Sweet day 2








「───…」
 ふと人の気配を感じて、意識が浮上する。
 妙に重たく感じる瞼を上げると、
「あ、起きたか?」
 聞き慣れた、でもいつもよりも少し優しい気がする声が耳に届いた。
「師…叔?」
 何故ここに、と思うよりも早く、額に少し冷たい手のひらを感じて、その心地好さに思わず吐息がこぼれる。
「もうほとんど熱は下がったようだのう。──あ、無理するな」
「大丈夫ですよ」
 すぐに離れていった手のひらに物足りないものを感じながらも、楊ゼンは肘をついて上体を起こす。軽いふらつきを覚えたが、大したものではなかった。
 そして、太公望が水を注いでくれたグラスを受け取りながら尋ねる。
「いつ、いらっしゃったんです?」
「3、4時間前かのう」
 壁時計の針の位置を確かめながら、太公望は答えた。
「ゆうべ昨夜遅く論文が上がって、それから昼過ぎまで爆睡して、部屋を片付けて……」
「それで、暇になったから会いに来て下さったわけですか?」
「──まぁ、のう」
 楊ゼンが笑みを向けると、意地っ張りな彼は、自分から会いに来た、という事実を認めるのが気恥ずかしいらしく、決まり悪げに視線を彷徨わせた。
「──今日明日は家に居ると言っとったくせに、部屋の電話も携帯も留守電だし、チャイムを鳴らしても応答は無いし。悪いと思ったが、気になってな。勝手に上がらせてもらった」
 そうしたら案の定、寝込んでいるし、と太公望は渋い表情でベッドの上の楊ゼンを見る。
「心配をおかけしてすみません。でも本当に大したことないんですよ。昨夜、ちょっと身体がだるかっただけで……熱も38度まで行くか行かないかでしたしね」
「それでも十分病人だろう」
 太公望は溜息をついた。
 そして、改めて楊ゼンの目を見つめる。
「──少し、無理しすぎなのではないか?」
「………」
 そんなことはない、と言いかけて、楊ゼンは太公望の瞳の色に気付く。
「おぬしがこんな風邪を引くなんて……」
 いつもよりもずっと深い色をした瞳は、彼らしくもないかすかな揺らぎを秘めていて。
「帰ってくるのに、相当無理をしたのではないのか?」
「そんなことないですよ」
 不安げな、恋人の身を案じるまなざしに楊ゼンはやわらかく笑いかけた。
「最初から2月中旬に帰国する許しはもらってありましたしね。忙しかったのは事実ですけど、この休暇のために特に無理をしたということはありません」
「───…」
 だが、納得しきれない表情で、太公望は楊ゼンを見上げる。
 そのまなざしに、楊ゼンは内心苦笑いをした。
 そして、この1ヶ月の間に電話で何度か「忙しい」と口にしてしまったのがまずかったな、と考える。

 2月中旬に休暇をもらって1度帰る、と実父であり、春休み中だけの臨時の上司でもある金鰲グループ会長に、合衆国に戻って一番最初に念を押したのは事実だった。
 しかし、久しぶりに帰ってきた息子と共に仕事をしたくて仕方がない、更に息子の有能さを周囲に自慢したくて仕方がない親馬鹿な父は、他の秘書には休暇を取らせ、その仕事を片っ端から楊ゼンに割り当てたのである。
 楊ゼンが父の秘書を務めるのは長期休暇の恒例であり、その度毎に築かれる仕事の山にも、これまで特に不満はなかった。だが、今回ばかりは事情が違う。
 太公望との約束を守るために──大切な恋人に会うためにひたすら仕事の山と格闘し、それこそ休日はすべて返上、平均睡眠時間も3時間以下でがむしゃらに働き続けて。
 その果てに、やっと5日間の休暇をもぎ取ったのだ。もちろん、ただではなく次の仕事の下準備付だったが。
 なのに、いざ休暇を取って帰ってきてみれば、どれもこれもただ太公望に会いたいが為の無理だったのに、デートの約束は綺麗さっぱり忘れられていて、一悶着する羽目になったのだが、まあ、それも過ぎた事だった。

「本当にあなたとの約束のせいじゃありません。父にいいようにこき使われて、少々オーバーワーク気味なのは確かですけどね」
 重ねて言うと、これ以上問い詰めても仕方がないと思ったのか、太公望は小さく溜息をついた。
「……とにかく今は休暇中なのだろう。ゆっくり休めばいい」
「せっかくあなたが傍に居てくれるのに?」
 からかい2割、本気8割で言うと、太公望は一瞬言葉に詰まったように楊ゼンを見返す。
 が、
「わしが傍に居ると休めないというのなら、わしは帰るぞ」
「それは駄目です」
「なら大人しく寝ておれ」
 あっさり切り返した。
 そんな太公望に、つれないなぁと溜息をついて見せながらも、楊ゼンの表情に残念そうな色は微塵もない。むしろひどく優しい、甘やかな瞳で年上の恋人を見つめる。
 太公望もそのまなざしに気付いて、少しだけ戸惑ったような、反応に困るような表情をしてから、溜息をつくように微苦笑を浮かべた。
「熱も下がったことだし、何か食べた方が良いと思うが……食欲はあるか?」
「いえ、今はあまり……」
 楊ゼンの返答に太公望は首をかしげる。
「でも何か……せめてリンゴくらい食べる気にならぬか?」
「ああ、まぁそれくらいなら……」
 粥ならまだしも何故にリンゴ? と思ったが、うなずくと太公望は今度ははっきりと笑顔になり、
「じゃ、少し待っておれ」
 そう言い置いて、ぱたぱたと寝室を出て行く。
「────」
 その後ろ姿を見送って楊ゼンは微笑した。
 何だかんだ言いながらも、彼が心配して世話を焼いてくれるのが嬉しい。

