Sweet day 1








 教授棟三階の東から四番目。
 その窓に晧々と明かりが点っているのを確認して、楊ゼンは深く溜息をついた。
 そして無言のまま通用口から建物内に入り、足早に階段を昇る。
 更に、非常灯と窓から差し込む街灯の光以外に光源がない照明の落とされた薄暗い廊下を歩いて、目指すドアの前で立ち止まり───。
 一つ呼吸をするよりも早く、腕を上げてノックする。
 が、ドアの隙間からは明かりがこぼれているし、中に人の気配もするのに返事は返らない。
 しかし楊ゼンの方にもノックを繰り返して応答を待つ、などいうまどろっこしい真似をする気はなくて、少なくとも一回はノックしたのだからそれでよしとばかりに、許可も得ずドアを開けて中に踏み込む。
「太公望師叔!」
 だが。
 部屋の出入り口から真っ直ぐ正面──ブラインドを下ろした窓際に置かれたデスクのパソコンに向かっている彼は、名を呼ばれても振り向くことさえしなかった。
「師叔」
 想像通りの状況に再び溜息をついて、楊ゼンは太公望に歩み寄る。
 何かに没頭している時、彼は周りのことに一切気が回らなくなるのだ。
 その集中力は大したものだが、恋人の来訪くらいは気付いてくれてもいいじゃないかと内心思いつつ、楊ゼンは彼の真後ろに立って、もう一度その名を呼ぶ。
「太公望師叔!」
「──っ!?」
 すると、驚愕に大きく肩を反応させて、ようやく太公望は振り返った。
「楊ゼン? 何でおぬしがここに……。合衆国に戻っておったのでは……」
「何でじゃないでしょう、師叔」
 今日何度目か知れない溜息を交えながら、楊ゼンは椅子に座ったままの太公望を見下ろす。
「今日、何日だと思ってるんです?」
「何日って……二月十四日だろう?」
「そうですよ。去年の暮れから言っていたでしょう。年が明けてからはお互い予定が詰まっていてなかなか会えそうにありませんけれど、二月十四日の夜だけは明けといて下さいねって」
「───そういえば……そうだった、な」
 すっからかんと忘れていたらしい。
 呟く太公望の大きな瞳が、決まり悪げに宙を彷徨った。
「なのに、予定をやりくりして約束通り迎えに来てみれば、あなたはマンションにいないし……。
 そんなこともあるかと思ったから、昨夜、飛行機に乗る前にわざわざ確認のメールを送ったんですけどね、僕は。本当は声が聞きたかったんですが、四日前からずっと電話は繋がらなかった上、留守電にもなってませんでしたし。よくあることですけど」
「メール?」
 嫌味混じりに言われて、太公望は慌ててパソコンを操作してメールソフトを開く。すると、確かに楊ゼンからのメールが一通ならず未読のままになっていた。
 太公望の頭越しに未開封の印だらけのメールリストをいちべつ一瞥して、楊ゼンは眉をしかめる。
「……師叔、あなたはメールのチェックもしてなかったんですか」
「しっ……仕方なかろう! 四日前から馬鹿みたいに忙しくて、そんな悠長なことをしとる暇はなかったのだ!」
「なるほど」
 逆ギレしかける太公望に、楊ゼンはごく静かな表情──無表情ともいう──を崩さないまま、うなずいて見せた。
「──で、何がそんなに忙しかったんです? 今週末からのロンドンでの学会の準備は一週間前に終わっていましたよね?」
「────」
「レジュメに間違いでもありましたか?」
 僕との約束を忘れるなんて一体どんな重大事があったんです、つまらないミスが原因だったら許しませんよ、という言外の含みを込めた台詞に、太公望はモニターを見つめたまま硬直する。
「師叔?」
 いつもと同じ甘く優しい声が、かえって要らぬ緊張を誘ったらしく、肩にそっと楊ゼンが手を置いた途端、細い身体がびくりと跳ねた。
「何があったんです?」
 が、太公望がそんな過剰反応を見せても、楊ゼンの態度は微塵も揺らがない。
「………論文を……」
 やわらかな口調で重ねられる詰問に、とうとう観念したのか、いかにもしぶしぶ、といった感じで太公望は口を開いた。
「論文?」
「一本、書くのを忘れておったのだよ。正式に依頼を受けたのが随分……、確か夏前で……。草稿までは書いてあったのだが……」
 彼らしくもなく、ひどく歯切れの悪い口調で、ぼそぼそと告白する。
「四日前に締切確認のメールが来て……」
「それで思い出して、慌てて取り掛かったというわけですか」
 デスクの周辺どころか辺り一面、資料がとっちらかった室内の惨状にちらりと視線を走らせて、楊ゼンは呆れたように溜息をついた。
「で、締切はいつなんです?」
「三日後……」
 その返答に、楊ゼンはおや、という表情になる。
