愛 人
−L'AMANT− (4)
「随分、慣れてきましたね。ほら、もうこんなになってますよ」
笑みを含んだ低く甘い声と共に、くちゅ、ちゅぷと淫らな音が響く。
そうして、ゆっくりと曖昧な動きで花弁をなぞっていた指先が、戯れるように、蜜をあふれさせている花芯に滑り込んだ。
「──っあ・・・やぁ・・っ!」
長い指のうち、第一関節までを浅く出し入れしつつ、きつい入り口を感覚を呼び覚ますように弄ぶと、少女は切ないすすり泣きのような嬌声を上げて、躰をよじる。
だが、それは青年の愛撫から逃れようとするというよりも、むしろ、快楽の先をねだるような仕草で。
事実、浅い動きに焦れたように、すんなりと華奢な腰がおののき、シーツから軽く浮き上がる。
しどけなく細い脚を開いた体勢でのその媚態は、もっと深い愛戯を──青年の挿入を求める以外の何物でもない。
「まだ駄目ですよ」
だが、青年は甘く微笑しただけで、花芯への浅い曖昧な愛撫を続けながら、白くやわらかな胸に唇を這わせてゆく。
花片のような跡を幾つも刻み、先端で甘く色づき、つんと尖っている花芽を軽く吸い立てる。
「や・・っ、いや・・・ぁ・・・・んっ!」
そして、背筋をのけぞらせ、甘いすすり泣きを零しながらびくびくと震える少女の反応に、微笑を浮かべ、更に少女の性感を煽り、追い詰めるべく、蜜をあふれさせてひくつく花芯から指を引いた。
そのまま、自由になった手をゆっくりとすべやかな肌に這わせてゆく。
「ひぁ・・・っあ・・・ぁん・・っ」
感じやすい脚を膝下から腰まで、肌を羽根で掠めるようなやわ
らかさで撫で上げられ、更に過敏な脇腹や、腰の窪みに指を滑らされて、少女の嬌声が引きつる。
胸のふくらみを舌と歯で優しく可愛がられながらの全身への愛撫は、もはや拷問にも等しかった。
半端なところで指淫を止められた秘所は、直接的な刺激を求めて、誘いかけるようにとめどもなく蜜をあふれさせ、花芯を淫らにひくつかせていて。
「──っあ・・ゃ・・・・、もぅ・・っ・・・!」
青年の手管に翻弄されるまま、どこまでも煽られ高まってゆく熱い疼きに耐え切れず、少女は感極まって泣き濡れた悲鳴を上げた。
胸を優しく手のひらで包み込むようにして執拗に撫でられ、右側の花芽をやわらかく指先で爪弾かれながら、左側の花芽を舌で舐め転がされる快感に、もう隠しようもなく細腰がくゆる。
「あなたは右より左側の方が感じるみたいですね。全然、反応が違いますよ」
耳をくすぐる甘いすすり泣きに低く含み笑いながら、青年は固くしこった花芽に軽く歯を立てる。
途端に、少女は高い声を上げて背筋を大きくのけぞらせた。
そこで、青年は愛撫の手を止める。
そして体を起こし、シーツの上にしどけなく濡れた肢体を晒している少女を見つめた。
長い長い前戯の間、一度も絶頂を許されずにひたすら刺激ばかりを与えられ続け、限界をとっくに通り越した華奢な躰は、細くしゃくりあげるすすり泣きに合わせて、小刻みにおののいている。
細い手は力なくシーツを握り締め、すんなりとした脚もしどけなく開かれたまま、蜜に濡れそぼった秘花を無防備に晒していて。
無垢な清純さと、淫らな艶やかさが完璧な調和を保って、青年の欲望を誘う。
「───っ・・あ・・・」
全身を這う青年の視線を感じたのか、少女が喘ぎながらうっすらと目を開く。
目と目が合って、視姦されていることに気付いた少女の泣き濡れた瞳に、羞恥と渇望の強い感情が入り混じった混乱が浮かび、泣き出しそうなまなざしが、逃げ場を求めるようにどこか虚ろに宙をさまよった。
だが、
「僕を見るんです」
魅惑的な響きの低い声が、少女の混乱を制する。
びくりと反応した少女が、数瞬ためらった後、おずおずと青年へとまなざしを戻す。
