「師叔?」
ぼんやりと開かれていた瞳に、ようやく焦点が戻ってきたのを認めて、楊ゼンはそっと名前を呼ぶ。
と、ひどく気怠げに数度まばたきした後、太公望は楊ゼンの方へと視線を向けた。
しかし、まなざしが合ったのもほんの束の間で、太公望は力なく瞼を閉じてしまう。
「大丈夫ですか?」
「ん……」
やわらかな髪をゆっくり撫でながら問いかけると、ごく小さなかすれた声が返った。
事が終わってから、もう幾分の時間が経っている。
が、快楽が過ぎて、意識を飛ばすこともできなかった分、負担が大きかったのだろう。今もまだ、太公望はぼんやりと気怠そうに楊ゼンの腕に頭を預けている。
けれど、髪を優しく梳かれているうちに現実感が戻ってきたのか、目を閉じたまま太公望は小さく息をついた。
「師叔」
髪を撫でる手を止めないまま、楊ゼンは穏やかに問いかける。
「何かあったんですか?」
今夜の太公望は明らかにいつもとは違っていた。
もちろん、もう何度か躰を重ねているのだから、更に一歩、感覚が深まっても別におかしくはない。
だが、階段を一つ昇るには、心理面でも何らかの変化なり作用なりが必要なはずで、単に長かった易姓革命が終わったからとか、今夜の餞(はなむけ)の酒の影響だとか、それだけではない何かが今の太公望の裡(うち)にはあるような気が楊ゼンにはしていた。
「──いや…」
だが、太公望の小さな声がそれを否定する。
「何もなかったよ。今日も一日、城の中をうろついて……花の下で昼寝して……」
「……そうですか。それならいいんです」
本当の快楽は、真実相手を信頼し、心を許している時、そして他に心配事がなく、行為に集中しているときにしか得られない。
現状が現状である以上、今夜の太公望がそこまでの境地にあったかどうかは分からないが、もし何かがあったのだとしても、それはそう悪いことではないだろう、と楊ゼンは追及するのをやめた。
「でも、本当に何か辛いことや嫌なことが起きた時には、僕に言って下さいね」
そうとだけ告げて、わずかに身を起こし、太公望のこめかみにそっと口接ける。
と、太公望は閉じていた瞳を開いて楊ゼンを見つめて。
どこか切ない表情で、小さくうなずいた。
抱き寄せられるまま、楊ゼンの腕にもう一度頬を寄せながら、太公望はとりとめのない物思いにふける。
こんな風に躰を重ね、今も寄り添っているのに、楊ゼンの温もりも匂いも嫌悪感をもたらすどころか、むしろそれに安堵を感じている自分がいる。
一体どういうことなのだろう、と太公望は、ぼんやり自問を繰り返した。
確かに楊ゼンのことは信頼している。だが、武王のことを信頼していないわけではない。それぞれに意味合いは違うが、どちらも自分にとっては大事な存在である。
なのに、どうしてこれほどまで露骨に──感じる感覚が異なるのだろう。
楊ゼンとは、既に数度の経験があるから、というのは理由にならない。一番最初の時から、彼相手には口接けにも、その先にも、嫌悪感は微塵も感じなかった。
ただ、あまりにも触れてくる彼の手や唇が優しすぎて、切なかったばかりで。
伸ばされた腕を拒みたいと思ったことは一度もない。
なのに、武王に対しては、たったあれだけの接触に吐き気がするほどのおぞましさを覚えた。
何故、と太公望は自分に問いかける。
──武王は、比べてみろ、と言った。
確かに違っていた。
けれど。
自分の心の判断がつかないまま、太公望は目を開けて楊ゼンを見つめる。
「師叔……?」
優しい瞳で気遣うように問いかけながら、楊ゼンの手がさらさらと流れる髪をゆっくり撫でる。
その手の動きの優しさがたまらないほどに切なくて、太公望はもう一度瞳を閉じた。
そして、分からない、と心の中で呟く。
誰よりも信頼していて、本当に大切だと思う。
もしかしたらその感情は、これまで誰にも感じたことがないものかもしれない。
けれど、それにどんな名前を付ければいいのか分からない。
この切なさを、すべてを預けてしまいたくなるような安堵感を何と呼べばいいのか。
「何を考えていらっしゃるんですか……?」
穏やかな問いと共に、額に宥めるような口接けの感触が触れるのを感じる。