「それなら大丈夫じゃないですか。四日もあれば、あなたのことだから、ほぼ完成稿が出来てるでしょう? あんまり必死にやっていらっしゃるみたいだから、てっきり明日が締切なのかと……。
 でも三日後なら今夜は余裕で食事に行けますよね。予約を入れておいた時間より少し遅くなりましたけど、まだ間に合いますから急ぎましょう」
 腕時計を確認しながら楊ゼンは、さっさと来客用のソファーに放り出してあった太公望のコートを取り上げる。
 が、
「たわけ!! そんな暇があるか!!」
 椅子に座ったまま肩越しに振り返った太公望は、勢いよく彼を怒鳴りつけた。
 思いもよらないその反応に、楊ゼンは一瞬きょとんと年上の恋人を見返す。
「……締切は三日後なんでしょう?」
「そうだ」
「じゃあいいじゃないですか、たかが三時間くらい。その後まで付き合えとは言いませんよ。どうせ、ロクに眠ってないんでしょう? 息抜きだと思って……」
「駄目だ」
「駄目って……そんなにてこずってるんですか? 論文といったら研究者の命なのに、いつもあなたは手抜きしまくりで、テーマ決めからたった一週間で書いてしまったこともあるのに……」
「別にてこずっとるわけじゃない。だが、今回は駄目だと言っとるんだ」
「何故です?」
 駄目の一点張りの太公望に、楊ゼンの響きのいい声が露骨に不機嫌になる。
 ───実のところ、楊ゼンがこんな風に感情をあらわ顕にするのはかなり珍しいことだった。
 金鰲グループ総帥の後継者として幼い頃から徹底的に社交術を叩き込まれてきた彼は、人当たりはやわらかいが、隙のない、紳士然とした態度を人前で崩すことは滅多にない。
 そんな彼が、実はかなり好き嫌いの激しい、いかにも大金持ちの坊ちゃんな性格をしていることを知っているのは、限られたごく小数の知人友人だけであり、その中には当然、恋人である太公望も含まれている。
 そして太公望の方も、いつもなら溜息をつきつつも笑って彼のそういう一面をを受け入れるのだが。
 今夜だけは違って、負けず劣らずの不機嫌な表情と声を楊ゼンに向けた。
「これはな、前総長の喜寿記念論文集の原稿なのだ」
 いっそ厳かな声で太公望は告げる。
「前総長の?」
 その名詞に、さすがの楊ゼンも意表を衝かれたのか、やや驚いた顔になった。
「そう。だから、たとえあと一週間あったとしても時間が足りぬくらいなのだ」
 崑崙大学前総長・元始天尊は世界的に名を知られた経済学の権威である。そして、元始天尊の最後にして最高の教え子と学界で認識されているのが、他ならぬ太公望なのだった。
 太公望が学内最年少で博士号を取得したのは間違いなく彼自身の才によるものなのだが、学界という世界は非常に「誰に学んだか」ということを重要視する。結果、著名な研究者や研究機関を中心にいわゆる学閥ができあがり、その中で太公望もまた、本人が望む望まないに関係なく、崑崙大学・元始天尊の名からはのが逃れ得ない。
 それに加えて、一部の関係者しか知らないことだが、戸籍の上では太公望は元始天尊の養子なのである。
 そんな公私に渡って関係のある老学者の喜寿記念論文集とあっては、さしもの太公望も手抜きをするわけにはいかない、とそういうわけだった。
「でも、食事する時間くらい……」
 しかし、彼が原稿にこだわる理由は分かったのだが、恋人のためにたった三時間をさ割くことも出来ないという主張には納得できなくて、楊?は眉をしかめる。
 けれど、太公望は溜息をついてかぶりを振った。
「おぬしには悪いが、無理だ。本当にギリギリなのだよ。これから徹夜でやっても間に合うかどうか……」
「でも、一か月ぶりのデートなんですよ?」
「それは本当に悪いと……」
「食事が済めば、また直ぐに車でここまで送りますし……。実質、行って帰ってくるのに三時間もかかりませんよ」
「だから……」
「僕に出来ることがあればお手伝いしますから、食事くらいは付き合って下さいよ。本当にこの一月、あなたと全然会えなくて僕がどんなに……」
「───いい加減にせい!」
 諦めの悪い恋人に、とうとう太公望が声を荒げる。
「だから駄目だと言っておるだろうが! 時間が出来次第、埋め合わせはするから今夜は諦めよ、楊ゼン」
 きっぱりそう言い切ったのだが。
「……つまりあなたは、僕より前総長を採るということですか」
「──は…ぁ?」
 楊ゼンの発したとんでもない、というよりも瞬時には意味が理解できないほど馬鹿げた台詞に、太公望は唖然となる。
「だってそうでしょう? 僕はあなたに会いたかったから、ギリギリのスケジュールでもこうして帰ってきましたし、あなたが中華が食べたいと言ったから、天憙楼にもニューヨークNYから国際電話で予約を入れて……」
 余談だが、一見、学園都市には無縁に思える高級ホテルや高級料理店が、崑崙市内には何軒も軒を連ねている。