 ───どうせなら、今だけじゃなくてずっと傍に居てくれたらいいのに。

 朝も夜も、夏も冬も。
 いつも傍に太公望が居てくれたら、どんなに毎日が幸せに感じられるだろう。
 たとえば自分が辛い時に、彼が傍に居てくれたら。
 そして、彼が悲しい時に、自分が傍に居てあげられたら。
 どんなにいいだろう。
「……でも、な」
 楊ゼンは小さく溜息をつく。
 ───実は、付き合い始めて一番最初に一緒に暮らすことを太公望に提案したのだ。
 だが、太公望の返答は『否』だった。どれだけ口説いても、「一人になりたい時もある」と絶対にうなずいてはくれなかったのである。
 その代わりにマンションの合鍵を渡してくれたのだが、正直なところ、楊ゼンは物足りない。
 それぞれに仕事を持って生活している以上、24時間一緒に居るのは不可能なのだから、せめて帰る場所が同じ部屋であって欲しかった。
 しかし、かといって、太公望が楊ゼンと一緒に居たがっていないというわけではない。
 いつも別れ際に一瞬、彼の大きな瞳に走る色があることに楊ゼンは気づいている。
 目にする度に、太公望がひどく愛しく感じられて抱きしめたくなって困る、その切なげな色の意味は聞かなくても分かる。
 でも、太公望が楊ゼンを引き止めたりすることは決してない。いつも別れ際にごねるのは、楊ゼンの役割だ。
「どうして──…」
 呟いた時、不意にドアのノブが動く音が耳に届いて、楊ゼンは現実に引き戻された。
 そちらに視線を向けると、洗ったばかりらしい水滴のついたリンゴ二つとガラスの皿、それに果物ナイフと布巾を載せたトレイを片手に戻ってきた太公望が、ドアを開けて入ってくる。そしてトレイをサイドテーブルに置いて、先程と同じようにベッド脇に置かれた椅子に腰を下ろした。
「僕がやりましょうか?」
「大丈夫」
 彼が料理など全くしないことを思い出して楊ゼンは言ったのだが、太公望は意に介さずリンゴとナイフを取り上げる。
 そして、器用にするすると皮を剥き始めた。
 その鮮やかな手つきに楊ゼンは目をみはる。
「──どうしてそんなに上手いんです?」
 目玉焼きさえ作れない彼が、どうしてリンゴの皮を途切れさせることなく剥くことができるのか、理解できなくて尋ねると、
「んー、これだけはな……」
 要領を得ない生返事が返った。
 あっという間に皮を剥き終えたリンゴを、太公望はトレイの上ですとんと二つ割にする。その動きにも迷いはなく、慣れが感じられた。
「……わしの……」
 そして更にそれを3つずつに切り分け、器用に6等分してゆく。
「わしの母親がリンゴが好きでな」
「え……」
 独り言のように紡がれた言葉に、楊ゼンは思わず太公望の顔を見直した。
「わしは子供の頃あまり体が丈夫でなくて、よく風邪を引いて熱を出したのだが……、そういう時、母はそれこそリンゴ尽くしにするのだよ。リンゴは風邪にいいからと、うさぎリンゴにすりおろしリンゴ、リンゴゼリーにリンゴの砂糖煮に焼きリンゴ……。作っては枕元にせっせと運んできて……。
 で、わしもそれに飽きても良さそうなものなのだが、具合が悪い時に食べるリンゴは何故か美味くて……」
「それで……?」
 うむ、と太公望はうなずく。
「風邪=リンゴとインプットされてしまって、今でも抜けぬ」
 そう言って、微苦笑するうつむき加減の太公望を楊ゼンは見つめる。
 こんな風に家族の話を彼から聞くのは初めてだった。
「──優しい方だったんですね」
「うむ。理想的な母親だったと思うよ。明るくて優しくて、怒る時は怖かった。父親も……。
 両親と兄と妹と……TVドラマでも有り得ないような、絵に描いたような家族だった」
 リンゴの芯を取りながら、太公望は穏やかな口調で答える。
 どこまでも過去形で。
 その理由をおぼろげ朧気ながらも知っているから、これまで彼の家族や生い立ちについて楊ゼンが問うたことはなかった。
 だが、初めて彼が口にした家族の話をもっと聞きたいと思う気持ちが抑え切れず、深いためらいを感じながらも楊ゼンは低く問いかける。
「師叔の御家族は、確か……」
「ん……」
 綺麗に切ったリンゴをガラスの皿に並べて、太公望はナイフをトレイに置いた。
「交通事故で、な……」
 手を軽く布巾で拭い、小さく息をつく。
 そして少しの間、言葉を選ぶように沈黙してから、ゆっくりと口を開いた。
「───十二の……夏だった。わしは中学三年生で……」
 視線を膝の上に落としたまま、静かに太公望は言葉を紡いだ。
「うちの家族は、毎年夏の休暇は山の貸し別荘で十日ほど過ごすのが恒例だったのだ。だが、その夏は学校のオリエンテーションキャンプと父の休暇の日程がちょうど重なっていて……、わしは2泊3日のキャンプが終わってから合流する予定で、8月5日の朝、それぞれに出発した」
 よく通る声が、深い淵に沈んでゆくように重い響きを帯びる。
「──連絡が届いたのは、その日の夕方だった。貸し別荘へ向かう途中の山道で、オーバースピードで車線をはみ出してきた対向車を避けきれずに……車ごと崖下へ転落したのだ。
 後部座席にいた妹は咄嗟に兄がかばって、しばらく息があったらしいのだが……現場に救急隊が到着した時には……もう……」
 うつむいた肩がかすかに震えたような気がして、楊ゼンはそっと手を伸ばす。
 指先が髪に触れると、太公望は顔を上げた。そのやわらかな線を描く頬を包むように手のひらを当てると、太公望は楊ゼンを見つめてゆっくりとまばたきをする。
「──十年以上も前のことだよ……」
 時間の長さなんて関係ないでしょう、とは口に出さずに、楊ゼンは両腕を差しのべて細い肩を自分の胸に引き寄せた。太公望もその動きに抗うことなく、ベッドの端に腰を下ろすような形で楊ゼンの腕の中に納まる。
 何も言わないまま、楊ゼンが癖のないその髪を優しく梳くと、太公望はゆっくり息をついて身体の力を抜いた。
「……家族は亡くしたが  わしが一人だったことはこの10年、一度もなかったよ。
 頼れるほど近い血縁はなかったが、父の恩師の元始天尊様がわしを引き取ってくれたし、中学を卒業して付属高校の寮に入るまでの半年間は、幼馴染で同級生だった普賢の家で居候させてもらったし、太乙も──…」
「太乙教授?」
 彼の親友である崑崙大学理学部助教授の名前はともかくも、何故ここで、いつも経済学部の研究室に入り浸っている工学部教授の名前が出てくるのか分からなくて、楊ゼンは問い返す。
 と、太公望は顔を上げて、いつもの雰囲気が少しだけ戻った表情で楊ゼンを見た。
「そういえば、おぬしには言ってなかったな。太乙はわしの遠縁に当たるんだよ」
「──え!?」
 楊ゼンは思わず驚きの声を上げた。
「わしの父親の妹……つまり叔母の夫が、叔母が病死した後、再婚した女性の十歳下の弟があやつだ」
「……要は、血縁のない叔父、ですか」
「と言ってもいいのかのう?」
 首をかしげて、太公望は再びぽて、と楊ゼンの胸に頭を預けた。
「父親と叔父は叔母が死んだ後も付き合いがあったから、その縁であやつも家に遊びにきたことがあって……。まぁ、当時はわしよりも歳の近い兄と気が合っていたがな。
 でも、年下の兄弟がいないせいか、わしや妹を可愛がってくれて、ガラクタを集めて器用に機械仕掛けの玩具を作ってくれたよ」
「あの人らしい……」
 うん、と太公望はうなずく。
「事故が起きた時も、院生だったあやつは崑崙から葬儀に駆けつけてきてくれて……。何もできなくてごめんと、わしに謝った。あやつが謝る必要など、どこにもないのにな」
最後は呟くように言った。
「そうだったんですか……」
