窓は閉めているから、室内にほとんど空気の動きはないはずなのに、燭台の灯はかすかな音を立てながら揺らぐ。
その薄明かりの中で、ぼんやりと太公望は卓に頬杖をついていた。
既に夜更けである。城内はひっそりと静まり返り、それは仙道たちが間借りしているこの一角も例外ではない。
と。
不意に扉を叩く音が聞こえて、太公望は我に返った。
「太公望師叔、僕です」
馴染んだ声と気配に、思わず胸がどきりと跳ねる。が、慌てて立ち上がり、扉の掛け金を外した。
すると、片腕である青年道士が、石造りの回廊に雅やかな姿を見せて立っていた。
太公望は既に夜着に着替えているのに、彼はまだいつもの道服のままである。
「こんな時間に申し訳ありません。明かりが付いているようでしたので、もし眠れないのでいらっしゃるならと思いまして」
そう言いながら、右手を軽く掲げて見せる。
その形のいい、力強さを感じさせる手には、小振りの酒壺が掲げられていた。
「それは気遣いさせてすまなかったのう。とりあえず入ってくれ」
微笑して、太公望は身体の位置をずらし、青年を室内に招き入れる。
仙道たちが仮住まいしている部屋は本来、賓客用の客間であるのか、内装は品よく整えられているし、酒器などの調度も一通り揃っている。
広すぎるのは落ち着かないと、太公望はそれらの中でも手狭なものを選んだのだが、それでも十分すぎるほどの広さがあった。
その中を横切って、飾り棚から太公望は酒盃を二つ取り出し、卓へと戻った。
「お休みになられるところだったのではありませんか?」
燭台の灯が少ないことを気にしたのだろう、楊ゼンが問いかけるのに太公望はかぶりを振る。
「ぼんやりしておっただけだよ。……今一つ、眠る気になれなくてな」
「僕もですよ」
穏やかに言って、楊ゼンは酒壺の封を開け、太公望が用意した酒盃に注いだ。
「いい香りだのう」
ふわりと立ちのぼった芳醇な香りに、太公望は目をしばたたかせる。
ちょっと珍しいほどの極上の酒の香だったが、どこで手に入れたかと聞くのも野暮のような気がして、楊ゼンが渡してくれる盃を黙って受け取った。
「何に乾杯するかのう?」
「そうですね」
考えるように首を傾けた楊ゼンの方から、さらりと癖のない髪が零れ落ちる。それは灯火の明かりに絹のような光沢を放ってきらめいた。
「まぁ難しく考えずに……、春の宵にでいいのではないですか?」
「宵という時刻ではない気がするがのう」
苦笑しつつも太公望はうなずき、軽く盃を掲げてから口元へと運ぶ。
「……美味い」
ゆっくりと一口を含み、極上の酒のまろやかな味わいと、喉を焼きながら滑り落ちてゆく感覚に太公望は目を細めた。
「お口に合って良かった」
それを見届けて、楊ゼンもまた盃に口をつける。
そして、早速飲み干してしまった太公望の盃に二杯目を注いだ。
……こんな風に酒を飲み交わすのは久しぶりだった。
以前はいつだったかと数えると、太公望が太上老君を探す旅から帰ってきて、メンチ城を落とした日の祝宴まで遡(さかのぼ)ってしまう。
そんな宴ではなく、こうしてしみじみと飲んだのがいつかというと、もう思い出せない。
朝歌入城後も、祝宴は一度も開かれてはいなかった。
周の勝利で終わったことはめでたくとも、民衆の見守る前で紂王は首を刎ねられたのであるし、また荒廃しきった朝歌の情勢は、人々に浮かれることを許さなかったのである。
そして、道士たちもまた、地上の戦いが終わったからといって、それに安堵はしても祝う気にはなれなかった。
せめて、朝歌入城に際して一滴の血も流れなければ、銘々に一杯ずつの酒くらいは振舞われ、それを喜んで受けたかもしれない。
だが、現実では皆、朝歌を復興させるための肉体労働に余暇を費やし、ともすれば沈みがちになる気を保つのが精一杯だった。
そんな久しぶりの酒を、特に会話も交わさないまま、静かにゆっくりと二人は盃を干してゆく。
