闇の雨 (4)
意識を失った少女の躰を、そっと抱き上げた。
数日後にようやく十六歳になる肉体は、つい先程まで男を受け入れ、快楽に染まった甘やかなすすり泣きを零していたとは思えないほど清楚で、人形のように華奢だった。
その躰を抱いたまま、浴室へと向かい、湯を張ったバスタブに自分ごと身を沈める。
全身を包む温かな湯の感触に反応したのだろう。楊ゼンの腕の中で、少女がかすかに溜息のような呻きを洩らした。
(な、に───?)
全身が温かさに包まれていた。
ひどく心地よく、ふわふわと漂っているような心地がする。
何かが優しく全身を撫でている。
やわらかく、けれど確かな感触で───。
「………」
ぼんやりと目を開けた時、最初に映ったのは白い天井と、オレンジがかかったやわらかな照明の光だった。
「気付きましたか」
不意に耳元で囁かれて、激しい驚きにびくりと全身が跳ねる。
「え、あ……!」
反射的に振り返ろうとして、自分の身体が誰かに抱きとめられていることに気付いた。
そればかりでない。
自分は何一つ、衣服を身につけていなかった。
当然と言えば当然かもしれない。
唐突に、呂望は自分がどこに居るのかを理解する。
ここは浴室、それも湯に満たされたバスタブの中だった。
「いやっ……!!」
場所を把握してしまえば、自分がどんな格好をしているのかを理解するのはたやすかった。
背後から青年に抱きかかえられ、青年の大腿に腰を下ろしている。
肌に感じる青年の肌と筋肉の堅さ、しなやかさに気が遠くなりそうで、パニックを起こしながらも逃れようともがく。
だが、無駄のない筋肉に覆われた腕の、見た目通りの力強さがそれを許さなかった。
「暴れないで……」
耳元で囁かれた言葉は、甘さよりも優しさの方が勝っている。が、それは今の呂望には知覚することができなかった。
代わりに感じたのは───。
「あ…っ!」
かり…と優しく右耳を青年の歯が甘噛みした途端、ぞくりと呂望の背筋を何かが走り抜けた。
反射的に躰を震わせて動きを止めた少女を変わらず抱きしめたまま、薄紅に染まった薄い耳朶から細いうなじへと楊ゼンは宥めるように唇を這わせ、むず痒さを覚えさせるようなやわらかさで白い肌に歯を当てる。
その感覚にたまらず呂望は、呻くような喘ぎに喉を震わせた。
「あ、や…何……っ…!?」
つい先刻、男に抱かれる感触は知った。
だが、きわどい箇所ではなく自分の手でも極普通に触れることのある身体の一部分を、他人に軽く触れられるだけで何かを感じる、そんな己の反応が理解できずに呂望は戸惑いのままに問いを投げかける。
「スイッチが入っただけですよ」
答えたのは、決して揶揄ではない穏やかな青年の声だった。
「これまでくすぐったいだけだったものを快感と捕らえる、感覚のスイッチが子供から大人へと切り替わっただけです。怖くて恥ずかしいのは当然でしょうけど、自然なことですから、無理に拒絶しないで受け入れた方がいい」
言いながらも、青年の唇は薄い肌に浮き出た脊椎の数を数えるように少女の背をついばみ、喉元をゆっくりと滑り降りた手のひらはいつの間にか、まだ成長途中の胸を優しく包み込んでいる。
「昨日まで貴女は何も知らなかった。でも、今日の貴女は全てではないにせよ、多くの事を知った。それだけのことですよ」
淡々と紡がれる言葉は、半分も呂望の耳には入っていなかった。
それでも朧気に、自分の躰が青年の手指や唇に──その動きに反応を返しており、それは何も知らない子供には有り得ない事だということは女としての本能の部分で理解する。
無論、理解したところで、自分の躰が見せている反応や、とめどなく溢れる甘くすすり泣くような声、そして青年に触れられている事そのものに対する羞恥は薄れるものではない。
けれど、それはどうすることもできるものではなく、青年の手指や唇が与えるものはたとえようもなく甘く、鮮烈に、未だ無垢に等しい少女の感覚を灼き付くしてゆく。
