海岸通りの喫茶店 3
痛烈な台詞を投げつけられ、呆然と立ち尽くしていたのは、一分か二分か。
おそらくは、それほど長い時間ではない。
だが、楊ゼンが我に返った時には、太公望の姿は道の向こうのどこにも見えなかった。
「──師叔……!」
追わなければ、と緩やかな坂道を海に向かって反射的に走り出す。
───もう二度、金輪際と話しかけるな、と。
激しく拒絶されたことは分かっていた。
けれど、まだ何も伝えていないのだ。
昨日から考えていたこと。
大学を卒業したら、片道数時間もかかる遠方の研究所へ行ってしまうと聞いた時から、思っていたこと。
そして、三年前から……否、その前から抱えていた想いの全て。
言ってしまわなければ、自分の中でけりをつけることが出来ない。
たとえ、今日を最後にもう二度と口を利いてもらえないのだとしても。
せめて、と思ったところで。
「───!」
楊ゼンは雷に打たれたように足を止めた。
「僕は……」
唐突に、たった今まで気付かずにいたことに思い当たって、全身の血の気が引くのを感じる。
つい数分前、自分は太公望に手ひどく拒絶された。
もう二度と、金輪際話しかけるなと。
───だが。
自分も、かつて同じことをしたのではなかったか。
いつでも優しかった人に。
他の付き合いを……同年代の友人との遊びとかアルバイトとか、そういったことをいつも後回しにして、自分の面倒を見てくれ、相談事や愚痴に付き合ってくれた人に。
何の他意もなく、ただ優しかった手を振り払い、もう要らないと告げたのは。
挨拶することすら避け、顔を背けるようになったのは。
自分ではなかったか。
言葉にはせずとも、話しかけないでくれと……構わないでくれと、つい昨日まで三年半もの間、無言のシグナルを送っていたのは自分の方なのに。
今更、話を聞いて欲しいだなんて、虫が良すぎると思われて当然ではないか。
───ああ、そうだ。
自分は甘えていたのだ。
この三年間を経てもなお、彼は許してくれるだろうと。
こちらの身勝手に怒りはしても、最後には話を聞いてくれるはず、否、聞いてもらわなければならないのだと。
あの日まで、自分の我儘にいつも笑って付き合ってくれていた人に、まるで道理を理解していない幼い子供のように。
「謝ら…ないと……」
無意識に零れた呟きは、無残にかすれていて。
楊ゼンは、眼下に広がる海岸線を見つめる。
視界のどこにも太公望の姿はない。
けれど、この坂道を駆け去っていった彼が今、どこに向かっているのかは分かる。分かる気がした。
きつく唇を噛んで、もう一度、彼の後を追って坂道を走り出す。
───もう二度と口を利いてもらえなくても、許してもらえなくても。
他のことは何一つ伝えられなくても、もういい。全て、我が身から出た錆だ。このまま一生、悔い続けるしかない。
けれど、三年前のことだけは。
あの日のことだけは、これ以上手遅れになる前に。
もう二度と会えなくなる前に、彼に謝らなければならなかった。
海岸通りからコンクリート製の階段を伝って砂浜に降りると、海から吹きつけてくる風が一層強く感じられた。
いくら暖冬だとはいっても、海辺の風は冷たい。
コートを通しても感じる冷気に思わず身震いしながら、楊ゼンは潮風に乱される髪を片手で後ろへとかきやり、前方へと視線を彷徨わせた。
「……やっぱり」
途中で追いつけなかったということは、つまり、彼の方はここまで一息に走ってきたということだ。
肩を落としてうつむき、まだ懸命に呼吸を整えている人を見つけて、自分の見当が間違っていなかったことに少しだけほっとする。
昔から、彼はこの浜辺が好きだった。
子供の頃から遊ぶ場所は、この浜辺か、海岸通りを逆に上って行った先にある神社の境内と決まっていて、それは、あの喫茶店を待ち合わせ場所にするまで続いていたのだ。
宝石のような思い出が、貝殻のように散らばる砂浜をゆっくりと踏みしめながら、楊ゼンは太公望に近付いた。
持久走や遠泳を大の苦手としていた人に、これ以上逃げるだけの体力があるとは考えにくかったが、気の強い彼のことだ。ことによっては、気力だけで逃走を試みるかもしれない。
彼がどんな逃げ方をしようと追いつく自信はあったが、叶うことならばこれ以上、遠くへ行かないで欲しかった。
せめて、自分が一言、謝ってしまうまでは。
「────」