そして、酒壺の中身が半分ほどに減った頃、ようやく楊ゼンが口を開いた。
「師叔」
「ん?」
呼びかけられて、太公望は隣りの楊ゼンを見上げる。
肴もなく、ひたすらに強い酒を飲み続けているにもかかわらず、どちらにも酔いの色はない。
「あなたに伝えておかなければいけないことが、一つあるんです」
いつもと変わらぬ、落ち着いたその声に、太公望は目で先を促した。それを受けて、楊ゼンはゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「天化くんの最期の言葉を……」
「え……」
静かな声を耳にした途端、太公望は大きな瞳を見開く。灯火を受けて深い色にきらめくその瞳を、楊ゼンはまっすぐに見つめ返した。
「最期の、言葉……?」
夜の中でも変わらぬ、宝玉のような色合いの青年の瞳を見上げて、太公望は小さく呟く。
「ええ」
よく透る低い声は、よどみなく静かに響いた。
「あの夜、天化くんが僕に言ったんです。あなたにひどいことを言ってしまった、と……」
「いつ……」
「牧野の戦いの直後にあなたが過労で倒れて、夕刻、僕が様子伺いに行ったでしょう? その後です。武王の天幕に戻る途中で天化君と会って、少し話を聞いて欲しいと言われたんですよ」
目をみはったまま、太公望は灯火のやわらかな光に照らし出された楊ゼンの瞳を見つめる。
──確かに、そういう事はあった。
牧野の戦いが終わった直後、スーパー宝貝を使い続けた反動で太公望は倒れ、数刻の間、深い眠りの淵に沈んでいたのだ。
楊ゼンはその時、太公望に代わって武王と共同で全軍に指示を出さねばならず、天幕に様子伺いにやってきたときには、既に日が暮れようとしていた。
けれど。
「何故、天化はそんな……」
驚きにまだ呆然としたまま、太公望は頼りなく揺らぐ声で呟く。
──牧野の戦いの最中。
紂王との戦いを楊ゼンらに任せて休んでいた太公望のあまりにもやる気のない態度に、たまりかねた天化は初めての不信を口にした。
このままでは信じられなくなると。
この調子で、父や師を見殺しにしたのではないかと疑いたくなると。
仲間の苦戦を目の当たりにして気が高ぶり、咄嗟に出た言葉ではあっただろう。
けれど、彼は決して頭の回転の鈍い青年ではなく、また他人を悪く言うことをよしとする性質(たち)でもなかったから、その疑念は本物──それまで口に出すことなく、また彼自身も見ないふりをしていたのだろうが、それでも長い間、彼の心の片隅にくすぶっていた言葉だったのには違いない。
その鋭い糾弾に、太公望は反論する気にはなれず、また口を開く前に倒れてしまったため、思いつめた表情をした天化に何も言ってやることができなかった。
その時、側にいた霊獣・四不象が多少のフォローをしてくれたが、それを彼はどう聞いたのか。
結局その後、生き急ぐ彼を引きとめようと短い口論をしただけで、まともに言葉を交わす暇もないまま、太公望は彼と永訣してしまったのだ。
「少し考えれば、何故あなたがあんな態度を取っていたのか、分かったはずだと……。天化くんはとても悔しそうでした」
楊ゼンはゆっくりと太公望から視線を外し、卓上の酒盃にまなざしを落とす。なめらかな線を描く玉製の盃は、灯火を受けてやわらかな輝きを見せていた。
「そんなこと……」
うつむきがちに呟く太公望の声は、ひどく苦い。
天化の言葉は心に抱いて当然、口にして当然の疑念だった。
確かに、彼のことだから、不意に倒れた自分に驚き、発言を悔いただろう。
だが、限界近かった疲労をカモフラージュするために、疑われるような態度をわざと取っていたのは事実だったし、仙界大戦の折、道徳真君や武成王の死をなすすべもなく見送ってしまったのも事実なのだ。
「あやつが悔やむようなことではなかろう……」
唇を噛んで、太公望は呟く。
