海岸通りの喫茶店 2
「あのダァホが……!」
宵っ張りで、毎晩のように夜更かしをしては赤い目で台所へ下りてゆく悪癖を良かったと思ったのは、初めてのことだった。
いつもにも増して目を充血させた孫を見て、祖父はあっさりと、また徹夜で本を読んでおったのだろうと決め付けて呆れた顔をし、それ以上の詮索はしてこなかった。
が、もし、いかにも昨夜寝てませんと言っているような赤い目の理由を追求されていたら、寝不足の頭で、咄嗟にそれらしい返答をできていたかどうか。
三年間も口を利いていなかった年下の阿呆な幼馴染の阿呆な言動のせいで、腹が立ちすぎて眠れませんでした、なんて。
口に出すのも馬鹿らしすぎるではないか。
だからといって、もっともらしい理由を考えるのも、別の意味で馬鹿馬鹿しいこと限りない。
そんなわけで、腹立ちと寝不足とで脳味噌が煮え詰まったまま、うっかり何も考えずに階下へ下りていってしまったのだが、そこはそれ、普段からの生活習慣が勝手に理由をこしらえてくれたのだから、人間というのは何が幸いするか分からないものだと思う。
しかし、肝心の問題はそんな所にあるのではなくて。
「三年ぶりに話しかけてきたと思ったら、言うに事欠いて、何なのだあれは!」
寝不足から来る頭痛も上乗せされて、不機嫌絶好調の太公望は、歩きながらぶつぶつと呟く。
昨夜一晩、悪態をつき続けていたのだが、それでもまだ言い足りなくて、朝の海岸通りには人影が少ないのをいいことに、足元の小石を思い切り蹴飛ばしてみる。
ここ数年のことを思い返してみても、これだけ何かに腹を立てたことは記憶になかった。
「あのボケ、ダァホ、マヌケっ」
昨日、太公望を怒らせた相手──楊ゼンとは、ここ数年疎遠になってはいたものの昔からの付き合いで、いわゆる幼馴染だった。
というか、斜向かいの家同士で、相手が生まれた時からの知り合いを他に呼ぶ形容詞があったら教えて欲しい、というくらいに、幼い頃からいつも一緒にいた。
どちらも一人っ子だったから、それこそ兄弟同然に育ったのだが、三歳という年齢差の分、太公望の方がいつでも兄の立場にあって。
何でも幼馴染みの真似をしたがる子供に、あれやこれやと遊びや悪戯ばかりでなく、勉強や世間のことを教えてやるのも、長い間、太公望の役目だった。
そんな遊びの延長から始まった無料奉仕の家庭教師は、楊ゼンが高校に入学した年まで続いて。
ある日突然、終わった。
その日のことは、太公望も良く覚えている。
何ということはない、それまでの毎日と同じような日だった。
───その年の春、楊ゼンが高校生になると同時に、太公望も大学生となって、バスで30分ほどの所にある大学に通うようになった。
また、太公望が大学入学直後から中高生向け学習塾の講師のアルバイトも始めたため、二人が会える時間は、それ以前に比べて少し減った、というのが、その頃に生じた多少の変化だっただろう。
ただ、それでも週に1〜2度、太公望が楊ゼンの家庭教師をすることは変わらなかったし、二人の関係にも取り立てて何かが変わったような感じは、少なくとも太公望の方は持っていなかった。
それなのに、その日突然。
───いつになく硬い表情で、喫茶店の店内に入ってきた学校帰りの幼馴染の顔。
けれど、どうしたのかと尋ねた自分に、その時は何でもないと答えて、いつものように参考書を広げた。
そして、幾つかの問題を解き。
よく出来ておる、といつものように……それまでしていたのと同じように、相手の頭を、何の気もなくくしゃくしゃと撫でた時。
彼は、自分の手を挙げて、こちらの手を振り払った。
『──子供扱いしないで下さい、いつまでも……』
『あ、ああ、そうだな。すまなかった。つい……』
『家庭教師も、もうしてくれなくていいです。学校の勉強くらい、僕は自分の力で何とでもできます。──もう、僕には、あなたは必要ない』
『───…』
『今日で最後にしましょう。もう、この店で僕を待ってる必要はないですよ』
どうしたのか、とは聞かなかった。
何かあったのか、とも。
ただ、何となく分かる気がしたのだ。
高校生になった幼馴染が、何かを感じ、彼なりに成長しようとしているのだと、そう感じたから。
何かというと年上の幼馴染と学校帰りに待ち合わせ、休日もその幼馴染と共に過ごすことについて、誰かに何かを言われたのかもしれないし、誰にも何も言われていないのかもしれない。
理由などともかく、自分が十九歳になったのと同じように、彼も十六歳になったのだと納得して。
そうか、とうなずいた。
そして、それきり。
道で遇っても、挨拶すらしてこなくなって。
正直な所をいえば、突然の変化に戸惑いもしたし、寂しいとも思った。
けれど、いつまでも幼い子供のように二人で遊んでいられるわけもなかったし、楊ゼンには楊ゼンの生活があるように、太公望にも太公望の生活があり、友人付き合いがあった。
だから、仕方ないと思い、それ以上は気にしなかった。