 一泊数万円もするようなホテルや、数万円以上のコース料理しかないレストランや料亭が、学生ばかりの崑崙で経営が成り立つのかと不思議に思われるだろうが、実はなかなかに繁盛している。
 つまり、いかにも学園都市らしい賓客──頻繁に開かれる学会に招かれた著名な研究者や、研究所を視察にくる大企業の重役、政府関係者などの接待に利用されるのだ。
 そして、天憙楼というのは、崑崙市内で最高級の味と品格を誇る中華料理店の名である。上海料理が中心で、とりわけ海鮮には定評があった。
 ちなみにここのメニューには値段が記載されていない。値段を気にするような下品な客に用はない、というわけだ。
「なのに、そんなことは全部どうでもいいとおっしゃるわけですね」
「どうでもいいなどと言った覚えは……」
「言ったも同然でしょう。たった三時間も僕に付き合えないとおっしゃるんですから」
「───…」
「あなたにとってそんな程度なんですね、僕の存在は」
「…………」
 執拗な嫌味を投げつけられて。
 非は自分の方にあるのだからと、それまでは年下の恋人を宥める態度をとっていた太公望の機嫌も、一番底まで急降下してゆく。
 普段はともかくもプライベートにおいては、彼はさほど気が長い性質ではなかった。
「───言いたい事はそれだけか」
 だが、しかし。
 彼が滅多に出すことのない冷ややかな低い声にも楊ゼンは動じない。
「いいえ。まだまだ言い足りませんよ」
「ほう」
 その返答に、椅子に座ったまま太公望は楊ゼンを見上げる。
 照明の光を受けて冴々と輝く大きな瞳は、まるで深い淵のようにうち裡にあるものを見せない、冷えた光を浮かべていて。
「だが、あいにくと、わしにはおぬしの戯言を聞いていてやる暇がなくてな。
 おぬしが来てから一体、何分が無駄に過ぎたと思う。──これ以上わしの邪魔をするな、楊ゼン」
 厳しい声で太公望は言い切り、まるで不倶戴天の仇同士のように──あるいは、それ以上に険悪なまなざしで二人は睨み合った。
 そして、ゆっくり十を数えるほどの時間が過ぎて。
「──そうですか」
 感情の失せた、楊ゼンの低い声が沈黙を断ち切る。
「そうおっしゃるならいいですよ、もう」
 言いながら楊ゼンは、セカンドバッグと共に小脇に抱えていたものを来客用のローテーブルの上に置く。が、太公望はそれに視線を向けることなく、ひたすらに大きな瞳で彼を睨みつけていた。
「では、邪魔者は帰ります。素晴らしい論文が完成することを祈ってますよ」
 それだけを冷ややかに告げて、楊ゼンは太公望に背を向け、部屋を出てゆく。
 その上背のある均整の取れた後ろ姿がドアの向こうに消えるまで、太公望はけわしいまなざしを逸らさなかった。
 ゆっくりとドアが閉まり、静寂と共に一人取り残されて。
「────」
 小さく息を吐き出し、
「まったく、あやつは……」
 憤りのにじんだ声で呟いて、太公望は椅子の向きを180度変え、デスクに向き直る。
そして、再び一心不乱にパソコンに論文を打ち込み始めた。










「──っと…」
 他の論文からの引用部分が一行抜けていることに変換途中で気付き、太公望は小さく舌打ちする。
「いかんのう、さっきからミスばかりだ」
 どうやらかなり疲れてきているらしい。溜息をついて瞼を閉じると、目の奥が鈍く痛んだ。眼球の表面が染みる感じがするのは、まばたきの回数が減ってドライアイになっているせいか。
 この四日というもの、仮眠程度の睡眠をとるだけで、後はひたすら資料やパソコンの画面と睨み合っている。割合無理のきく体質ではあるが、こうも酷使していれば、何らかの症状が出てくるのはどうしようもない。
 少し休憩しようと、太公望は座りっぱなしだった椅子から立ち上がった。
「腹が減ったのう」
 戸棚の隅に常備してあるインスタントコーヒーを備え付けの電気ポットの湯で入れていると、不意に空腹を覚える。
 時計を見れば、既に9時近い。考えてみれば、午後2時頃に遅い昼食を食べただけで、その後は飲まず食わずだ。
 食事を忘れるのは集中して何かをしている時の常で、空腹に気づいた時には大抵、既に限界を超えてしまっている。その挙句に胃痛を起こしたことも一再ではなく、かえって辛いばかりなので自慢できることではなかった。
 実際、今もかなり極限状態である。
 しかし、だからといって春休みに入った現在、大学の食堂は7時で営業が終わってしまっているし、一番近いコンビニまで食糧を買いに行くのも寒くて面倒くさい。
 仕方がないからコーヒーで朝までしのぐかと、太公望はクリープと砂糖をたっぷり加えたマグカップの中身をスプーンで乱暴にかき回した。
