「──ん…」
何かひどく心地いい温もりを感じながら、太公望はぼんやりと目を開く。
そのまま何も考えずに目線を上げたら、窓から入る星明かりの中で自分を見つめていた青年と目が合った。
「お目覚めですか?」
優しく微笑む瞳にぼんやりと見惚れ、それから太公望は、はっと我に返った。
「あ……」
ようやく気付いてみれば、自分は楊ゼンの腕の中に抱きしめられていた。
感じていた優しい温もりはこのためだったのかと、思わず太公望は顔が熱くなるのを感じる。
同時に、何故こんな状況にあるのか、その理由も思い出して、自分を見つめる優しいまなざしに耐え切れず、太公望は慌ててうつむいた。
その様子に、楊ゼンは小さく笑う。
「本当に可愛い人ですね、あなたは……」
「──!」
笑いを含んだ甘い声で言われて、カチンときた太公望は楊ゼンの胸に両手を突っぱねた。
「離せ…っ」
「はいはい」
太公望の抗いに楊ゼンはあっさりと腕を解く。
自由になった太公望は、そのままころんと寝返りを打って楊ゼンに背を向けた。急な動きに衝撃が躰に響いたが、構ってはいられない。
だが、拗ねた子供のように背中を向けた太公望に、楊ゼンはくすくすと笑い続ける。
一応、笑いをかみ殺そうとはしているらしいのだが、なかなか止まらないそれに、太公望はいたたまれないのを通り越して腹が立ってきた。
一体、誰のせいだと思っているのか。
本当なら、この場から逃げ出してしまいたいくらい恥ずかしいのを必死に我慢しているというのに。
そっちは、こういう状況に慣れているのだろうが、こっちは全然慣れていないのだ。
考えれば考えるほど、むかついてきたその時。
「師叔」
不意に甘い響きの声がかけられた。
そして同時に、彼の手が髪に優しく触れてくる。
それきり何も言わないまま、ただ髪の流れにそって、ゆっくりと指が滑ってゆき、また戻って。
飽きもせずに何度も繰り返し繰り返し、長い指が癖のない髪を梳き、優しく撫で続ける。
「────」
その宥めるような優しい指の動きが心地好くて、少しずつ太公望の腹立ちが鎮まってくる。
子供だましなことを、とも思ったが、注がれる優しい感覚に、もうこれ以上は怒り続けていられなかった。
気持ちがおさまってしまうと、このまま背を向け続けているのも何か居心地が悪くて、太公望は意を決してゆっくりと振り返る。
すると、ずっとこちらを見つめていたらしい楊ゼンが、優しく微笑んだ。
「………」
何かはめられたような気がしたが、今更もう一度背を向けることもできず、気分をごまかすように掛け布を肩まで引き上げると、楊ゼンは片手を上げてそれを整えてくれる。
一体、甘やかされているのか、それとも懐柔(かいじゅう)されているのかを考えながら、太公望は小さな声で尋ねた。
「わしは、どれくらい眠っておったのだ?」
「少しですよ。まだ丑の刻(午前一〜三時)になったばかりです」
その言葉に視線を上げれば、確かに窓から見える星の位置はまだ真夜中だった。
そのまま楊ゼンの肩越しに夜空を見つめている太公望に、ふっと楊ゼンが表情を変える。
「師叔」
呼ばれて、太公望は楊ゼンの顔に視線を戻した。
「そう言えば今夜、回廊で偶然会った時も、あなたは星を見ていらっしゃいましたね。何が気になるんですか?」
「────」
どうしようか、と太公望は少し迷う。
楊ゼンが気にしているのは、何があったのか、何かが起こるのかということではなくて、それに対する太公望自身の心だ。
そうと分かっているから、どうしても心の内を打ち明けることはためらってしまう。それが、良いことで無ければ尚更に。
彼を心配させるのも、気遣われるのも心苦しいと思う。
今、気にかかっていることは決して大したことではない。
だから言ってもいいのではないか、という気もするし、それでも言うべきではない、という気もする。
どちらを選ぶべきか、容易に答えが出なかった。
そんな迷いを見て取って、楊ゼンは太公望を呼ぶ。
「太公望師叔、おっしゃって下さい」
促す声は優しかったが、内側に感じられる意志の揺るぎない強さが、太公望のためらいを押し流してゆく。
何故、とぼけてごまかしてしまおうとしないのかと自分自身が不思議だったが、そうなってしまってはもう仕方がなく、太公望はまなざしを伏せて口を開いた。
「昨日……否、もう一昨日だが、雨が降ったであろう?」
「ええ」
ひそやかに紡ぎ出された小さな声に、楊ゼンはうなずく。