「何も……」
「駄目ですよ。言ったでしょう? こんな傍にいれば、何か考え事をしていらっしゃることくらい分かります」
やんわりといなされて、太公望は小さく息をつく。
そして、片手を上げ、髪を撫でる楊ゼンの手をそっと止めた。
「……大したことではないよ」
力強い、大きな青年の手の感触を指に感じながら、太公望は瞳を開けて目の前の相手を見つめる。
「……紂王のことを思い出しておった」
「紂王?」
思いがけぬ名前に、さすがの楊ゼンも驚いたように軽く目をみはる。
彼の気が逸れたのを確かめて、太公望はうなずいた。
「わしが朝歌に着いたのと、おぬしたちが兵を率いて入城したのとでは少し時間差があっただろう。その間に、わしは紂王と話をしたのだ」
「──どんなことを話されたのですか?」
「大したことは何も……。あやつにとっては大切なことばかりだったと思うが……」
敷布の上に手を下ろしても、楊ゼンの手から指を離さないまま、静かに太公望は言葉を紡いだ。
「──天化が、禁城の衛兵に刺されたことは言ったであろう?」
「ええ」
太公望の手に預けた右手を取り返そうとはしないまま、楊ゼンはうなずく。
「紂王は……それを済まぬと言った。自分にはもう王たる資格などないのに、自分のために武成王の子息を死なせてしまったと……」
そして、死に瀕した王が語った言葉を正確に思い出そうとするように、太公望はまばたきした。
「あやつは、自分には最初から王たる資格はなかったと言ったよ。臣下を不幸にし、民を苦しめ、妃と子を死に追いやって……。だが、何度やり直しても自分は必ず、同じ道を歩む。王の子として生まれてはならない人間だったのだと」
「ですが、紂王が道を誤ったのは妲己の術のせいでは……」
楊ゼンの言葉に、太公望は小さくかぶりを振る。
「確かにあれだけ近くにいれば、いかに精神力が強い人間であっても、妲己の魅惑の術から逃れることはできぬ。けれど、紂王は違うと言った。たとえ術の影響があったにせよ、己の責任を忘れて一人の女に溺れる弱さが自分にはあったのだとな」
太公望の静かな声が、ゆっくりと夜の静寂に消える。
「そして、正輝に戻った今でも、妲己を愛しいと思うと……」
「では、紂王は……」
わずかに驚愕をにじませた楊ゼンの声に、太公望は淡々と言葉を紡いだ。
「術をかけられている間、理性は抑え込まれていたものの失われてはいなかったそうだ。いつでも自分が何をしているか、妲己が何をしているかは分かっていたが、妲己の言うなりになっているのが一番楽だったし、何よりもあの女の機嫌を損ねるのが怖かったのだと……」
そう言った時の紂王の姿を、太公望は思い返す。
自分が利用されているだけだということを理解していながら、いつ見捨てられるのかと怯えつつ、一人の女を愛し続けた男は、人生の最後に訪れた苦渋と悲哀を、疲れきった心に噛み締めていた。
言ってみれば彼は道化、ただの傀儡(かいらい)だった。
いいように妲己に操られ、すべてをもぎ取られて捨てられた。
だが、彼は女を愛したことは悔いてはいなかったのだ。
その想いゆえに、数多の人々の生命を虫けらのように踏み潰し、国を滅ぼすことになってしまったことを深く悔やんではいたが、それでもなお、女への愛は否定しようとしなかった。
民を苦しめ、国を滅ぼした罪悪は決して許されるものではない。だが、それでも一言では片付けられない哀れさと高潔さが彼の姿にはあったことを、太公望は苦く噛み締める。
「紂王は……本気で妲己のことを愛したのですか」
楊ゼンも同じ感慨を抱いたのだろう。驚愕とほのかな感嘆が込められた声に、太公望は小さくうなずき、言葉を続けた。
「最初は何も知らなかったかも知れぬ。だが、妲己が自分を利用しているだけだと気付いてからも……」
むしろ、愛されていないと気付いたからこそ、彼女を自分の傍に引き止めるために必死にすがったのかもしれない。
けれど、結局、妲己は最後まで彼に憐れみをかけることをしなかった。
「……妲己は何がしたいのだろうな。何度も何度も同じことを繰り返して、多くの人々の運命を狂わせて……」