深い混乱をたたえたままの瞳は、かすかな怯えを滲ませて、けれどすがるように青年を見上げた。
「そう、それでいいんですよ」
従順に言葉に従った少女に微笑み、青年は少女のしっとりと濡れた髪を優しくかきあげる。
「あなたがそうして僕に逆らわないでいる限り、僕は僕の全てを賭けて、あなたの一番大切なものを守ってあげますよ。本来あなたのものになるはずだった、崑崙グループを・・・・・」
甘くささやき、そのまま口接ける。
深く舌を絡ませ、口腔をくまなく犯すキスに、もはや抗う気力もないのか、少女はなされるがままに受け止める。
そして、ゆっくりと唇を離した青年は、涙に濡れてぼんやりと開いた深い色の瞳を見つめながら、すんなりと細い少女の脚を、膝裏を両手で押し上げるようにして更に大きく開かせる。
「叶えてあげますよ。あなたの望むことなら何でも、ね」
低く、毒を含んだ甘い声でささやいて。
淫らにひくつく花芯を、熱く漲った楔で一息に貫いた。
* *
「───・・・」
遮光カーテンが作る淡い陰りの中、呂望はぼんやりと目を開いた。
二、三度まばたきを繰り返し、シーツの中で体の向きを変えるように小さく身動きする。
「!」
途端に生じた感覚に、びくりと呂望は目をみはった。
───身体の奥から、とろりとしたものが流れ出し、あふれてゆく。
眉をひそめ、唇を噛んでその感覚に耐える。
だが、同時に昨夜の乱れた記憶をも、身の裡に残る夜の名残が蘇らせて、呂望はぎゅっとシーツを握り締めて顔を埋めた。
──あの、催淫薬を服用させられ、限界まで責め立てられた夜以来。
全ての感覚が狂ってしまっているようだった。
ほんの少し、青年の指が触れただけで。
時には低いささやきや吐息を感じただけで、身体がおののいてしまう。
自分でも分かるほどに他愛なく反応し、身体の奥から熱いものがあふれてくるのを止められない。
容赦なく与えられるものにいいように翻弄され、泣きじゃくるしか術がないのだ。
昨夜もまた、そうだった。
限界まで焦らしに焦らされ、ようやく挿入された瞬間、奥まで貫かれた衝撃で最初の絶頂に達した後のことは、もう何も覚えていない。
青年が与えてくるものは限りなく純粋な快楽の塊で、あられもなく狂乱して泣き叫んだことだけが朧気に記憶に残っているばかりだ。
「どうして、こんな──・・・」
かすれてくぐもった声で小さく呟き、呂望は唇を噛み締める。
けれど。
そうしていたところで、何かが変わるわけではない。
助け手が現れることも、天使が降臨してこの身を清めてくれることもない。
ぎゅっと一瞬目を閉じ、呂望はシャワーを浴びるべく、のろのろとやわらかな寝具から身体を起こした。
新しい住まいである邸宅は、無意味に広かった。
もとは由緒ある旧華族の持ち物だったのを、先代が買い取ったという洋館は、華麗かつ重厚な装飾に彩られ、古色蒼然として庭園の深い緑に包まれている。
昼間、なすべきこともなく一人で時間を過ごす呂望は、この邸宅の内部と庭園を散策するのを日課のようにしていた。
別に外出を禁じられているわけではない。
幾つかの約束事が存在はしていても、基本的に呂望には館の主人の未来の妻として、あらゆる意味で十分な自由が許されている。
が、たとえ街に出たとしても帰るのがこの館だと思うと、その気が萎えてしまうのだ。
かといって、広大な館の中ですることもない。
本を読む気にも、ネットサーフィンをする気にもなれず、とすれば、あてもなく館内を歩き回り、自分に与えられた部屋よりは居心地よく思える客間のアンティークのソファーや、庭園の木陰でぼんやりと時間を過ごす他はなかった。
いつものように軽い朝食を終えた後、呂望は庭園へと彷徨い出た。
百年近くも前に建てられたという洋館の庭園は、鬱蒼と大きな樹木が生い茂り、あちらこちらに美しい花々が顔をのぞかせている。