ただ一つだけ、大事な幼馴染に最後に不快な思いをさせてしまったことに、少しだけすまなさを感じてはいたけれど。
なのに。
「あのダァホは……!! わしの三年分の罪悪感を返せ…っ」
昨日だって、三年ぶりに話しかけられ、座ってもいいかと問われた時に思い出したのは、最後に彼が自分の手を振り払った時のことだった。
久しぶりに間近で見た幼馴染は、すっかり大人の男へと変わってしまっていて、なのに、自分よりもまだ少しだけ背の低かった頃の彼しか覚えていない身としては、また対応を間違えてしまいそうな気がしたのだ。
今度こそ本当に成長してしまった相手を、また子供のように扱ってしまったら、今度こそ取り返しがつかないことになってしまいそうで。
そんな緊張感と、過去の罪悪感とのせいで、今更どう楊ゼンに対応すればいいのか分からず、つい素っ気無い態度を取った。
もちろん、もう少し正直に言うなら、素っ気無い態度の中には、三年前に手を振り払われた時に感じた戸惑いを、相手に返してやりたいという気分も決してなかったわけではない。
あの時のことは、傷ついたというほどではなくとも、一応それなりの衝撃はあったからだ。
……そんなこんなの感情が、昨日楊ゼンに話しかけられた瞬間に入り混じって。
とてもではないが、咄嗟にあの場で話をする気にはなれず、相手を置き去りにして店を出た。
それなのに。
どういうつもりなのだか、わざわざ走ってまでして追いかけてきたあの男は。
「勝手に人の感情を決め付けおって……!!」
憤りに任せて、いつもにも増して早い速度でずんずんと歩いていた太公望は、自分が今現在、曲がりくねった坂道をどこまで来ているのか、少しばかり認識しそこねていた。
そのことに気付いた時は、もう遅くて。
「師叔!」
前方からかけられた声に、心底ぎょっとして立ち止まる。
それこそ冗談ではなく、心臓が止まりかけたくらいに驚いたが、すぐさま昨夜から身の内を占めている憤りが、その驚きを駆逐して。
ぎっと太公望は、道端に立っている青年を睨み付けた。
「……こんな所で何をしておる?」
けれど、地を這うような不機嫌絶好調の詰問に、
「あなたを待ってました。ここに居れば、そのうち会えるだろうと思って……」
「ほおお」
少し決まり悪げにしながらも、はっきり答える楊ゼンに、太公望の目が据わってゆく。
楊ゼンが立っているのは、自分がほぼ日参している馴染みの喫茶店の角だった。
確かに、この場所にいれば、間違いなく自分を捕まえることは出来るだろう。
だが、すぐ近所の自宅に押しかけてくるのではなく、お気に入りの店の前で待ち伏せるやり方が、もとより最悪に逆立っていた神経を、更に逆撫でして。
「なかなか姑息な知恵が回るようになったのう。おぬしもどうやら三年分、成長したらしい」
「師叔」
「だがのう、楊ゼン。昨日の今日で、よくもわしの前に顔を出せたな?」
「それは……」
何やら言いつのりかける幼馴染を、目線一つで太公望は制する。
大昔、構ってくれと駄々をこねる楊ゼンに対して、絶大な威力を発揮したスキルだが、どうやらまだ有効であるらしい。
幼い頃の条件反射が残っているのか、それとも昨日今日と続けて対応を間違えたという自覚があるのか、口ごもり、見えざるケモノ耳を伏せる青年に、太公望は容赦なく言った。
「どうせおぬしのことだから、何故、わしが昨日怒ったか、分かっとらんだろう。おぬしが阿呆な勘違いを口にする前に言っておくが、わしは別に、三年前のことや、おぬしが話しかけたことについて怒っておるわけではない。もっと別の、おぬしのとんちんかんな勘違いについて、ぶん殴ってやりたいくらい腹を立てておるのだ」
「え……」
「良いか、楊ゼン。今度はわしの方から言うぞ。
──もう二度と、金輪際話しかけるな。このダァホ!!」
思い切り怒鳴りつけて。
太公望はくるりと相手と目的地であった喫茶店に背を向けて、来た道を駆け出す。
昨日とまったく同じパターンだが、もう二度と、立ち止まってやる気も捕まってやる気もなかった。
to be continued...
というわけで、喫茶店話その2。
作品中ではあまり描写できてないですけど、今回の話は珍しく、舞台は地方の町です。
海岸沿いの小さな観光地。
私の中のイメージとしては、湘南とか鎌倉とか、あの辺の感じかな。夏場は海目当ての観光客が多いんだけど、冬場は人がいなくなって静かになる街のイメージ。
しかし、今回も全然甘くなくてすみません。
なんか派手に喧嘩してて(というか太公望が一方的に怒り狂っていて)、どうにも収拾のつかない感じです。
ラブコメ書きたかったんだけどなー?
次回こそ頑張ってくれないと困るよ、楊ゼン。さもないと、へっぽこキングの称号をプレゼントしちゃうぞ?
というわけで、とりあえず次回、完結予定です。
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