まなざしを伏せて、太公望は呟く。
おそらく、これまで彼女に魅入られた男たちは皆、同じ運命をたどったのだろう。
こんな風に男の人生を狂わせ、国を破滅に追い込んで、その先に彼女は何を求めているのか。
少なくとも贅(ぜい)や権力を望んでいるのではない。
かといって、ただ世を乱すことを喜ぶ妖姫でもない。
何か、もっと途方もないものを求めているように、太公望には思えてならなかった。
──けれど。
突き詰めて考えれば、そんな妲己と自分の間にはそれほどの差はないのかもしれない、と太公望は思う。
考え方も方法もまったく違うが、己の目的を叶えるために人々を動かし、死に至らしめているのは、どちらも変わらない。
そうして尽くしてくれた人々に、何一つ見返りを与えることをしないのも。
改めて我が身を顧みてみれば、彼女の傲慢とどれほどの差があるとも思えないのだ。
己の愉しみに人を殺したことはなくとも、血まみれの手をしているのは自分も同じ。
修羅の道を歩み、洗い流すことのできない朱い色に染まっているのは、彼女も自分も同じだった。
「師叔」
不意に名前を呼ばれて我に返り、目線を上げる。
と、楊ゼンがひどく真剣な瞳でこちらを見ていた。
「楊……」
「御自分を貶(おとし)めるようなことを考えないで下さい」
深い、心に染み入るような声で楊ゼンが告げる。
「昨夜、今だけは後悔しても御自分を責めてもいいとは言いましたが、あなたとあの女を同列に見なしてもいいとは一言も言ってません」
ぴたりと内心を言い当てられて、太公望は目をみはる。
が、そんな太公望を見つめたまま、楊ゼンはずっと触れ合ったままだった手を自分の方へと引き寄せた。
「あなたの手は、いつも誰かを助けるためにさしのべられてきた。そのことは僕が一番よく知っています。仙界大戦の時も……師匠が斃(たお)れて、力尽きかけた僕を抱きしめて支えてくれたのは、この手だった」
太公望の細い手の甲に、いとおしむように楊ゼンはそっと唇を押し当てる。
その真摯な言葉と温かな感触に、太公望は声を失う。
「あなたはいつでも、人々の幸せのために御自分が何をできるかということばかり考えていたでしょう? あなたと妲己は同列には決してならない」
小さな手を包み込む楊ゼンの手の力が強くなって。
「たとえ誰かの血に染まっていても……あなたの手は、僕にとって世界で一番優しい手です。何があっても、それだけは変わらない」
怖いほどに真摯な楊ゼンの瞳に、まなざしを逸らすこともできないまま、太公望は二、三度まばたく。
そして、
「……すまぬ」
小さな声で告げた。
「時々……自分の業(ごう)が怖くなるのだ。自分は一体、何をしているのかと……。誰かの死を見送るたびに……」
かすかに揺れる呟きのような声に、楊ゼンは黙って太公望を見つめる。
「どうやっても、この手ではすべてを救うことができない。そうして零れ落ちていった命が、どこへ消えていったのか……考えると怖くなる」
「師叔……」
楊ゼンは太公望の手をそっと離し、やわらかな線を描く頬を撫でるような優しさで触れた。
「……あなたは十分過ぎるほどにやっていると言っても、きっと納得なさらないのでしょうね」
「───…」
うなずきこそしなかったが、否定もせずに太公望は楊ゼンの瞳を見つめ返す。
楊ゼンもまた、視線を逸らしはしなかった。
「でも、僕はいつでもここにいますから。どんな道を歩まれようと、共に行くとお約束したでしょう? いつか、あなたが御自分を許してもいいと思える時まで、僕があなたの業を共に背負いますから」
「楊ゼン」
「何があっても一人だとは思わないで下さい。あなたにそうやって拒絶されることが……僕は一番辛い」
ひどく苦いものを飲み込むように、楊ゼンが告げる。
その表情を見つめて、太公望は頬に触れている楊ゼンの手に、そっと自分の手を添えた。
「……一人だなどとは、もう思っておらぬよ」
いつでも傍にいると信じさせてくれる彼に、自分がどれほど心を傾けてしまっているのか、もう気付いている。
自分の業は自分で背負わなければならないと、今でも信じているけれど、共に歩くと言ってくれる存在があることが、どれほど心を慰めてくれるか知ってしまったから。
