闇の雨 (1)














「────」
セーラー服のスカーフを結び直し、もう一度、姿見の前で乱れがないかチェックする。
今時珍しい、膝下10cmの濃紺のスカートは、きちんと隅々までプリーツが整い、見るからに良家の子女の通う学校らしい雰囲気を漂わせていた。
どこか憂鬱な表情で、呂望はそんな自分の姿を確かめ、ソファーの上においてあった学生鞄を手に取る。
そして、ゆっくりと部屋を出た。










「では、叔母様、行って参ります」
「ええ、気をつけてね」

丁寧に挨拶をした呂望に対し、甘い響きの声が応じる。
叔母様、と少女が呼ぶのが失礼に思えるほど、その女性は若く、そして美しかった。
絶世の美女といっても良いだろう。
小作りの顔の中で、切れ長の大きな瞳は宝石のようにきらめき、紅く塗られた唇は薄めなのに、朝露に濡れた紅薔薇の蕾のように蠱惑的だ。
絹糸のように流れ落ちる長くしなやかな髪、細身でありながら男の興味を引かずにはいない豊かな肢体をオートクチュールのスーツに包んでいる。
実に怪しいまでに美しい女だった。

あでやかな微笑を浮かべる叔母に対し、呂望はにこりともしないまま、軽く黙礼して、居間を立ち去る。
長い廊下を歩き、重厚な装飾に覆われた玄関を出て。
ようやく、ほうっと大きく呼吸をする。

空は少し曇っていた。
雨が降りそうな感じはしないが、太陽の光は遮る高曇りの空をしばらく見上げてから、呂望は歩き出す。
広い庭園を抜け、正面玄関へと、磨かれた石畳を黒いエナメルの革靴が一定の歩調で進んでゆく。

呂望が通っているのは幼稚舎からエスカレーター式の名門私立女子高で、屋敷の所在地からは駅2つ分離れたところにある。
名門ではあるが、あまりにも世間知らず過ぎる少女を育てるのも問題だという論議が十年ほど前に起こり、現在では、車での送迎は禁止されているため、呂望は毎日、少し離れた駅まで歩き、そこから電車に乗って通学していた。

屋敷の広大な敷地を囲む高い塀に添ってしばらく歩き、一番端の角を曲がる。
そして、やや細い道に足を踏み入れた瞬間。

背後から羽交い締めにされた。

「───!?」

口元を布で押さえ付けられ、声は出せなかったが、呂望は反射的に抗う。
誘拐だと思う側から、くらりと思考が霞む。
混乱のあまり気が付かなかった鼻をつく臭いに、クロロホルムだと気付いたがもう遅く、あっというまに呂望の意識は闇に飲み込まれた。











           *           *











「───っ…」
頭が痛い、と思った。
ひどい風邪でも引いたかのように、頭がガンガンと痛む。
少しでも楽にならないかと小さく寝返りを打つと、痛みと同時に目眩さえもが襲った。

「う……」
あまりの辛さに低く呻きながら、呂望はゆっくりと目を開ける。
まず見えたのは、白っぽい天井だった。
呂望の家である屋敷は古い洋館で、こんな真新しい白い天井は存在しない。
どこだろう、と考えながら、そろそろと身体を起こす。
思い付いて、自分を見下ろしてみれば、セーラー服はスカーフもきちんと結んだままで、何も乱れはなかった。
眠っていたのも、特徴らしい特徴のない白木製のシングルベッドで、身体には優しいクリーム色の毛布がかけられている。

通学途中に拉致されたのだということは、最初に、どうして頭が痛いのだろうと考えた瞬間に思い出していた。
だが、心当たりは、といえば、あり過ぎるほどにある。
呂望の家が持つ財産や力は、誰にとっても魅力的に違いないのだ。
動機や目的から犯人の正体を割り出すのは、不可能に思えた。

「犯人探しは警察に任せるとしても……ここはどこなのかしら」

誘拐犯が用意した場所である。
まさかそう簡単に逃げ出せるとは思わないが、せめて周囲の地形くらい把握できれば、逃走の算段くらいはできるだろうと呂望は考える。
だが、少なくとも寝室らしいこの部屋には、窓は一つもなかった。

「一体どういう造りなの……?」

基本的に、古今東西どんな建物であれ、窓のない建築などという物は基本的にない。

「あるとしたら……地下牢獄とか……」

呟いて、はっと気付く。
地下に造られた部屋なら、窓はなくてもおかしくはない。
つまりそれは、外界と一定レベルで遮断されるということであり、犯罪にはうってつけなのに違いなかった。
だが、逆にいえば、もしこの場所が発覚して追い詰められたら、逃げ場はない。