 そして、妙に白っぽい怪しい液体と化したそれを片手にデスクに戻りながら、楊ゼンが見たら不健康だと怒って、レストランなり自分のマンションなりに引きずって行くだろうな、と何の気もなしに考え、苦笑して。
 次の瞬間、ほんの数時間前のやりとりを思い出して唇を噛む。
「──たわけが……」
 デスクにもたれて立ったまま、太公望は呟いた。
 たかが数日とはいえ音信不通にした上、約束を完全に忘れていたのは本当に悪かったと思う。
 けれど、確かに自分のミスが原因だとはいえ、やむを得ない状況であることくらい彼にも理解できていたはずなのだ。
 それに、と太公望は心の中で呟く。
 楊ゼンには言わなかったが、実は去年の12月中旬まではちゃんと論文のことを覚えていて、年末年始の休暇に片付ける予定を立てていたのである。なのに、それを綺麗さっぱり忘れてしまったのは、他の誰でもない彼のせいだった。
 つまり、クリスマスイブにデートに誘われて一旦は断ったはずだったのに、楊ゼンが3時間半も公園で待つなどという馬鹿な真似をしてくれたお陰で、つい流されて彼の想いに応えてしまった、その予想外のアクシデントに仕事のことなど全部吹き飛んでしまったのである。
 中学生の恋愛でもあるまいし、あまりにも情けない話だから、絶対に楊ゼンにも誰にも言わない。
 口が裂けたって言えるわけが無いのだけど。
 でも、間違いなく彼の存在が、今回のミスの最大の原因だった。
「なのに、あやつはねちねちと……」
 年下の恋人のしつこい嫌味を思い出して、太公望は口元をへの字にする。
「大体、あやつは人の言い分を聞こうとせぬのだ。クリスマスの時だって、わしは飲み会があるから駄目だと言ったのに……!」
 口に出しているうちに、どんどん腹が立ってくる。
「甘ったれで我儘なくせに、口うるさくて過保護で強引で……! わしは謝っただろうが! なのに、それをしつこく……なにが、僕より前総長を採るんですねだ!?」
 マグカップ片手に太公望は吠えた。
「なにが、もういいですよだ。それはこっちの台詞だ馬鹿者!!」
 散々に叫び散らし、肩で息をしながら太公望はふと、楊ゼンがそう言った時に、手に持っていた何かをローテーブルに置いたことを思い出す。
 あの時は彼の顔ばかり睨みつけていて、そちらには目を向けなかったが、一体何だったのだろう。
「確か……」
 太公望は後ろを振り返り、論文用の資料があふれかえっている安物の応接セットに視線を走らせた。すると直ぐに、分厚いファイルの上に場違いな、綺麗に包装された箱が載っているのが目に入る。
「これか」
 シックなワインカラーを基調とした包装に、なんとなく大公望は、クリスマスに受け取ったプレゼントを思い出す。
 あの時の、穏やかなグリーン緑の包装紙と艶消しの金色のリボンに包まれた箱の中身は、白いカシミアのマフラーだった。
 だが、今日は。
 クリスマスプレゼントよりも一回り小さい箱に、くすんだ金色のカリグラフィー装飾文字でかかれた銘を確かめて、
「え……、あ!」
 太公望は小さな声を上げる。
 今日は。
 ───2月14日。
 家族に、友人に、恋人に。
 大切な人に想いを込めて贈り物をする日。
 今日のカレンダーの日付には『締切3日前』という以外にも意味があったことを四日ぶりに思い出して、太公望は半ば呆然となる。
「そう…だった……」
 クリスチャンではないけれど、キリスト教圏で育った彼は、この日だけはどんなに忙しくても会いたいから、と予定を空けることを約束したのだ。

 ───試験が終わり次第、合衆国に戻って春休みの間中、本社で父の秘書をすることになっているんです。これは前からの約束でどうしようもないんですが、でも2月14日だけは絶対に帰ってきますから。あなたも予定を空けておいて下さいね。

 そう言われて。
「ロンドン大学の学会は20日からだと、わしは……」
 その返答に、彼は嬉しそうに笑った。
 じゃあ大丈夫ですね。どこに行くか、決めておいて下さい、と。
 それが、昨年の大晦日のこと。
 その後、五本のレポートを提出してさっさと定期試験を終わらせ、合衆国に戻っていった楊ゼンは、その後、忙しすぎて十四日の夕方にしか帰れないかもしれないと電話で告げてきた。
 巨大複合企業・金鰲グループ総帥の後継者であることがどれほど大変なことなのか、朧気ながらも見当は付いていたから、無理はしなくてもいい、と言うと、
 ───あなたに会いたいのを我慢することが僕にとっての無理なんですよ。
 と返された。
 そして、では食事だけでも……ということになって。
「そうだ、あの時わしが、中華が食べたいと言ったのだ……」