この辺り一帯に降ったその雨のために、ただでさえ遅れていた輸送隊の到着が、更に一日遅れることになったのである。
もっとも、輸送隊は土砂降りにあったようだが、この辺りは比較的弱い雨が朝から夕方まで降り続いていた。
「夕方、雨が止んだ後に虹が出ていたことに、おぬしは気付かなかったか?」
「虹……?」
「気付かなくても無理はない。虹は虹でも、白い朧気な虹だった」
楊ゼンがはっとして、自分を見つめるのを感じながら、太公望は片手を上げて衝立(ついたて)の陰から見える窓を指し示す。
「その窓から、わしは白い虹を見た。西の空に……、太陽に向かって架かっておったよ……」
「師叔……」
楊ゼンがひどく真剣な自分を気遣う表情で見つめているのに淡く笑みを返して、太公望は一昨日見た風景を思い出す。
本当にはかない、幻のような虹だった。
出ていたのもわずかな間で、人々の話題に上らなかったところを見ると、気付いたのは自分しかいなかったのかもしれない。
でも、確かに白い虹が太陽に架かっているのを、この目で見た。
───白虹貫日
白い虹が、日を貫く。
虹は兵を表し、日は天子をあらわす。それは、古来、兵乱の前兆とされた現象。
まるで、この状況を象徴するような、偶然の水と光の悪戯。
「師叔」
そっと伸ばされた指が、また優しく髪を撫でる。気にしなくてもいい、と言いたげに。
太公望は楊ゼンを見上げた。
「分かっておるよ。白い虹は、通常の雨より水の粒子の細かい霧雨や霧の後に出るもの。単なる偶然であって、自然現象に何の意味もないことは分かっておる」
ただの偶然。
───でも、確かに、この地に兵乱が起こる。
他でもない、この自分が戦いを起こそうとしている。
言い訳などする余地もない。
最初から、妲己一人を倒すことだけが自分の生きる目的だと突っ走ってしまえば良かったのかもしれない。
でも、復讐だけではなく──平和な世界を造るという夢を、幼かったあの日に見てしまったから。
どうしても捨てられないその夢のために、多くの人を巻き込み、こうして軍を率いて戦う道を自分で選んで歩いて来たのだ。
だが、それでもやはり、元を正せば仙道道士の戦いであるこの戦争に人間たちを巻き込むのは嫌だったから、ここまでは策をめぐらせて極力、戦闘を回避してきた。
だが、次は最初で最後の総力戦。
聞仲がいなくなった今、間違いなく妲己自身が王貴人・胡喜媚と共に出てくる。
彼女は人間同士を戦わせることも、人間相手に仙道の力を振るうことも、まったく意に介さないだろう。そんな相手と戦いつつ仲間や兵士たちを守ることは、おそらく不可能だ。
確かに、妲己と戦うために太上老君からスーパー宝貝・太極図を譲り受けた。だから、使用する宝貝の力は互角。
しかし、宝貝は使用者の気を吸い取って奇跡を起こすもの。
妲己は、千五百年もの齢(よわい)を重ね、策に長(た)けた最強レベルの妖怪仙人。
そして自分は、百年にも満たない年月しか生きていない人間出身の道士。
身につけた妖力・仙力には、どれ程の差があるのか。
もちろん、負けるつもりはないが、あまりにも余裕がない。
───またこの目で、誰かが死ぬのを見送らねばならなくなるかもしれない。
そんな不安が、一昨日見た白い虹とあいまって太公望を憂鬱にする。
自分一人の問題であれば、勝っても負けてもそれで終わりだが、大きすぎる夢を見てしまった自分が背負っているのは、世界の命運と、そのために犠牲になった無数の生命。
いつのまにか、この手に引き受けてしまった、世界の過去と現在と未来。
その重さに、太公望は唇を噛む。
と、躰にふわりと腕が回された。驚く間もなく、楊ゼンの胸に抱き寄せられる。
「楊……」
「勝ちましょう、師叔」
強く太公望を抱きしめ、低く楊ゼンはささやいた。
「必ず勝ちましょう」
慰めでも気休めでもなく、それだけを短く楊ゼンは告げる。
何もかも分かっているような──いや、分かっているのだろうその言葉に、太公望は目を小さくみはった。
「楊ゼン……」
てらいのない言葉が、すとんと胸の内に落ちてきて、白い虹に感じた憂鬱や不安をやわらげてゆく。
淡い雪のように溶けてゆく己の心を感じて、その感覚の切なさに太公望は目を閉じた。
「……おぬしは、本当に察しのいい男だのう」
「師叔?」
決して負けないと、絶対に勝たねばならぬと自分に言い聞かせ、ともすれば怯みかける心を奮い立たせてきた。
───でも、本当は誰かに言って欲しかった。
自分を頼りにする者たちからの励ましや慰めではない、ためらいのない強い言葉が聞きたかった。
