Holy Night 2
リビングを出て、廊下の左側の一つ目の部屋が太公望の寝室だった。
クローゼットと本棚、サイドテーブルだけという余計な物が何も無い部屋のベッドに、楊ゼンはそっと太公望の細い躰を下ろす。そしてドアを閉めると、室内はほのかなルームランプの灯りだけが照らす薄闇になった。
小さな軋みと共にベッドに上がると、太公望が不安げにまばたきをするのが見えた。
「……怖いですか?」
「───…」
問いかけても答えない太公望の額にキスを落とすと、まだどこか迷うような切ない表情で目を閉じる。
そっと頬に指を触れれば、かすかに震えているようで、楊ゼンは彼を驚かせないように優しくついばむような口接けを繰り返す。
───彼が何を思い迷っているのか、楊ゼンには分からなかった。
恋という感情に身を任せるのが怖いのだろうかとも思うが、一方で、そんな単純なものでもないような気がしていて。
けれど、口接けを深くしても太公望は抗うことなく従順に楊ゼンの舌を受け入れ、やがて口腔を荒らされるままに応え始める。
「師叔……」
そして、深く求め合う長いキスのせいで乱れた呼吸に上下するやわらかなうなじから肩へと、ゆっくり口接けを下ろしていっても、太公望は小さく震えるだけで楊ゼンを突っぱねようとはしない。
ただ、シャツのボタンに指をかけた時にだけ、制止の言葉の代わりに肩にかけられていた手に力が込もった。
怖がらせないように軽いキスでなだ宥めながら、そっと素肌に手を触れると、指先に早鐘のような鼓動が伝わってきて、いつも冷静で豪胆な彼がひどく緊張しているのを感じ、楊ゼンは微笑する。
そして、もういい…、と思った。
たとえ迷いがあっても、今はこうして逃げようとすることなく腕の中に居てくれるのだ。その真実以上に彼の心を伝えてくれるものなどない。
それだけを信じようと、誓うように太公望の薄い胸──心臓の上に一つキスを落とす。
「……っ」
と、太公望は小さく息を詰めて躰を震わせた。
「師叔」
そんなささやかな愛撫にも反応する彼が愛しくて、誘うように薄く開かれた唇に再び口接ければ吐息までもが甘くて、何度深いキスを繰り返しても物足りなくなる。
長い夜はまだ始まったばかりだった。
「よ…うぜ…っ」
絶え間なく与えられる快楽に耐え切れずに、太公望は甘く引きつった声で青年の名を呼んだ。
「師叔……」
けれど、楊ゼンはその声にも手を止めることはなく、よりいっそう丁寧な愛撫を続ける。
「──っ…やめ……っ…」
最も過敏な箇所を、ゆっくりと指で弄られて太公望は激しく躰を慄わせた。
とうに限界を超えて解放を求めているのに、楊ゼンは決して太公望の望みに応えようとはしない。
それどころか過敏になりすぎた感覚を更に煽るばかりで、初めて知るその気が狂いそうな切なさに、太公望は嫌々をするように首を振る。
「や…ぁ……っ…」
その拍子にきつく閉じたまなじりから涙が一筋零れ落ち、楊ゼンはようやく太公望の中心から手を引いた。
だが、煽るだけ煽られた感覚は解放されないままで、太公望は喘ぐように浅い呼吸を繰り返す。
そんな太公望を見つめながら、楊ゼンはそっと華奢な体に手をかけてうつぶせに姿勢を変えさせる。そして、膝を立たせるように腰を持ち上げた。
「ようぜ…、っあ……!?」
己の体の一番奥に、濡れた柔らかいものが触れるのを感じて、太公望は小さく悲鳴をあげる。
柔らかく温かいものが繰り返しその箇所に触れ、時折中に侵入しようとする───。
何をされているのかを悟って、その恥ずかしさに太公望は、快楽に萎えた躰で懸命に抵抗しようとした。
が、
「──ひ…ぁ…っ!」