その優しさを──温もりを受け取る資格があると思ったことは一度もなくても。
もう、誰にも心の裡を見せる気はないと嘯(うそぶ)くことはできない。
「太公望師叔」
ひどく切ない声で楊ゼンは名を呼び、言葉にしきれない想いをにじませた瞳で太公望を見つめる。
その瞳を見つめ返し、太公望はゆっくりと目を閉じて口接けを受け止めた。
やわらかな熱が何度も優しくついばむように触れ、誘いかけるように少しずつ濡れた舌が、薄く開いた唇の隙間から忍び込んでくる。
それを迎え入れるように、太公望もそっと舌先を伸ばしてごく軽く触れ合わせた。途端に、それまで感じていた淡い甘さが強くなり、躰の芯にまで広がってゆくような感覚にたちまちのうちに溺れる。
強く抱き寄せられ、何度も何度も角度を変えながら続く深い口接けに、指の先までが切なく痺れた。
「───っ…」
やがて、名残惜しげにゆっくりと唇が離れてゆき、太公望は乱れた呼吸に小さな喘ぎを零す。
うっすらと上気したその目元や頬に、楊ゼンは小さなキスを繰り返して。
そのまま二人はしばらくの間、切なさとも安らぎとも感じられる静寂に身を浸す。
肌に感じる互いの温もりだけが、今は唯一つの確かな存在だった。
「───のう」
どれほどの時間が過ぎたのか、太公望は閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
「何故、わしの考えていたことが分かった?」
いつもながら不思議でならないと言いたげな問いかけに、顔を上げた楊ゼンは太公望を見つめて小さな微笑を浮かべる。
「たまたま、ですよ。もう随分長い間、こうしてあなたの傍にいますから……」
曖昧な答えに、それでは分からない、と太公望の瞳が楊ゼンを見上げる。
そのまなざしを受けて、楊ゼンはなんとも形容しがたい、静かな微笑未満の表情で、言葉を付け足した。
「あなたが何を悩んでいらっしゃるのかくらいはわかっているつもりですから。妲己のことを口にされた後、僕の手に触れていたあなたの手の力がほんの少し強くなったので、そういうことかと……」
「それだけのことで……?」
「ええ」
目をみはる太公望の癖のない髪をかき上げるように撫で、楊ゼンは目元に小さな口接けを落とす。
「だからといって、あなたの考えていらっしゃることが全て読めるわけじゃありません。でも、あなたは案外、分かりやすい方ですから」
「わしが?」
今度こそ本気で目をみはった太公望に、楊ゼンも微笑した。
「あなたのものの考え方にはいくつか特徴がありますから、それさえ分かれば、あとはそう難しくないんです。あなたの思考は、基本的にとても理論的ですし……。敵の動きを予想するのも、軍略をきちんとわきまえている相手の方が簡単でしょう? それと同じことですよ」
その言葉に、太公望は楊ゼンを見つめたまま、まばたきする。そして、
「……おぬしの目から見て、どんな特徴があるというのだ?」
やはり今一つ分からないと言いたげに問い返した。
「そうですね……」
手の内をさらすのもなんですが、と言いながらも楊ゼンは言葉を探すように小さく首を傾ける。
そして、太公望の瞳を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぎだした。
「一つは、先程も言った通り、広範な知識を基にした、とても論理的な思考をされるということ。そして、それと裏腹に内面は非常に非論理的──非理性的といってもいいですが──だということ」
「───それから?」
端的な表現に、わずかに眉をしかめながら太公望は先をうながす。
「それから、他人のことばかり気にかけて、自分にはこれ以上ないほどに厳しい人だということ。誰かを傷付けるくらいなら、自分が傷付いた方がまし……、違いますか?」
更に顔をしかめた太公望に、楊ゼンが微笑みながら問い返す。
が、太公望は憮然とした、どこか拗ねたような表情のまま、短く同じ言葉を繰り返した。
「……それから?」
