな姿になろうと……たとえ手足の二三本を失ったとしても、必ず生きて還ろうと思っていました。ですが……」
「────」
 途切れた言葉が、どんな意味を……重みを持つのか、聞かなくとも呂望には理解できる気がした。

 司令部が手をこまねいているうちに、北部戦線がいかに無残な崩壊をしたか。
 雪と氷に覆われた北の大地で、一体、幾万人の兵士が命を失い、その血で地上を染めたか。
 あくまで呂望は、報告書として提出された数字と映像でしか、その様を知らない。だが、それを見た時、数十年の年月を戦場でのみ生きてきた記憶が、まるであたかも己が只中に在ったかのように、むせかえるような血と硝煙の臭いと、左右の兵士たちが次々に倒れていく痛みを感じさせた。
 ましてや、彼は現実にその激戦の中に、士官として身を置いていたのだ。
 太乙の評を聞く限り……、そして目の前の彼を見る限り、彼の指揮能力はおそらく軍でも指折りと思われるから、損失は他の部隊よりは多少、軽微ですんだかもしれない。が、稀人である彼が、ここまで酷い手傷を負っている以上、彼の部下もまた、無傷で帰還した者が存在するとは思えなかった。

「──第四十一師団第二十六重装歩兵連隊第十七大隊、総兵員数五百名。……生還したのは……、自分を含めて百十二名です」
 言葉にはしなかった呂望の想像を言い当てるかのように、視線をやや伏せ気味にカップに添えた手元を見つめながら、しんと青年が言葉を紡ぐ。
「酷い……戦いでした。戦場暮らしももう随分長くなりましたが、この先、これ以上酷い戦いがあるかどうか……」
「ぎりぎり、帰還率二割、か」
 受け答える太乙の声も、重く湿った溜息交じりだった。
「それでも、よその歩兵隊に比べれば、まだかなりマシだね。なにせ壊滅した隊を数えた方がよっぽど早い」
「────」
「今更、悔み言を言っても遅いのは分かっているけどね。もう少し早く、総司令部が判断を下せていたら……」
「……そう、ですね」
 重く言葉を交わす二人を、呂望は黙って見つめていた。
 戦場ほど、生命が軽く扱われる場所はない。兵士を──生命をただの数として見なければ、戦争などできようはずもない。
 けれど。
 つい一瞬前まで隣りで生きて、動いていた人間が鮮血を撒き散らして倒れる光景を目の当たりにして、平然としていられる人間は神経がよほどどうかしている。
 たとえ戦いの最中は神経が麻痺していても、どうにかその場を離脱して一時の休息を得た時、どうしようもない恐怖と悲哀がこみ上げてくるのだ。
 ましてや、それが己が守るべき兵士、部下であったら。
 言葉を交わしたことのある、あるいは話したことはなくとも見知った顔の相手だったら。
 その死に顔は忘れようとしても忘れられるものではない。
 生還できた兵士の数より、生還できなかった兵士の数こそが、生き延びた人々の心を苛む。
 その痛みを、呂望は誰よりもよく知っている。
 だからこそ、何一つ言うべき言葉が、今はなかった。
「────」
 ふと気づくと、言葉を途切れさせていた青年のまなざしがこちらへと向けられていて。
「……何だ?」
「いえ……すみません。あなたとは初対面なのに、こんな話しかできなくて……」
「いや」
 謝罪する自嘲めいた声の奥に、彼の負っているひどい疲れが垣間見えたような気がして、呂望は小さく首を横に振る。
「わしは構わぬよ。酷い戦いをした後の気持ちは、それを体験した者にしか分からぬものだ。幸い、ここにはこの三人しか居らぬのだし、他にも話せることや話したいことがあるのなら、気が済むまで話せば良い」
「──ありがとうございます」
 呂望の言葉をじっと聞いていた青年は、ふっと片方しかない瞳の色を緩ませて淡く笑む。
 ───それは、ひどく優しげな印象を相手に持たせる、歴戦の軍人には似つかわしくない笑みだった。
 だからこそ、その分、赤く引きつれた傷跡が、いっそう無残に見えて、
「その左目は……何時に?」
 興味本位にならないよう気をつけながら、静かに呂望は問いかけた。
「言いたくなければ言わなくて構わぬが……」
「いえ……」
 聞かれて困ることでもないから、と青年は声のトーンを変えることもなく続ける。
「ティルデンが陥落して敗走する途中に……。すぐ側に迫撃砲が着弾して、その破片で左目と左肩をやられました。肩は骨を砕いたんですが、応急処置しかできなかったので、今も肘が肩より上には上がりません」
「それは大丈夫だよ。すぐに骨を自己培養してあげるから。十日もあれば、元通りになる」
「はい」
 それは分かっている、とうなずく青年を見ながら、おそらくその時、彼は誰かをかばったのだろう、と呂望は思った。
 肩と同様、不自由になっている右足を、たとえそれ以前に負傷していたとしても、稀人の身体能力なら、直撃でない砲弾の破片くらい十分に避けることができる。軽傷くらいは仕方がないかもしれないが、肩を砕き、眼球を損傷するような重傷を負うのは、通常ならばありえないのだ。
 なのに、回避できなかったということは、つまり、すぐ側に部下なり何なり、庇うべき対象が居たのに違いない。
 だが、その誰かが生還できたかどうかは分からない……生還の確率がかなり低い以上、敢えて口に出して確認できることではなかった。
「左肩と……あと右足も不自由そうだね。足首?」
「はい。一応完治してますが、踝(くるぶし)の骨と腱を傷つけたので……」
「じゃあ、そっちも培養しないと。目は培養して再生するより義眼の方がいいな。義眼の方が微調整が利くから、前と全く同じ視界が確保できる」
「ドクター、その事なんですが……」
 半ば独り言のように呟きながら、あれやこれやと治療法に頭をめぐらせている太乙に、青年は落ち着いた声を掛ける。
「左目の治療は不可能という診断書を出してもらえませんか」
「え?」
 その言葉に。
 思わず呂望も青年の顔を見直した。
 だが、二人の視線を受けても、彼は表情を変えることはなく。
「人工義眼は不適合、自己培養した眼球も、以前と同じ視界の確保ができず、大幅に視力は低下。事実上、左目は失明。その影響によって負担の倍加する右目も、将来的には失明の可能性有り、と」
 まるで報告書でも読み上げるかのような淡々とした口調で続けた。