「…っあ……、やっ、そこ…ダメ……ぇっ!」
なめらかな腹部を滑り降りた青年の手が、するりとほっそりとした大腿の間へと滑り込む。
そして、その指先がどこか一点に触れた途端、既に覚えのある電撃のような感覚が躰の芯を突き抜けた。
たまらずに大きく背をのけぞらせた結果、かえって青年の手に躰を押し付けるような形になる。
互いの躰の位置関係は違えど、一方の手で秘められた花芯を時折摘むような愛撫を交えながら、優しく撫で回されると同時に、連動するような動きでもう一方の手で胸元に愛撫を加えられる、その感覚は先程、寝室のベッドの上で甘いすすり泣きを零しながら許しを請うほどに味合わされたものと全く同じで、それでいて更に感じるものが深い。
躰の中で最も過敏な二箇所を、この上なく優しく責め立てられて、抵抗することすら忘れたまま、呂望は青年に導かれるまま華奢な肢体を快楽に震わせて喘いだ。
「やあ…っ、も…ぅ、もう……おかしく…なる…っ…!」
「おかしくなればいい」
執拗なまでにそこを指先にいじられて、最奥で膨れ上がる純粋な熱に怯えたように、呂望が悲鳴というには少しばかり甘すぎる嬌声をあげる。
痙攣するように震えた爪先が、湯を蹴り上げる。その水音が、熱気のこもったバスルームに不規則に響くが、楊ゼンは少女を手放しはしなかった。
「大丈夫。僕がここに居る……」
耳元で囁き、薔薇の蕾を思わせるような薄紅に染まった耳朶を甘く噛む。
その刺激が引き金となったのだろう。
少女の躰が発作的に大きくのけぞり、硬直したままびくびくと震える。
導かれ、達した快楽の頂点が深過ぎたのだろう。開かれた桜色の唇から零れた声はかすれて音にならず、華奢な躰ががくりと楊ゼンの腕の中に崩れ落ちた後、今にも絶息してしまいそうな上ずった喘ぎが、か細く楊ゼンの鼓膜を打った。
「ぁ…あ……」
かたく目を閉じ、生れ落ちたばかりの仔兎のように小さく震えている。そんな少女の躰を楊ゼンは自分の胸へと引き寄せる。
そして、閉じた目尻から零れ落ちてゆく涙を、そっと唇で拭った。
その優しい感触に、わずかながらも意識が引き戻されたのだろう。ゆっくりと震える瞼を呂望は開いた。
すがるでも、詰るでもなく。
泣き濡れた深い色の瞳が、この場においてすら尚、その無垢な心を映したような澄んだ色合いで青年を見上げる。
「────」
二人が見つめ合っていた時間は、随分と長いように思われた。が、時間にすれば、ほんの数秒だっただろう。
もう一度呂望の目元に唇を落として、それから楊ゼンは、まだ慄(おのの)いているやわらかな唇に口接ける。
激しさのない、ただ温もりを分け与えるようなキスを、呂望も目を閉じて受け入れた。
「──眠っていいですよ。今はまだ、何も考えなくていい……」
唇の上で囁かれた言葉は、まるで魔法の呪文のようで。
言われたままに呂望は、一旦うっすらと開いた瞳を再び閉ざし、青年の腕に全てをゆだねる。
そうして疲れ果てた少女が眠りに落ちた後もしばらくの間、青年はその華奢な躰をゆるやかに胸に抱き込んでいた。
まるで、本当に愛されているようだと思った。
青年の言葉のままにバスタブの中で抱きしめられたまま眠ってしまったが、その後、自分をベッドに運んでくれ、そっと髪を梳いてくれた手の感触は朧気に残っていた。
否、もしかしたら本当に自分は眠ってしまっていて、それはただの夢だったのかもしれない。
夢……願望という名の。
多分、彼に出会わなければ──触れられなければ気付かなかっただろう。
本当は、たとえ夢の中だけでもいいから、誰かに優しくして欲しかった、だなんて。
ずっと、寂しくて、怖くてたまらなかった、だなんて。
たとえどんな偽りに満ちていても、本当はすがって泣きたいくらいに、彼が見せてくれた優しさが嬉しかったなんて───…。
呂望が目覚めた時、狭い寝室内には他に誰も居なかった。
いつ眠ったのか覚えていないために、時計の針を見ても、どれほど眠っていたのかは分からない。