最奥への愛撫はそのままに、不意に中心に手を伸ばされ、鋭く背筋を駆け上った感覚にがくりと肘が崩れる。
「師叔……」
そして、その感覚に耐える間もなく、低くささやく声と同時に指がそこに触れて。
「あっ…やめ……っ!!」
やわらかく入り口を突付き、微妙な刺激に知らずほぐれたところを見計らって指先が侵入してきた。
未知の感覚に強張りかける華奢な躰を中心に触れることで宥めながら、楊ゼンはゆるゆると指を出し入れしつつ少しずつ奥に進めてゆく。
「よう…ぜ…っ…」
痛みだけではない、脳髄まで侵食されそうなその感覚に、太公望は甘くかすれた悲鳴をあげた。
「痛くありませんか……?」
そう問いかける楊ゼンの声も、もう濡れた色を隠せない。
やがて、ゆっくりと奥までたどり着いた長い指が何かを求めるように、狭い器官を探った。
「───あ…!!」
楊ゼンの指先がある一点に触れた途端、太公望はびくりと大きく体を震わせる。
「ここですか?」
得たりとばかりに繰り返し、そこを刺激されて。息もつけないほどの鋭い快楽が全身を駆けめぐるのに耐え切れず、太公望は敷布を引き裂かんばかりにきつく爪を立てた。
「や…あっ……ん…っ…」
たちまちのうちに限界まで追い詰められて、甘すぎる苦痛に心も躰も悲鳴をあげる。
だが、楊ゼンは容赦することなく弄る指を増やしてゆき、濡れた音がいっそう大きく響き始めて。
「い…や…っ、よう…ぜ……っ!!」
解放に至らない程度に昂ぶりを刺激されると同時に過敏な内部にも強い刺激を与えられて、こらえきれずに零れ落ちた涙が敷布に吸い込まれてゆく。
その状態のままどれ程の時間が過ぎたのか、執拗に過ぎる愛撫に小さくすすり泣くような声しか出せなくなった頃、ゆっくりと楊ゼンはやわらかな内部から指を引き抜いた。
長い間責め苛んでいたものがようやく消失して、太公望は躰を震わせながら小さく息をつく。
けれど、それで何が終わったわけでもない。
再び楊ゼンの手で仰向けに躰の向きを変えられて、太公望は涙に濡れた目を薄く開いた。
「楊ゼン……」
次に何がなされるのか分かっているから、名を呼ぶ声もかすかに震える。
そんな太公望をなだ宥めるように楊ゼンは、汗に湿った髪を優しく梳いた。
「太公望師叔」
響きのいい声が、甘くささやきかける。
「愛しています……。あなただけを……」
その言葉に太公望は瞳を揺らし、そして、次いで降ってきたやわらかなキスに目を閉じる。
何度も触れては離れることを繰り返し、深くなってゆく口接けに、太公望は自ら求めるように楊ゼンの首に腕を回した。
熱い舌が絡み合う甘さに溺れ、深く求め合ううちに一つになった互いの存在以外、何も感じなくなってゆく。
───楊ゼン…。
激しい口接けを受け止めながら、希薄になってゆく意識の中で太公望は呟く。
───わしは、本当はずっと……。
傷つく痛みを知っているはずなのに、それでもひたむきなまなざしを向けてくる青年の強さが、ずっと怖かった。
受け入れたら己が変わってしまいそうで──そして、金鰲グループの次期総帥として定められているはずの彼の生き方をも変えてしまいそうで。
明らかに生きる道が違うのだから、応えても辛くなるだけだと……彼を傷つけるだけだろうと、差し出された手にも目をそむけるしかなかった。
けれど。
そんな風に恐れていながらも、結局、心の裡に生まれた想いを捨てることはできなかった。
それはおそらく、自分にとっても彼は『初めて見つけた誰か』だったから。
大勢の人々に囲まれていても、実際はいつも一人だったのは彼だけではない。