「…………」
 あまりにも意外だったのか、それとも何か思うことがあったのか。
 彼が口を閉ざした後も、太乙は目を軽くみはったまま、しばらく何も言わなかった。
 呂望もまた、沈黙したまま青年を見つめる。
 彼が何を言わんとしているのか。
 その意図は、明白だった。
「……除隊するつもりなのかい」
「はい」
 戦闘が小康を保っている時期ならともかく、北部戦線が崩壊した今、東軍は恐慌状態に陥っているといってもいい。窮鼠猫を噛むのたとえの如く、なりふりかまわずにどんな手段でも用いて戦況を挽回しようとしている時だ。
 そんな時に、実績ある士官の、それもよりによって稀人の除隊をたやすく上部が認めるはずがない。
 それが分からないはずはないのに、彼は見事なまでに台詞にそぐわない穏やかさでうなずく。
「色々考えましたが、除隊願いを受理されるには他に方法がありません。戦場に戻れる可能性がわずかでもあれば、自分の除隊は決して認められないでしょう」
「それは……そうだけど、でも君ならおそらく、参謀としても留任されるのは間違いない。それはどうする?」
「振り切ります。どうしても認められないようなら、最後には脱走兵になっても構いません」
 彼の声にも表情にも、微塵も迷いはなく。
 すべてをもう決めたのだという意志だけが、しんしんと伝わってきて。
 こういう人間だったのかと……こんな強さを持った青年だったのかと。
 新たな驚きと共に、呂望は目の前の相手を見つめる。
 その視線の先で、彼の右目がかすかに沈鬱な色を滲ませて伏せられた。
「──この左目を失った時、何人もの部下をも失いました。そのうちの一人は自分の副官で……稀人に対しても物怖じすることなく、人の情に疎い僕と部下たちの橋渡しを、ずっと勤めてくれていました。彼ばかりでない……死んだ三百八十八名、全員がかけがえのない部下でした」
 ……かけがえがないのは、彼の部隊に限ったことではない。
 敵軍にあっても、一人一人がかけがえのない部下であり、上官であり、戦友であるだろう。
 けれど。
「もう、こんな思いはしたくないんです。誰に何と罵られてもいい。死んでいった彼らに怨まれても構わない。僕はもう、二度と戦場に立ちたくはない。これ以上、誰かの無残な死を見たくもないし、何よりも、この手で誰かの命を奪いたくないんです」
「……たとえば、」
 たとえば、と太乙は静かに口を開いた。
「このまま軍に残留して、何年か後に参謀として地位を得た君が戦争を終わらせる、というのは? そういう策は考慮の余地はないのかい?」
「……はい」
 かすかに苦悩をにじませながらも、きっぱりと答える。
「短絡的かもしれませんが、今すぐこの馬鹿げた戦争が終わらなければ、僕にとっては意味がないんです。たとえ順当に昇進できたとしても、戦争を終わらせることができる立場に辿り着くまで何年かかるか、それまで寿命があるかどうか……。それ以上に、稀人である僕が昇進したところで、どれほどの権限が与えられるかという疑問もあります。参謀に名を連ねたとしても、せいぜいが末席で、実際的な発言が許されるとは思えません。
 それに、それ以前の問題として、軍に所属してから既に十年以上になりますが、上層部が戦争を終わらせたいと真実、考えているとは自分にはどうしても感じられないのです」
「────」
「おそらくこの命が尽きるまで、どんなに長くてもあと十年でしょう。それなら、その十年は自分が望むように生きたいんです。軍を辞めて、どうやって生きていくかもまだ決めていません。ですが、それでも……」
 これ以上、人の死を見たくはない、と。
 低く紡がれた声は、呂望の耳には血を吐くような苦鳴に聞こえて。
 自分もそうだった、と思い返す。
 ───あの頃何度、自分も思っただろう。
 もう沢山だ、と。
 誰か、もう止めてもいいと言ってくれないかと。
 名も知らない兵士たちの死を目の当たりにするたび、のたうち回るほどの苦しさの中で願った。
 泣くこともできず、逃げることもできず、眠れぬ夜ばかりを過ごして。
 一人でも多くを守ることを願いながら、一日でも早く、擬似心臓が止まる日を夢見ていた。
「───…」
 そのまま、小さな明かりだけが灯された地下研究室は、しばしの間、沈黙に満たされる。
 そして、ゆっくりと顔を上げた青年は、静かな瞳を呂望へと向けた。
「あなたは……僕を軽蔑しますか? 卑怯だと思われますか?」
 そう言った青年の目は、ひどく深い色をしているようだった。
 菫色を帯びた青い瞳には、自嘲の色もあったかもしれない。
 だが、それ以上に、すべてを受け入れて尚、己を貫こうとする意志の方が遥かに強く滲んでいて。
「……いや」
 確かにずるいのだろう。
 卑怯でもあるのだろう。
 まだ数百万の兵士たちが泥と血にまみれて戦っているのに、回復可能な負傷を偽って除隊しようとするのは決して褒められた行為ではないに違いない。
 けれど。
 あらゆる非難を覚悟した上で、彼はもう人を殺さない道を選択したのだ。
 おそらくは裏切り者、卑怯者としての自責に生涯、苛まれることまでも覚悟した上で。
 その強さが、何一つ選べなかった身には、ひどく眩いように思えて、
「人間として、当然のことだと思う。正常な人間なら戦場を忌避して当然だ。おぬしは何も間違ってはおらぬと、わしは思うよ」
 呂望は静かに、肯定の言葉を紡いだ。
「……そうだね」
 黙って傍らで聞いていた太乙もまた、うなずく。
「この戦争はあまりにも長く続き過ぎている。西が正しいのか東が正しいのか、もう誰にも分からなくなっているだろう。正義のためだとでもいうのならともかく、そんな馬鹿げた戦争のために君が命を捨てる必要などないよ」
「ドクター」
「君だけじゃないね。大陸の人間全員が戦争なんて馬鹿馬鹿しいと放棄してしまえば、この戦争は終わるしかないんだ。でも、大半の人間は死ぬのは嫌だと思いながら、戦争を終わらせる方法を思い付かないでいる。……もう戦争を終わらせることなんて想像できなくなってるのかもしれないな。とにかく現状の戦線を維持して戦い続けること……それだけしか考えられなくなっているのかもしれない」