「──とても生真面目で、絶対に諦めるということをしない人ですね。そして、誰に対してもありのままに受け入れて否定することはないし、裏切られても決して自分からは裏切らない。だから、僕たちはあなたを信じるし、あなたに信じて欲しいとも思うんです」
そう告げながら、楊ゼンは太公望を引き寄せ、額に軽く口接ける。
それを避けるようなことはしなかったが、太公望は今度は居心地悪そうに顔をしかめた。
「それから……、あともう一つ」
「まだあるのか?」
「ありますよ」
太公望はさすがに渋い顔で問い返したが、楊ゼンは微笑しただけで。
そっと太公望の頬に手を伸ばし、指先で触れながら続ける。
「最後に……あなたは、とても素直で可愛らしい人だということ」
「な……」
その言葉に、太公望は思わず絶句する。
ぱっと反応して薄紅に染まった、やわらかな線を描く頬を、楊ゼンはいとおしむように左手で包んだ。
「わしのどこが……!?」
「本当ですよ」
優しい瞳で太公望を見つめ、楊ゼンは続ける。
「敵や見方を欺(あざむ)くのはお上手ですが、本当のところ、あなたは嘘なんかまったくつけない人です」
「───…」
「確かにあなたは、いつも本心を隠していらっしゃいますけど、本音を隠している、ごまかしていると分かってしまうような嘘は嘘と言えませんから」
きっぱりと言い切られて、太公望は反論する言葉を失う。
そして、楊ゼンは軽く目を伏せるようにしながら、穏やかな口調で締めくくった。
「何もかもが分かるわけではありませんし、突飛な発想に驚かされることも良くありますけどね。もう十年以上もあなたの傍にいますから、こうして会話している分には、結構あなたの考えていることは想像がついたりするんですよ」
「…………」
実際このところ、彼に内心を言い当てられることがしばしばあるのは事実だったから、太公望は何も言い返せないまま、見抜かれてしまっている悔しさと居心地の悪さが入り混じった瞳で、楊ゼンを見返す。
そのまなざしを受けて、彼は小さく笑った。
「──でも、あなたも僕のことをある程度は分かっていらっしゃるでしょう? 人の性格を見抜くのはお得意ですし……」
「……そう思っておったのだがのう」
ぼそりと答えて、太公望は不意とまなざしを逸らす。まるで拗ねているような仕草に、楊ゼンはそっと太公望の髪に指を伸ばし、さらさらと逃げる髪を梳き上げる。
「近頃は、とてもそんな風には思えなくなった」
おぬしが人の意表を突くことばかりするから、とわずかに責めるような目をされて、楊ゼンは微苦笑をもらす。
「おぬしが悪いわけではないが、近頃のおぬしの言動はさっぱり読めぬ」
「すみません」
そして、詫びるように太公望の目元に口接けた。
「──本当は、全部終わるまで何も言う気はなかったんですよ」
拗ねたような表情をしていても逃げようとはしない華奢な躰を抱き寄せて、楊ゼンは苦笑まじりに打ち明ける。
「気付いてくれたらいいなとは思ってましたけど、あなたにそんな余裕はないと分かってましたし……。第一、僕には正体を偽っているという負い目がありましたから」
「楊ゼン」
静かに告げられた告白に、楊ゼンの腕の中で太公望が軽く目をみはって、楊ゼンの瞳を見上げる。
窓からの淡い月明かりを受けて、深い色にきらめく瞳を楊ゼンはまっすぐに見つめて微笑した。
「正直なところ、あなたが何も僕の気持ちに気付かないことに安心していた部分もあるんです。拒否されるならいい、でも、もし万が一受け入れられたら、必ず正体を偽っていることが苦しくなりますから……」
「────」
そんなことを考えていたのか、と初めて知らされた楊ゼンの想いに、太公望は目をみはる。
その目元に、楊ゼンは優しい仕草で指先を触れた。
「でも、正体がばれた後も、このままでいいと思っていたんです。あなたが僕をどう思っているのであれ、封神計画が終わるまで答えは出せないだろうと分かってましたから。
……まさか、あなたがこんな風に僕の我儘を受け入れて下さるなんて思いもしなかった」
そして、太公望のやわらかな髪に、そっと頬を寄せて目を閉じる。
「だから、師叔」
静かな声が太公望を呼ぶ。