寂しいという感情を言葉にしないまま、一人でこれまでの時間を生きてきた自分だから、痛いほどに彼の想いが理解できたのだ。
そして、諦めてしまった自分とは異なり、まっすぐに誰かを──自分を求めることができる彼の強さが眩しくて、いとおしいと思った。
───本当は、ずっと大切だった。
彼の優しさも、ひたむきさも。
強さも、弱さも。
その全てが、言葉になどできないくらいに。
そんな、生まれて初めて心から愛しいと思った相手が真摯に自分を求めてくれる───。どれほど深い胸の痛みを伴っていようとも、それは確かに目のくらむような幸福感だった。
楊ゼンが大切だったからこそ、これまで彼を拒み続けてこれたけれど。
愛しいと思うからこそ、もうこれ以上は拒めない。
この想いの行方に、どれほどの不安を感じていても。
振り払えないのは自分の弱さだと分かっていても、今は彼を抱きしめ返したかった。
「師叔……」
甘く呼ぶ声が泣きたいほどに切なくて、太公望は泣き濡れた瞳を開ける。
間近にある、まっすぐに見つめてくる楊ゼンの瞳の真摯な色に、言葉もなく見惚れて。
「いいですか……?」
何を意味するのか分かりすぎるほど分かるその問いかけに、小さくうなずいて目を閉じた。
細い脚を大きく開かせて、楊ゼンは己を大公望の秘められた箇所に押し当てる。
肉付きの薄い躰は年上だとは到底信じられないほど華奢で、どちらかといえば着痩せする性質の自分とは比べ物にならない。乱暴に扱ったら壊してしまいそうだった。
「力を抜いて……」
ささやきかけ、彼がゆっくりと息をついたのを見計らって身体を進める。
「……っ」
充分に愛撫を施したはずなのに、それでもやはり辛いのか、大公望は眉を寄せる。が、抗おうとすることなく身に余るものを精一杯に受け入れようとしているのを感じて、楊ゼンは情がいっそう高まっていくのを自覚した。
けれどそれを抑えて、ゆっくり、彼を傷つけないよう余計な苦痛を与えないように、中心にも軽い愛撫を与えながら、少しずつ華奢な身体の奥に己を沈めてゆく。
経験のない大公望の内部はおのの慄くように震えていてひどくきつかったが、これまでの執拗な愛撫に熱く熔けており、従順に猛々しい熱を飲み込んでいった。
やがて、大部分を熱い内部に納めて、楊ゼンは小さく息をつく。
「師叔、大丈夫ですか?」
そう問い掛けると、大公望は涙に濡れた瞳をうっすらと開いた。そして、見下ろす楊ゼンを見とめ、小さくうなずく。
けれど、震えるような吐息と噛み締めて朱くなった唇が、彼の辛さを伝えていて。
「すみません……。どうしても辛い思いをさせてしまいますね」
そっと唇に指先を触れて謝ると、大公望は小さくかぶりを振る。
「大…丈夫…だから……」
小さく語尾がかすれたその言葉が切ないほどに愛しくて、楊ゼンは大公望に口接ける。
───もう他に何も要らない。
何もかも失っても、彼さえ居てくれたらいいと心の底から楊ゼンは思う。
どうしてこんなにも愛しいのか。
いくら自問しても明確な答えは出てこない。
ただ、彼という存在すべてが欲しいと、灼け付くように渇望する自分の心が在るだけだった。
「師叔、辛ければ辛いと言って下さいね」
ささやきかけてから、細い腰を抱き直す。
静止していても、限界まで開かれたやわらかな内部はおののきながらきつく締め付けてくる。これ以上抑えていると、かえって太公望に無理を強いてしまいそうで、まだ多少なりとも余裕のあるうちに…と、楊ゼンはゆっくり動き始めた。
「あ…ぁ……っ…!!」
その圧倒的な質量感と熱に耐え切れず、途端に細い悲鳴が上がる。
「──い…っ……よう…っぜ…」