 ───あまりにも長すぎる、大陸中を巻き込んだ戦争。
 一人の人間が生まれて死ぬまでの時間と同じだけの年月、常に戦いがあれば感覚など麻痺してしまって当然だった。
 むしろ、今すぐ戦争が終わったら、大陸中の人々が呆然としてしまうだろう。
 とりわけ軍に直接関わっていた人々や、軍組織を相手に商取引をしていた人々は、明日からどうやって生きてゆけばいいのか、どうやって生活の糧を得ればいいのか、途方に暮れてしまうに違いない。
 ……守護天使を造っても、戦闘機を造っても、いずれも勝利には繋がらず、戦いが中断することもなかった。
 この長すぎる戦争を終わらせるには、おそらく旧策以上に悪魔的な手段か、もしくは180度発想を変えた手段を発案するしかないのだろう。そして、そんな兆しは、──もしかしたら既に誰かが考え始めているのかもしれないが──まだどこにも見えない。
 世界のすべてはまだ、戦争を継続する方向へと傾いたまま、誰も戦争のない地上を思い描くことすらできないでいる。
 けれど。
 人が人を殺す虚しさに……どれほど殺したところで戦争が終わらないことに気づいてしまったら。
 その瞬間から、兵士は心の足場を失う。
 それでもなお、生きる術は他にないのだからと、虚しさに見て見ぬ振りをして戦場に立ち続ける者もあるだろう。
 が、彼のように、あえて終わりの見えないそれに加担し続ける義務もないのだと思い切る者も必ず居る。
 そして、生きたいと心の底から願うのなら、たとえ大陸の全体が戦争に依存しているのだとしても、人ひとりがすり抜けて生きてゆく隙間くらいは見つけられるはずだった。

「分かったよ、楊ゼン。誰が見ても文句のつけようのない診断書を出してあげよう。君は君の望む道を生きていくといい」
 そう告げた太乙の表情は、晴れやかなほどに凛と穏やかで。
 長い付き合いでも見たことのない科学者の表情に、呂望はひそかに目をみはる。
 だが、一方の青年はそれに気づいているのかいないのか、古ぼけたソファーに腰を下ろしたまま深々と頭を下げた。
「御厚意に感謝します」
「うん。──呂望」
「ん?」
 不意に名を呼ばれて、思わず呂望は目をまばたかせる。
「君も楊ゼンと一緒に行きなさい」
「は……」
 思いがけない言葉に呆気に取られて、太乙の顔を見つめた。
 が、いつもと同じ、飄々とした掴みどころのない微笑ばかりが向けられていて。
「ドクター、それは……!」
 呂望が言葉を思いつくよりも早く、青年の方が反応して半ば腰を浮かせる。
「何? 何か文句あるのかい?」
「そうではなくて……この人にとって、僕は初対面の人間ですよ。突然そんな相手と行けと言われても、この人が困るだけでは……」
「あれ、この子に好かれる自信がないんだ?」
「そういう問題じゃないでしょう!?」
「要約すればそういうことだろう。呂望、ちょっと聞くけど、初対面の印象はどうだった? 逃避行の同行者としては不満かい?」
 笑顔と共に問いかけられて。
「ドクター!」
「あー、いいからちょっと君は黙ってなさい。今は呂望への質問タイムだから」
 呂望はまだ半ば呆然としたまま、言われるままに青年へとまなざしを向けた。
 すると、こちらを見つめるひどく困惑したような瞳とぶつかって。
「──嫌、ではないよ。むしろ……」
 零れかけた言葉を途中で押しとどめ、視線を青年から逸らし、太乙へと向き直る。
「だが、おぬしは彼を正式に除隊させるつもりなのだろう?」
「もちろん」
「だったら、こんなお荷物は不要だろうが。わしは東方軍の最高軍事機密だぞ。それも死んだはずの……!」
「そんなことは百も承知だよ。でも、いつまでもこんな地面の底にもぐってるわけにもいかないだろう。君は生きてて、自由の身なんだから外に出て行かなきゃ」
「だが、それなら別にわし一人でも……!」
「だーめ。そんな危ないこと、主治医として許可しないよ。今の君は外見は昔と同じでも、身体能力はただの人間なんだから。万が一、君を見知っている人間に発見されたらまずい。それが敵でも味方でもね」
「だからといって、正式に除隊して軍とは関わりのなくなった人間を、軍から逃亡する者の護衛にしろというのか!?」
「そうはいうけど、人選としては最高だと思うよ。楊ゼンは絶対に君を見捨てないし、重荷にも感じない。そうだろう、楊ゼン?」
 突然に会話を振られて、青年は咄嗟の反応に困ったのだろう。
 呂望へと困惑したまなざしを向け、しかし、瞬時に表情を引き締める。
「──はい。ドクターのおっしゃる通りです。ですが……」
「でも…、何?」
「本当にいいんですか、僕で……」
 その問いかけは、呂望が思わず小さく目をみはるほど真摯な響きだった。
 が、太乙はあっさりと振り捨てる。
「他に誰がいるんだい。この子の存在を知っているのは、私以外には君しかいないんだよ?」
「────」
「呂望もだ。そもそも選択肢なんかないんだから、ごねるんじゃないよ。どうしても気に入らなければ、大陸の端まで行って身の安全を確保してから別れたらいい。それまでは一緒に行きなさい。これは主治医としての命令だよ」
「…………」
 当事者の意思など遠く離れたところで今後をお膳立てされて、思わず呂望は青年と顔を見合わせる。
 ───個人的な好き嫌いを言うのであれば、初対面の印象は悪いものではなかった。
 むしろ好ましさを感じたといってもいい。
 だが、それはそれ、である。
 太乙の理屈は間違っていないのだろうが、他者に自己の身の安全の確保を委ねるという事態を飲み込むには時間がかかる。
 が、複雑なのは、彼の方も同じなのだろう。
 しばしの沈黙の後、溜息をつくような調子で、口を開いた。
「──まだ日数はありますよね。義眼や培養骨格を移植して、上官に診断書と除隊願いを受理してもらわなければならないんですから、最低でも一月は……」
「かかるだろうね、当然」
「でしたらその間、こちらに通わせていただいてもよろしいでしょうか?」
「それは勿論だよ」
「分かりました」
 もう一度溜息をつき、きっぱりとした口調で言うと、青年はこちらへ微苦笑未満の表情を向けて。
「短い時間だとは思いますが、その間に僕のことを知って下さい。さしあたって、軍の影響力が強い地域から身を遠ざける必要があるのは、僕もあなたも共通する事項のようですから。その後のことは、またその時に考えましょう」
「……分かった」
 他に手立てはないのかと思いつつ、うなずきながら。
 知己であることを決して匂わせず、知ってくれとは言っても思い出してくれと言わない彼の態度は何故なのだろう、と呂望は思考の片隅で考えていた。