さく、さくと乾いた砂の立てる独特の音が、潮風の中でも届いたのだろう。
顔を上げた太公望は、ひどくきついまなざしでこちらを睨みつけた。
ああ怒っている、と思った途端、
「話しかけるなと言ったはずだ」
まなざしと同じくらいにきつい声が投げつけられる。
彼が本気で怒った時にしか見せないまなざしも、声も、所詮は自業自得であるのに、今更のようにひどく胸が痛んで。
「……分かってます」
どうやれば伝えられるだろう、と言葉を探した。
「これを本当に最後にしますから。一つだけ、聞いて下さい」
「嫌だ」
間髪入れずに、拒絶の言葉が返る。
思わず、楊ゼンは太公望の顔を見直したが、彼の険しいまなざしは変わらず。
ようやく膝についていた手を離して上半身を起こした太公望は、その瞳で真っ直ぐに楊ゼンを見つめた。
「おぬしの言うことなんぞ、もう一言だって聞いてやらん」
あまりにもはっきりと言い切られて。
「分かったら、わしの目の前からとっとと消え失せろ」
「師叔、それはないでしょう……!?」
傲然と告げられた言葉に、思わず反論が飛び出す。
───謝ろうと思っていたのに。
かつての過ちを謝りたかった、ただ、それだけなのに。
「本当に一言だけなんですよ? それくらい聞いてくれたって……」
「嫌だ!」
対抗するように、太公望も怒鳴り返した。
「もうとっくに一言以上、喋っておるだろうが! おぬしの言うことなんぞ、もう金輪際聞きたくない。何なのだ、いつもいつも勝手なことばかり……!」
「そんなの仕方がないでしょう!」
「だって、あなたが好きなんですから!」
気付いた時には、そう叫んでいた。
「は……?」
「子供の頃から、ずっとずっと! 僕はあなたしか目に入ってなかったのに、あなたは三つも年上で……。どうすればいいのか、分からなかったんですよ!」
自分がやっと中学生になった時には、太公望は高校生で。
高校生になれたと思った時には、太公望は大学生になっていて。
どうやっても、三年という年月は縮まらなかった。
ならばせめて、身長だけでも追い越せたら、と。
平均身長の少しだけ手前で成長が止まったとぼやいていた太公望よりも、手も足も大きい自分なら、きっと彼を追い越せるはずだからと思っていたあの頃。
自分の裡にあるどうしようもない想いに気付いたのも、ようやく身長が彼と同じくらいまでに追いついた、あの頃だった。
───それは、他愛のない級友たちとの会話がきっかけといえばきっかけだった。
新学期が始まったばかりの桜の季節、それも高校入学したてのぴかぴかの新入生の話題というのは、おそらくどこでも、さほど代わり映えしないだろう。
当時の自分や友人たちも、例に漏れず、(決して褒められたことではないが)クラス内外の女の子の品定めをしていたのである。
思春期の少年らしく色気づき始めた級友たちが、どの子が可愛いとか美人の先輩はいるかとかいう話題で盛り上がっている間。
しかし自分はといえば、彼らが名を挙げる少女たちと、年上の幼馴染を心の中で比べていた。
そして、辿り着く結論はいつも同じで。
師叔の方が綺麗だし可愛い、それ以外の答えが出てくることはなかった。
それが、比べる対象が間違っているのではないかと思い至り、更には、年上の幼馴染に対する特別な想いが自分の中にあると気づいた時の衝撃は、今でもよく覚えている。
幾らなんでもそれはまずいだろうと蒼褪めたものの、しかし、どれほど周囲を見回しても、太公望以上に綺麗だと思える相手も、心を惹かれる存在も見当たらず。
数ヶ月悩んだ挙句、自分のことを弟のようにしか扱わない相手に、限りなく望みの薄い恋をしてしまったのだと絶望に近い思いで認めるしかなかった。
けれど、想いを伝えてもいいものなのかどうか、ましてや伝えてどうにかなるものなのかどうか、さっぱり分からず、夜も眠れないほどに悩んで、ひとまず身長が幼馴染を追い越したら、その時点でどうするか決めよう、と思っていたあの頃。
何気ない……本当に何気ない日常の風景に。
ある日突然、自分は打ちのめされたのだ。
いつもと同じ、夕方だった。
学校帰りに、いつものように待ち合わせ場所である喫茶店へ行き、店の外から窓の硝子越しに彼の姿を探して。
いつもと同じ席にいるはずの姿を見つけた。
───たった、それだけのことだった。
けれど、その時気付いた現実を……その衝撃を何と言えばいいだろう。
言葉にするのは簡単だ。