 楊ゼンが置いていったプレゼントを手にしたまま、太公望はようやく自分の言葉を思い出して唇を噛みしめる。
 ワインカラーの包装紙にくすんだ金色で刻まれた銘は、太公望でも知っている世界的に有名なチョコレートの老舗。
 しばらくそれを声もなく見つめてから、丁寧に包装を解いて蓋を開けると。
 華麗なトリュフが宝石のように並んでいた。
 そのうちの一つを指先でそっと摘み上げ、太公望は自分の口へ入れる。
「──甘い…」
 極上のチョコレートが、芳醇な洋酒の香りと共に口の中に甘くとろけて広がる。
 その甘さに涙がにじみそうになって、太公望は目を閉じた。
 ───極上のチョコレートと、極上の中華料理。
 太公望のために用意されたそれは、決して金に飽かせたプレゼントではない。
 ただ、楊ゼンが彼に可能な範囲で、できる限りのことを尽くしてくれた結果だ。
 もし彼が資産家の生まれでなく勤労学生であったとしても、彼は、その時の財布の中身と自由になる時間に応じて自分にできる最高のものを贈ってくれただろう。それは、手作りの何かであったかもしれないし、一日中二人きりで過ごす静かな時間だったかもしれない。
 楊ゼンが太公望に贈ってくれたのは、そういうもの──金額では量れない、ありったけの想いを形にしたものだった。
 単にチョコレートを贈るだけなら航空便で送ればいい。なのに楊ゼンは、おそらく相当な無理をして余暇を作り、帰って来てくれたのだ。
 他の誰のためでもなく、太公望のためだけに。
「──わしも……」
 彼が置いていった彼の想いが、太公望の唇から言葉をあふれさせる。
「わしも会いたかったよ……」
 最後の逢瀬から、約一ヵ月。
 付き合い始めてからまだ2ヵ月にもならない二人にとって、それは長すぎる空白だった。
 ……叶うことのない想いだとずっと思っていたから──楊ゼンの想いも、自分が彼に惹かれていることも分かっていたけれど、互いの生きる道が異なっていることを知っていたから、最初から何もかも見て見ぬふりをしていた。
 なのに、その想いが突然現実になって。
 想像もしたことがなかった分、余計に二人で過ごす時間は甘くて、ほんの一瞬を離れることにさえ寂しさを覚えるほどだった。
 それはあまりにも自分らしくなくて……そんなことを感じる自分が信じられなくて、最初は何を馬鹿なことをと笑い飛ばそうとしたのだ。なのに結局、小さな笑い声一つ上げることさえできなくて、そんな自分の心を──彼が傍に居ないまま過ごす春休みの長さを思い知らされただけだった。
 だから、楊ゼンが2月14日は帰ってくると言った時は、素直に嬉しいと思った。
 自分に向けられている想いの深さを知っているからこそ、この恋のためにならどんな無理でもしかねない彼が怖くて、長い間逃げ続けていたくせに。
 いざ現実になったら、無理をしてでも会いたいと言ってくれる楊ゼンの言葉が嬉しかったのだ。
 自分も会いたかったから。
 理由なんて他に何もない。

 ───けれど。

 太公望はデスクのパソコンを振り返る。
 ───たかが3時間。
 そう楊ゼンは言った。
 その通りだった。たかが3時間。
 一ヵ月ぶりに会う恋人のためにさ割く時間としては、あまりにも短すぎる。
 でも、うなずくわけにはいかなかった。
 忘れていたとはいえ、仕事は仕事。自分が引き受けたことだ。
 その上、これは背後にいる元始天尊の名に直接関わる論文であり、ほんのわずかな手抜きも許されない。
 だから、たったの3時間であっても、休息の誘いにうなずくわけにはいかなかった。
 これが自分の仕事であり、自分のプライドだから。
 楊ゼンが、このたった一晩のためにどれほど努力してくれたか、自分がそれをどんなに心待ちにしていたかを思い出した今でも、やはり彼の誘いにうなずくことはできない。
 ───でも。
 楊ゼンはどう思っただろう。
 今夜のために、おそらく必死に仕事をこなし、予定をやりくりしてきた彼は、その努力を無碍にあしらわれて。
 もういい、とどんな思いで告げたのだろう。
「あ……」
 ようやくそこに考えが至り、太公望は自分が乱暴に投げつけた言葉を思い出して、愕然となる。
 確かに、嫌味を連ねて絡んできたのは彼の方だった。
 それにカチンときたとはいえ、しかし、もう少しい言いよう様はなかったのか。
 あんな風にあ悪しざま様にののし罵る必要など、どこにもなかっただろうに。
 はるばる海を越えて一月ぶりに帰ってきたのに、突然のデートのキャンセルを告げられたら怒るのは当然のことだ。恋人なら、怒らない方がおかしい。
 なのに、その怒りまでも邪魔だと切り捨てられて。
 どんな思いで、彼は自分の言葉を聞き、この部屋を出て行った?
 ───謝らなければ……!