 青年二人が特大サイズのデスクに並んで向かい、いつになく熱心に議論とも相談ともつかない会話をしている様子を横目で見ながら、呂望は三つのカップに香草茶を注ぐ。
 そして、暖かな湯気を立ち上らせるそれらをトレイに乗せ、わざと軽い足音を立ててデスクへと歩み寄り、
「少し休憩したらどうだ?」
 二客のカップを書類の隙間へと置いた。
「あ、気が利くね」
「ありがとうございます」
 口々に告げられる礼に軽くうなずきながら、ちらりとデスクの上に目をやると、粉砕骨折の跡を幾筋も残した肩甲骨を映した複数枚のレントゲン写真は雑多な書類の下になり、今は新しい光学式武器の設計図が一番上に広げられている。
「今日は、骨の自己培養をどうするかという話ではなかったのか?」
 溜息混じりに、そう問いかけると。
「あ、それはもう終わったから」
 あっけらかんとした返答が返ってきた。
「せっかく五体満足で帰ってきてくれたんだから、ちょっと前に思いついた新しい道具を試してもらおうと思ってね。今から組み立てれば、リハビリをしている間に使いこなせるようになるだろうし」
「僕は、今の光剣でも十分だと申し上げたんですけどね。図面を見ていたら面白くなってしまって……」
「そういうあたり、玉鼎の息子だって感じがするよねぇ」
「あの人ほど、僕はこだわりはないですよ」
「君は実用主義だからね。玉鼎は完全に収集家入ってたからなあ」
「ええ」
 苦笑しながらカップを手に取る青年の頬に、首筋で束ねるには届かなかった鬢の髪が落ちかかる。
 ───軍では少々珍しい長髪は、これでも随分伸びたのだと聞いた。
 無残としか言いようのない様相を呈した敗走の中で、一旦は肩にもかからない長さにしたのが半年余りを経て、不揃いながらもようやく束ねることができるようになったのだと、苦笑するように言った顔は、こちらの同情を徹底的に拒んでいるように見えて、そうなのか、とうなずくことしかできなかった。
 彼──楊ゼンと引き合わせられてから、既に五日が過ぎている。
 毎日、この研究室へとやってくる彼とは幾らか言葉も交わすようになっていたが、しかし、まだ今一つ、為人(ひととなり)とが掴めないままだった。
 悪い人間ではない、とは思う。
 けれど、それ以上にもならないのだ。
 別に、この基地を出るまでとその後、しばらく行動を共にするのは構わないが、その先も長く、積極的に一緒にいたいと思う相手かと問われると、うなずくのは難しい。
「楊ゼン、こっちのことは今日はもういいからさ、呂望の相手をしてやってよ。私は君の肩甲骨の培養をしてくるから」
「はい、分かりました」
 意図的なのか、楊ゼンはこの研究室内では軍人らしい態度は殆ど出さない。
 が、太乙の言葉に逆らうことはまずなく、あっさりとうなずいて、自分のカップを手に立ち上がる。そして、彼らの邪魔にならないよう隅のソファーでくつろいでいた呂望のもとへと歩み寄ってきた。
「こちらへ行けと言われましたが……いいですか?」
「うむ」
 座ればいい、と手で示すと、斜向かいの位置のソファーへと腰を下ろす。
 そのまま、短い沈黙が落ちて。
「──この香草茶は、あなたの好みですか?」
 何気ない口調で問われて、呂望は一瞬、何と返答したものか考える。
「好みというと少し違うが、嫌いではないよ。今日は何となく、太乙が脱線気味のような気がしたのでな。ちょっと落ち着かせた方が良いかと思ってこれを出しただけだ」
「そうですか」
 なるほど、と納得した相手の様子が、ふと呂望の勘に引っかかった。
「……わしの好みが以前と変わったかと思ったのか?」
 率直に問いかけると、彼は少しだけ困ったように呂望の目を見つめ返し、それから穏やかな仕草でまなざしを伏せて視線を逸らした。
「──僕が知る限り、あなたはいつもヴァニエ茶を飲まれていましたから。もしかしたら、本当のお好みは違っていたのかと思いまして……」
「……好きなのは、昔も今もヴァニエ茶だ」
 ひどく優しい言い回しをする、と思った。
 ガーディアンであったころの自分と、文字通り生まれ変わった今の自分とでは、明らかに異なっている部分が幾つもある。自分でも感じている違和感があるのだから、以前を見知っている相手なら尚更に異質なものを覚えても仕方がない。
 なのに、極力それを出さないようにしているらしい青年の態度が、かえって取り付きにくさを呂望に感じさせる。
 が、彼の方は、そんなことには全く気づいていないだろう。あるいは、気づいていながら敢えて知らぬ振りをしているのか。
「楊ゼン」
「はい」
 短く名を呼んだ心の内には、もしかしたら、そこはかとない苛立ちがあったかもしれない。
 それは決して、目の前の青年に対してばかりではなく。
「わしとおぬしは、いつ、どこでどうやって知り合った?」
「────」
 敢えて要点のみを告げた問いかけに、彼は即答しなかった。
 もしかしたら、いずれ訊かれることを予測していたのかもしれない。特に表情を変えるでもなく、まっすぐに呂望を見つめて、短い沈黙の後。
「それはお答えできません」
 静かな答えが返った。
「……わし自身が思い出さなければ意味がないからか」
「いいえ」
「では、何故?」
 再度、問いかけると。
 今度は言葉を選ぶように、彼はまなざしを軽く伏せた。
「……出会いから最後までを語ることは簡単です。あなたが口にした言葉も、それに答えた僕の言葉も、おそらく一言一句、ここで再現することはできるでしょう。ですが、そのことに意味がありますか?」
「───…」
「それに、僕とあなたは、おそらくあなたが思われているほど親しい関係ではありませんでした。以前の記憶がどうでもいいものだとは決して思いませんが、僕は今、あなたがここに居て、改めて出会えたことの方を大切にしたいんです」
 青年の返答は、筋が通っていないわけではなかった。
 けれど。
「おぬしの言い分を聞いておると、むしろ過去をなかったことにしたいように聞こえるのだが……。わしの聞き違いかのう?」
 また一歩、踏み込んだ己の言葉に、言いながら呂望は何故、こんな風に彼を問い詰めようとしているのだろう、と心の中でひそかに自問する。
 もともと人付き合いを得意としたことはないし、積極的に他人に関わったこともない。軍における役割が役割だったから、まともに言葉を交わすのは管理責任者を除けば、司令部や参謀の一部、数え上げてもほんの数名しか居なかった。
 なのに今、執拗といっても良いほどに、彼に向けて質問を重ねている。
 おかしい、と思った。
 自分は彼のことを知りたいのだろうか。
 それとも。