その時、彼はいつもと同じように一人で店内に居た。
大学に入る少し前から、勉強する時や本を読む時だけにかけるようになった眼鏡をかけて、片頬杖をついて、テーブルに広げたハードカバーのページをめくっていた。
それだけの、見慣れた姿に、けれど自分は、三年という彼と自分の間にある差を思い知らされた気がしたのだ。
───独りきり、何の気負いもなく喫茶店でくつろいでいる彼。
───彼との待ち合わせでしか、店内に入ったことのない自分。
書店やCDショップなら、あるいは駅前のファーストフード店なら、高校の制服を着た自分でも普通に入ってゆける。
けれど。
初老のマスターが一人でやっている、昔からこの街にある喫茶店の店内に居るのは、大人ばかりで。
高校生になって数ヶ月の自分が、単身で踏み込んでゆける空間ではなかった。
無論、マスターはたとえ自分が一人で入っていっても、普通に応対してくれただろう。
だが、問題の本質はそんなところにはなく。
全身に水を浴びせられたような気分のまま、ぎこちなく店のドアを開けて中に入り、彼の向かい側へ座ったものの、到底彼と話ができるような精神状態ではなくて。
いつもと同じように、頭を撫でようとした彼の手を、反射的に振り払ってしまった。
そして、一生悔やみ続けるしかない、言葉を。
「あなたはいつでも三年分、僕よりも大人だった。今だってそれは変わらない。だったら、僕はどうすれば良かったんですか。どうすればいいんですか……!」
隣りに居たかった。
対等になりたかった。
自分が太公望に甘え、頼っているのと同じくらい、彼に頼られたかった。
けれど、たったそれだけの願いを叶える方法が分からない。
あの頃も、今も。
「ちょ…っと待て、落ち着け、楊ゼン」
「落ち着けですって? 落ち着けるわけないでしょう!?」
何の因果なのだか、こんなみじめな形で告白する羽目になってしまったのに、平静で居られる人間がいたら、お目にかかりたいと思う。
きっと今の自分は、世界一格好悪いに違いなかった。
「ダァホ! それでもだ。いいから、ちょっと落ち着いて確認させてくれ」
いらついたように前髪を掻き揚げながら、太公望は自分を落ち着かせるように、一つ深呼吸した。
それから、ちらりと楊ゼンを見上げる。
「おぬし……本気か?」
「冗談で、こんなことを言うとでも?」
「……そうだな。ならば、正気か?」
その問いかけに、また感情が沸騰しかける。
「正気ですよ! 自分でも腹が立つくらいに……!」
いっそ、気が狂いでもしたほうが楽なくらいだ、と楊ゼンは心底思った。
こんなみじめな形で告白して、しかも相手に信じてもらえないなんて、滑稽にも程がある。
けれど、それでも目の前の人が好きだった。
それこそ、泣きたいくらいに。
気が狂いそうなくらいに。
「───…」
まなざしを背け、拳を握り締めた楊ゼンをちらりと見やって、太公望もまた困惑の極地の難しい顔で前髪を掻き揚げたまま、黙り込む。
その横顔は、明らかに予想外だと言っているようで、楊ゼンは密かに唇を噛み締めた。
最初から、叶うとは思っていない恋だった。
三年前のあの日まで、太公望は自分を可愛がっていてくれてはいたが、それは家族のような兄弟のような親愛の領域を出ないものだった。
それが分かっていたからこそ、甘い想像はしないよう懸命に自分を制し続けていた。
甘い夢を見れば見るほど、現実を省みた時、打ちのめされると分かっていたから。
───分かっていたのに。
ずっと自分に言い聞かせていたのに。
それでも。
現実を目の前にしたら、こんなに辛いなんて。
「───、楊ゼン」
理不尽な痛みに押し潰されそうになるのに耐えるのに一生懸命で、楊ゼンは咄嗟に太公望の言葉を聞き取ることが出来なかった。
「え……?」
すみません、とまなざしを上げ、再度の言葉を請う。
すると、太公望は苛立ったように前髪をかき回し、それから手振りで頭を下げろとジェスチャーした。
「かがめと言ったのだ」
「え?」
「いいから! ちょっと頭を下げろ」
「はい……」
何故、とは思いつつも、逆らえる相手ではないから、素直に頭を下げる。
そうして少しばかりうつむいた直後。
脳天に、痛みと衝撃が炸裂した。
「───っ!?」
そう強くではない、が、寸分の狂いもなく天会(てんえ)に拳骨(げんこつ)を落とされたのだと気付くのには、数秒が必要だった。