 電話を、と考えて直ぐ、携帯電話はマンションに置いてきてしまったことを太公望は思い出す。
 今朝、部屋に資料を取りに戻ったついでにシャワーを浴びた時には、持っていかなければと思い出したのだが、髪を乾かしている間にまた忘れてしまったのだ。
 だが、携帯電話がなくとも幸いなことに、教授室には個別の電話が備え付けられている。もちろん内線用であって、私用の外線は禁じられているのだが、迷わず太公望はやや旧式の受話器を取り上げて外線に切り替える。
 パソコンからメールを送ることもできたが、そんな文字ではなく、自分の言葉で──自分の声で謝りたかった。
 ……もう、遅すぎるかもしれないけれど。
「あやつの携帯の番号は確か……」
 いつもメモリ機能ばかり使っているから、考えてみれば自分の手で彼の番号をダイヤルするのは初めてだった。
 アドレス帳などなくとも10桁の番号を覚えていられる自分の記憶力に感謝しながら、太公望はプッシュボタンを一つずつ押してゆく。
 そして、8桁目まで押した時。

 ───不意に、ノックの音が響いた。

「────」
 受話器を片手に持ったまま、太公望はドアを振り返る。
 ───こんな時間に教授棟を訪ねてきそうな非常識な友人知人は、身近に何人もいる。
 他の学部の研究室をのぞいて回れば、自分と同じように泊り込んでいる知り合いの一人や二人は簡単に発見できるだろう。
 けれど。
 太公望はドアを見つめたまま、手早く最後の2桁の数字を押す。
 すると案の定、わずかなタイムラグを挟んで、ドアの向こうからボリュームを落とした着信音が聞こえてきて。
 太公望は小さく微笑した。
 3回のコールの後。
『──はい?』
 耳に届いたのは、まぎれもない彼の声。
「……楊ゼン」
『え!? あ…師叔!?』
 受話器からと、ドアの向こうからと。
 二重に聞こえてくる、驚きうろたえている声に。
「入ってこい、楊ゼン」
 それ以上何も言わず、また言わせずに通話を切る。
 そして太公望は、受話器を手にしたまま、ドアが開かれるのを待った。







 瞳と瞳が合った瞬間、互いが何のために今、ここにいるのかを理解する。
 ゆっくりと受話器を戻した太公望は、無言のまま楊ゼンに歩み寄り、ためらうことなく力強い腕に抱きしめられた。
 言葉よりも早く、長い指に顎が持ち上げられて、少し冷えた唇が重ねられる。
 触れ合い、絡み合う部分から生まれる甘さと熱に一月ぶりに溺れ、互いの存在を感じ合って。
 胸の裡にわだかまっていたものが薄氷のように溶けてゆく。
「──すみませんでした」
 ゆっくりと唇を離し、太公望を胸に抱きしめたまま楊ゼンがささやいた。
「僕が言い過ぎました。あなたにとって、この論文がどんなに大切な仕事なのか分かっているのに、自分の感情ばかり押し付けて……。僕は身勝手な男ですね」
「謝るのはわしの方だよ」
 自嘲に満ちた低い声に、太公望は小さくかぶりを振る。
「仕事を忘れて、おぬしとの約束も忘れて……。突然反故にした挙句、ひどい言葉を……おぬしが怒ったのは当然のことなのに」
「いいえ、僕の言葉もきつかった。あなただけが悪いんじゃありません。  僕だって期日の迫った重要な仕事の最中なら、たとえあなたの誕生日であっても、帰れないことを心の中で謝りながら仕事の方を優先するでしょう。それが当たり前なのに、そんなことも忘れて一方的にあなたを責めてしまった」
「……だが、おぬしの方がわしよりもずっと大変だったのだろう? 謝る必要などないよ」
 小さな声でそう告げ、もう一度かぶりを振った。
「許してくれますか……?」
 それでもなお、ささやくように重ねられた言葉に、
「許すも許さぬも……」
 太公望は顔を上げて楊ゼンを見つめる。
 ───今、こうしてここに居る。
 その事実だけで充分だった。
「師叔」
 言葉にできないその想いを読み取ったのか、甘い響きの声と共に降りてきたキスを、太公望は目を閉じて受け止める。
 先程よりもいっそう甘く、やわらかな口接けが一ヵ月の空白を埋めてゆく。その感覚に深い安堵を覚える。
 ゆっくりと楊ゼンが離れていった後も、その温もりは胸のうち裡に灯ったまま消え去らなかった。
 そして、楊ゼンの胸に抱きしめられたまま、深く息をついた太公望は、ふと視界の端に映ったものに目を留める。
 資料でごちゃごちゃのローテーブルの上にあるそれは、先程、楊ゼンが自分を抱きしめる前に置いたものだ。それは分かっている。
 けれど、今まで気付かなかった、この見覚えのあるカラフルなロゴ入りのペーパーボックスは。
「楊ゼン、これは……」
 確かめるように見上げると、青年はいつものすべてを心得たような顔で微笑んだ。
「ああ、あなたのことだからきっと、まともな食事はされてないと思って……。お詫びというつもりじゃないんですが、今、十州飯店で買ってきたんです」
 十州飯店は、テイクアウトもできる点心メニューを中心に手頃な値段とボリュームで学生御用達となっている広東料理の店で、太公望のお気に入りだった。