 ───自分の中にはない、欠落した記憶の中にいる自分を知りたいだけなのだろうか?

「────」
 まっすぐに青年の瞳とまなざしを合わせる。
 と、今度は目を逸らすことなく、
「……あなたのおっしゃる通りです」
 楊ゼンは答えた。
「──何故」
「僕がしばらくの間、あなたがガーディアンであることに気づかなかった、と言えばお分かりになりますか?」
 そう言った時の青年の顔には、ほとんど表情は浮かんでいなかった。
 だが、ほんのかすかに面をかすめていったのは。
 悔い、だろうか。
「だが……、それはおぬしのせいではないだろう? わしが最初に正しく名乗っておれば……」
「その時も、あなたはそうおっしゃいましたよ」
 言い募ろうとした呂望の声は、静かに優しい声と、ほんのかすかな微笑にさえぎられる。
「僕は、以前のあなたと僕のことも何一つ、忘れるつもりはありません。けれど、やり直せるものなら一番最初からやり直したい。そう思う気持ちも間違いなくあるんです」
「楊ゼン……」
 零れ出た名前に、彼は微笑する。
「ですが、一つだけ……。これが何か、お分かりですよね?」
 一部の乱れもなく身につけた士官服の隠しポケットから、ゆっくりとした仕草で彼が取り出し、テーブルに置いたもの。
 それは。

 ───薄い貝殻のような、透明に近い半透明の、ごくごく淡い青を主体とした優しい虹色にきらめくもの。

 手のひらに収まるほどの不規則な形をした破片に、呂望は大きく目をみはる。
「よくも失くさなかったものだと自分でも思います。これがあったから、どれほど苦しい時でも僕は生きることを諦めずにいられた」
「────」
「あなたの力を目の当たりにした時、僕はあなたを恐れました。それは間違いのない事実です。ですが、恐れつつも僕は、あなたの翼を美しいと感じた。……それも、事実です」
 静かに紡がれる声に、呂望は答えられなかった。
 ただ、吸い寄せられたように、テーブルの上の破片を見つめる。
 そんな呂望を見つめ、楊ゼンは立ち上がった。
「それはあなたにお返しします。これまで十分すぎるほどに僕を守ってくれましたから。あなたが必要なければ、お好きなように処分して下さい」
 そうとだけ告げて。
「では、今日はこれで失礼します」
 わずかに不規則な足音と共に立ち去ってゆく。
 その音が完全に消えてから、ようやく呂望はテーブルの上に指を伸ばした。
 震える指先が一旦、表面をかすめ、それから壊れ物でも扱うかのようにそっとそれを持ち上げる。
「───…」
 照明にきらめく淡い虹色を、声もなく見つめて。
 どれほどの時間が過ぎただろうか。
「あれ、呂望、それは……」
 掛けられた声に、びくりと我に返った。
「まさか楊ゼンが持ってたのかい? あんな激戦をくぐって、よく失くさなかったものだねえ」
「……太乙」
「うん?」
「わしは……死んだのだな。兵士を……守って……」
 呟くように言葉は零れた。
「わしの守った兵士の中に……あやつは居ったのか……?」
「……うん。いたよ」
「そうか……」
 ぐっと破片を手のひらに握りこむ。
 冷たくはないが硬い鉱物の感触が、胸に突き刺さる。
 ───楊ゼンが興味本位で、この破片を拾ったとは思わなかった。
 自分は、ガーディアンとして生きて、力尽きて。
 そして、その死を悼んでくれた者が居た。
 記憶の欠落を生じている今の自分には、その時の己が為すべきことを為せたのかどうかは分からない。
 けれど、最後の最後まで守ろうとして。
 そんな自分を見届け、忘れまいとしてくれた者が、少なくとも一人はいた。
 この破片は、きっとその証だ。
 ───それだけで、もう十分だった。
 身体を作り変えられ、人ではないものとして戦い続けた六十年余の日々。
 それが今ようやく、意味を得たような気がして。
 こみ上げるものに耐え切れず、唇を噛み締めて顔を伏せる。
「───…」
 くしゃくしゃと太乙の手が優しく頭を撫でる感触がしたけれど。
 もう顔を上げることも、何かを言うこともできなかった。