きつく眉をひそめ、苦痛に躰をすくませる太公望に楊ゼンは動きを緩めて、軽い口接けを繰り返しながら片手を中心に伸ばした。
「───っ…!」
触れた途端、大きく体を震わせて涙で濡れた目を見開いた太公望を見つめながら、そっと指先で愛撫を加えてやる。
先程見つけたばかりの過敏な箇所を繰り返し刺激するうちに、きつく閉じかけていた内部が少しずつ熱を取り戻し、おのの慄きがどこか誘いかけるような収縮に変わり始めて。
「や…だ……も…ぅ……っ」
細い声にもどこか切なげな甘さが混じるのを聞き、楊ゼンは再びゆっくりと動きを深くしてゆく。
「師叔……」
こうして一つになっていても、彼が自分を受け入れていてくれることが信じられない。
けれど、こぼれ落ちる涙や甘くかすれた声が、夢ではないことを伝えてくる。
「太公望師叔」
その名を口にするだけで泣きたくなるほど、全てが愛しくてたまらなかった。
経験のない華奢な躰に無理はさせるまいと自制していても、情は高まるばかりでとどまるところを知らない。
「──楊…ぜん…っ」
深くなる動きに、躰の深い処で感じる痛みと、それを上回る切なさに耐えかねて、太公望は両手を差しのべて楊ゼンの背にすが縋りつく。
「……っ…ん…、楊…っ…」
すすり泣きにも似た切ない声で名を呼び、背に爪を立てて。
その仕草に楊ゼンもまた煽られる。
「師叔…!」
絶えず甘やかなすすり泣きを零す唇をふさぎ、むさぼるように深く口接けを交わして。
身も心も、熔けてゆかないのが不思議なほど熱かった。
「──あ…っ…や…ぁ……っっ…!!」
やがて、細い悲鳴をあげて太公望は昇りつめ、楊ゼンもまた激しい締め付けに抑えていた熱を解放する。
そして、ゆっくりと二人は白い闇へ墜ちていった。
「あ、目が覚めましたか?」
薄く目を開いた途端に耳に届いた、よく通る心地好い響きの声に、太公望はぼんやりとまばたきする。
誰の声だったか、と起き抜けの動かない頭で考えた時、ふわりとやわらかな温もりが唇に触れた。
───え…?
「おはようございます、師叔」
「──!?」
突然間近に良く見知った青年の顔がはっきり見えて、太公望は心臓が止まりそうなほど驚く。
「師叔?」
見下ろしてくる楊ゼンが小さく首をかしげても、咄嗟に言葉が出てこなかった。
「……師叔、もしかして昨夜のこと、何にも覚えてないんですか?」
それは心外、と顔に書いてある青年に、太公望は思わず、覚えているものか!と叫び返したくなる。が、実際は言葉など何一つ出ないまま、頬が朱く染まっただけだった。
幸か不幸か、起きた瞬間はともかくも、楊ゼンの顔を見た途端に全てを思い出してしまったのである。
それがどうにも決まり悪いというか気恥ずかしくて、太公望は楊ゼンから視線を外し、自分がパジャマを着せられていることを確認してからベッドに起き上がる。
「……っ」
その拍子に身体に痛みが走り、思わず眉をしかめた途端、楊ゼンが手を差しのべた。
「大丈夫ですか? 無理しない方が……」
「平気だ」
背中を支えるように添えられた手を、それでも振り払うことは出来ないまま、太公望は素っ気なく答える。
が、楊ゼンはそのまま何も言わず動きもしない。
どうしたのかと疑問を感じ、そっと顔を向けると、すぐ傍でこちらを見つめていた楊ゼンと視線が合った。
「!」
心の準備もなしに至近距離でまとも真面に彼の顔を見てしまい、思わず驚き慌てる太公望の瞳をまっすぐに見つめて、楊ゼンは甘やかに微笑む。
「やっとこっちを向いてくれましたね」
「な……っ」
青年の言葉に、太公望はただでさえ熱を帯びていた頬に更に血が上るのを感じる。