与えられて初めて気付いた、自分の心が欲していたもの。
己の弱さを苦く感じながら、太公望は自分を抱きしめてくれている楊ゼンの胸に、そっと顔を伏せる。
心が痛むほどに、そこは温かかった。
そんな太公望を強く、でも優しい力で楊ゼンは抱きしめる。
───これ以上、楊ゼンの優しさに甘えるわけにはいかない。
身体中に彼の体温を感じながら、太公望は心の中で言い聞かせるように呟く。
でも、知ってしまったこの温もりを、どうやっても振り払うことはできそうになくて、太公望は自分の心の弱さに泣きたいほどの絶望を噛みしめた。
静かに腕の中で眠る太公望を、楊ゼンは見つめた。
そして、そっと前髪をかき上げてやる。ただでさえ幼く見える寝顔は、額が出るといっそう子供っぽく見えた。
それが妙に可愛らしくて、楊ゼンは瞳を微笑ませる。
太公望が再び眠りに落ちてから、既に半刻以上が過ぎていた。
夢を見ている様子もない安らかな寝息が、ひどく愛しい。
四日前とは違って、今夜は不思議なほど心が落ち着いていた。
理由はただ一つ。
───太公望の気持ちを確認できたからだ。
もちろん、言葉で言われたわけではない。だが、彼の態度は、四日前の朝から何となく抱いていた確信を、間違いなかったと思わせるには十分だった。
「あなたは優しいけれど並より潔癖な人だから、想ってもいない相手とこんな事ができるわけがないんですよ」
四日前、太公望はためらうような表情を見せながらも何一つ抵抗は示さず、その後も、恥ずかしがってはいても、嫌悪や怒りの目でこちらを見ることはなかった。
正直なところ、それは楊ゼンにとっても意外な展開だった。
嫌われてはいなくとも、そういう意味で好かれているとは思わなかったから、彼の性格上、顔も見たくないほど嫌われ、憎まれても仕方がないと思っていたのだ。
だが、太公望は困惑しながらも、あの夜のことを彼なりに受け止めているように見えた。
思い上がりかもしれない、と何度も思った。
でも、もしかしたら……、という甘い期待めいた推測を止めることは、どうしてもできなかった。
そして今夜。
生真面目で不器用な、偽りのない言葉を聞いて。
彼の心を確認するため、少々強引に揺さぶりをかけてみれば。
果たして、太公望は適当にいなすでもなく、怒って拒絶するでもなく、ためらいつつも自分を受け入れてくれた。
「どんなに嬉しかったか、あなたには分からないでしょうね」
有能な部下に対する取引きでも、自分を恋い慕う男に対する憐れみでもなく───。
ただ、楊ゼンに触れられるのは嫌ではないと、それだけの理由で。
潔癖で自分に厳しい彼は、駆け引きや同情で躰を与えるような真似は決してしようとはせず、純粋に心だけで判断して受け入れてくれた。
「あなたは好きだとは言えないとおっしゃったけれど、言ったも同然なんですよ」
でも、どうせ当分自覚はしてくれないのだろうと、半ば諦めて楊ゼンは微笑む。
太公望の恋愛に対する意識は、外見の年齢に比してもかなり低い。
崑崙山に上がったのが十二歳の時で、以来、修行に明け暮れていたのであれば、初心で晩生のまま成長してしまったのも仕方がないのだが、それにしても、かなり幼いレベルである。どう見ても、彼は友情や信頼と恋愛感情の区別ができていない。
それに加えて、どうも恋愛感情を、ものすごく特別な想いだと考えている節があった。
これは多分に、楊ゼン自身や故人となった普賢真人が、太公望を二人といない特別な存在と見ていることにも一因があるのだろうが、大公望は、人生の軌道を変え、命を賭けるほどの想いでなければ恋愛感情とは呼べないと思っているらしい。
そして、封神計画を預かる自分には、そんな想いを持つ余裕などない……、許されるはずがないのだと半ば無意識に自制しているところがあるようだった。
だが、激しいだけが恋愛ではない。傍に居るだけで安心する、というような穏やかな想いも、間違いなく恋愛感情に含まれているのだ。
そして大抵、そんな想いは、気がついた時には既に心の中に生まれている。
それこそ呼吸でもするように、ごく自然に。
意識するしないに関わらず、いつのまにか自分の一部となっているのだ。
その辺りのことを理解しない限り、大公望は自分の心を自覚しないだろう。
困ったものだと思わないでもないが、それでも楊ゼンは構わなかった。
もう分かっているから、いつまででも待てる。