ひどく悔しかった。
何故、そんな思いを最期にさせねばならなかったのか。
もっと方法があったのではないかと、取り返しのつかない悔恨がとめどもなく込み上げてくる。
そんな太公望をいたわるような瞳で見やり、楊ゼンは静かに続けた。
「天化くんは誰かと対等になりたい、と言っていました。父親似も師匠にも、自分は確かに信頼はされていたが、それは対等な立場でのものではなかったのだと。だから、父親を乗り越えなければ前に進めないと、僕に……」
「───…」
「……あなたにも、信頼されたかったんです。天化くんは……」
その言葉に、太公望はきつく唇を噛む。
天化のことを信頼していなかったわけではない。だが、決定的な場面では、やはりまだ心身両面に荒削りな部分が目立っていて、何もかもを信頼して任せるというわけにはいかなかった。
おそらく、そのことが彼にはどうしようもなく歯痒かったのだろう。
何もかもを任せてくれない軍師。
何もかもを任せられない自分自身。
それらに対する苛立ちや焦燥が、結果的に彼を追い詰め、無謀な単身行動へと走らせてしまったのだ。
「どうして……」
何故、彼は思いとどまれなかったのか。
自分は思いとどまらせることができなかったのか。
何度も何度も繰り返した自問が、脳裏にこだまする。
と、無言のまま楊ゼンが新たな酒を盃に注ぎ、そっと太公望の前に置いた。
「───…」
その意図を問うて顔を上げた太公望は、自分を見つめる静かな瞳に、彼が今夜、酒壺を手に部屋を訪れた理由を改めて悟る。
二、三度まばたきしてから、
「ちょっと待ってくれ」
太公望は立ち上がる。
そして先刻と同じ飾り棚に歩み寄り、そこからもう一つの酒盃を取り出して戻ってきた。
卓に置かれた三つ目の盃に、楊ゼンは戸惑うことなく酒を注ぐ。
その様子を太公望は黙って見つめた。
──今、隣りにいるこの青年は、自分が片腕として最も信頼している相手。
そんな存在に、天化はどんな思いで自分の心の裡を語ったのだろう。
そして、楊ゼンはどんな思いで天化の言葉を聞いたのだろう。
自分の心中は何も口にしようとはしない──天化の言葉さえ、今夜まで素振りにも出さなかった楊ゼンの心遣いが胸に迫って、太公望は小さく唇を噛みしめる。
その視線の先で、楊ゼンはなみなみと美酒を注いだ盃を互いの真ん中に置き、自分の盃にも酒を注いだ。
「──気が回りすぎるところが、おぬしの欠点といえば欠点だな……」
改めてそれぞれの酒盃を手にしながら、太公望は溜息をつくように呟く。が、その小さな声を楊ゼンはさらりと笑い流した。
「そんなことはないですよ。自分自身の我儘は、これでもかなり通してますしね」
「そうかのう?」
「ええ」
静かに微笑む楊ゼンを見上げ、考えるように太公望は首をかしげる。
「あなたが思っていらっしゃるほど、僕は我慢強い性格じゃありませんから」
「──…」
重ねられた言葉に、そう言いつつ案外、損をしているように見えるが、と太公望はようやく小さな笑みを浮かべる。
そして、酒盃を口元に運んだ。
「……美味いのう」
嘆息と共に、しみじみと呟くのを聞きながら、楊ゼンも自分の盃を干す。
「幸せなんてものは人それぞれですよ。あなたの目にどう映ろうと、僕は自分は幸せだと思ってますから」
「……そんなものかもしれぬな」
その言葉に、かすかに寂しさのにじむ微笑を浮かべ、太公望は空になった盃に、次の酒を受けた。
ふと瞳が重なり合ったのは、酒壺の底にわずかに美酒が残るばかりになった頃。
何のはずみだったのか、次の瞬間には忘れてしまうほど他愛なく、まなざしが交差して。
「師叔……」
数日ぶりに聞く、ただ名前を呼ぶだけではない深い声に、身動きが取れなくなる。
だが、重なりかけた唇に、不意に昼間の記憶が蘇って。
「楊……」
思わず制止しようと名を呼んだが、既に遅く、やわらかな熱が唇に触れる。
───え…?