だが、その時間が長かったにせよ短かったにせよ、呂望の記憶を奪ってゆくことはなかった。
「────」
自分は抱かれたのだ。
あの青年に。
ひどくはしない、と言った青年の言葉は嘘ではなかった。
痛みがなかったわけではない。
だが十分過ぎるほどに時間をかけて溶かされてからの挿入は、呂望が想像していたよりも随分と少ない苦痛しか与えず、それはすぐに別の感覚にまぎれて分からなくなってしまった。
触れられている間中、緊張を強いられていたために全身の筋肉や関節がこわばっている感じがするが、それも身動きができないほどのものではなく、少々辛かったものの呂望はベッドの上に体を起こすことができた。
ぴたりと閉ざされたドアを見つめ、その向こうに彼はいるのだろうか、と考える。
彼の言葉を全て信じるのであれば、彼はもう目的を達した。
どういう形でするのかは知らないが、懸賞金を提示した相手に首尾を連絡すれば、多額の金を手にすることができるのだ。
となれば、獲物である少女のことなど、もうどうでもいい存在となっているだろう。
そう思う一方で、彼は居る、という思いも強く呂望の中にはあった。
行きずりの少女をもてあそび、打ち捨てるような人間ではない、と心の中の何かが囁くのだ。
あるいは信じたがっているだけかもしれない。
彼は、初めて男に抱かれたばかりの──自分が抱いた少女を、何も言うことなくどことも知れない場所に置き去りにしたりはしない、と。
「───…」
答えの得られない自問自答を打ち切るように唇をきゅっとひきしめて、呂望はそろりと身動きする。
やわらかな肌触りの毛布から抜け出ると、少しばかり肌寒い感じがした。
何かないかと見回すと、ベッドの傍らに置かれた椅子の背に綺麗な空色のカーディガンがかけてあるのが目に入った。
足元を確かめるようにしながら、ゆっくりと体重を移動させると、体の中心に感じる違和感はどうしようもなく、多少よろめきはしたものの何とか立ち上がることはできた。
助けを借りずとも動けることにほっとしながら一歩足を踏み出して、袖や裾に施されたレースのような編み模様が美しいカーディガンを手に取る。そして、自分が意識を失っている間に青年が着せてくれたらしいパジャマの上にそれを羽織った。
(……きっと居る)
たかがカーディガン1枚のことである。
決して安物ではないが、こんなものに確かなものを求めるのはおかしい。
けれど、肌寒さを和(やわ)らげてくれたこのやわらかなカシミアの温もりが、青年の誠実さの表れであるような気が呂望にはした。
その温かさを確かめるようにカーディガンの前を片手で掻き合せながら、ゆっくりとドアに歩み寄り、ノブに手をかける。
かちゃりと静かな音を立てて、ドアはたやすく開いた。
「──起き上がっても大丈夫ですか?」
ドアを開けた瞬間に、こちらに顔を向けていた青年と目が合った。
一瞬、何と言葉をかけようか逡巡したらしい青年の声は、眠る前と同じく穏やかで思いやりに満ちているように聞こえた。
知らずこわばっていた肩の力が少しばかり抜け、不思議に安堵する自分を感じながら、呂望はうなずく。
そして、おぼつかない足取りにならないよう気をつけながら、ゆっくりと彼のいるソファーへと近づいた。
目で、座っても良いかと問いかけると、どうぞ、と隣りを示される。
大人一人分よりは少しだけ狭い間隔を空けて、呂望はソファーに腰を下ろした。
「……今日は何日?」
「12日の夕方ですよ」
「そう」
日付を聞くことに何かが意味があったわけではない。
誕生日まで、あと四日足らず。
だが、そのカウントダウンも今更、呂望には何ももたらしはしなかった。
今、自分は何をしたかったのだろう、と呂望は思う。
ひどく重く感じられる身体を無理に動かして、寝室から出てきて。
こうして昨晩、自分を抱いた青年の隣りで、何か気の利いた会話を思いつくでもなく座っている。
これならおそらく、寝室で一人きり小さくうずくまっている方が、多少なりとも居心地はマシだろう。
