愛 人 −L'AMANT− (1)














「どうぞ」

ここまで自分を案内してきた秘書らしき男が無表情に開いた、重厚そうな造りのドアに向かって、ゆっくりと足を踏み出す。
書斎、なのだろう。
室内は思っていたよりも明るく、壁一面に造り付けられた書架には邦書洋書を問わず、書籍がぎっしりと詰まっている。
だが、それらの背表紙をゆっくりと眺めている暇はなかった。


「御令嬢をお連れしました」


男が、部屋の奥に向かって声をかける。
と。
「ああ。本来、君の役割ではないことを頼んですまなかった。すまないついでで悪いが、これを本社にFAXで送っておいてくれ」
「はい」
数枚の書類を受け取り、男は出てゆく。すれ違い様にちらりとこちらを見ることもしない、謹厳そうな顔立ちが印象に残った。

ぱたん、とかすかな音を立ててドアが閉まり。

部屋の主と二人、取り残される。

まっすぐに見据えた視線の先で、端末をいじっていた相手が顔を上げ、かけていた眼鏡を外す。
そして、こちらを見たまなざしに。


胸の奥が、激しく灼けた。

















「ようこそ、僕の家へ」

ひどく甘く、その声は書斎に響き渡った。
まなざしを逸らしてなるものかと、虚勢に近い、きつい光を浮かべた瞳で相手を見返す。

「───私、あなたのことを買い被ってました」

声は震えていないだろうか。
できる限り、氷のように冷たい言葉で、目の前に立つ相手を切り裂いてやりたいのに。

「まさかあなたが、こんなことを要求されるとは思いもしませんでした。──お祖父様の評価は、やはり正しかったんですね」

その言葉にも。
彼は甘く微笑むばかりで。

目が、眩みそうになる。











        *        *        *











あれはまだ、祖父が健在だった頃のこと。
取引先の企業の新社長就任パーティーに、祖父と共に出席したあの日。
あれが運命だというのなら、天はなんと残酷な存在か。








「───」
「どうした、呂望」
こっそりともらした溜息を耳ざとく聞きつけた祖父に、慌てて笑顔を作る。
「いえ、何でもありません」
「なら良いが・・・・・・。おまえはわしの後継者なのだからな。女だからとて侮られぬよう、しっかりと顔を上げておれ」
「はい」

うなずきはしたものの、やはり身体の重さはどうにもならない。
先日から少々風邪気味だったのだが、今朝はひどい頭痛がしていて、正直、ベッドから起き上がるのも辛かった。

(解熱剤を飲んできた方が良かったかな。でも、眠くなるのもまずいし・・・・・・)

次々に紹介される、経済界の大物らしき人々とにこやかに挨拶を交わしながらも、呂望は、背筋を這い上がってくる悪寒を懸命にこらえていた。

だが、やがて気分の悪さは耐えがたいほどになってきて。
「お祖父様、ちょっと飲み物を頂いてきてもいいですか?」
断ってその場を離れ、人ごみに紛れて会場となっているホールを出たものの、壁にすがったまま、そこから一歩も歩めなくなる。

(駄、目───)

冷水を頭から浴びせられたような悪寒と吐き気に、目の前がすうっと暗くなる───。










「ああ、動かないで。僕に身体を預けて下さい」

優しい響きの低い声に、重い瞼を薄く開いたものの、ホワイトアウトとブラックアウトが入り混じっている視界には何も見えなかった。
何か言おうにも、苦しくて声が出せない。

「失礼します」

ふわりと、身体が持ち上げられる感覚がして。
「救護室にお連れしますから、安心して下さい」
また優しい声がささやいた。

やがて、そっと身体を下ろされる。
指先に触れるシーツの感覚に、ここは救護室のベッドなのだろうと、眩暈の狭間で呂望は認識した。

「今、元始会長にも連絡を頼みましたから、すぐに来られると思いますよ」
涼やかに響く声と共に、温かな指先が頬にかかっていた髪をそっと払ってくれる。
「気分が悪いのなら悪いと早めにおっしゃらないと。あまり無茶をするのは感心できませんよ?」