けれど、口接けられながら目をみはったのは。
嫌悪感からではなく、驚愕のため。
優しく表面に触れるだけで離れていった相手を、太公望は大きな目をみはったまま、まじまじと見つめる。
と、そんな想い人の様子に不審を覚えたらしい楊ゼンが、わずかに首をかしげた。
「師叔?」
「あ、いや……」
ごまかしになっていないごまかしを口にして、太公望はまなざしを落とし、今の感覚を思い返す。
「どうかなさったのですか?」
気遣うような声で問う青年を無視したまま、物思いをするようにまばたきを繰り返し、そして、もう一度、目の前にいる相手を見上げた。
「──楊ゼン」
何かを確かめるような、けれど、何も知らない無垢な子供のような口調と瞳で。
まっすぐに青年を見つめ、名を呼ぶ。
「師叔……?」
そんな太公望の様子に戸惑いを見せながらも、楊ゼンは右手を上げ、そっとやわらかな頬を包み込むように触れる。
その温かな感触に、太公望はほんのかすかに目を細めた。
「太公望師叔」
どこか、ひどく切ないような色の深い瞳に誘われたように、楊ゼンは太公望の方を抱き寄せ、もう一度、今度は深く口接ける。
太公望は抗うことなく、その一切の動きを受け入れた。
熱い舌が丁寧に口腔を撫で、優しい動きで太公望の舌に絡みつく。
───甘い…。
やはり、先程の感覚は思い違いではなかった、と太公望は意識の片隅で呟く。
常では叶わぬ深さで触れ合う、それだけの何もかもが、とろけそうに甘くて。
何故、と考える間もなく、太公望はその感覚に他愛なく溺れた。
いつのまにか、触れ合った箇所から生まれる蜜のような甘さを求めて、自分から楊ゼンの舌の動きを追い始める。
追い追われるな長い口接けを終えて、ゆっくりと離れた楊ゼンは、抱きしめた腕に頼りなく体を預け、乱れた呼吸を整えようとしている太公望を熱を帯びた瞳で見つめ、そっとやわらかな黒髪に口接ける。
「師叔……」
ささやかれた声の甘さに。
太公望は嫌悪感とはまったく異なるおののきに、小さく体を震わせた。
ゆっくりと楊ゼンが触れる。
そのひたすら優しい感覚に、太公望は息を詰める。
一番初めの口接けだけで熔けかけてしまった躰は、どんな愛撫にもひどく過敏に感応し、おののかずにはいられない。
「師叔……」
切なげに震えるやわらかな白い肌に口接ける合間に、楊ゼンが呼びかける。
「何かありましたか? いつもと……全然違う」
低い声に、潤んだ瞳をうっすらと開いた太公望は、青年の瞳を見上げて小さくかぶりを振った。
「何も……」
答える声も、もう甘くかすれ始めている。
そんな太公望をひどく切ない瞳で見つめ、宥めるように優しい口接けを楊ゼンは幾つも落とす。
額に、目元に、そして唇に触れる甘い感覚に目を閉じ、太公望は熱い吐息を零した。
──実際のところ、太公望自身にも分からないのだ。
何かがあったかというのなら、昼間、確かにちょっとした出来事はあった。
けれど、その時の感覚と今の感覚とはあまりにも違いすぎる。
宵に湯浴みした時にも肌に蘇った嫌悪感が、今はどこをどう捜しても見い出せなくて。