「つまり、犯人はそれなりに知恵が回って、しかも自信のある奴なんだわ。それとも、見つかった時のことを考えてないのか……」

それは自分に取って有利か不利か、と呂望は考える。
頭の良い犯人ならば、条件さえ飲めば無事に解放してくれる気になるだろうか。
それとも、知恵のめぐりの悪い犯人の方が、かえって言いくるめることができるだろうか。
どんな取り引きの余地があるだろうかと、懸命に思考を巡らせる。

呂望は、犯人の特徴も記憶できないほど幼い子供ではない。
それどころか、あと十日ほどで十六歳になろうという少女だ。
幼い子供とは別の意味の危険もあることに、ちゃんと気付いている。

「犯人は、どこにいるのかしら……」

いずれにせよ、犯人と接触できなければ、その分、打開策の選択幅も狭まる。
この部屋には、ドアが一つあるきりだ。
その向こうに犯人がいるのだろうかと、呂望は考える。

一番巧い誘拐の方法は、誘拐の対象を殺すことなく、金品の獲得等の目的は遂げるやり方である。
つまり、こうして呂望を閉じ込めた状態で食料と水を与え、犯人は顔を見せないまま、家と交渉を進めて金を手にし、その後に、この部屋の場所を教えて自分は逃走する、という方法だ。
警察の包囲の中で、いかに金を受け取って逃走するかということはさておき、その方法を取られたら、呂望にはどうしようもない。
ただ、外部からの助けを待つしかないのだ。

緊張を覚えながら、呂望は一枚きりのドアを見つめる。

クロロホルムの影響による頭痛は、考え事をしている間におさまりつつあった。
ゆっくりとベッドを抜け出し、ベッドの足下に揃えておいてあったスリッパを履いて、ドアの前に立つ。

震える手を延ばして。
ゆっくりとドアノブを回すと、何の抵抗もない。
鍵はかかっていないのだ。

全身を緊張に包まれながら、向こうに向かって押すと、たやすく軽いドアは開いた。










「ああ、目が覚めましたか」

耳を打ったのは、低い、魅惑的と言ってもいい甘やかな響きの男の声だった。

明るいこじんまりとした室内に居たのは、ただ一人。
二十代半ばと見える青年だけだった。
ソファーに腰を降ろし、ローテーブルにノートパソコンを置いた状態で、姿を現わした呂望に微笑みかける。

───会ったことのない相手だ、と呂望は思った。
記憶力には自信があるが、それ以上に、こんな相手を見かけたりしたら絶対に忘れはしない。
素顔を隠そうともしない青年は、一目見たら忘れられないほどに整った顔だちをしていた。

「──あなたが、私をここに連れてきたの?」
「ええ、そうですよ。手荒な真似をして申し訳ありませんでしたが、あの方法が一番手っ取り早かったので。非礼は謝罪します」

青年は悪びれる様子もなく答える。
その様子に、呂望はむしろ警戒を強めた。
犯罪者であることを認め、尚且つ何の緊張も見せない。尋常な相手だとは到底、思えなかった。

「何が、目的?」

ドアノブに手をかけた姿勢のまま、相手の真意を見定めようとソファーにくつろいでいる青年を見つめる。
と、青年はふっと微笑した。

「金、と言えば、気が楽でしょうね、あなたにとっては。一番簡単ですから」
「………金銭ではないのね?」
「ええ」
「では、何かの権利?」
「いいえ」
「では、何?」

青ざめた表情のまま、全身を緊張に張り詰めて問いかける少女に、青年は微笑に苦笑を滲ませて、ローテーブルの上のノートパソコンにまなざしを向ける。

「そうですね……。あなた自身で御覧になるといい。信じられるかどうかは、知りませんが」

こちらへどうぞ、と片手を差し伸べて青年が誘う。

「別に、今すぐ取って食ったりはしませんから大丈夫ですよ」

揶揄するような声と言葉に、きゅっと呂望は唇を噛み締める。
そして、ゆっくりとドアノブから手を離し、一歩一歩用心しながらソファーに歩み寄った。
どうぞ、と青年の向かい側の席を勧められて、警戒を解かないまま浅く腰を降ろす。

「先にお断りしておきますが、これから御覧になるページは僕が創ったものではありません。あくまでも公共のものですよ。 裏の情報なのは確かですけどね」

そう言い、青年はノートパソコンの向きを変えて、呂望の前に押しやる。
微苦笑をにじませた青年の顔を見つめ、それから一つ、小さく呼吸して呂望はノートパソコンの液晶画面に視線を落とした。

(掲示板……?)