そんな太公望を見つめたまま、楊ゼンは小さく笑った。
「──っ、何がおかしい!?」
「いや、別に何もおかしいわけじゃないですけどね」
「おかしくないのなら笑うでないわ!!」
「はい、すみません」
殊勝に返事しながらも、楊ゼンはくすくす笑いを止めない。
本当にあなたって人は……、と小さく呟いた言葉にどんな類いの形容詞が続くのか予想できて、太公望は完全にむくれてそっぽを向く。
「すみません、師叔」
ようやく笑いを収めながら、楊ゼンはもう一度謝った。
そして、
「朝食は用意が出来てますけど、どうします? 今すぐに食べられますか?」
機嫌を取るように、そう尋ねる。
その手に乗るものか、と一瞬思った太公望だったが、正直言えば空腹を覚えて目が覚めたのである。もともと食い意地が張っているだけに、食べ物の誘惑には抗いがたかった。
「───食べる」
ちらっと視線を向けて答えると、
「じゃあ温めてきますから、少し待っていて下さいね」
楊ゼンは笑顔で言い、太公望の頬に軽く口接けた。
「──楊ゼンっ!!」
「いいじゃないですか、これくらい。恋人なんですから」
誰がだ!?、とはさすがに言い返せず、言葉に詰まった太公望から楊ゼンはさっさと離れ、寝室のドアへ向かう。
そして、ノブに手をかけながら、
「あーあ、ゆうべ昨夜のあなたはあんなに可愛かったのに……」
聞こえよがしにぼやいた。
「楊ゼン!!」
「──なんてね。今朝も充分可愛いですよ、師叔」
「馬鹿…っ!!」
手元にあった枕を投げつけるよりも早く、楊ゼンはドアの向こうに姿を消し、枕はそのままドアにぶち当たって落ちる。
そして太公望は、空気が抜けたように肩を落とし、立てた膝に掛かったままの羽毛布団に顔を埋めた。
どうしてこんなことに、と今更自問したところで取り返しがつくはずもない。結局、ムードの流されてしまった自分が悪いのだ。
差し出された手を取るつもりなどなかったのに。
真摯に迫られてあっさり応えてしまった自分を思い出し、太公望は歯噛みしたくなる。
───だが、それ以上に最悪なのは、こうなってしまったことを喜んでいる自分が確かに居ることだった。
今も鼓動は落ち着かないままだし、頬も熱い。
何よりも、楊ゼンのまなざしや声が脳裏から消え去らなくて、泣きたいほどに切ない。
「馬鹿はわしだ……」
たまらない気分で太公望は頭を抱え込む。
が、目を閉じていると昨夜のことをリアルに思い出してしまいそうで、仕方なく顔を上げ、膝を抱え込むように腕を組んでそこに頬を預けた。
と、サイドテーブルに一冊の本がしおりをはさんだ状態で置かれているのが目に留まる。
今まで気付かなかったが、そこに置いてあるのが自分のしわざ仕業ではない以上、楊ゼンが本棚から持ち出したのだろう。
そして、これを読みながら自分が目覚めるのを待って───。
そう考えて、太公望は再び赤面する。
しおりの位置から見てまだ第一章の辺りだろうが、それでもこれだけのページ数を読む間、ずっと寝顔を見られていたのかと思うとたまらなく恥ずかしい。
耐え切れずに、また何故こんな事に……と答えの分かり切った自問を繰り返していると。
「お待たせしました」
不意にドアが開いて、慌てて太公望は顔を上げた。
楊ゼンが運んできたトレイの上には、季節限定の桃ジャムを添えたトーストとスープにサラダ、カフェオレと完璧な朝食が載っており、太公望は思わず感心して見つめる。
そして、それが一人分しかないことに気付いた。
「おぬしは?」
「僕はいつもと同じ時間に目が覚めてしまったので、申し訳ないとは思ったんですけど先にいただきました」