 中でも、特製ちまきと小龍包と胡麻団子と杏仁豆腐には目がない。
「わざわざ……?」
「わざわざというほどの手間じゃないですよ。車でならすぐですし……。まぁ、せっかく買ってきたんですから冷めないうちに食べて下さい。どうせ夕食はまだでしょう?」
 いいながら、少しだけ名残惜しそうに腕を下ろして離れかけた楊ゼンを、
「楊ゼン」
 太公望は名を呼び、抱きしめることで引き止めた。
「師叔?」
「───…」
 頭で考えたわけではない衝動任せの行動だったから、すぐには言うべき言葉が見つからない。
 けれど、今感じている想いを伝えたくて、太公望は言葉を捜す。
「───ありがとう」
 少しの逡巡の後、口をついて出たのは。
 色気も何もない、ほんの短い陳腐な台詞。
「──はい」
 けれど、楊ゼンが微笑んだのが見えなくても分かったから、太公望も口元に小さく笑みを刻んだ。
 そして、ゆっくりと腕を解いて楊ゼンから離れようとする。
「師叔」
 と、不意に肩を引き寄せられ、頬に軽く口接けられて。
 一瞬驚いて楊ゼンを見上げたものの、そのやわらかなまなざしに太公望も小さく笑みを返して、今度こそ本当に彼から離れた。
「とりあえず、少しテーブルの上を片付けないと何ともならんのう」
「そうですね」
 いつもと同じような他愛ない会話を交わしながら、二人はひとまず食事のためのスペースを確保するために働き始めた。







「やっぱり、ちまきはここのが一番だのう。栗が入っているのが何とも……」
 上機嫌で点心をぱくつく太公望を、楊ゼンは中国茶の入った湯呑みを片手に見つめる。
「どうせなら、天憙楼の上海蟹を食べていただきたかったんですけどね……」
 苦笑混じりに呟く声も、穏やかで甘い。
 だが、太公望は声の響きにだまされて内容を聞き逃すようなことはしなかった。
「まぁ確かに崑崙一と評判の蟹は捨てがたいがな。でも、これも十分に美味いぞ。それより、キャンセルしたことの方がおぬしにとっては……」
 予約時間が過ぎてからのキャンセルは全額支払が当然だし、何よりも店に与える印象が悪くなる。年に数度とはいえ、公用私用で天憙楼を使っている楊ゼンにとって、今回のことはマイナスにしかならないはずだった。
 それが分からないほど世間知らずではないから、楊ゼンがもう、自分のことを責める気がないのは分かっていても、己の咎をあっさり水に流してしまう気にはなれない。
 だが、心配と申し訳なさが入り混じった表情を浮かべた太公望に、楊ゼンは心配することはないと笑顔を向ける。
「大丈夫ですよ。あそこの支配人とは顔見知りですし……、それに、数日中にもう一度行くと言っておきましたから」
「……数日中?」
「ええ」
 不思議そう、というよりは不審げといった方が似合う表情で、太公望は楊ゼンを見返した。
 そのまなざしを受け止めながら、楊ゼンはゆったりとした仕草で一口茶を飲む。
 ちなみに、茶の銘柄は西湖龍井、太公望の方は烏龍茶ベースの福州茉莉花。どちらも、十州飯店で点心と共に楊ゼンが求めてきた葉を、ここの電気ポットの湯で入れたものだった。
「言い遅れましたけど、僕、今週末までこっちにいるんですよ」
「え…?」
「次の仕事の下準備や、個人事業の方でも片付けておかなければいけないことがありますから、呑気に遊んでいるわけにはいかないんですけどね」
「それなら……」
 思わぬ言葉に、太公望は立ち上がりかける。
「どうしてあんなに嫌味を言ったのか、ですか?」
 だが、溜息交じりの微笑と共に、楊ゼンがそれを押しとどめた。
「だって、今日はバレンタインなんですよ。一番大事な人と過ごすための日なんです」
「────」
「だから、僕は今日、どうしてもあなたに会いたかったし、あなたの喜ぶ顔が見たかった」
 それ以上は言わない楊ゼンに、太公望は再び顔を曇らせる。
 ───次の機会があるとか、そういう問題ではないのだ。
 少なくとも楊ゼンにとっては、この2月14日という日付の意味が大切だったのだから。
 育った環境が異なるのだから、そういう感覚の差はどうしようもないことなのかもしれない。
 けれど、もう少し考えてやれば良かった、と太公望は改めて自分の言動を、少々苦い思いと共に振り返る。
 だからといって、論文の締切が延びるわけもなく、今夜の約束に付き合えたわけではないのだが。
「───…」
 黙り込んだ太公望の内心を察したのだろう、くす…と小さく楊ゼンが笑った。
 それに気付いて顔を上げた太公望の大きな瞳を、楊ゼンはどこか悪戯っぽい光を浮かべた目で覗き込む。
「本当はね、定番通り、特大のハート型チョコレートと赤い薔薇の花束を贈ろうかと思ったんですよ」
「──は…?」
「でも、あなたは嫌がるだろうなと思ってやめたんです。一度やってみたかったんですけどね」
「……おぬしという奴は……」
 脱力した声で太公望は呟いた。
 彼が手にする分には似合うかもしれないが、この自分に赤い薔薇の花束など、一体どうしろというのだろう。ジャムにして食えとでもいうのか。