一見、書き込みフリーの公開掲示板のように見える画面だった。
黒いバックに、細い枠で囲まれた書き込みが上から下へと並んでいる。

だが。
画面中の一番上に表示された書き込みの内容を読んで、呂望は思わず目をみはる。

「何なの、これは……!!」

悲鳴のような声で口走ったきり、画面を見つめたまま硬直する。
ノートパソコンの傍らに置いた手が、かすかに震え出す。
しばらく黙ってその様子を見つめてた青年が、静かに口を開いた。

「その書き込みの日付けを見て下さい」

言われるままに、人形のように呂望は視線をぎこちなく動かす。
それは、今日の日付け──零時ちょうどとなっていた。

「つまり、あなたが家を出た瞬間を狙った僕が一番乗りだった、ということですよ。たとえ僕が手を出さなくても、まず間違いなく今日中に、あなたは拉致されて、どこかに連れ込まれていたでしょう」

「何なの!?」

淡々とした青年の言葉に、呂望は顔を上げる。
血の気を失った繊細な容貌の中で、大きな瞳が鋭いほどのきらめきを帯びて、青年を見つめた。

「これは……一体、何なの? この書き込みは、どういう意味なの!?」
「この掲示板は、裏社会の、それも賞金稼ぎ専門の掲示板ですよ」

しごくあっさりと、微笑みさえ浮かべて青年は答えた。

「賞金稼ぎへの仕事の依頼は、すべてここに書き込まれる。依頼をするのに資格はいらない。ただ一切に対して沈黙を守り、賞金を滞りなく支払える者なら誰でも書き込みできる。
依頼は三行文。
一行目、ターゲット。二行目、依頼の内容と期日、三行目、賞金額。
そして賞金稼ぎ達は、自由にそれを見て自分の獲物を決める」

低い声が、歌うように言葉を紡ぐ。

「今日の零時、一番最初の書き込み。
一行目、崑崙財閥令嬢・呂望(十五歳/女/都内在住)、顔写真付き
二行目、本日より十日以内、すなわち彼女の誕生日までに彼女の処女を最も酷い方法で奪うこと。ただし、その際に重傷を負わせてはならない。
三行目、1千万円」

「やめて…っ!」

呂望は悲鳴を上げる。

「でたらめでしょう、そんなのは!? 賞金稼ぎだなんて……!」
「そう思いたい気持ちは分かりますが……。では、これらの書き込みはどう判断しますか?」

青年は、一旦ノートパソコンを自分の方に引き寄せ、短い操作をして再び呂望に見える角度に置く。
青ざめたまま、呂望はその画面を見つめた。

「今の時刻は、16時24分。画面をスクロールして下さって結構ですよ」

───幾つもの書き込みに記されているのは。
見るのも汚らわしい言葉の数々と、ターゲットを見失ったことに対する怒号。
それらは、三十秒ごとの自動更新のたびにリアルタイムで増えてゆく。

「やめて…!」

耐えきれずに、自分自身を抱え込むようにして、呂望はソファーにうずくまる。

「そのために私を誘拐したの……!?」
「そういうことになりますね」

あっさりと青年は頷いた。
さすがに微笑は消えていたが、それでも淡々とした口調は崩れない。

「別に金に困っているわけではありませんから、普段、僕はこういう類いの依頼には手を出さないんですが、何となく興味を引かれましてね。
通常、こういう誰かを傷つけて欲しいという依頼は、怨恨から生まれるものです。ですが、これはどうも異様ですから」
「異様……?」
「ええ。15歳の少女に対し、怪我を負わせず、精神的には立ち直れないほどに傷つけろ。それだけの依頼に1千万円。どう考えても、普通の怨恨からくる依頼ではありません」

青年の説明に、呂望は言葉を失う。

「だから、興味を引かれた僕は、先手を打ってあなたを拉致した。いくら財閥令嬢といえど、たかが16歳足らずで、それほどの怨恨を向けられるあなたがどういう人間なのか、見てみたかったんです」
「そ…んなの、私は見せ物じゃないわ!」
「ええ、見せ物ではない。今のあなたは、それ以下の獣達の獲物ですよ」
「!!」