いさめながらもひどく優しい声に、一体これは誰なのだろう、と呂望は考える。
記憶力には自信があるが、初めて聞く声だった。
少なくとも、今日挨拶をした誰でもない。
どうしても確かめたくなって、重い瞼をゆっくりと開く。
数度まばたきを繰り返すと、眩暈の中、ぼんやりと視界が戻ってきた。

そこに見えたのは、やはり会ったこともない青年。

呂望ほどの記憶力の持ち主でなくとも、誰でも一度会ったら絶対に忘れないに違いない。
──否、忘れられないだろう。
それほどに整った顔立ちの青年だった。
年の頃は、二十代半ばというところだろうか。
自分よりも十歳近く年上に、呂望には見えた。

「あまり無理をしないで。まだ顔色が悪いですよ」

そう言って微笑んだ顔は、信じられないほど優しくて。

あなたは誰なのか、と問いかけようとした時。





「呂望!」




しわがれた声と共に、祖父が救護室に飛び込んできた。

「君は誰だね?」
それ以上孫娘に何かを言う前に、その傍らに立っていた青年を鋭いまなざしで見やる。

「僕は、KG総合商事の楊ゼンという者です。偶然、御令嬢が具合を悪くされたところに行き会ったので、こちらまでお連れしました」

「ほう、君がKGの・・・・・・」
納得したように、老実業家は相手を見つめた。
だが、その無遠慮な視線にも動じることなく、楊ゼンと名乗った青年は泰然とした態度を崩さない。
しかしそれもわずかな間だけで、崑崙グループの会長は、すぐ相手に興味を失ったかのように孫娘の方へと視線を転じる。

「どうしたのだ、呂望」
「ごめんなさい、お祖父様」
まだかすれていたが、それでも何とか声は出た。
「急に気分が悪くなって・・・・・・。人ごみに酔ったのかもしれません」

健康管理も、人の上に立つ人間には重要な義務の一つである。
ましてや、今日のパーティーは、一月も前から出席が予定されていたのだ。
なのに数日前から具合が悪かったのだとは、祖父の後継者として育てられている以上、呂望には言えなかった。

「そんなことではいかんな。せっかく、おまえの顔見世をするいい機会だというのに・・・・・・」
「ごめんなさい、少し休めば良くなりますから」
「まぁ仕方がない。動けるようになったら、おまえは先に帰りなさい」
「はい・・・・」

答えながら、祖父の期待を裏切ってしまった不甲斐なさに、涙が込み上げそうになる。

「君も孫が面倒をかけた。すまなかったな」
「いえ、大したことがないようで何よりです」
「あとはこっちに任せて、君も会場に戻ってくれたまえ」
「はい」

青年にそう声をかけてから、祖父は救護室を出てゆく。
廊下で、秘書に何か指示をしているのが耳に届いたが、呂望は聞いていなかった。

「人ごみに酔ったくらいでは、熱は出ないでしょう?」

振り返った青年が、微苦笑しながら小声でささやいたのである。
驚いて、かすかに涙のにじんだ瞳を見開いた呂望に、青年は優しい笑みを向けた。

「元始会長のおっしゃる通り、今日はすぐに帰ってゆっくり休んで下さい。具合の悪い時に無理は禁物ですよ」

そう言って、救護室を出て行こうとするのを、
「あの・・・!」
咄嗟に呂望は呼び止める。

振り返った青年に、何を言おうかと一瞬迷って。

「あの、ありがとうございました」

陳腐な謝礼の言葉を口にすると、あでやかに青年は微笑む。
そして、軽く右手を上げて救護室を出て行った。

その広い背中をさらりと流れた、一つに束ねられた長い髪のしなやかな動きが、声もなく見送った呂望の心に深く刻み込まれた───。



















「呂望、あの男のことを覚えておるか?」

祖父がそう問いかけたのは、あのパーティーから一年程も過ぎた頃の夕食の席上だった。

「あの男って・・・・・どなたのことですか?」
「去年の今頃だったか、姫グループの新社長就任パーティーで具合の悪くなったお前を救護室に連れて行ってくれた男だ」
「──ええ、もちろんです」