 それに、大きなハート型のチョコレートなどというものも恥ずかしすぎる、というよりむしろ、そんなものをくれる愛情が恐ろしい。もらったところで、果たして食べる気になれるかどうか。
「………」
 ふぅ、と溜息をついて、ソファーの隣りに腰を下ろしている年下の恋人を見上げれば、こちらを見つめる面白がっているような瞳と目が合う。
 ───分かっている。
 どこまで本気か知れない軽口は、申し訳ないと思う自分の気を逸らそうとする彼の優しさだ。
 あちこちにささやかな問題はあるにしろ、この青年が自分のことをよく理解していて、そして本気で想っていてくれることは確かな真実。
 もしかしたら、それは只の錯覚にすぎないのかもしれないが、それでも丸ごと信じて酔ってしまいたくなるような甘い感覚だった。
「……論文を書き上げたら、わしはおぬしと食事に行けばいいのだな?」
 だが、
「あ、食事だけじゃ駄目ですよ」
 せっかくの遠回しな誘いとも取れる承諾を、あっさりと楊ゼンがぶち壊す。
「その後も、ちゃんと朝まで付き合ってもらいますから」
「──っ、たわけ!!」
「当たり前でしょう。この1ヵ月、僕は浮気もせずに、ひたすら仕事をしながらあなたのことばかり……」
「馬鹿っ!!」
 露骨すぎる戯言に耐え切れず、太公望は楊ゼンの長い髪を掴んで力任せに引っ張った。
「痛いですよ、師叔っ」
「痛いようにやっとるんだ!」
 そのままの状態で、しばし睨みあって。
 ───本当にこやつは……。
 大きく溜息をつくと、太公望は掴んだままの楊ゼンの髪をぐいと自分の方に引き寄せる。
「師……!」
 その動きに楊ゼンは抗議の声を上げかけたが、太公望は実力行使でそれを遮った。
「────」
 軽く触れただけでゆっくりと唇を離せば、呆然と目をみはった楊ゼンの秀麗な顔が至近距離にあり、彼を驚かせることができたことに、太公望は気恥ずかしさを覚えながらも満足する。
 そして、艶やかな髪から手を離し、すいと立ち上がって傍を離れた。
「さーて、またやるかのう」
 軽く伸びをしながら、再びデスクへと歩み寄る。
「楊ゼン」
「あ、はい」
 律儀に返事をする青年を肩越しに振り返って、太公望は悪戯っぽい目で見つめた。
「ぼーっとしとる暇などないぞ。蟹を食いに行きたいのだろう?」
「───僕に手伝えとおっしゃりたいんですね?」
「おぬし、やれることがあれば手伝うと言っとっただろう。それともあれは口先だけか?」
「…………」
 僕が断れないことを知ってるくせに……、と小さくぼやく声は無視する。そして、彼が諦めたように溜息をついて立ち上がるのを見守った。
「分かりましたよ。その代わり、論文が終わったらしっかり付き合ってもらいますからね」
「そんな余裕があればな。おぬしだって忙しいのだろう」
「遊ぶ時間というのは自分で努力して作るものです」
 その台詞にはにっこりと笑顔を返して、
「その通り。だから、とりあえず資料の分類をしてくれ。分からぬやつはまとめて置いといてくれればいいから」
 太公望は部屋中に散乱する大量のファイルや書類、書籍をくるりと指差す。
 楊ゼンは一瞬、うんざりしたような顔をしたが、
 これが終わらない限り、甘い夜には辿り着けないことに思いが至ったのか、一つ溜息をつくと、
「──承知いたしました、太公望師叔」
 気を取り直したように芝居がかった仕草で一礼する。
「うむ」
 そんな彼に太公望は満足そうにうなずいて、自分はデスクの椅子に座り、また一心不乱にパソコンに向かい始めた。
 しばらくその背中を見つめていた楊ゼンは、やがて小さく笑みを浮かべる。
 結局、一緒に居られるなら何でもいいのだ。久しぶりのデートがお流れになったのは確かに惜しいが、それでも二人で居るだけで十分に楽しい。
 たとえ、こんな状況下であっても。
 そして楊ゼンは、再びソファーに腰を下ろし、まず先程テーブルの脇に寄せたファイルと書類の山から整理を始める。
 キーボードを叩く音と書類が触れ合うかすかな音が研究室に響く中、2月14日の夜は静かに更けていった───。






next.










というわけで、LOVE TROUBLEシリーズ・第2弾の再録です。
この作品は、シリーズの他作品に比べると少し発行部数が少なく、そのため再版の御要望も多かったのですが、『メインシリーズ以外は再版しない』という信条により、こういう形にしてみました。
が、辛い・・・(T_T)
なんというか、編集作業をしていてもメチャクチャ痛いんですよ。当時も、すごく書くスピードがのろかった気がするのですが、それも当然。自作のラブコメを後から読み返すのは拷問です。

でも、まだ後半が残っているので、もう少し頑張らねばなりません(T_T) 
近いうちに後半もupしますので、気になる方は待っていて下さいね〜。(半死半生にて管理人退場)





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