 一見したところ全く接点のない太公望と太乙が何故、古くからの顔見知りのように親しいのか、ずっと謎だったのだが、ようやくそれが解けて楊ゼンは溜息をつく。
「別に隠しておったわけではないのだがな。今まで言う機会がなかった」
「いいですよ、別に。話してもらえただけでも嬉しいですから」
「……うん」
 申し訳なさと切なさが入り混じったような声で、小さく太公望はうなずいた。
 その華奢な身体を抱きしめる腕の力を少しだけ楊ゼンは強くする。
「僕も……家族の話はしたことがありませんでしたね」
「そういえばそうだのう」
 少しとぼけたような返答に、楊ゼンは微笑を浮かべる。
 これまで自分が太公望に家族の事を訊かなかったように、彼もまた、敢えて自分に訊こうとはしなかったのだ。
 互いに、痛み無くしては語れないことを知っていたから。
 だから、何も言わず、何も訊かなかった。
 けれど今は、話したい、と思う。
 ……否、ずっと話したかったのだ。他の誰に話せなくても、いつか聞いて欲しかった。
 そして、話して欲しかった。
 彼も、自分も。
 その『いつか』が、今夜訪れたというだけのこと。
「……おぬしの母親はどんな人だった?」
 そのことを分かっているのだろう。太公望もまた、ひそやかな声で初めての問いを口にした。
「おぬしが口に出せる範囲のことでいいから、話してくれるか?」
「ええ……」
 うなずいて、太公望の優しい温もりを楊ゼンは大切に抱きしめる。
「──僕は写真でしか知らないんですが、母はとても綺麗な人でした。名門の出身で……成り上がりの父との結婚には親族がこぞって反対したそうです。でも、それを押し切って勘当同然でとつ嫁いできたと、今でも父がよく……」
「夫人を愛しておられたのだな」
「そうなんでしょうね。そして母も……」
 言葉が少しだけ途切れたのを、太公望は黙って待った。
「……母は本当は、子供を生めるような身体ではなかったそうなんです。ひどく身体の弱い人で……、それなのに何の因果か僕を身ごもってしまった時、命の保障はできないと主治医に言われたそうなんですが……」
「それでも……?」
 太公望は顔を上げて楊ゼンを見つめた。
 その瞳のどこまでも深く澄んだ色を、愛しいと楊ゼンは思う。
 彼さえいてくれたら、己のどんな弱さも乗り越えられるような気がする。
「──父は泣いて止めたそうなんですが、それでも母は聞かずに……。そして、予定よりも1月も早い早産で僕を生んで、2週間後に亡くなりました」
 ……ほろ苦い思いで楊ゼンは己の声を聴く。
 だから──、自分の存在に自信が持てない。
 愛されて生まれてきたことは知っている。
 父がどれほど最愛の女性の忘れ形見である、一人息子の自分を大切に思っていてくれるかも。
 けれど、母が亡くなった後の父の激しい慟哭の様を、物心ついた頃から、様々な人に様々な場所で聞かされてきたから。
 ───本当は、生きて父の傍にあるべきなのは自分ではなく、母だったのではないかと。
 愛されれば愛されるほど、疑わずにはいられない。
「……だから、母の記憶はありませんけれど、愛されて育ったと思いますよ。父は多忙で滅多に顔を合わせることもないほどでしたが、僕のことはとても可愛がってくれてましたし、実際に僕を育ててくれたばあや……といっても、まだ40代ですけど、実の息子同然に愛してくれましたから。──本当に何一つ、不自由を感じたことはないんです」
「……うん」
 小さなうなずきと共に、優しい腕が背に回され、楊ゼンを抱きしめてくれる。
 本当は違うだろうとも、寂しかっただろうとも、何も言わずに受け止める太公望の優しさが、ほろ苦い切なさと共に染みてきて。
 ───愛しい。
 言葉など一つもなくても、温もりがそれぞれの胸に深く根を張っていた寂しさを優しくくるみこんでゆく。
 その感覚が──その温もりをくれる相手が、たまらなく愛しい。
「──これまでの人生に不満なんてありませんけど、できることなら、もっと早くあなたに会いたかったな……」
 よく似た寂しさを知っている彼と、もっと早く出会えていたら。
 もっと早く、この温もりを抱きしめることができていたら。
 また何かが違っていたかもしれない。
 そう思って楊ゼンは抱きしめる腕に力を込める。
「……でも、わしはこれで良かったのだと思うよ」
 しかし、静かな声で太公望は言った。
「今のままで……」
「師叔……」
 顔を上げた太公望の、深い色をした瞳が楊ゼンを見つめる。
「もっと昔に出会っていたら、おぬしを失くしたものの身代わりにしてしまったかもしれない。痛みを口に出せずに、傷つけ合ってしまったかもしれない。だから……これで良かったのだよ」
「……そうですね」
 楊ゼンはそっと右手を上げて、太公望の頬に触れた。
「今の僕だから、こうしてあなたを傷つけたりせずに抱きしめることができる。あなたに……抱きしめてもらえる」
「楊ゼン……」
 そのままゆっくりと目を閉じて、二人は口接ける。
 温もりを分かち合うような優しいキスに、言いようのない安らぎと愛しさを感じて、触れた時と同じようにそっと離れた。
「──そういえばおぬし、風邪を引いているのではないのか?」
「……そうでしたね」
 すっかり忘れていた事実を大きな瞳で睨むように指摘されて、まずいな、と楊ゼンは内心で身構える。
「わしはあさって明後日から学会なのだぞ。移ったらどうしてくれる」
 予想通りの文句に楊ゼンは苦笑いした。
「キスしちゃった後から言わないで下さいよ」
「おぬしこそ、する前に気付かぬか」
 本当に移っていたらどうしてくれる、とぶつぶつ文句を言いながら、太公望は楊ゼンの胸を押しのけてサイドテーブル上のトレイに手を伸ばした。
 そしてシルバー製のピックをリンゴに刺して、楊ゼンに差し出す。
「風邪なんぞさっさと直してしまえ」
「え〜、食べさせてくれないんですか?」
「そこまで甘えるな、馬鹿者」
 怒っているような口調でも、頬がほんのり薄紅に染まっていて全く迫力がない。
 むくれた顔のまま自分のリンゴを齧る太公望にくすくす笑いながら、楊ゼンは太公望が剥いてくれたリンゴを口に運んだ。
 黙々と食べるうちに、6等分したリンゴ1個は、あっという間にガラスの皿の上から消える。
 空になった皿を見て太公望は首をかしげ、肩越しに楊ゼンを振り返った。
「どうする? もう一つ剥くか、それとも他のものを食べるか……」
「いえ、もういいですよ。それより……」
 すばやく楊ゼンは太公望の肩を後ろに引いて、ベッドに押し倒す。
「あなたが欲しいな」
「──!?」
 その言葉に太公望は大きく目をみはる。が、すかさず無防備な首筋に口接けられ、慌ててもがき始めた。
「おぬし、風邪を引いとるのだろうが!」
「もう大丈夫です」
「嘘つけ! まだ熱っぽかった!」
「あ、さっきのキスですか?」
 なるほど、と納得しつつも楊ゼンは太公望の抵抗を巧みに抑え込み、あちこちにキスを落としてゆく。
「わしは明後日から学会だと言っとるだろうが! ただでさえロンドンは寒いのに、風邪なんか移されたら困る!!」
「大丈夫ですって」
「大丈夫じゃない!」
「もし移ったら、ロンドンまでついていって看病してあげますから。リンゴの砂糖煮でも焼きリンゴでも何でも作って上げますよ」
「おぬしの休暇は週末までだろうが……っ」
「あなたのためならいくらでも延長します」
「そんな……っ、ぁ……やめ…っ…」
「本当ですよ。僕が大事なのはあなただけなんですから」
「嘘つき…っ」
「嘘じゃありません。ほら、もう黙って……」
 太公望はまだ何かを言いかけたが、その抗議は重ねられた唇に奪われて、もう楊ゼンには届かなかった。