先程太公望が目覚めたのは昼前である。そろそろ正午にも近い。その時間差が何を意味するのか、ベッドの縁に腰を下ろし、にっこりと笑って言う楊ゼンにまたもや頬に血が昇りかけ、太公望は懸命に意識を朝食の方へ集中させた。
「じゃ、遠慮なく」
スプーンを手に取って具沢山のミルクスープを口に運ぶ。
美味い、と素直に感動して、けれど、そういえば冷蔵庫に野菜など入っていたか? と今更な疑問を抱いた。
「楊ゼン、おぬしはもしかして買い物にも行って来たのか?」
「ええまぁ。ちょっと時間があったので、そこまで……」
スプーンを口にくわえたまま、太公望はその光景を想像する。
朝っぱらからスーパーで野菜を吟味する、見慣れない美青年。遠目にも一際目立つ彼の容姿に、居合わせた婦人方はさぞかし心を騒がせ、好奇心を掻き立てられたことだろう。
ちょっと見たかったかも、とという出歯亀根性が、太公望の脳裏をかすめる。
が、楊ゼンは、年上の想い人のそんな思いには露ほどにも気づかぬ様子で、問いかけた。
「お口に合いますか?」
「うむ、美味いよ」
「良かった。あなたは薄味がお好みだからどうかと思ったんですが……」
「これで丁度いい」
味覚の好みまで把握されていることに改めて気恥ずかしさを感じながらも、太公望はうなずく。
「でもおぬし、料理が上手いのだな」
大好物の桃ジャムがたっぷりのせられたトーストに手を伸ばしながら尋ねるでもなく言うと、楊ゼンは微笑する。
「褒めてもらえるのは嬉しいですけど、昔からやってたわけじゃないですよ。こっちに帰ってきて一人暮らしを始めてからです。別に大学の食堂で済ませても良かったんですが、何となくやってみたら案外面白くて……」
「……面白いか?」
「ええ、僕にとっては。師叔は、料理はあまりされないんですね」
それはコーヒーと茶葉と酒以外、殆ど食物が入っていない冷蔵庫を見れば一目瞭然のはずだった。
「どうも性に合ってなくてのう。院を出るまではずっと寮暮らしだったから自分で作る必要はなかったし」
サラダのレタスにフォークを突き刺しながら、太公望が答えると、
「良ければ、僕がお教えしますけど?」
楊ゼンが一つの提案をする。
が、しばし考えて太公望は首を横に振った。
「いや、遠慮しとくよ」
「そうですか」
少し残念そうな顔をした楊ゼンのことは放って、太公望は砂糖とミルクたっぷりのカフェオレをすする。
もし自分が料理を教えてもらったところで、どうせやりはしないし、第一、こんなに美味い料理が何もしなくても出てくるという幸運が味わえなくなる。そう考えたら答えなど決まっていた。
「ところで師叔」
「ん?」
「僕はまだ、あなたの気持ちを聞かせてもらっていないんですけど」
「───っ!?」
カフェオレをすすっていた太公望は、思わずむせかえる。
咄嗟に楊ゼンは、ベッドの上のトレイをサイドテーブルにに避難させてから、咳き込む太公望に手を差しのべた。
「大丈夫ですか?」
背中をさすってもらってどうにか落ち着いたが、言葉はすぐに出てこない。
「何を…!?」
「だから、あなたの気持ちですってば」
ようやく出した言葉にあっさり返され、太公望は唖然として身体を支えていてくれる青年を見つめた。
「一応わかってるつもりですけどね、やっぱり聞かせて欲しいんですよ」
間近から瞳を覗き込まれて、みるみるうちに頬に朱が昇る。
「師叔」
いっそう甘い声で楊ゼンは、まなざしを逸らすことも出来ない太公望を呼んだ。
「僕のことを好きですか?」
単刀直入な問いかけに。
答えられるはずもがなくて、ほとんど思考が停止しかけた頭で太公望は懸命に逃げ道を──言葉を探す。
だが、