目的もなく、この深い緑に覆われた庭園を散策するのが、いまや呂望にとっては唯一の慰めだった。
目的もなく、足の向くままに庭園の奥へと呂望は進んでゆく。
時折、鳥のさえずりや木陰の花にまなざしを向けもするが、実のところは何を見ているわけでもない。
ただ時間が過ぎるのだけを望むかのように、呂望はゆっくりとした足取りで深緑の迷宮を彷徨う。
その足が、ふと止まった。
「──哮天犬?」
少し先の大きな楡の木の影から、白いものがのぞいている。
ふさふさしたそれが、獣の尻尾であることに気付いて、呂望は細く澄んだ声でその名を呼んだ。
途端に、白いふさふさの毛皮が、ぱたぱたと地面を叩くように揺れる。
誘われるように楡の大木を回り込むと、寝そべって顔だけを上げた大きな犬が、嬉しそうに呂望を見上げた。
「今日はここで寝ていたの?」
よく躾けられた犬は、むやみに吠えることもじゃれつくこともない。
従順に、けれど明確な好意を尻尾を振ることで伝えようとする大型犬の様子に、呂望の繊細な容貌に、ふわりと笑みが浮かぶ。
この哮天犬という名の白い大きな犬は、血統書付きのピレネー犬で、楊ゼンの飼い犬だった。
既に両親の他界している楊ゼンにとっては、呂望がこの館に来るまでは唯一の家族だったといってもいいだろう。
もっとも彼自身は多忙すぎて、あまり構ってやれる時間はないようで、いつでも哮天犬は、広い庭でのんびりと過ごしている。
この屋敷に来てすぐ、楊ゼンによって 哮天犬に引き合わされた呂望は、一目でこの美しい犬を気に入った。
最初のうちこそ、楊ゼンの飼い犬だということで少々のためらいはあったものの、哮天犬自身は、新しく主人として加わった呂望に対しても親愛の情を示す仕草を見せ、すぐに呂望もこの賢い犬を可愛がるようになったのだ。
緑深い庭園で、ゆったりとねそべる哮天犬の真っ白なふさふさの毛皮を撫でながら過ごす時間は、今の呂望にとっては数少ない慰めの一つだった。
「今日も元気ね」
親愛の情を込めて見上げてくる大きな丸い瞳を見つめかえしながら、呂望は両手を伸ばして、哮天犬の頭や顎を撫でてやる。
すると哮天犬は嬉し気に、豊かなしっぽをぱたぱたと揺らした。
白い毛皮は艶やかで毛玉一つなく、体型もちょうどよく引き締まり、普段は大人しくとも一旦動きだせば、すばらしい敏捷性を見せる。
見るからに大切に可愛がられ、幸せそうな犬の存在は、確かに呂望にとっては大切な慰めではあったが、一方でかすかな痛みをももたらすものでもあった。
「───?」
哮天犬の傍らで、その白い毛並みを撫でていた呂望は、ふと高い音を聞いたような気がした。
一瞬空耳かとも思ったが、そうではない証拠に、それまで大人しく寝そべっていた哮天犬がぱっと頭をもたげ、大きく一声吠える。
何だろうと呂望が考えるよりも早く、もう一度、同じ高い音が静かな庭園の空気を揺らした。
高く、長く響く澄んだ音。
笛のようだ、と思って、呂望は、哮天犬の飼い主が愛犬を呼んでいるのだと気付く。
そういえば、一番最初に哮天犬に引き合わされた時も、彼はこんな風に指笛を慣らして、飼い犬を呼んだ。
あれ以来、その場面に遭遇することはなかったから忘れていたが、間違いない。
どうしよう、と呂望は一瞬戸惑う。
自分を強引な手段で婚約者とした青年は、これまで休日も滅多に屋敷にいることはなく、大抵は会社の方に出向き、その膨大な執務を片付けていた。
それゆえに、こんな風に哮天犬の傍にいるのを彼に見られたことも、庭園で遭遇したこともない。
昨夜も散々に躰を嬲られた相手と昼間に顔を合わせるのは、ひどく疎ましいことに思えて、呂望は急ぎ立ち去ろうと立ち上がる。
だが、それは既に遅くて。
「呼んでも来ないと思ったら・・・・。あなたでしたか」
低くて甘い、ぞくりとするほどに魅惑的な声が耳を打つ。