 一月ぶりの肌は何も変わっていなくて、指と唇で触れているだけでゆるりと熱が上昇してゆく。
 胸元の小さな尖りに軽く歯を立ててやると、太公望は短い嬌声を上げ、込み上げる感覚に抗おうとするかのように弱く首を振った。
「僕のこと、忘れてなかったみたいですね」
 記憶していた以上に過敏に反応を返してくる華奢な躰がひどく愛しく感じられて、楊ゼンはより愛撫を深めてゆく。
「──っ…あ……」
 触れるか触れないかの繊細さで、薄くやわらかな肌をくまなく撫でてやれば、それだけで耐え切れないかのように太公望は甘い悲鳴をこぼした。
「や……っ…!」
 舌と歯で胸元を愛してやりながら、反らされて軽く浮いた背筋を指先で愛撫すると、びくんと大きく躰を震わせる。
「師叔……」
 触れる度に感度を増してゆく彼の躰は、既に快楽を快楽として受け止められるほど楊ゼンの愛撫に慣れつつある。
 最初は戸惑うばかりだった彼が、わずかな戯れだけで熔けるようになっていく様は、これ以上ないほどに楊ゼンの心を満たした。
 もっともっと感じて欲しくて、楊ゼンは華奢な躰をそっとうつぶせに返す。
 そして、あらわになったまるで少女のような細い線を描く背筋に唇を落とし、ゆっくりと右手の指先で背から腰、更にやわらかな双丘からほっそりした綺麗な脚までを撫でた。
 開発した、というと聞こえが悪いが、太公望がこういう繊細な触れられ方に弱いということを発見したのはもちろん楊ゼンである。
 そしてそれは、昨年のクリスマスから春休みが始まるまで、ほぼ毎晩のように重ねられた優しい愛戯に、いっそう過敏さを増していた。
「……っ…あ……ぁ…んっ…」
 何度も繰返し、やわらかな肌の上で指を彷徨わせると、太公望の嬌声に甘い泣き声が混じり始める。
 それを聞いて、楊ゼンは太公望が特に弱い、細い腰の窪みとその周辺によりいっそう丁寧に指先を這わせ、やわらかく口接けを落とした。
「───っ…やぁ……っ!」
 たまりかねたように、太公望は短い悲鳴を上げて躰を捩り、意地の悪い手から逃げようとする。
 だが、楊ゼンはやんわりとその抵抗を抑えつけ、小刻みに震え続けて、時々快楽に耐えきれずに大きく跳ねる華奢な躰を愛しみ続けた。
「やだ…っ……楊…ゼン…っ」
 やがて、指先が白くなるほどきつくシーツを握りしめた細い手と、堅く閉じた瞳からこぼれ落ちる涙に楊ゼンは限界を見て取り、ようやく背中から手を引く。
 しかし、太公望が躰の慄えが止まらないままほっと息をついた次の瞬間、するりと脇から前へ手を忍び込ませた。
「───っ!!」
「もうこんなに感じてくれているんですね」
 華奢な躰に見合った昂ぶりに触れ、形を確かめる。既に濡れ始めていた先端を撫で、甘い蜜を絡めるように上から下へと長い指で包み込むように撫で下ろして。
「もっと感じて下さい、師叔。もっと深く僕を……」
 甘い悲鳴を聞きながら楊ゼンは、太公望の細い腰を持ち上げる。
「あ…やっ……っ…」
 そして、濡れた指をそっと秘められた箇所に触れさせた。
 指先で周辺を軽く不規則につついて刺激してやるうちに、更なる刺激を求めて蕾がいきづ息衝き始める。
 それを見計らって、楊ゼンは指先を挿し入れた。
「んっ……」
 何とか声を抑えようとしている太公望のくぐもった嬌声に微笑しながら、ゆっくりと指先を出し入れして浅く刺激する。
「やぁ…っ……あ……楊っ…」
 すると、狭いそこが、ひく…とおののいた。
 その誘いに応じて深く指を沈めてゆき、既に熱くなっている内部を、それでも傷つけないように慎重に刺激するうち、少しずつそこが異物を受け入れようと潤ってくる。
 女性ほどではないにしても、とろとろと滲み出してくる蜜が楊ゼンの指を濡らし、淫らな水音を立て始めた。
「師叔……」
 自分に愛されることに慣れつつある華奢な躰がいじらしくて、楊ゼンは小さく震えている細腰にそっと唇を落とす。
「──っん…っ…」
 それだけの愛撫にも過敏に反応する太公望に微苦笑しながら、楊ゼンは内部を弄る指を2本に増やした。
「っ…あ……ぁ……楊…ぜ…」
 さしたる抵抗もなく、むしろ甘く絡みついてくる内部をゆっくりと長い指で探り、やわらかな壁を擦り上げる。
 そして、更に指を増やした。
「──っ…!」
 が、狭い入り口を押し広げられて息を詰めた太公望に、すぐに動かすことはせず、空いた方の手でかすめるように中心に触れ、それからやわらかな肌をたどって胸元の小さな尖りを弄る。
「や…あ……っ…ん…っ」
 堅くなったそこを優しく指の腹で転がし、軽く爪を立てると、堪えきれない嬌声と共に、熱く熔けた内部が更に愛液を溢れさせ、おののきを誘いに変えてゆく。
「切ないんですか……? 疼いて……たまらない?」
 太公望の躰の変化を感じ取って、楊ゼンは赤く染まった耳元で低く甘くささやく。
 決して揶揄ではなく、真摯な熱を秘めた声で。
 その声に、シーツに突っ伏するように顔を伏せていた太公望は、わずかに顔を上げて楊ゼンを見つめた。
「…楊…ゼン……」
 快楽に潤んだ大きな瞳から、涙がまた零れ落ちてゆく。
「師叔……」
 その本当に泣き出しそうな、甘く切なげな表情を見つめながら、楊ゼンは内部に挿し入れたままだった指をゆっくりと動かした。
 そして、最も感じる箇処──これまではわざと避けて触れなかった一点を、ゆるく指で押さえてやる。
「──っ…ひぁ……っ…」
 ただ熱を煽り、焦らすばかりの愛撫に、太公望の声は甘くすすり泣くようにかすれた。
 華奢な躰が頼りなく慄え、やわらかな内部がもっと強い刺激を求めて、最奥まで誘い込もうとするかのように楊ゼンの指に絡みつく。
「もっと欲しがって……、師叔」
 その動きを感じながら、楊ゼンは指先でそこを擦り上げた。
「あっ…や……よう…ぜんっ……」
 執拗な愛撫にすすり泣くように喘ぎながら、太公望は懸命に顔を上げて恋人を見つめる。
 泣き濡れた瞳には、普段からは想像もできない情欲と哀願の色が浮かんでいて。
 その色を真っ直ぐに見つめて、楊ゼンは指の動きを止め、熱を帯びた声で問うた。
「僕が……欲しいですか?」
 甘く響く低い声に、太公望は楊ゼンを見つめたまま数度まばたきする。その拍子に、また涙がやわらかな線を描く頬を伝った。