「駄目ですよ、師叔。ごまかして逃げようとしないで下さい」
昨夜と同じく穏やかな口調で退路を塞がれた。
「────」
恋人になるやならずやの相手に好きかどうかを尋ねられて、何のためらいも照れもなく答えられる人間が、世界中に一体何人いるというのだろう。
思わずそう詰りたくなった太公望だが、言葉にはならない。
「師叔」
けれど、名を呼ばれ、答えを催促されて。
鼓動だけがどうしようもなく速くなってゆく。
進退きわまって、太公望は呼吸を整えるように一つ息を吸い込んだ。
そして、ベッドに腰掛ける楊ゼンの右肩にぱふ、と額をぶつける。
「師叔…!?」
「……わしを好きだというのなら、口に出さずとも納得せんか」
驚いたような楊ゼンの声を聞きながら、目を閉じてようやくそれだけを口にする。
顔を伏せたセーターに彼の匂いを感じて、太公望は込み上げる切なさに唇を噛んだ。
「───」
呆れたのか、あっけに取られたのか、楊ゼンは咄嗟には何も答えなかった。
「……仕方のない人ですね」
やがて、苦笑というには甘やかな声で楊ゼンは言い、そっと太公望の肩に手を添える。
その意図は理解できたが、太公望は顔を上げない。気恥ずかしくて上げられたものではなかった。
「師叔」
しかしまた楊ゼンは名を呼んで、宥めるように癖のない髪を撫でる。
「師叔、顔を上げて」
耳元に甘くささやかれ、髪の間からのぞく太公望の耳がいっそう赤くなった。
そして、ようやくゆるゆると太公望は楊ゼンの腕から額を引き離す。
それから、ゆっくりゆっくり顔を上げるのを楊ゼンは無言で待った。
「────」
潤んだような深い色の大きな瞳を見つめて、楊ゼンは髪を撫でていた手をずらし、紅く染まった頬にそっと触れる。
その甘やかなやさしい微笑みに、太公望もまたまなざしを逸らせない。
「──好きですよ」
低いささやきと共に、どちらともなく目を閉じて。
ゆっくり二人は口接けた。
軽く舌が絡み合い、物足りないような、それでいてひどく満たされたような余韻を残して離れる。
そして、楊ゼンは太公望を胸に抱きしめた。
触れ合ったところから伝わるやさしい温もりに言葉もなく目を閉じ、太公望は自分たちの未来について考える。
───学界に身を置く自分と、いずれは経済界の重鎮となるだろう楊ゼン。
実際のビジネスと、それを評し、論じる机上の理屈は別物だ。だから、当然のことながら経済学者を好ましく思う実業家も、親しく付き合う起業家も決して多くはない。二つの世界に接点がないとは言わないが、全く異なる世界なのである。
そういうセオリーがあるにもかかわらず、近すぎる自分たちの関係は世間の目にどう映るだろう。
そうでなくとももっと近い将来……来年には、楊ゼンは大学院を卒業する。その後は金鰲グループの次期総帥として、本社のあるUSAに戻らなければならないはずだ。
───いずれ、否応なしに道が分かれる時が来る。
その時、楊ゼンは──自分はどうするのか。
それを考えたくなかったから、これまでは決して彼に応えなかったけれど。
今は、その手を取り、温もりを共有する甘さを知ってしまったから。
もう後戻りしようとしてもできない自分の心に、太公望は切なさとかすかな苦さを噛みしめる。
「あ……」
不意に、小さく楊ゼンが声を上げた。
何事かと目を開けた時、
「師叔、冷えると思ったら雪ですよ」
そう告げられて太公望は顔を上げる。窓を振り返れば確かに、寒そうなブルーグレーの空から白いものが舞い落ちてきていた。
「惜しいな、昨夜降っていたらホワイトクリスマスで完璧だったのに」