立ち上がった哮天犬が、嬉し気に一声吠えるのも耳には入らない。
うろたえ気味に視線を伏せ、顔を背ける。
そんな呂望の態度に、青年は微苦笑したようだった。
「哮天犬も、すっかり懐いたようですね」
ゆっくりと歩み寄り、尻尾を振る大型犬に歩み寄る。
逃げ出すこともできないまま、呂望はすぐ手を延ばせば触れる距離にまで近付いた青年の存在に、かすかに身体をすくませた。
そのことに楊ゼンは気付いているのかいないのか、形のいい大きな手で哮天犬の頭を撫でる。
戸惑いつつも、ちらりとそちらにまなざしを向けて。
呂望は、軽く目をみはる。
哮天犬を見る楊ゼンのまなざしは、ひどく温かい色をしていた。
裏も含みも、何もない。
本物だと一目で分かる深い優しさを滲ませた、ただ純粋に、相手を愛おしむ瞳。
初めて見るそのまなざしに、呂望は自分でも不思議に思うほどの驚きを感じる。
───どうして。
───どうして、この人にこんなまなざしが。
彼を血も涙もない冷血漢と思っていたわけではない。
だからといって、経営難に陥った崑崙グループを救済することと引き換えに身体を求めた彼が、聖人君子であり得るわけもない。
それでは、彼はどんな人間なのか。
呂望には分からなかった。
毎晩とまではいかなくとも頻繁に身体を重ね、既に一月以上、同じ屋根の下で暮らしているというのに。
呂望には楊ゼンが何を考えているのか、まったく読めないのだ。
本当に冷酷なのか。
本当は優しいのか。
すべての考察を、この上なく甘やかで美しい、冷ややかな微笑が撥ね除ける。
けれど。
今、呂望の目の前にいる彼は、大企業のトップでもなく、冷酷な征服者でもなく。
穏やかな表情をした、ごく普通の──あるいは、優しげとも充分に形容することができる、二十代半ばを過ぎた青年でしかない。
呆然となる呂望の目の前で、楊ゼンが顔を上げて少女を振り返る。
「今日は久しぶりに休みが取れたので、哮天犬を運動させてやろうと思っているんですが・・・・」
犬に向けていた時よりは微妙な色を滲ませているものの、楊ゼンの瞳は、普段よりも穏やかなままで。
「良かったら、あなたも一緒に来ませんか?」
これは一体、誰なのだろうと呂望は、困惑に鈍った思考で考える。
そして、一人でいてもすることはないでしょう、と微妙な笑みを向けた楊ゼンに。
ためらい、当惑したまま、小さくうなずいた。
助手席に呂望を、後部座席に哮天犬と、その他雑多な物を乗せて、楊ゼンがランドローバーを走らせた行く先は、犬の運動場として解放された海岸線にも近い河川敷の公園だった。
広大な敷地には芝生が敷き詰められ、多くの犬が元気良く走りながら、飼い主と戯れている。
駐車場に大型四輪駆動車を止めた楊ゼンは、まず助手席のドアを開け、呂望に手を貸して車高の高い車から降ろし、ついで後部座席を開けて待ちかねていた哮天犬を降ろす。
そして、荷物を詰めた大きなレジャーバッグを持って、呂望を促した。
何度も来て慣れているのか、適当な場所を選んで楊ゼンが芝生の上に荷物を降ろすと、哮天犬は早速レジャーバッグに鼻先を突っ込み、中からフリスビーをくわえて持ち出した。
本当の飼い主に対しては、やはり甘えたがるのか、遊んでくれと催促する哮天犬に苦笑しながら、楊ゼンは呂望を振り返る。
「すみません、哮天犬が待ちきれないようなので、レジャーシートを広げてもらえますか?」
「ええ・・・」
彼に何かを頼まれたことに驚き、だが、手持ち無沙汰だったのは事実なので、呂望は素直にバッグの中からレジャーシートを取り出し、芝生の上に広げる。
その間に、楊ゼンは数メートル離れてゆき、期待に満ちた目で見上げる哮天犬に笑みを見せてから、右手に持ったフリスビーを空に向かって投げた。