「──じゃあ、もう一度」
「……まだ少し違和感がありますね。もう少し、速度を上げてもらえますか。今上げてもらった度数より微妙に小さい幅で」
「ん〜。……これくらい、かな。どう?」
「まだ微妙、ですね」
「じゃあ、もう少し」
 義眼の反応速度を調整している二人の会話を聞くともなしに聞きながら、呂望はソファーに身を沈め、ぼんやりと頬杖をついていた。
 ───低い、けれど低すぎはしない穏やかな、心地よい響きのテノール。
 この声に聞き覚えはあるだろうか、と数日来、脳裏を占めている自問を今もまた繰り返す。
 が、いくら記憶を反芻してみても、ぴったりと重なる音声はない。
 こういう時、機械脳であれば、瞬時に検索、照合ができるのに、と生脳の不便さに少々腹立たしさを覚えながら、そっと研究室の対角線上、検査機器に向かっている青年の横顔を伺う。
 これまでに得られたわずかな情報から判断すると、出会ってから死に別れるまでは、おおよそ一年。
 その間に、自分が覚えている限りではバックアップは二度行っているから、何らかの記憶の欠片が残っていてもいいはずなのに、まるで思い出せない。
 再会(実質は初対面だが)以来、かれこれ二十日近くも宙ぶらりんな状況が続いているのは正直なところ、ひどく気分が悪かった。
「……難しいということは分かっておるのだがな……」
 そもそも、データ化した記憶を生脳に流し込もうというのが無茶な方法なのであって、現在の呂望の記憶は、それこそ滅茶苦茶にかき回された巨大な水槽のような状態にある。
 無意識のうちに選別していた重要な記憶も、とうの昔に忘れ去っていた記憶も全部ごちゃまぜになり、ひどく濁ってしまった水の中から特定の記憶を見出そうとするのは、事実上不可能といった方がよく、それを分かっている太乙も楊ゼンも、呂望に向かって催促するような台詞を口にしたことは一度もない。
 が、気になるものは気になるのである。
 どんな風に出会って、何を話し、思ったのか。
 楊ゼンは思い出す必要はないと言うが、呂望にしてみれば、はいそうですか、とうなずけるものでもない。
 生まれ変わったのだから、ここから改めて始めればいいと割り切るには、彼の持っていた翼の破片は、あまりにも重かった。
「───…」
 返された時以来、何とはなしに手放すことができずにいる欠片を上着のポケットに探り、そっと握り締める。
 これを得たところで、自分が死んだ前後のことはやはり思い出せず、また、彼がその時に何を感じたのか、何を思ってこれを拾い上げ、ずっと持っていたのかも未だ訊けないままである。
 自分が思い出せないことはともかく、楊ゼンに問うことができない一番の理由は、おそらく訊いても彼は答えないだろうという確信だった。
 あくまでも推測でしかないが、楊ゼンの中では、欠片を呂望に返したことで過去への決別はついたのだ。
 忘れはしなくとも、もう振り返りはしない。
 過去の呂望との繋がりを示す唯一の証──その欠片を呂望に返したあの時点で……、欠片を取り出しながら静かな微笑を浮かべたあの時に、彼はそう心に決めてしまった気がするのである。
 といって、実際のところ、自分に対する楊ゼンの言動が特に変わったということはない。
 ただ、比べると、何かを吹っ切った潔さのようなものが、彼の瞳に加わったように思える。あくまでもそれは、よくよく比較したら、という話であって、自分の気のせい……過剰反応なのかもしれないが。
 ───けれど、もし推測が当たっていたら。
 それは少し腹が立つ、と思う。
 自分とも関わりのあることを、彼一人で勝手に決められても困るのだ。
「たとえ一度死んでいても……記憶の一部が欠けていても、わしはここに居る」
 ───そして、楊ゼンも。
 彼もまた、凄惨な戦場を生き抜いて、今、ここに居る。

 これまで、一度死んだ自覚がない呂望の中で、再生以前の過去と再生以後の現在は、楊ゼンという存在を排除したまま続いていた。
 肉体的には有機金属から生身へと大きく変わり、それに伴う違和感も生じてはいたが、記憶そのものは多少混乱しつつも、過去から現在へとそれなりにスムーズに流れていたのである。
 しかし、翼の欠片が返されたことで──失ったものの証を手にしたことで、それまで曖昧にぼやけていた己の死は、呂望の中で明確な輪郭を得ることになり、同時に、楊ゼンという人物が過去、自分と何らかの関わりを確かに持っていたということも、事実として浮かび上がってきた。
 楊ゼンにそんなつもりはなかっただろうが、呂望にしてみれば、この欠片一つのために、覚えていない、思い出せないの一言では、もう現状を片付けられなくなってしまったのだ。
 ───思い出したいし、思い出さなければならない。
 楊ゼンは、さほど親しい関係ではなかったと言ったが、見かけの親しさと内側の心情は常に重なるとは限らない。
 自分が彼にどんな印象を抱いていたのか、自分にとってどんな存在だったのか。
 ただの一士官だったのか、それとも、もっと違う何かを語ることができる相手だったのか。
 他の何が思い出せなくとも、その記憶だけはどうしても見つけ出さなければならないという思いが、あの日から焦燥すら伴って続いている。