容赦のない言葉に、呂望の白い頬に血の気が昇った。

「冗談ではないわ! やれるものならやってみればいい! その前に舌を噛み切るくらいのことはできるわ!!」

思わず立ち上がった呂望に、しかし青年は苦笑する。

「舌を噛んでも、そう簡単に死ねるものではありませんよ。第一、猿ぐつわを噛まされたらどうするんです?」
「───!」
「とにかく座って下さい。少なくとも依頼の期限までは十日あるし、僕も今すぐ何かをしようという気はありません。それよりも、あなたの話を聞かせてほしいんですよ」
「…………」

たとえこの場から逃げ出そうとしたところで、おそらく逃げ道はない。
この居間の向こう側の壁にあるドアに鍵はかけられていないとしても、建物そのものの鍵は絶対に閉まっているだろう。
言いなりになるしかない悔しさに唇を噛みながらも、呂望はもう一度、ソファーに腰を降ろす。
それを待って、青年は改めて言葉を切り出した。

「どうもあなたは、かなり頭が切れるらしい。だから、最初に僕の手札をさらしておきましょう。
僕が知りたいのは、今言った通りに、この依頼の背後にある怨恨の正体です。あまりにも普通ではないし、こんな、普通ならせいぜい賞金20万円程度の依頼に、1千万円も出そうという相手のことも多少は知っておきたい。本来、依頼人に付いて詮索することはタブーなんですが、どうも危険な感じがするので」
「危険……」
「ええ。そもそも自他の手を汚してまで、誰かを傷つけようという望みを抱くのは、普通の精神状態の人間ではありません。そして、今回の事は少々度が過ぎている。もっとも、この裏掲示板ではさほど珍しいものでもありませんけどね。依頼を果たすにしても、用心に超した事はないんですよ」
「……自分の事ばかりなのね」

皮肉に満ちた呂望の言葉に、青年は微笑した。

「じゃあ、今度はあなたの事にしましょう。出会ったばかりの女性相手にデリカシーがないのは承知の上でお聞きしますが、これまでにこんな身の危険を感じた事は?」
「──あったとしても、あなたには関係のないことだわ」
「つまり、あった、ということですね。では、どうしてボディーガードの一人も付いていないんです? 仮にも崑崙財閥の令嬢が、あんな一人歩きをしていては誘拐してくれと言っているようなものですよ?」
「────」

呂望は沈黙する。
だが、青年も粘り強く解答を待った。
とうとう根負けして、しぶしぶ呂望は口を開く。

「……子供の頃に一度、営利目的の誘拐未遂があったから、ずっとボディーガードはいたわ。でも、この半年くらいの間に色々あって、ずっと勤めてくれていた人が辞めた後は、そのまま……」
「半年、というと御両親が事故で他界された頃、ですか」
「────」

きゅ、と呂望は唇を噛み締める。

「辞めたのか、辞めさせられたのか。微妙なところですね。プロがついていたら、僕では手が出せなかったでしょうし」
「……あなたの言い方だと、犯人は私の身近にいるみたいだわ」
「そういうわけじゃありませんけどね」

青年は軽く肩をすくめてみせた。

「依頼の内容ももちろんですが、一千万円、というのが気になるんですよ。この不景気に、裏稼業の人間に一千万円もの無駄金を払えるほどの人間は、そうはいません。どんな闇金融だって、まともな相応の担保無しに一千万円は貸してはくれません。
また、怨恨の場合、傷つけたいのは、傷つけられる本人か、もしくは、その親しい人間です。だが、あなたには家族らしい家族もなければ、恋人もいないらしい。
となると依頼人は、15歳の少女であるあなた本人を傷つけるためだけに一千万円を払うことのできる人間、という事になってしまうんですよ。たとえば、あなたに恋人を奪われた逆恨みとか、金持ちに対する妬みとかいうレベルの怨恨ではありえないんです」

響きのいい低い声は、淡々と言葉を紡いでゆく。

「ですが、崑崙グループの会長一家がプライベートを表沙汰にしたことは、これまでありませんから、僕のネットワークでも、あなたの家庭事情、あるいは親戚事情は詳しい事が分からない。だから、参考にと思ってお聞きしているんですよ。
それとも、赤の他人に1千万円も払わせるような恨みを買った覚えがありますか?」
「そんなもの……!」