ごく軽いモーションだったのに、蛍光イエローのフリスビーは高く舞い上がり、それを追って哮天犬が勢い良く走り出す。
そして、落ちかけてきたところを空中にジャンプして、見事にくわえる。
そのまま走って戻ってきて、もう一度、と差し出すのに、楊ゼンは笑って哮天犬の頭を撫で、そしてまた、フリスビーを高く投げ上げた。
それだけの単純な遊びが、何度も何度も繰り返される。
だが、哮天犬も飼い主も、本当に楽しそうで。
レジャーシートに腰を降ろした呂望は、ただ、その姿を見つめ続ける。
フリスビーで彼等が遊んでいたのは、二十分ほどの間だったろうか。
一旦、終わりだと哮天犬に告げ、楊ゼンは代わりに軽く犬の背を叩いて合図する。途端に、真っ白な大型犬は一声鳴いて、元気良く走り出した。
その姿を見送ってから、フリスビーを片手に戻ってくる楊ゼンに、いいのかと目で問いかけると、彼は笑った。
「気がすむまで走ったら戻ってきますよ。他の犬には構わないよう躾けてありますから、大丈夫です」
そう言い、楊ゼンも呂望からは少し身体を離してレジャーシートに腰を降ろす。
そして、フリスビーで遊んでいる間に呂望がバッグから出しておいた魔法瓶の水筒を手にとった。
プラスティック樹脂の蓋に注がれた、熱いコーヒーが呂望に手渡される。
小さく礼を言い、ブラックでも飲みやすい、薄めのコーヒーにそっと口を付けながら、呂望は、ひと一人分ほどの距離を開けて隣に座っている青年を窺い見る。
自分もコーヒーを手にした楊ゼンは、穏やかな表情で哮天犬が走っていった方向へと視線を向けていた。
「──哮天犬のことをずいぶん可愛がってくれているようですね」
やがて、低い声がゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
咄嗟には答えられないまま、呂望は続きを待つ格好になった。
「以前はこれほどではなかったんですが、このところは本当に全然構ってやれなくて・・・・・。その分、あなたがいて下さるようになったことが、あれも嬉しいみたいです」
「──そんなことは、ないと思いますけど・・・・」
自分といる時と、楊ゼンといる時とでは、哮天犬のはしゃぎ方は全然違う。そう思いながら、呂望は小さく答える。
楊ゼンが大切にしている飼い犬を構ってやれないほど多忙なのは、崑崙グループと提携したからではないのか、と考えながら。
だが、彼の方は、呂望の考えになど気付く様子もなく、穏やかに言葉を続けた。
「あなたも気が向くようでしたら、何か動物を飼って下さっても構いませんよ。あの通り、無駄に広い屋敷ですから、多少生き物が増えたところで、どうということはありません」
冷笑も揶揄も含まれていないまなざしが、呂望に向けられる。
「動物はお好きでしょう?」
「・・・・・嫌いではありませんけど・・・・・」
おそらく他意はない問いかけのはずなのに、なぜか呂望は戸惑って曖昧に答える。
否。
当惑しているのは、いま目の前にあるすべてに対してだった。
穏やかな時間。
穏やかな声と言葉。
穏やかなまなざし。
これまでに一度もあり得なかったものの存在が、呂望の心を波立たせる。
この時間は、本当に現実なのか。
一瞬、心を緩めたところを、更なる奈落に突き落とすために仕掛けられた罠ではないのか。
ただの──悪夢の幕間では、ないのか。
ふと沈黙が訪れてしまったことに気付き、呂望は顔を上げる。と、こちらを見つめていたらしい青年と目が合った。
穏やかな色をしていた瞳が、かすかに微妙な色合いを滲ませている。
「最初の約束を覚えていますね?」
甘い響きの声が、低く問いかける。
「僕から逃げようとしない、他の男に近付かない。あなたに求めるのは、それだけです。あとは、何を欲しがろうと、何を嫌おうと、すべて自由にして下さって構わない。これはこの先、僕かあなたのどちらかが死ぬまで違える気はありません」