 そして──。
 ためらいを見せながらも、太公望は微かにうなずく。
 その瞬間。
 楊ゼンの瞳にも切ないまでの想いの色が浮かんだ。
「師叔……」
 ゆっくりと指を抜いて、そこに猛った自身を押し当てる。
「──っ…あ…ぁ……」
 力を込めれば、十分に濡れ、とろけたそこは素直に楊ゼンを受け入れてゆく。
 その指とは比べ物にもならない感覚に、太公望は甘い悲鳴を上げた。
 さんざんに焦らされ、求めていたものに押し開かれて熱が擦れ合う快感に、細い腰がわななく。
「あっ……ぁ…んっ……」
 戯れに軽く腰をゆすり上げてやれば、悲鳴に泣き声が混じった。
「師叔」
 そのまま奥まで押し入って、もうこれ以上焦らすことなくゆっくりと動き始める。
 だが、数度深く突き上げただけで太公望の限界を悟り、
「達って……いいですよ」
 ささやきかけながら楊ゼンは片手を伸ばした。
「───っ…やぁ……っ!」
 限界まで張り詰めて濡れた昂ぶりを、動きに合わせて長い指で愛撫する。
 前後同時に愛される刺激に耐え切れず、太公望はたちまちのうちに昇りつめた。
「────っ…っ……!!」
 甘くかすれた声を上げて、太公望は大きく躰を震わせる。
 全身で応えてくるようなきつい締めつけに、楊ゼンも息が乱れかけるのを抑えて、太公望が落ち着くのを待った。
 ほどなくして、少しだけ慄えが納まったのを見て取った楊ゼンは、力の抜け切った華奢な躰を仰向かせる。
「や…っ…!」
 それは慎重な動きだったが、さすがに躰を繋げたままでは衝撃が大きかったのか、太公望は抗議するように涙に濡れた目で楊ゼンを見上げた。
「すみません」
 睨むというよりは、今にも泣きそうなその表情に、楊ゼンは微苦笑して、そっと汗に濡れた髪を撫で、額や目元に口接ける。
 そして唇を重ね、何度も角度を変え、深く舌を絡ませて甘い口腔を探った。
「太公望師叔」
 どうしてこんなに愛しさを覚えるのか分からないまま、楊ゼンは細く喘ぐ太公望を見つめる。と、ゆっくり深い色の瞳が開かれた。
「楊ゼン……」
 自分を見つめるその瞳とかすれかけた甘い声が更に愛しさを煽って、熱が上昇するのを楊ゼンは感じる。
「いいですか……?」
 その問いかけに太公望が小さくうなずくのを確認して、細い腰を抱き直し、ゆっくりと楊ゼンは再び動き始めた。
「…っ…ん……っ」
 ほんの少し前に熱を解放したばかりの内部はひどく過敏で、そこを深く貫かれ、繰返し何度も擦られて太公望はたちまち泣き声を上げる。
「やぁ…っ、……あ…んっ…」
 とろけそうなほど甘いその声に、楊ゼンは動きを緩め、小刻みにやわらかな内部を刺激する。
「…やだっ……よう…ぜ……」
 焦らすようなその動きに、切なげにきつく閉じた太公望の目から涙が零れ落ちた。
「もっと欲しい……?」
 こめかみを伝い落ちてゆく涙を目で追いながら、楊ゼンが甘く問いかけると、太公望は戸惑ったように潤んだ瞳を薄く開ける。
「ねえ師叔……」
 ささやきかけながら楊ゼンは、太公望の頬に幾筋も描かれた涙の跡を唇でたどった。
「太公望師叔……」
 そしてまた、名を呼んで見つめる。
 ───涙で濡れた瞳も、甘くかすれる声も、切ない表情も、震えるやわらかな肌も。
 何もかもが、かつて手にする以前に想像していたよりも遥かに艶めいていて、見惚れずにはいられない。
「愛してます」
 愛しい恋人のもっと綺麗な表情を引き出したくて、楊ゼンは甘い唇にキスを繰り返しながら胸元にそっと手を滑らせる。
 と、途端に甘やかな吐息が快楽におののく唇から零れた。
「楊…ゼン……っ」
 求めるように伸ばされた細い腕が、抗うように楊ゼンの肩に爪を立てる。
 その仕草に誘われて、楊ゼンはまたゆっくりと動き始めた。
「──ぁ…ん……やあ…っ…」
 熱く熔けた内部が快楽を逃すまいとやわらかく、きつく絡みついてくる。そのいじらしいほどの反応に、楊ゼンは奥まで己を突き入れ、過敏な内壁を更に深くえぐ抉った。
「あ…っ……楊…───っ!!」
 その衝撃に耐え切れず、太公望は再び高い嬌声を上げて昇りつめる。
 激しく慄えながら楊ゼンにも解放を求めるようにきつく締めつけてくる感覚に、太公望の切なげな泣き顔を見つめながら、ふと楊ゼンは眉をひそめた。
 ───まずいな。
 さっきから感じていたのだが、風邪のせいかどうも今一つ熱の上昇速度が鈍い。普通ならこれで自分も達していておかしくないのに、まだ余裕がある。
「師叔……」
 手を上げてそっと髪を梳いてやると、小さく吐息をもらして太公望はぼんやりと瞳を開いた。
 快楽の余韻を残したその甘い色に、楊ゼンは太公望の限界を見て取る。
「師叔」
 涙に濡れた目元に優しく口接けながら、仕方がない、と楊ゼンは心の中で溜息をついた。
 これ以上を求めれば、明日、太公望は起き上がれなくなるのが目に見えている。このまま彼の中で達したいのは山々だが、まだ経験の浅い恋人にそこまで無理を強いる気にもなれなかった。
 これで今夜は終わりにしようと、未だ乱れた呼吸の収まらない太公望に口接ける。
 まだ拙いながらも精一杯に応えてくる舌をあやすように優しく絡め取り、ひとしきり甘いキスを交わしてから、身を起こして離れようとした。
 が、それよりも一瞬早く、
「楊ゼン……」
 かすれた細い声で名を呼び、太公望は目を開けて楊ゼンを見上げる。
「おぬし……」
 戸惑ったようなその表情に、楊ゼンは己の状態を気付かれたことを悟る。
「これ以上は辛いでしょう? いいんですよ」
 苦笑いしながら涙の跡の残る頬に触れてそう告げ、そして身体を引きかける。
 しかし、またもや太公望がそれをさえぎった。
 細い手が肩をそっと引きとめて、切なげな色を浮かべた大きな瞳が楊ゼンを見つめる。
「師叔……」
 楊ゼンは困惑した表情を浮かべた。
「本当にいいんですよ。あなたが明日、起きられなくなります」
「───…」
「師叔」
 けれど、太公望は微かに首を横に振った。
「──大丈夫だから……」
 吐息のような細い声で告げ、おずおずと楊ゼンの頬に指先を触れさせる。
 その今にも泣き出しそうに揺れる深い色の瞳に、楊ゼンは不意に太公望の想いに気付いた。