反論しかけて、しかし呂望は口をつぐむ。
青年の論法は、こちらを信じさせようというただの詭弁かもしれない。
だが、追求すべき穴や矛盾はなかった。

自分を傷つけるために、一千万円を払える人間。

そんな相手がいるのだろうか、と考えて、背筋を走った悪寒に自分自身を抱き締める。

「──全部、あなたの自作自演ということもあり得るわ」
「……無茶ですが、できないことはないでしょうね。架空のホームページを創って、誰か友人に協力を頼んで、次々にハンドルネームを変えながら書き込みをしてもらえば、こんな画面はいくらでも見せる事ができる。
ですが、そんなことをして、僕に何の意味があるんです?」
「あ……」
「自作自演では、一千万円はどこからも降ってこない。あなたに偏執的な興味を持っていただけなら、こんな大仕掛けな事をする必要もない。まぁ、本当のストーカーなら、これくらいのことをして、あなたを飼い馴らそうとしてもおかしくありませんが。少なくとも、僕にそんな趣味はありませんよ」

いっそ冷酷なほど、あっさりと言い切る青年に、呂望はうつむく。
間違いなく、目の前の相手は恐いくらいに冷静で怜悧な頭脳の持ち主のようだった。
付け入る隙を見つけるどころか、子供の頃から利発と褒めそやされ、弁説にはそれなりの自信のあった自分が、幼児のようにあしらわれている。
そのことがひどく悔しく──恐ろしかった。

「それとね、あなたは見落としていることが、まだあります。何故、依頼人はわざわざ裏ネットの掲示板に書き込みをしたと思うんです?」
「それは……私に正体を知られたくないから……」
「それもあるでしょう。でも、それ以上の意味があるんですよ。この掲示板にこんな美味しい書き込みをしたら、ヤバい連中が色めき立って争う。その結果、あなたをより酷い目に遭わせる事ができるんです」
「──!」
「自分自身、あるいは適当に捜した相手を金で雇うよりも、確実に。不特定の凶悪な獣の群が、自分が思い付く以上の残酷な真似をあなたにして、あなたの体と心を滅茶苦茶にしてくれるだろうと考えたからですよ」

よどみのない明晰な言葉に、呂望は蒼白になった。
自分自身を抱き締める指が、こわばるように小刻みに震える。

「それに、そこまでのことを望みながら、傷をつけるなと条件を付けているのが無気味です。あなたが死んだり怪我をしたら困るのか、もしくは、この先、長い時間をかけていたぶり続けるつもりなのか……。あるいは、その双方かもしれませんが、いずれにしてもいい感触はしません」

だが、状況を語る青年の言葉は、これ以上はないというほどに素っ気ない。

「だから、僕はまだあなたに触れる気はありません。依頼人の正体の見当が付きませんし、嫌がる女性を強引にどうこうするのは好きじゃありませんから。
でも、あなたは覚悟を決められた方がいい。少なくとも、見知らぬ男にレイプされて打ちひしがれたあなたを観察できるくら い、身近なところに依頼人はいるはずですから。無傷で帰れば、その分、更に酷い目に遭う可能性が高くなります」
「───これ以上……」
「何です?」

呟いた声を聞き取れなかったのか、青年が聞き返した。
その涼しげな顔に向かって、呂望は声を絞り出す。

「これ以上、酷いことなんてあってたまるものですか……!」

だが、青年は顔色を変えなかった。

「いくらでもありますよ」

それどころか、溜息をつくように告げる。

「性奴隷として裏のクラブに売り飛ばされるとか、どこかのヒヒジジイに妾として囲われるとかね。深窓の御令嬢には想像もおつきにならないでしょうが、そんなものは探すまでもないくらい、幾らでもあります」

そして、青年は言い聞かせるように続けた。

「とにかく、依頼人はあなたの身近にいて、底知れない怨恨を抱いた、1千万円をドブに捨てるような真似をできる人間です。それにあなたが対抗できると思うのなら、無傷で帰してさしあげても僕は構わない。もともと好みの依頼ではありませんからね。
但し、十日間はここからは出ないことです。一歩外に出れば、あなたは穴だらけにされますよ」

俗な表現ではあるが、穴だらけにされるという比喩の意味は、呂望にも理解できた。
青ざめて血の気の失せた顔のまま、呂望は自分自身を細い手で抱き締める。

「───信じない…」
「え?」
「信じない。あなたの言うことなんて……」
「──それでもいいですよ」

今度こそ本当に青年は溜息をつく。

「まだ時間はある。ゆっくり考えて下さい。あなたが賞金首である以上、期限まで解放する気はありませんが、この地下室の中でなら自由にして下さって構いませんから」

だが、その言葉にも答えず。
呂望はうずくまるように、ソファーに腰掛けたまま自分を抱き締め続けていた。















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