篭の中の鳥でいる限り、自由なのだと告げられて。
呂望は青年の瞳を見つめる。
「あなたは・・・・・何を求めていらっしゃるんですか?」
細い声が、震えるように問いかける。
だが、
「さあ?」
青年は笑んだだけで。
伸ばされた手が呂望の細い顎を捕らえ、ゆっくりと唇を奪う。
端から見れば、恋人同士の甘い戯れでしかないキスを交わして、楊ゼンは再び開いた呂望の瞳を至近距離から見つめ、微笑んだ。
「哮天犬が戻ってくるようです。そろそろ昼食にしましょう」
それだけを告げて、離れてゆく。
撥ね除けることも、追いかけ問いつめることも、呂望にはできなかった。
お抱えのシェフが用意してくれた、サンドイッチメインの弁当は美味だった。
正直なところ食欲はなかったものの、その美味しさに誘われて、呂望もローストビーフサンドを二切れ口に運び、サラダやフルーツにも多少指を伸ばした。
食事をする二人の傍らで、哮天犬も固形のドッグフードを勢い良くたいらげ、食後の休憩とばかりに芝生に寝そべる。
それは、昼下がりの青空の下、ひどく穏やかな風景だった。
ランチの詰めてあった小振りのバスケットを簡単に片付け、しばらくの間、言葉もなく爽やかな風が吹き抜けてゆくままに任せる。
こんなにのんびりした時間を過ごすことが、これまであっただろうか、と呂望は考える。
崑崙グループの後継者として育てられた呂望は、一瞬たりとも気を抜くことが許されない空気の中で育ってきた。
未来の経営者として勉強しなければならないことはいくらでもあったし、教養や作法まで、幼い頃から厳しく躾けられた。
唯一の家族であり保護者だった祖父は、充分すぎるほどに愛してくれていたが、しかし、その存在は呂望にいつでも緊張を強いていたのだ。
───失敗をしてはならない。
───祖父を失望させてはならない。
それらの思いは、己を高めようとする向上心の原動力にもなったが、間違いなく重荷でもあった。
期待されることは嬉しく、誇らしくもあったが、苦しくもあった。
けれど、今はそれらのものは何一つ、ない。
家族と呼ぶべきであるのなら、新たな家族となった楊ゼンは、呂望に対し能力的なことは一切求めていない。
ただ彼の傍にあって、一時の快楽の相手となること、それが今の呂望の存在意義のすべてだ。
そんな日々が呂望にもたらしたのは、初めて感じる空虚さだった。
確かに祖父の死後、楊ゼンと婚約するまでの一年間は無為な月日を過ごした。だが、それと今の生活とは、どこか本質的に違うのだ。
社会的な責任もなく、茫漠と時間を過ごして。
そして、夜ともなれば、愛しても愛されてもいない相手に躰を開く。
重すぎる期待を失ったことによる開放感は、確かに祖父が死去した悲哀と共に生まれたものである。
それはどう取り繕っても否定のしようがない。
だが、何一つ得られない、性を搾取されるだけの生活は、まるで現実味がなくて。
己の生がまるで変わってしまった混乱と戸惑いから、呂望は未だに抜け出すことができない。
そして今、久しく馴染みのなかった平穏な空気を、こんな形で味わっているということがどうにも実感として受け止められず、呂望は哮天犬にまなざしを向ける。
大きな犬は、運動と食事に満足したのか、気持ち良さげな表情で目を閉じていた。
その平和な眠りをさまたげる気にはなれず、今度は青年の方に、そっと目を向けてみる。
相変わらず大人1人分程の間隔を開けて腰を降ろしている楊ゼンは、今は何をするでもなく、空へとまなざしを向けていた。
初夏の空はどこまでも青く、白い雲がいくつか流れてゆく。
天上の透明な青さを映した瞳が何を思っているのか分からず、呂望はその横顔を見つめる。
青年の横顔は、午後の日差しの下でも変わることなく、やはり絵画か彫刻のように端正だった。