 ───会いたかったのは自分だけではないのだ。
 一ヶ月の別離に、泣きたくなるほどの寂しさを噛みしめていたのは。
 一時も離れたくなかったのは、どちらも同じ。
 そして、長い春休みがまだ半分も終わっていないことに理不尽な怒りを覚えてしまうほど、会えない時間にどうしようもない哀しさを感じているのも……、だから、せめて今だけでも触れ合っていたいと願うのも、自分だけではなくて。
 どちらの心にもある、同じ想い。

「師叔……」
 込み上げた言葉にできない切なさと愛しさに、楊ゼンは強く太公望を抱きしめる。
「太公望師叔……」
 想いに流されるままに何度も口接け、互いの存在を何よりも求めていることを触れ合った処から確かめあう。
「……っ…あ……楊…ぜんっ…」
 白い肌に新たな所有の印を刻み、指を滑らせれば太公望は細い声を上げた。
 既に二度昇りつめさせられた華奢な躰はひどく過敏になっていて、どこに触れても甘く応えてくる。それが愛しくて、楊ゼンは猛ったままの自身をやわらかな内部の奥までゆっくりと進める。
「ひ…ぁっ……」
 それだけの動きにも、太公望はきつく楊ゼンを締めつけた。
「師叔……」
 無理はさせたくないと思うが、それ以上に彼を欲しがり、また欲しがってほしいと願う自分がいる。
 加減してやれなくなるかもしれないと思いながらも、ゆっくりと、だが深く己の存在を刻み込むように楊ゼンは動き始めた。
 途端に太公望は細い首筋を反らして、甘い悲鳴を上げる。
「…やぁ…っ……あ…ん……っ」
 形のいい爪先が力なく宙を蹴って、シーツの上を滑る。
 うわずった声で甘くすすり泣きながらすがりついてくる細い腕と、背に爪が食い込む感触に、楊ゼンは我を忘れそうになる自分を強引に押しとどめた。
「師叔……もっと僕を感じて……」
 深く……時には浅く強弱をつけながら、更に深みへと太公望を導いてゆく。
 何もかもを──躰も心も奪い尽くし、この一瞬だけでも太公望のすべてを自分のものにしたくて、やわらかな肌のいたるところに所有印を刻み、華奢な甘い躰を貪った。
「──ぁ…っ……やぁ…っ」
 やわらかくとろけきった躰を深く貫かれ続けて、逃れる術もないまま太公望は甘く引きつった嬌声を上げ、刻み込まれる切なさに耐え切れずに乱れ泣く。
 その声の甘さと快楽に染まった泣き顔に、いっそう楊ゼンの情は高まってゆく。
「…っ…ようぜ……もう…っ…」
 注がれ続ける過剰な快楽に泣き濡れた瞳を薄く開いて、太公望は懸命に楊ゼンを見上げた。
 切なげな泣き顔が限界が近いことを訴える。
 その濡れた目元や頬に口接けながら、
「もう少しだけ……」
 楊ゼンは熱を帯びた声でささやいた。
 そんな楊ゼンを見つめる太公望の瞳から、まばたきするたびに涙がこぼれ落ちる。
 だが、可愛そうだと思う気持ちよりも自分の情がまさって、止めてやれない。
 震えながら乱れた呼吸を繰り返す唇に、宥めるようにキスを繰り返しつつ、楊ゼンは先を求めた。
「あっ…ゃ……も……早く…っ」
 熱く熔けた内壁を執拗に擦られて、許容量を越えた快楽を受け止めきれない太公望の嬌声が、完全にすすり泣きへと変わる。
「……っ……ぁ、ん…っ…」
 深すぎる快楽に乱れた息さえ満足に継げず、甘やかに泣きながら、それでもいじらしいほどに反応を返してくる太公望に、楊ゼンは己の熱が急上昇してゆくのを感じた。
「師叔…!」
 そして、きつく締めつけてくるやわらかな内部を最奥まで深く貫いて、想いの丈を注ぎ込む。
「────っ…っ!!」
 その灼熱を受け止めて、太公望もまた声にならない声を上げて昇りつめ、そのまま二人はゆっくりと真っ白な奈落に堕ちていった。