反応が一瞬遅れたのは、忘れていたからではなく、あまりにも思いがけない相手だからだった。

「KG総合商事の代表取締役の方でしょう。あの方がどうかなさったんですか?」
「うむ、今日わしのところへやってきた」

またもや思いがけない返答に、呂望は首をかしげる。

「KG総合商事と新しく取引きを始めるんですか?」
「違う」
好物の鯛の刺身を口に運びながら、祖父は短く答えた。

「お前に結婚を申し込んできたのだ」

「───え!?」

それこそ思いがけない言葉に、呂望は短い驚愕の声を上げる。

「そ・・・れで、お祖父様は何て・・・・・・」

平静を装った声を出すのは一苦労だった。
が、どうにか聞きたいことを口に上らせる。
しかし。

「もちろん断った」

祖父の言葉に。
箸を取り落としかけた呂望は、震える手をそっと下ろして、箸置きに塗りの箸を戻した。

「どうしてですか?」
「決まっておるだろう。おまえにあの男は相応しくない。おまえはいずれ、わしのすべてを受け継ぐ身だ。KG総合商事の取締役ごときが崑崙グループ会長の夫になれるわけがなかろう」
「────」
「まぁ父親の土台を引き継いで、あの若さで一大企業グループにまで事業を広げたのは賞賛ものだがな。所詮、格が違う。まだ高校生のおまえに結婚を申し込んできたのも、どうせ、うちと組むことで事業拡大を狙ったからだろう。そう考えると、あのパーティーでおまえに近付いたのも偶然ではなかったかもしれんな」

そんなはずがないと。

あの時の彼の優しさに嘘などなかった、と言い返そうと思っても声は出なかった。
物心つくかつかないかという頃に両親を事故で失って以来、ただ一人残された孫娘を溺愛し、後継者として厳しく育ててくれた祖父は、呂望にとっては絶対の存在だったから。
何も言えないまま、卓の下で呂望は細い手をきつく握りしめる。

「おまえの結婚相手は、わしが最高の男を捜してやる。だから、おまえもつまらぬ男に引っかかるでないぞ」
「───はい、分かってます」

そう答える以外。
呂望には何をどうすることもできなかった。












        *        *        *











「───何故、こんなこと・・・・」

「簡単でしょう」
低く呟いた声に、笑みを帯びた声が答える。

「あなたを手に入れるためですよ。チャンスが目の前をかすめたら逃さない。ビジネスの鉄則です」
「だからって・・・・!」
「正攻法では無駄でしたからね。今頃、あなたのお祖父様はさぞ悔しがっているでしょう。大事な大事な孫娘が、目論み通りに自分の後継者になることもできず、一度は退けたはずの成り上がりの毒牙にかかるんですから」

その言葉に呂望は青ざめ、血の気の失せた唇を噛みしめる。
そんな少女を見つめたまま、ゆっくりと青年は立ち上がり、歩み寄る。

「あなたをこれまで守ってくれたお祖父様は、もうどこにもいない。家にも帰れない。あなたの親族は、自分たちの地位を守るために、あなたを僕に売り渡したんです」

氷のように冷たい声が、毒のような甘さで呂望の耳に響く。

「観念なさい。あなたは僕のものです」

形の整った指先が呂望の頬に触れ、ゆっくりとした動きで顎までの繊細なラインをたどる。
その優しげな感触を振り払わないまま、呂望はこわばった表情で目の前に立つ青年を見上げた。

「──私はあなたを軽蔑します。いえ・・・・、」

震える声で告げる。

「あなたを憎みます」

「いくらでも」

少女の言葉に、青年はあでやかに微笑んだ。

「あなたにはその権利がある。どうぞお好きなだけ、僕を憎んで軽蔑して下さい」

毒のように甘い声を、少女の耳に注ぎ込んで。
繊細な顎に指をかけて、わずかに仰のかせる。
至近距離で、二人の視線が交錯して。
ゆっくりと近付いた唇に、呂望はかすかにおののきながら瞳を閉じた。

深まることはなく、熱を伝えるだけの口接け。

それにさえもびくりと肩を震わせた呂望に、唇を離した楊ゼンは甘く微笑む。
「───夕食は御一緒できないでしょうが、今夜はそれほど帰宅は遅くなりませんから」
優しく微笑んだ瞳の向こうに、氷の刃のような光が鋭くきらめく。







あなたの部屋に案内させましょうと、背に回された青年の腕にうながされて歩き出しながら。

───まるで、獲物を嬲る獣の目だ、と。
呂望は絶望色に染まった心で思った。














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