けれど、ここから立ち上がり、再びソファーからベッドまでの距離を移動するほどの気力は湧いてこなかった。
「呂望」
沈黙に一人沈んでいると、不意に名を呼ばれた。
顔を上げると、青年はこちらを見てはいなかった。
そのまなざしは、ローテーブルの上のノートパソコンに向けられている。が、画面を見ているわけでもないようだった。
「あなたが信じるかどうかは別として、僕はこれまで一度もあなたに嘘はついていない。それが僕にできる、せめてもの最善だと思ったからです。だから、これから話すことについても、あなたはどれだけ怒って詰ってもいい。そうする権利があなたにはあります」
何を言わんとしているのかは、咄嗟に理解できなかった。
ただ呂望は言いようのない不安が不意に込み上げるのを感じる。
聞きたくない、と反射的に強く思った。
たとえ、それが彼の誠実さの現れであったとしても。
不安に満ちた面持ちで全身をこわばらせた呂望を見やり、楊ゼンは静かな仕草で呂望の前のローテーブルに何かを置いた。
それに視線を向けた瞬間、呂望は大きく目を瞠る。
「───!?」
それは数枚の写真だった。
昨晩の呂望の。
「あなたは気付かなかったでしょうが、寝室には数箇所、カメラが仕掛けてありました」
衝撃のあまり、声も出せずに身体を震わせる少女を見つめて、青年はゆっくりと説明を始める。
「あなたは賞金稼ぎの獲物です。四日後、期限が過ぎた後に発見されれば、警察があなたの身が無事ではなかったことを証明してくれるでしょう。依頼者の側からすれば、それで依頼が完遂されたことを知ることができる。けれど、賞金稼ぎの側にしてみれば、そうはいかないんです。名乗りを上げなければ、賞金は得られない」
数枚の写真は、おそらくトリミング加工後のものだろうと思われた。もしかしたら、ただの写真ではなく、一部始終を録画した動画からカットしたものなのかもしれない。
きわどい箇所はかろうじて映っておらず、また男の顔や身体も殆ど見て取れない。
ただ苦悶するように泣きながら喘ぐ少女の痴態ばかりが、声が聞こえそうなほど扇情的に複数の角度から映されていた。
「最初に言いましたが、僕は賞金目当てでこういうことをしているわけではありません。だから、今回の報酬も別に受け取りたいとは思わない。でも、依頼を完遂した賞金稼ぎが名乗りを上げないということは、有り得ないんです」
青年の言葉を理解したくなかった。
だが、静かな言葉は容赦なく少女を打ちのめす。
「もう分かりますね? この写真は、依頼者に報告するためのツールです」
がくがくと呂望の全身が震える。
声も、涙すら出なかった。
写真を取られていたことも衝撃であったし、それが依頼者の手に渡るというのも耐えられなかった。
依頼者が、呂望が想像している通りの人物であったら、これらの写真を受け取ってどんな反応を示すのか。
そして、これらを今後、どんな風に利用しようとするのか。
想像しようとすることすら、思考が拒絶する。
「い…や……!」
震える唇から、かすれた悲鳴が零れ出た。
ゆらゆらと力なく頭(かぶり)が振られる。
「嫌……。こんな……、こんなのは……」
恐怖して哀願する瞳が、青年を見上げる。
だが、楊ゼンはわずかに痛ましげな色を覗かせながらも、表情を変えなかった。
「お願い……何でもするから……。何でもするから、これを送るのだけは止めて。お願い。あの人がこれを手に入れたら……」
語尾が引きつり、震える。
それ以上、言葉を紡ぎ出せなくなった少女を見つめ、けれど、小さく青年は首を横に振った。
「あなたは無力な獲物で、僕は狩る側の者です。そうやって出会ってしまった以上、その構図は変わらない」
そのあまりにも残酷な言葉に。
呆然と見開かれた呂望の瞳から、涙が零れ落ちる。
相手の非情を責めることも忘れて蒼褪め、小さく身体を震わせるその姿は、元が美しい少女であるだけに、まるで白い大理石を刻んだ彫像のように見えた。