「───…」
 意識が戻ったのか、抱きしめている太公望の細い手がわずかに動いた。
「師叔?」
 そっと名を呼んで顔を覗き込むと、ゆっくりと深い色の瞳が開かれる。そして、ぼんやりと数度まばたきしてから、ようやく楊ゼンを焦点に捉えた。
「大丈夫ですか?」
 問いかけにもすぐには答えず、ぼんやりしていた太公望だが、やがて意識がはっきりしてきたのか、楊ゼンを見つめる大きな瞳に非難するような色が浮かぶ。
 そして、声を出すのも辛いのか、無言のまま、わずかに上げた左手で、楊ゼンの肩から流れ落ちる髪を掴んで引っ張った。
 いつもよりもずっと弱々しいその力に微苦笑しながら、楊ゼンは謝罪する。
「すみません、師叔。無理をさせすぎました」
 けれども、どこか泣きそうな怒った瞳は変わらなくて、これは相当に辛かったのだろうと、改めて楊ゼンは申し訳ない気持ちになった。
 いくら初めてねだられたからとはいえ、やはり止めておくべきだったかと思いつつ、だが、それはそれで彼の中にわだかまりが残ることになったかもしれない、とらち埒もない思考が脳裏をぐるぐる回る。
 だが、いずれにせよ一番悪いのは、体調が万全ではないにもかかわらず行為を求めた自分なので、もう一度楊ゼンは謝った。
「すみません、本当に……。明日は好きなだけ寝ていて下さって構いませんから。それで、夕食の時間に起きられるようだったら、一緒に蟹を食べに行きましょう?」
 その言葉に少しだけ太公望は考えるような表情になり、やがて楊ゼンの謝罪を受け入れる気になったのか、もう一度軽く髪を引っ張ってから手を離した。
 そのまま温もりを求めるように擦り寄ってくる太公望が愛しくて、楊ゼンはそっと細い躰を抱きしめる。すると、目を閉じた太公望は安心したように小さく息をついて、身体の力を抜いた。
 そして、楊ゼンの腕の中で、またたく間に太公望の呼吸が静かな寝息に変わる。
 この分では、もしかしたら今の会話は記憶から消えているかもしれないなと、ひどく幼く見えるその寝顔に微笑しながら、楊ゼンはそっと頬に口接けた。
「おやすみなさい、師叔」
 甘やかにささやいて、自分も目を閉じる。
 腕の中に何よりも大切な存在を抱きしめていられることが、ひどく幸せだった。







           *           *







「───…」
 あくびを噛み殺しながら、太公望は卓上の英文で書かれたレジュメを眺めた。
 ───眠い…。
 壇上では顔見知りの研究者が、某国の貿易について何やら熱弁を振るっている。聞かなければ悪いよな、とは思うのだが、どうにも眠気が振り払えない。
 今日の午後の一番に自分の研究発表を無事に終えてしまったから、ただでさえ退屈な学会は、今やひたすら眠いだけのものである。
 ───あと4日か。
 ロンドン大学での学会は8日間の日程で開催される。だが、はっきりいって学会というものは、自分の発表の時だけ会場にいればいいものであって、最初から最後まで席に座っている必要はない。
 もちろん太公望も、顔見知りの研究者の発表以外は会場内に居なかった。
 ───あとは殆ど知らない連中だし、面白そうなテーマもないし……。
 日程表をめくりながら、あくび混じりに太公望は思考をめぐらせる。
 ───やっぱり、ここは大英博物館一周といくべきかのう……。
 ロンドン大学に隣接している大英博物館は、欧米の博物館の常で、恐ろしく広大かつ膨大な収蔵品を誇っている。隅々まで見て回ろうと思ったら、到底1日では足らないし、陳列品も一度見ただけで満足できるような安い代物ではない。
 だから、数年前から毎年この学会に出席するたびに、太公望は基本的に空いた時間を、英国が世界に誇る大博物館で過ごしていた。
 ───あー、でも久しぶりにベーカー街に行くのもいいのう。ついでに、どっかのカフェでアフタヌーンティーを飲んで……。
「スコーンが食いたい……」
 ジャムとクロテットクリームつきで。
 半分寝ぼけたような小さな声で、太公望は呟いた。