唇を重ねても、首筋に口接けられても、もっと際どい処を指で触れられても、ひたすらに甘いばかりで、躰の心から込み上げてくる熱が、声を上げて泣いてしまいたくなるほど切ない。
唯一肌を合わせたことのある相手だからというだけでは説明できないほどの違いに、太公望自身もひどく戸惑っていた。
「──ぁ…、や…っ!」
背筋を優しくなぶっていた指が中心に軽く触れ、そのまま零れ落ちた蜜にしとどに濡れた最奥へと滑り込む。
確かめるように周囲に触れる指先のもどかしい感覚に、太公望は小さく身をよじった。
すると、それに応じるようにゆっくりと指が入ってくる。ゆるゆると宥めるように動きながら、少しずつ奥へと侵入してゆく感覚に、おののく唇から甘い声が零れた。
「…よぅ…ぜんっ……」
繊細な内部が抵抗らしい抵抗を示さないのを確かめながら、楊ゼンは指を増やしてゆく。
その圧迫感がもたらす切なさに、太公望は眉をきつくひそめて、敷布が皺になるほど握り締めた。
「師叔」
熱を帯びた声で名を呼びながら、楊ゼンはそっと胸元の小さな尖りへと空いている方の指を滑らせる。
色付いた尖りを優しく爪弾くように愛撫してやると、途端に背筋がのけぞり、華奢な躰が大きく震えた。
「……っは…、ぁ…ん……っ…」
とろけそうに甘い声と共に、堅く閉じた目尻に涙がにじむ。
ひどくいとおしげな瞳でそれを見つめ、楊ゼンはゆっくりとやわらかな内部から指を抜いた。
「ぁ……」
その感覚に小さく息をついて、太公望が涙に濡れた瞳をうっすらと開く。
「太公望師叔」
甘やかな声で名を呼び、唇を重ねる。
深い口接けに、太公望もどこかまだ拙い動きで舌を伸ばし、応えた。
「力を抜いて……」
ほっそりとした脚に手をかけながらささやかれた言葉に、目を閉じたまま太公望はうなずいた。
「──っ、……やぁ…っ」
たとえようもない甘すぎる切なさに、抑え切れない嬌声がとめどもなく零れ落ちてゆく。
ゆっくりと、まだ経験の浅い太公望を気遣うように楊ゼンの動きは慎重だった。
けれど、それでも深く溶け合った感覚はひどく甘く、過敏な内部を擦られ、強弱をつけながら突き上げられる快感を受け止めかねて、太公望は悲鳴を上げる。
───どうして?
今夜は最初から、何もかもがおかしかった。
感覚が異様に過敏になっていて、ほんのかすかな刺激さえも感じ取り、躰が反応してしまう。
楊ゼンを受け入れた時も、これまでは初めのうちは少なからず苦痛が先行していたのに、今夜は躰の奥深くに彼の熱を感じた瞬間から、何かが甘くおののいたのだ。
そればかりでなく。
「師叔……」
口接けられるたび、熱を帯びた声で名を呼ばれるたびに、最奥の切なさが加速度的に増してゆく。
更にどうしようもないほど過敏になった肌を優しく愛撫されて、それがどうしてなのか分からないまま、太公望は快楽を注がれるままにすすり泣いた。
けれど、ゆるやかな律動は止むことがなく、躰を苛む甘さも深まる一方で果てがない。
───こんなのは知らない……!