「……一番最初は……」
 呂望の名を名乗ったのであれば、出会いはおそらく戦場ではないだろう。その頃の自分は、今と同じくカシュローンに居たはずだから、この基地の中か外か、少なくとも安全地帯であったには違いない。
 そして、出会いからしばらくの間、楊ゼンは自分の正体に気づかなかったと言った。
 だとすれば、自分の感じた最初の印象は。
「………間抜け、か?」
 士官でありながら、ガーディアンを目の前にしてそれに気づかない相手に対する感想など、どう自分の性格を眺めてみても一つしかない。
 だが、呆れたとしても、おそらく今回と同じように、初対面の青年に対して嫌悪感は抱かなかっただろう。それとも楊ゼンは、こちらを只の子供と見て、いかにも軍人らしい傲岸な態度を取っただろうか。
「……それはあまりなさそうだな」
 むしろ、親切な軍人さん、という感じだったのではないのか。
 その様子が容易に想像できるような気がして、思わず呂望は微笑する。
 が、一瞬後にその笑みは掻き消えた。
 ───想像できても意味がないのだ。
 思い出せなければ、過去と現在は繋がらない。
 そして、過去が繋がらない限り、楊ゼンがガーディアンだった自分をどう見ていたのか、何を思って欠片を持ち続けていたのか、訊くことはできない。
「奇妙なものだな……」
 ふと、考えることに疲れて溜息が零れる。
 確かに、事前に太乙から断片的ながらも話を聞いて、関心は持っていた。
 しかし、もともと他者というか個々に対しては極力、関心を持たないようにしていた──感情を調整されていた、というのが正しいが──自分の性分上、たとえ本人に会ったとしても、結局は、ただの顔見知りよりもまし程度の感覚しか抱かないだろうと思っていたのだ。
 そんな自分の性格を知っているのに、どうして太乙がここまでやっきになって自分とこの青年を会わせようとするのか、疑問を感じていたというのが正直なところである。
 なのに、直接対面して、更には自分が喪った物の欠片を示されて、彼自身の事をもっと聞きたい、思い出したいと思うようになって。
 ガーディアンであった頃の自分も、まさか同じだったのだろうか、と有り得ない想像に、しかし、楊ゼンと対面する以前の太乙の態度を思うと、それを否定し切ることも出来ない。
 どうして、たかが一人の青年のことが、これほどのまでにも気になるのか。
「……敢えて言うのなら……」
 彼の目、だろうか。
 ガーディアンであったことを──その力を知っていながら、こちらを見るまなざしは、決して生体兵器を見るものではなかった。
 稀人をも凌駕するガーディアンの能力を恐れたと言いながら、微塵もそんな色はなく、向けられた目はむしろ、太乙に似ているような気がした。
 ───伏羲ではなく、呂望を。
 人間ではないモノではなく、一人の人間を見ている。
 そんな気がして。
「埒もない……」
 口の中で呟き、息をつく。
 有機金属の肉体を失い、もう一度、人間として生き直すことになったものの、何をしたいのか、何ができるのかは未だに心に掴めないままだった。
 外の世界に出たら出たで、それなりに順応して日々を過ごすことはできるだろうが、正直なところ、そうしてどれほど意義のある生を送ることができるのかは、自分ですら微妙だと思う。
 そんな自分と共に、たとえ一時とはいえ楊ゼンが危険を冒して同行するだけの意味が、果たしてあるのかどうか。
 考えずにはいられないのだが、しかし彼の方は重荷とも何とも思っていないらしいことは見ていて分かる。
「わしは……」
 右を見ても左を見ても曖昧模糊として、分からないことばかりが積み重なっている今にくらべると、ガーディアンであった頃は、自分の在り方はひどく単純だった。
 他人の思惑や状況がどうあれ、兵士を守ること、そのために最善を尽くすことだけを考えていればよかった。
 けれど、人間に戻った今は、そんな単純な生き方はできない。許されない、と言った方が正しいかもしれない。
「こんな面倒な生き物だったかのう……」
 しかし、どれほど溜息をついたところで、機械脳に戻れるはずもなく、また戻りたいとも思わないのである。
 仕方がない、と何十回目かの諦めを心に刻んだ時、
「呂望」
 太乙が呼んだ。
「ようやく楊ゼンの義眼の調整が終わったから、見てあげてよ。やっぱり両目が揃ってた方が絶対にいいと思わないかい」
 ひどく弾んだ声の調子に、苦労しているようだった微調整が上手くいったのだと分かる。
 並みの人間の数倍以上の身体速度を持つ稀人の場合、義眼や義肢も当然、特別誂えの上に、とてつもなく微妙な調整が必要になる。
 しかし、それだけの技術を持った軍医は軍全体を見ても片手に足りないほどの人員しかおらず、楊ゼンが提案した義眼の不適合による機能低下という除隊理由は、稀人においては決して珍しいものではなかった。
 双眼視の楊ゼンを見るのは初めてだな、と思いながら呂望はソファーから軽く身を乗り出すようにして、そちらへと顔を向ける。
 この研究室内でも、楊ゼンは検査をする時以外は常に眼帯をしていた。それがどう印象が変わっただろうかと淡い好奇心に駆られて、まなざしを上げて。
 まず一番最初に、義眼も本物の瞳と同じ色なのか、と思った時。
「───あ…」
 くらりと世界が回った。












 ───振り返ることは、ひどく怖かった。

 どんな目で彼が自分を見つめているのか。
 それを知るのが、ひどく怖いことのように思えて。
 薄茶色く煙った地平線を遠く見つめたまなざしを、彼の方へ向ける。ただ、それだけの仕草に渾身の力を費やさなければならなかった。