長い髪を無造作に一つにまとめ、いつものオーダーメイドスーツを脱ぎ捨ててラフな服装をしていても、彼自身の持つ、しなやかな力強さや品格は、何一つ失われてはいない。
夜になれば、また昨夜と同じ冷ややかさと毒を含むのだろうと頭では分かっていても、並外れた美貌は、今は波一つない水面のように穏やかに澄んでいて、たやすく視線を逸らすことができないのだ。
こんな表情も持つ人だったのかと、言葉にしがたい驚愕を滲ませたまなざしに気付いたのか、楊ゼンがこちらを振り向く。
そして、呂望を見て微笑んだ。
「疲れたら、眠ってしまっても構いませんよ。もうしばらくここには居るつもりですから」
今日はこんなに天気がいいし、と呼び掛ける優しい響きの声に、だが呂望は小さく首を横に振る。
「いいえ・・・・」
さすがにこの状況では、夜のような張り詰めた緊張はない。
だからといって、無防備に眠れるほど心を許せるはずもない。
口には出さない呂望の心情を読み取ったのか、楊ゼンはそれ以上は言わずに再び空に目を向ける。
彼の視線が逸れたことに少なからずほっとして、呂望も上空を見上げた。
そして、どこまでも青い空に、吸い込まれてしまいそうだ、と思った時。
「──いっそのこと、このままあの空に溶けてしまえたら、楽になれるのかもしれませんね。あなたも、僕も」
不意に、彼の声が耳を打った。
驚いて隣りを振り返ると、楊ゼンは、まだ空の青を見つめていた。
端正な横顔が、ゆっくりと呂望の方に向けられる。
かすかな微笑に縁取られた静かな表情は、一言ではあらわせない入り交じった感情の色を滲ませて、呂望を見つめた。
「───ど・・・・」
どういう意味なのか、と。
彼もまた何か苦しさを抱えているというのであれば、それはどういうものなのかと問いかけようとした言葉は、ふっと楊ゼンが何かに気付いたように動かした視線に途切れる。
つられるように背後を振り返れば、ちょうど起き上がって伸びを終えた哮天犬が、レジャーシートの端に置いてあったフリスビーをくわえるところだった。
「もう休憩は終わりなのか?」
遊んでくれと、またねだる犬に苦笑しながらも、楊ゼンは立ち上がる。
その様子は、呂望の追求から逃れようとしているようにも見えなくはなかった。
そして、立ち上がりフリスビーを受け取ったところで、ふと気付いたように楊ゼンは振り返る。
「今度はあなたもやってみますか?」
「───ええ」
言いたい言葉があったような気がしたが、結局、言葉を形作ることができないまま、呂望はうなずいて立ち上がった。
「コツは、手首のスナップを聞かせずに、腕全体で投げることです。スナップを使うと、かえって飛ばないんですよ」
フリスビーをやるのは初めてかと聞かれてうなずいた呂望に、楊ゼンは穏やかな口調で投げるコツを教える。
呂望は戸惑いつつも、期待に目を輝かせながらこちらを見ている哮天犬に、フリスビーを構えて恐る恐る投げた。
蛍光イエローの円盤は、やや曲がった軌道を描きながら低い放物線を描き、大した距離を飛ぶこともなく落ちてくる。その上手いとは言えない投げ方でも、哮天犬はきちんと落下点を見極めて走ってゆき、見事にダイビングキャッチした。
「まだ肩に力が入ってますね」
失敗を笑うでもなく、楊ゼンは穏やかな口調で言いながら、戻ってきた哮天犬からフリスビーを受け取った呂望の肩に、後ろから手を伸ばして触れる。
ごく軽く、落ち着かせるような甘さで少女の華奢な肩をとんと叩き、そして、呂望の利き腕である左手の手首にも指を触れた。
「ほら、手首にも力が入ってますよ。肘も力を抜いて・・・・。何も考えないで、気持ち良く腕を振り抜いてみて下さい」
それだけを言って、楊ゼンはまた離れてゆく。