感じ過ぎる躰をもてあましてのけぞった胸の尖りを甘く噛まれ、更に深い快楽が背筋を突き抜ける。
やわらかく、執拗に全身を愛されて、きつく目を閉じているはずなのに眩暈を感じる。
まるで底無しの淵にどこまでも沈んでしまいそうな感覚に、太公望は怯えた。
「い…や……ぁっ…」
悲鳴を上げる合間にも、浅い動きに焦れた華奢な脚が敷布の上をおののきながら滑って。
「ぁ……やだ…っ…、楊ゼン…っ!」
体中の神経が甘く溶け崩れてゆくような、このまま狂ってしまいそうな錯覚に、太公望は強く楊ゼンの肩にすがりつく。
と、その必死な力に快楽に耐えるだけでない何かを感じたのか、ふと楊ゼンが動きを止めた。
「師叔……?」
彼もまた、わずかながらも呼吸を乱したまま、そっと太公望の額に乱れ散った髪をかき上げてやる。
その優しい感触に、太公望はしゃくりあげるようにおののきながら、泣き濡れた瞳を開いた。
深く澄んだ瞳ににじむ、哀願するような色を見取って、楊ゼンは気遣わしげな表情になる。
「どうしました? 何か辛いですか……?」
低い、優しい声に、しかし太公望は今にも泣き出しそうな、切なげな表情で小さくかぶりを振る。
「師叔?」
訝(いぶか)しげな、困惑したような顔になった楊ゼンだが、肩にすがりついたままの太公望の指の力の強さや、哀願するように見上げる涙に濡れた瞳に何か思い当たったのか、ふと眉を開いた。
「師叔」
そして、優しい笑みを浮かべて、しっとりと汗に濡れた太公望のやわらかな髪を撫でる。
「大丈夫ですよ。何も怖くなんかありません」
けれど、その言葉にも泣きそうな顔でかぶりを振る太公望に、楊ゼンは微苦笑を浮かべた。
「躰を重ねたら、こうなるのが普通なんです。何も考えずに全部任せてしまえばいいんですよ」
「でも……!」
これまでに経験したことのない、深い本物の快楽に怯える太公望の額に、楊ゼンは口接けを落とす。
そして、小さな顔のあちこちに羽のようなキスを贈りながら、繰り返した。
「大丈夫ですよ。……あなたを抱いているのは僕ですから。あなたは何も変わらない……、大切なあなたを壊したりなんかしません」
「───…」
優しい声に、泣き出しそうな太公望の瞳が途方にくれた、すがるような色を浮かべる。
けれど、強い拒否の色は消えたことを確認して、楊ゼンは太公望に口接けた。
「怖がらないで……」
甘い口腔を丹念に愛撫し、宥めるようにやわらかく舌を絡めてから、もう一度ささやいて。
楊ゼンは再び、ゆっくりと動き始める。
「──ゃぁ…っ!」
短いやりとりの間、焦らされた形になった躰は再び与えられた律動に過敏に反応して、甘い悲鳴をあげる。
「太公望師叔」
過ぎる快楽に肩から滑り落ちた太公望の手に、楊ゼンは己の手を重ね、指を絡めて逃さぬように握りしめて。
「……愛してます」
すすり泣く太公望の耳元に、そっとささやきかける。
その声が聞こえたのかどうか、太公望は切なげにびくりと躰をおののかせ、躰の奥深くにある楊ゼンの熱をきつく締めつけて。
驚くほど繊細に反応を返す、やわらかな躰に楊ゼンもまた溺れ、白い肌を貪るように愛おしむ。
「…やぁ…っ……楊…ぜん…っ」
全身を苛むあまりの切なさに、太公望の堅く閉じた瞳から、透き通った涙が幾つも転がり落ちてゆく。
とうに限界を過ぎた躰を、何度も深く浅く逞しいものに翻弄されて。
「い…や……、もぅ…っ…!」
溶ける、と。
甘やかにすすり泣きながら悲鳴を上げて。
それしかすがるものがないかのように何度も繰り返し楊ゼンの名を呼びながら、そのままどこまでも昇りつめてゆく快楽の波に焼き尽くされ、さらわれていった。
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