ゆっくりと青年の手が伸ばされ、憐れむように少女の艶やかな髪を梳く。
「あなたを連れて逃げてあげられたら良かったのに……」
本気で悔やむ響きが混じる声は、先程と変わらずこの上ないほどに残酷だった。
もう二度と立ち上がれないと思うほどに打ちのめされる自分を感じながら、呂望は虚ろな声をぽつりと洩らす。
「……あなたは、私を助けてはくれない……」
「ええ。あなたがどんなに怯えて苦しんでいても。僕には僕の生活があり、ルールがある」
「……そう……」
呟き、呂望は瞳を伏せる。
その動きにつれて、水晶のような雫が頬を幾つも伝い落ちて。
青年の指が、そっとそれを拭った。
青年の体温は凍え切ってしまったような心と身体には、ただ温かくて。
それがどれ程残酷なことであっても、抱き寄せられた青年の胸に、呂望はつかの間の温もりを求めて顔を埋める。
───もう、どうしようもないのだ。
自分は無力な、貪り食われ、なぶり殺しにされるのを待つだけの獲物であって。
既に、敵に捕らわれてしまった。
あのおぞましい掲示板に、依頼が書き込まれたその時に。
あるいは、それよりももっと以前、自分を庇護してくれる存在を立て続けに喪った時に。
か弱い仔兎が無防備になるのを、飢えを宥めつつ牙を研ぎながら待っていた狡猾な獣がいたのであれば、どうしてその顎(あぎと)から逃れられるだろう。
これまで食い殺されなかったのは、獣の方の準備が整っていなかったから。
それ以外の理由などないのだ。
与えられた情報のどこまでが真実で、どこからが嘘なのか、判別する術は今の自分にはない。
けれど、楊ゼンの言葉は誠実だと感じられた。
敵の望みを遂行する手足であるとはしても、全てを明かしてくれたのだと思える人に捕らわれたのは、おそらく幸運だったのだろう。
少なくとも、何一つ教えられず残虐に心身をいたぶられるよりは、遥かにましなはずだった。
……そう思わなければ、もう一秒たりとも耐えられなかった。
「あと……四日……?」
「ええ。今夜を含めて」
その間、おそらく状況は何も変わらないのだろう。
当初に教えられた通り、自分はここに監禁され続け、傍らに青年も在り続ける。
ならば、と思った。
「だったら、もう何も考えたくない。もう何も考えさせないで……」
自分の身に何が起きたのか。
この先、どうなるのか。
過ぎ去ってしまった平穏な日々すら、思い返すことが今は苦痛でしかない。
───逃げられない。
───誰も助けてくれない。
顔を上げて、青年を見上げた瞳から新たな涙が零れ落ちる。
断崖に追い詰められ行き場のなくなった小動物を思わせるその瞳の色は、あとほんの少し、何かが背を押せば正気を繋ぐ細糸が切れてしまいそうな危うさをたたえて強く煌いていて。
「もういっそ、狂ってしまいたい……!」
魂を振り絞るように呻いた言葉は、重ねられた唇の中に飲み込まれた。
これまでの優しいキスとは一転した、激しく貪るような口接けに積極的に応え、舌を絡ませてゆきながら、このままおかしくなってしまえたらどんなに楽だろうと呂望は思う。
何もかもを忘れて、狂ってしまえたら。
いっそのこと、この依頼が自分の命を奪うものであったら、どれほど楽だっただろうか。
そう思わせることが、依頼主の主眼であることが分かるから、尚更に絶望は募る。
楊ゼンはそれ以上、何も言わなかった。
ただ呂望の求めに応じて、やわらかな肌を暴き、昨夜の名残もあらわなそこへと執拗に手指と唇を這わせてゆく。
そして彼が触れた箇所から湧き上がる迸るような熱の疼きに、呂望は自分を駆り立てるようにして没頭してゆく。
もう歯止めになるものは、何一つなかった。
そして。
世界から取り残されたような絶望に染まる部屋の中に、我を忘れた嬌声だけが甘く高く、透き通っていつまでも響いていた。
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