「呂望!?」
 不意に張り詰めていた糸が切れたようにソファーから倒れこみかかる体を、咄嗟に飛び出して寸でのところで受け止める。
 だが、ぐったりと腕に重みを預けてくる呂望は、完全に意識を失っていた。
 何が、と思うよりも早く、
「ちょっと見せて」
 さほど慌てるでもなくソファーの所までやってきた太乙が、腕の中の少年の顔に手を触れ、脈を取る。
「少し脈が速いけど、呼吸も正常だし、チアノーゼも起こしてない。神経に何か負荷がかかっただけだね」
 そう言い、一人うなずくと、ソファーに寝かせてあげて、と指示を出した。
「覚醒したばかりの頃によく起こした発作だよ。瞬時に処理しきれない情報にぶつかると、自衛して意識を失うんだ。気の弱い人が、びっくりして失神するのと一緒。しばらく眠ったら自然に目覚めるから心配いらない」
 いつもと同じ口調で説明されて、楊ゼンは無意識に緊張していた肩の力を抜く。
 確かに覚醒直後は一日の大半を眠って過ごすと聞いたこともあったし、太乙が心配ないというのなら、本当に危険な状態ではないのに違いなかった。
「ですが、何故……」
 大きなソファーに横たわらせ、胸元のボタンとベルトを少し緩めてやりながら問いかけると、太乙は軽く首をかしげるようにして答える。
「んー。まぁ考えられる原因は一つ、かな」
「何ですか?」
「君の顔」
「は……」
「それしかないでしょ、この場合」
 あっさりと言われて、楊ゼンは目をまばたかせる。
 左目は入れたばかりの義眼だったが、まるで生まれながらの肉体の一部のように馴染んで、何の違和感もない。
「考えてもごらん。呂望はこの二十日間、片目に眼帯してる君しか見てないんだよ。傷の有無だけでも人間の印象は変わるのに、ましてや片目と両目とでは全然雰囲気が違う。再会してから初めて君の顔をちゃんと見たのだと考えるなら、何らかの刺激を感じてもおかしくはないさ」
「それは──」
 淡々とした説明を聞き終えて、楊ゼンの声がわずかにかすれた。
「彼が何かを覚えている、ということですか?」
「反応したということは、そうなんだろうと思うけどね」
 答える太乙の声は、一転して慎重な響きを帯びる。
「ただ目を覚ました時に、呂望が刺激を受けたことそのものを覚えているかどうか……。自己防衛本能というのは、どっちに転がるか全く見当がつかないんだよ」
「──つまり、どうして意識を失ったかということすら忘れているかもしれない、と?」
「そう。内容に関係なく負荷を受けるということ自体が脳にとっては嬉しいことじゃないんだ。『無かったこと』として、その部分をリセットしてしまう可能性もある」
「………」
 太乙の言葉に、楊ゼンはゆっくりと視線をソファーに横たわる呂望へと向けた。
 意識を失った顔は、血の気が少々薄いものの、ただ眠っているだけのように静かに見える。
 そのまま無言になった楊ゼンを見つめ、一つ息をつくと太乙は口を開いた。
「はっきりとは言えないけど、一、二時間経てば気がつくと思う。時間に余裕があるのなら、看てやっていてくれるかい。私はまだやることがあるから」
「──はい」
 うなずいた青年の肩をぽんと一つ叩いて、太乙はデスクの方へと戻ってゆく。
 残された楊ゼンはしばらくの間その場に立ち尽くし、やがて思い出したように空いているソファーへと腰を下ろした。
 ───思い出してくれることなど想像もしていなかった。
 再生そのものが無理な手法だということは最初から分かっていたし、覚醒後も記憶の回復についてははかばかしくないと報告をもらった時から、一番最初、出会ったところからやり直すことだけを考えていた。
 そして、実際に再会して、それで正しかったと思ったのだ。
 呂望の中には過去の自分は存在していない。向けられたまったく見知らぬ相手を見るまなざしに、以前に交わした会話はすべて無かったこととして心の奥底にしまっておこうと思い、その通りにした。
 なのに。
「───…」
 むしろ残酷だ、と思う。
 こんな反応を見せられたら、否が応でも期待したくなる。
 思い出して下さいと、すがりたくなってしまう。
「何も望まないと、決めていたのにな……」
 あの時、冷たい重みを腕に伝えてきたその人が、いま生きて、そこに居てくれる。
 それだけで本当に良かったのだ。
 ただ、それ一つを望んできたはずなのに。
「呂望……」
 ためらいながらそっと右手を伸ばし、さらさらと額に零れている髪にごく軽く触れる。
「あなたの中に、僕は居るんですか……?」
 問いかけても、眠る人は答えない。
 それ以上、問う言葉も掛ける言葉も見つからないまま。
 乱れた心の裡を隠すように、楊ゼンは目を伏せた。














 ───最後に見たのは、自分の指示を受けて駆けてゆく後姿。

 ……長い長い夢を見ていたようだった。
 肉体を有機金属に置き換えられ、脳の大部分も機械脳に置き換えられ、数十年を生きて。
 仲間は一人、また一人と消えてゆき、自分もまた、いつの日か戦場ですべての機能を──生命を喪うのだろうと思っていた。
 空と大地がどこまで広がっていようと、自分はただ一人きりの存在で。
 わずかに最後の管理責任者となった科学者の青年だけが、人間として沿ってくれて、それは確かに仄かながらも救いではあったけれど、何かを期待することも願うことも遠い日に忘れたまま、かさかさに干からびた心を数十年、抱えて歩き続けた。
 けれど。
 一人だけ。
 たった一人だけ、この背に宿った翼を畏れながらも、それでも六十年の間、一度も誰も言ってくれなかった言葉を。
 最後の最後に。

 ───後悔はしていない。

 あの瞬間、自分がどうなろうと守りたいと強く願った。
 守りたいと思った。
 数万の人々を。
 命を。
 そして。
 最初で最後の言葉をくれた、彼を。
 守れるのならどうなってもいい、と。
 干からび切っていたはずの自分が、千切れるような想いで祈った。
 そうして何が起きたのかは、もう覚えていない。
 悔いはない。
 たとえ何度やり直しても、自分はあの場面で持てる全てを使い切っただろう。
 そうすることに何の躊躇いも覚えない。
 けれど。
 でも、一つだけ。
 遥かな昔に人ではなくなった自分にそんな資格はもうないのだろうけれど、あと一つだけ、余分に願うとしたら。
 それは───…。













 目を開いて、一番最初に見えたのは光だった。
 白い天井に眩しい光が滲んでぼやけている。
 まばたきすると、雫がこめかみを伝い落ちてゆく冷えた感触がした。
「呂望?」
 名前を呼ばれて。
 ゆっくりと目をそちらへと向ける。
 滲む視界に最初に映ったのは、左のこめかみから頬へと斜めに走る傷痕だった。
 そっと手を上げ、その赤みを帯びた痕に触れると、不規則に引きつれた皮膚の感触が指先に伝わってくる。
 けれど、肌のぬくもりは確かに感じられて。
「──楊ゼン」
 驚いたようにみはられた目を見つめ、名前を呼ぶ。
 ───たった一つの、名前。
 後から後から溢れ、零れ落ちてゆくものに、それ以上は言葉にならない。
 けれど、彼には分かったのだろうか。
 彼の傷痕から離れて半端に浮いていた左手が、一回り以上も大きな手にゆっくりと包み込まれる。
 そのまま痛いほどにきつく握り締められ、その手を押し頂くように楊ゼンが顔を伏せて。
 ───それだけで。
 もう何一つ、他に望むことはなかった。






to be continued...










一年以上ぶりになります、SACRIFICE。
今回はファイルが長くなりすぎて(通常のサイト小説の2倍以上)、分割するべきなのかな〜と悩みつつも最後まで書き切ってしまいました。
やっとここまで辿り着きましたが、残りはあと2話。
悔いのないように頑張りたいと思いますので、待て以下次号〜。




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