「何するんですかっ」
急所でもあるツボをどつかれた痛みに、思わず頭を押さえながら抗議の声を上げる。
だが、太公望のほうは平然としたもの……というよりも、こちらの言葉を聞く気など微塵もなさげに、いかにも不機嫌そうな溜息をついた。
「まったく……。昨日から、馬鹿だ馬鹿だと思っておったが、これほどとはのう」
「な……」
「うるさい」
反論しかけた言葉を、冷たい一瞥で遮られる。
そして、太公望は、まるで動物愛護センターの子犬を品定めするような目つきで、楊ゼンを見やった。
「ここで、おぬしなんぞが恋愛の対象になるか、と言ってやるのは簡単なのだがな」
「え?」
「そうしたらそうしたで、今度こそつまらぬ罪悪感で眠れなくなりそうだからのう」
仕方がない、と。
溜息混じりに、そう言って。
太公望は、楊ゼンに手を差し伸べた。
「オトモダチから始めてやろう。この三年間のことは、さっきの拳骨でチャラにしてやるから、おぬしも妥協しておけ」
目の前に差し出された細い手指を見つめ、太公望の顔へと視線を戻して。
楊ゼンはしばしの間、言葉を発することが出来なかった。
「……本気、ですか……?」
「冗談の方が良いか?」
「いいえ!!」
とんでもない、と激しく否定する。
だが、とてもではないが信じられなかった。
呆然と凝視する楊ゼンの内心を読んだのだろう、太公望は軽く肩をすくめて言った。
「勘違いしてもらっては困るが、これまでわしはおぬしを、そういう目で見たことはない。だが、まぁ……おぬしが本気だというのなら、それをあっさり無碍にするのも、な」
いつになく歯切れの鈍い言葉に、つまり、と楊ゼンは考える。
オトモダチから、という太公望の返事は、幼馴染に対する親愛の情の名残というか、過去二十年近い年月に免じての憐れみと同一線上にある感情から生じたものなのだろう。
本当なら拒絶してもいいところを、三年前のあの日まで、何のかんの面倒くさがりながらも自分の我儘を聞いてくれたように、今度も少しばかり甘やかしてくれた、そういうことなのだ。
だが。
───どうしてそれに不満があるだろう?
「───…」
おずおずと手を上げ、差し伸べられた手に触れる。
爪の短く詰まれた清潔そうな細い指は、寒風にさらされ氷のように冷えていて、思わず反射的に楊ゼンはその冷たい手を、自分の手のひらの中に包み込んだ。
「──ごめんなさい」
海岸で潮風に吹かれているのは自分も同じであり、自分の手もさほど温かいわけではない。だが、太公望の手よりはましだった。
少しでも温まればいい、とその冷たさを感じながら思う。
───子供の頃、何度も何度も繋いでもらっていた手だった。
遊び疲れた夕方、にぎやかな祭の夜、堤防やお気に入りの桜の木によじ登る時、台風で停電した夜。
いつでも差し伸べられ、何のためらいも疑いもなく、自分が掴んでいた手。
優しい……けれど、今になってみれば小さく細い手。
なのに、今でも自分は、この手を欲しがり、すがらずにはいられなくて。
「何がだ」
「三年前のこと、です。他にもたくさんありますけど……さっき、あなたを追いかけてきたのも、それが言いたかっただけなんです」
ごめんなさい、と小さな子供に戻ったように謝る。
と、太公望が溜息をつくように笑った。
「もう良いよ。さっきの拳骨で、あいこだ」
「……ごめんなさい」
「そろそろ戻ろう。冷えてきた」
「……はい」
うなずき、手を引かれて歩き出す。
三年前どころか十年以上も昔に戻ったように、さくさくと粗い砂を踏んで年上の幼馴染についてゆきながら、楊ゼンは少しだけ泣きたいような、目の前の人を思い切り抱き締めたいような気がして、繋いだ手にきゅっと少しだけ力を込める。
けれど、その手を振り払われることはなく──握り返されることもなかったけれど──、それだけのことに、不思議になくらいにほっとして肩の力が抜けて。
その後は、ただ半歩前を行く人の姿を見つめながら、黙々と歩いた。
to be continued...
3回で終わる予定でしたが、最終話が長くなりすぎたので、ファイル分割です。
しかし、この作品の楊ゼンを書いていると、つのっこが思い浮かんでしょうがないんですが。
太公望も、そんな気分なのかなー(-_-;)
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