「間違えないで下さいね。これは僕の我儘なんですから」
「え……?」
「今すぐ答えを出せないのを僕に申し訳ないなんて思わないで下さい。前に言った通り、すべて終わってからゆっくり考えて下さればいいんです」
「──楊ゼン…」
「あなたにはまだ、やらなければいけないことが残っているんですから、僕の我儘なんかのために悩まないで下さい」
ゆっくりと言い聞かせるような声音に、太公望はまばたきをして。
心の一番深い部分から静かに湧き上がってくるような切なさに、目を閉じる。
心地好い温もりと、清(すが)しくて優しい彼の香りに抱きしめられて。
このまま何も考えずにまどろんでいたくなるような安堵は、どこから来るのか、あとほんの少し、手を伸ばせば分かりそうな気もするのだけれど。
今は、まだ。
これはただの甘えだと、分かっているけれど。
「楊ゼン」
涼やかな響きの名を呼んで、そっと手を伸ばし彼の胸元に触れる。
「あと……もう少しだから……」
ささやいた言葉は。
封神計画が真に終わりを迎えるまでなのか。
いまだ形にならない切なさに名前がつくまでなのか。
どちらの意味がより深いのかは、太公望自身にも分からない。
けれど、これが、今この瞬間に伝えることのできる精一杯の言葉だったから。
「師叔……」
優しく抱きしめてくる腕に逆らうことなく、楊ゼンの胸に寄り添う。
と、肌に触れた手のひらにふと彼の鼓動を感じて、その確かさに誘われるように太公望は胸に耳を当てた。
「───…」
今ここで生きているのだ、と主張するように温かな肌の下で心臓が脈打っていて。
気持ちいい、と素直に太公望は思う。
ゆっくりと一定のリズムで刻まれる鼓動に、これまで感じたことがないほど深い安堵が広がり、全身の感覚がほどけてゆく。
数えきれないほどの死を見送った心に、その生命の音はあまりにも愛しく、切なく響いて。
すべてが癒されていくような温かい感覚に身をひたしながら、
「……のう、楊ゼン」
太公望は目を閉じたまま、口を開いた。
「全部終わったら……わしの話を聞いてくれるか? 他愛のない昔話ばかりだが……。父がいて母がいて、兄がいて妹がいて……家族と村の人々と羊だけがすべてだった頃の……」
「師叔……」
少し驚いたように楊ゼンが名を呼ぶ。
きっと今、綺麗な色の瞳を軽くみはっているのだろう、と太公望は思う。
自分でも何故、突然こんなことを思いついたのか分からない。
けれど、ひどく懐かしいような楊ゼンの鼓動に、ふと遠くなった愛しい日々のことを話したい、聞いて欲しいと思ったのだ。
「師叔」
そして、響きのいい声と共に抱きしめられる力が強くなるのを心地好く、少しの切なさと共に太公望は受け止める。
「全部聞かせて下さい。何日かかっても構いませんから、嬉しかったことも悲しかったことも一つ残らず……。そして……」
「ん?」
ためらうように言いよどんだ楊ゼンを、太公望は短くうながす。すると、楊ゼンは太公望の黒髪に手を触れ、優しく指で梳きながら続けた。
「僕の話も……聞いてくれますか?」
その言葉に太公望は微笑む。
「わしが聞きたくないと言うと思うのか」
「そういうわけじゃありませんが……」
少し困惑するような声で答えた楊ゼンに、太公望は目を開けて顔を上げた。
まっすぐに瞳を合わせて、
「おぬしのことも全部聞かせてくれ」
やわらかな微笑みと共に告げた太公望を見つめ、楊ゼンもまた限りない愛しさをにじませた表情でうなずく。
「ええ、師叔……」
いとおしむような優しい口接けを受けて、太公望は再び楊ゼンと瞳を見交わし、また彼の胸に顔を伏せた。
──自分たちはまだ生きている。
消えていった人々の記憶を刻み込みながらも、この心臓はまだ動き続けているのだと、そう心に呟いて。
「あともう少しだ……」
もう一度、先程とは異なる声音でささやく。
そのまま、懐かしい互いの温もりを感じながら。
夜明けまで二人は幼子のように寄り添っていた───。
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opening text by 「サンタ・サングレ」 ZABADAK