「よう、よく寝てたな」
 学会会場となっている講堂から出かけた時、背後から顔見知りの若手研究者に声をかけられた。
「寝ずにいられるか、あんなテーマで」
「確かに最後の奴はひどかったな。俺も、うとうとしちまったよ。一応、新進気鋭の研究者らしいが……」
「新進気鋭の意味を辞書で調べ直した方がいいぞ」
 今日の発表者たちに対してあれやこれやと講評を加えながら、連れ立ってキャンパス内を抜ける。
 他の季節なら、もう少しゆっくりしようかという気になるかもしれないが、真冬の夕暮れ時のロンドンはとにかく寒々しい。これが好きだという人も多いのだろうが、寒がりの太公望はつい早足になった。
 由緒ある広大な敷地を抜け、門が近付いた時、ふと隣りを歩いていた研究者が声を上げた。
「お、マセラティだぜ、あの車」
 見れば、門の傍に一台、見惚れるほど流麗なプロポーションを持った黒のスポーツカーが停まっている。
 綺麗だが高そうな車だな、と思った時、不意に車のドアが開いて乗っていた人物が降り立つ。
 その瞬間、太公望は目が点になった。
「おお、さすがに乗ってる奴もゴージャスだな。モデルか何かなぁ、あれ」
 隣りで俗っぽくはしゃぐ知人の言葉も耳に入らない。
「な……」
「おい?」
「なんでおぬしがここにおるんじゃ──!!」
 夕暮れ時のキャンパスに響き渡るような声で太公望は叫んだ。
 だが、言われた方は平然と笑みを浮かべる。
「やだなぁ、あなたを迎えに来たに決まってるでしょう?」
「おい、お前の知り合いなのか?」
 脇をつつく知人に、
「僕は彼のステディですよ。あなたは学会に参加されている研究者の方ですか?」
 楊ゼンは流暢な英語と営業用スマイルで答える。
「何を言っとるんじゃ、おぬしは──!!」
 その言葉に、呆然としていた太公望は我に返って、楊ゼンに向けて手を振り上げる。
 が、あっさりとそれは止められて、代わりに腕の中に抱きこまれた。
「一昨日からロンドンに出張で来てたんですが、あなたの邪魔をしたらまずいかなと会いに来るのは我慢してたんですよ。でも、今日発表は終わったでしょう? 僕の方も予定より商談が早くまとまったから、あと3日くらいはゆっくりしていられるんですよね」
「仕事が終わったのなら、さっさと合衆国へ帰れ! 次の仕事が待っておるのだろうが!!」
 楊ゼンの言葉の含みに気付いて、太公望はもがきながら叫ぶ。
「仕事仕事って、あなたは僕を過労死させたいんですか? 嫌ですよ、僕は。あなたと心中するならいいですけど……」
「馬鹿っ! いいからこの腕を離せ!」
「駄目です。離したら逃げるでしょう? これからバースまで行くんですから」
「バース!?」
「そうですよ、それくらい御存知でしょう」
 もちろん知っている。英語のBATHの語源にもなった有名な温泉保養地だ。
「もうホテルは取ってあるんです。これから3日間は2人っきりで、あなたの好きな温泉でゆっくり過ごせますよ」
 冗談じゃない、と太公望は青ざめる。
 楊ゼンと一緒にいるのが嫌だということは絶対にないし、温泉も好きだ。
だが、両方のセットは要らない。というよりも、そんなもの本気で困る。
 一月ぶりに会った楊ゼンに足腰立てなくされたのは、つい5日前。ようやくそのダメージが完全に癒えたところなのに、そんな場所で二人っきりになったら、一体どんなことになるか。
 ぐるぐると青くなったり赤くなったりしている太公望に、
「おい、お邪魔みたいだから俺は帰るよ」
 所在なげに2人を見守っていた知人が無情な声をかけた。
「え…、あっ」
「ああ、お疲れ様です。明日からこの人はサボりますけど、気にしないで下さいね」
「分かった。面白そうなテーマがあればレジュメはもらっといてやるよ。──じゃ、あんたも頑張れよ。なんだか、かなりのじゃじゃ馬みたいだけどさ」
「ええ、ありがとう」
 何故か楊ゼンとにこやかに挨拶を交わし、引き止める間もなく、さっさと彼は立ち去ってゆく。
「ちょ…ちょっと待て…っ!」
 必死にもがいて、太公望は楊ゼンの顔を見上げる。
「おぬし、何を考えとるのだ!?」
「そんなの、あなたと過ごす休暇のことだけに決まってるじゃないですか。分かってらっしゃるくせに、今更聞かないで下さいよ」
 あっさり言って、楊ゼンはひょいと太公望を腕に抱き上げる。
「や…っ、何を……下ろせ楊ゼンっ!!」
 よりによって異国とはいえ公衆の面前で抱き上げられて、太公望はじたばたと暴れる。が、見かけよりもずっと鍛えられている楊ゼンの腕はびくともしない。
「わしは明日から大英博物館に行くのだ! ベーカー街にアフタヌーンティーにスコーンに……!」
「はいはい、ちょっと黙ってて下さいね」
 車に向かいながら、楊ゼンはそう言って軽く太公望にキスをした。
 そして、太公望が叫ぶよりも早く、
「この3日間が過ぎたら、今度こそ本当に春までのんびり会う余裕はなくなるんですから。黙って付き合って下さい、師叔」
 低い声で甘くささやきかける。
「──っ…ずるいぞ、おぬし」
「ずるくなかったら、あなたに勝てないでしょう? 御自分のことを棚上げしないで下さいね」
 苦笑しながらも楊ゼンは太公望を抱いたまま、器用に車のドアを開け、助手席に下ろした。
 そして、自分も運転席に乗り込む。
 観念したのか、太公望はその隙に逃げることはしなかったが、シートベルトを締める楊ゼンをじと目で見つめた。
「そんな顔しないで下さいよ。なんだか悪いことしたみたいじゃないですか」
「これが十分悪いことだとは思わんのか!?」
「思いません」
 あっさりと答えて、楊ゼンはエンジンをかける。音量はさほどでもないが、獰猛なほどの重低音が耳に届いた。
「だって、あなたも僕に会いたかったでしょう?」
「……っ」
 言葉に詰まった太公望は、ごまかしきれずにそっぽを向く。
「〜〜〜もう勝手に言っておれ」
「はい」
 素直ではない恋人に小さく笑いながら、楊ゼンはシフトを入れてアクセルを踏んだ。






end.










というわけで、後半です。
前半ほどではないですが、やはり甘くて辛い・・・(T_T)
この作品はオフセでの発行当時、結構評判が良かったのですが、私としてはもう書きたくない、というのが正直なところです。当時も、どうやって甘いラブコメ風味にするか必死でしたしね〜(-_-)

オフセでの後記でも書きましたが、楊ゼンの車はイタリアの名門スポーツーカー製造会社・マセラティの3200GT(¥12,000,000)、黒のメタリックです。
マセラティは、官能的なまでに美しいプロポーションと、野性的なまでに獰猛な性能を持つと称されるメーカーなのですが、はっきりいって「故障するのではなく最初から壊れてる」という典型的なイタリア車を作っているメーカーでもあります。
はっきりいって、金持ちのドラ息子、もしくはかつてドラ息子だった大人のための高級スポーツカーを作るメーカーなので、馬力はすごいし内装も豪華。しかも製造台数は少ない。(年間6000台。93年にフェラーリの子会社になる前は、年間2000台以下だった)
なのに、日本の国内でも時々走ってます。(うちの近所にある皮膚科の女医さん(美人)も乗り回している・・・) 目印は、ポセイドンの三ツ又の鉾をデザインしたエンブレム。興味のある方は、街中で目を皿にして車のチェックをして下さい。





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