その気配を背中で追いながら、呂望は言われた通りにできる限り力を抜いて、大きく腕を振る。
ほっそりした指先から離れたフリスビーは、今度は高く舞い上がり、回転しながらゆっくりと落ちてゆく。哮天犬も嬉しそうに吠え、落下点を目指して全速力で駆けていった。
「うまくいきましたね。初めてであれだけ投げられたら上出来ですよ」
「───・・・・」
本当ならば、教え方がうまかったからだ、と礼を言うべきなのだろう。
けれど、言葉はどこかで冷えて固まってしまったかのように、喉からは出てこない。
これまでに一度も目の前の相手に対して、「ありがとう」や「すみません」を口にしたことがないわけではない。今日でも、先程コーヒーを渡された時には、小さくとも礼を言うことはできた。
だが、今は口に出すことができない。
言いたくないわけではないのに、素直に言葉にならないのだ。
だが、呂望が短い葛藤をしている間に、哮天犬が戻ってくる。
口ごもってしまった呂望に変わり、楊ゼンがフリスビーを受け取って頭を撫でてやる。
そして、呂望にフリスビーを手渡した。
「どうぞ。良かったら、もう少し遊んでやって下さい。お嫌なら僕が変わりますが」
「いいえ・・・・」
蛍光イエローの軽い円盤を受け取り、呂望は小さくかぶりを振る。
そして。
「──ありがとうございます」
「お礼を言われるほどのことではありませんよ」
ようやく告げた謝礼の言葉に、楊ゼンは穏やかな微苦笑をにじませた。
ようやく二人と一匹が帰り支度をしたのは、そろそろ日が傾こうという時刻だった。
哮天犬も充分すぎるほどに遊んでもらって満足したのか、楊ゼンがドアを開けた後部座席に乗り込むと、すぐにシートにかけてある専用の毛布に、ごろんと寝そべってしまう。
そんな様子に苦笑しながら、楊ゼンは荷物を詰め直したレジャーバッグをも積み込み、後部座席のドアを閉めた。
それから、傍に立っていた呂望のために、助手席のドアを開け、乗り込むのをエスコートしようとして。
少女の背中に添えた腕の力を、不意に強くする。
「え・・・・?」
何かと振り仰ぎかけた呂望の唇に、己の唇を重ねて。
ほっそりと華奢な身体を抱き寄せ、助手席のドアの影で口付ける。
「───っ・・・」
激しくはない、だが熱い舌が過敏な口腔を撫で、やわらかな舌に絡む。
時間にすれば短いキスだったが、それでも解放されると呂望は、やや乱れた呼吸を整えるように小さく息をついた。
なぜ今・・・と真意を問うように見上げた呂望に、何も答えず微笑して、楊ゼンは呂望を助手席へと導く。
そして、ドアを慎重に閉めると、自分は運転席へと回った。
言葉は何一つないまま、手際良くエンジンをかけ、シートベルトを着用するのを見やり、呂望も黙ったまま助手席のシートベルトを着用する。
ほどなく、ランドローバーは滑らかに走り出した。
アスファルトの舗装面に、夕暮れのオレンジが映えている。
車内も、ほの暗い橙に染まる中、エンジン音と路面からのノイズが響く。
フロントガラスの遥かな向こうで、太陽がゆっくりと消えてゆくのを見送りながら、呂望はゆっくりと口を開いた。
「私には・・・・あなたが分からない」
ノイズにまぎれない程度の音声で、ひっそりと呟かれた声に。
「そうでしょうね」
同じように静かに答えた声は、かすかに笑みを含んでいるように聞こえて。
呂望は、運転席を見やる。
すると、楊ゼンの表情は、日射し避けのサングラスの下で定かではなかったが、しかし、確かに微苦笑を口元に滲ませているように見えた。
「────」
それきり、呂望も楊ゼンも何も言わないまま。
ランドローバーは、アスファルト舗装された道路を滑るように黄昏の中を走り抜けていった。
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