何が完璧だ、と言い返す気力もなくて、太公望は本格的に降り始めた雪を眺めたまま、ぽす、と再び楊ゼンの胸に身体を預ける。
かすかな風に舞いながら窓ガラスに吹き寄せられた雪が、またたく間に溶けて水滴となってゆく。
その光景を太公望はぼんやりと見つめた。
だが、また楊ゼンの声がそれを邪魔する。
「そういえばまだ言ってませんでしたね」
「……何を」
「メリークリスマス、ですよ」
「……クリスチャンでもないくせに」
「確かに僕は無神論者ですけどね。でもUSA暮らしが長かったから、キリスト教圏の行事が馴染んでいるんです」
それに、と続ける。
「無神論者の僕でも、神様に感謝したくなる日があるんですよ」
言わずとも意味が理解できて、太公望はまたほのかに頬に朱を昇らせた。
「……そういえば、昨夜おぬしにもらったマフラーは?」
照れ隠しのようにそう尋ねる太公望に、楊ゼンは微笑む。
「リビングテーブルに置いてありますよ。取ってきますか?」
「いや、いい」
何故そんな所にプレゼントが置きっぱなしになっているのか、理由を考えるだけで居たたまれなさに赤面しそうだったから、太公望は楊ゼンの胸に顔をうずめるようにして目を閉じた。
「────」
すると、やさしく微笑する気配と共に背に腕が回され、やわらかく抱きしめられる。
「師叔」
「……何だ」
「ずっと一緒にいましょうね」
その言葉に、思わず太公望は目を開けてまばたきする。
けれども、感じたのはいつもの哀しさや苦さではなくて。
胸に満ちてくるこれは。
───感じたこともない甘やかな切なさ。
その感覚に太公望は目を見開き、そして、ゆっくりと楊ゼンの胸に頬を寄せて目を閉じた。
セーター越しに伝わる楊ゼンの温もり。
それがどんなに心地好く、愛しいものなのか、言葉ではとても言い表せない。
───本当はずっと、その言葉が欲しかったのかもしれない。
決して得られないと信じていた、その言葉が。
「わしも……」
小さく呟くように太公望は告げる。
この先に、どんな未来があるとしても。
今この瞬間の、この想いは確かに真実だから。
「ずっと……おぬしと居たいよ」
いずれ、分かれ道が目の前に現れるのだとしても、その時までに何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
先の事は誰にも分からないのだ。
もしかしたら、自分たちがずっと共に居られる道もあるのかもしれない…、と太公望は今初めて思う。
「太公望師叔」
強く抱きしめられて、太公望もまた楊ゼンの背に手を回す。
こうして互いの温もりを感じていられるこの一瞬が、泣きたいほどに幸せだった。
end.
というわけで、お粗末さまでした。
この作品は、ちょうど1年前のものですが、当時も全然余裕がなくてロクに推敲もできなかったので、かなり編集作業は辛かったです(T_T)
直そうにも、どこをどうすれば良いのか分かりませんし・・・。そのうち、こっそりと改定するかもしれませんが、気付いても見てみぬ振りをしてやって下さい。
(実を言うと、結構どの作品もupした後に修正していることが多いです。恥をさらすだけなので、これまで言いませんでしたけど)
けれど、やっぱり古い作品を修正するより新作を書く方が楽しいですね。
しみじみ思い知ったので、これからしばらくは書き下ろしに集中しようと思います。
ではでは、同人誌の方でこの作品を御覧になっていた方、今回初めて御覧になった方、よろしければ御感想文句などお聞かせ下さいね〜(^^)/~~~
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