いずれゆっくり、この自分を必要な存在だと理解してくれたらいい。そう思いながら、楊ゼンは静かに眠る太公望を見つめる。
落ち着いた寝顔には多少の疲れが見えるが、でも先日のようなひどい憔悴の影や顔色の悪さはなくて、自分の傍らで、彼がこうして安らいでいるのが切ないほどに嬉しかった。
このささやかな休息の時間が、少しでも長く続けばいいと心の底から思う。
束の間の眠りから覚めれば、目の前には厳しい現実がそびえ立っているのだ。
そこでは、この戦いの全ての責任を負う軍師として、大公望には何一つ甘えが許されない。
そして、大公望自身もまた、甘やかされることを望んではいない。
それは仕方のないことであるし、彼の望みとあれば、楊ゼンもまた、それに最大限応じたいとは思う。
だが───。
何一つ甘えることなく、このまま張り詰め続けていたら、いくら大公望が精神的に強くても、いつか心が壊れてしまう。
そんな不安が、楊ゼンの脳裏を付きまとって離れないのだ。
楊ゼンの知る大公望は、誰よりも優しい。
そして、その優しさこそが、平和な世界を造りたいという夢を彼に抱かせる一方で、その夢を実現する過程で無数の生命が犠牲となる辛さや悲しさを自身の心を傷(いた)めつける刃(やいば)に変えてしまうように、楊ゼンには思えるのである。
確かに、大公望の心が度重なる妲己の悪逆によって、手ひどく傷つけられているのは間違いなかった。
しかし楊ゼンが見たところ、彼の心に無数に刻まれた傷の大半は、彼自身が自分で切り刻んだものという印象がぬぐえない。
───優しさゆえに止まぬ、無意識下の自傷行為。
そんな両刃(もろは)の優しさから生じる危うさが、普段表面に出ないのは、大公望が本質的に健全かつ強い精神力を備えており、それによって自己を制御しているからである。
だが、この先も精神に強い負荷がかかり続けたら、いつそれが崩壊するか分からない。
そうでなくとも、目的不明の封神計画が全貌を現して破綻した時、もしくは無事に封神計画が終了した時、全てをこの計画にかけている彼が一体どうなるのか、楊ゼンは心配だった。
自分が傍に居ることで、そんな大公望の頑なで強すぎる責任感を、少しでも緩めてやれたら、と思う。
「あなたにとっては、余計なお世話でしょうけどね……」
そっと楊ゼンは指を伸ばして、大公望の髪を梳く。
癖のないさらさらの黒髪は、夜の空気に少しひんやりとしていて、絹糸のような張りのあるしなやかさが指に心地好い。
「でも、僕は決めたんですよ」
黙って命令に従うだけでは、片腕として何の意味もない。
自分が大公望の傍にいるのは、彼が傷ついて壊れていくのを見守るためではないのだ。
今の自分にとって、大公望は何ものにも替えがたい、たった一つの大切な存在。
彼という存在がこの世界にある、それだけのことで生きてゆける。
出会ったのは、確かに第三者の思惑による必然だった。
でも、その出会いが、自分の何もかもを変えた。
彼と出会って心惹かれるまで、自分は何も知らなかった。
たとえば、誰かを想う愛しさや喜び、切なさや哀しさ、そして、自己嫌悪や不安。寂しさ。嫉妬。恐怖。
そんな、ありとあらゆる名前の感情さえ。
全てをいつのまにか心の底に封印してしまっていて、自分にそんな感情があったことさえ忘れていた。
けれど太公望と出会って以来、次々と自分の中に生まれ、蘇ってくる感情に、それ以前の自分とは別人のように心がさざめき続けて。
最初の頃はそのことにひどく戸惑い、苛立っていた。
誰かを必要とし、必要とされたいと思う弱さが、強さに繋がるなどとは考えたこともなかった。
───やっと見つけた大切な人を失うかもしれないという恐怖さえ、その人を守りたいと思う強い願いに変わる。
そんな強さを、それまで自分は知らずにいた。
孤高の天才であることに満足し、一人ではいられない弱い者たちを蔑んでいた自分こそが愚かで弱かったのだと、太公望と出会って、ようやく気付いたのだ。
「あなたが、誰かに心を開いて、誰かを想うことによって得られる強さを僕に教えてくれたんです。
あなたのお陰で、僕は代わることができた。だから、今度はあなたに変わって欲しい……」
太公望は決して弱い人間ではない。むしろ、並外れて強い精神力の持ち主である。
だが、自分のささやかな弱さを必要以上に嫌悪しているために、かえって脆さや弱さを生じてしまっている。
今にも壊れそうなほど傷ついているのに、決して悲鳴を上げることも泣くことも、彼は自分に許さない。
何もかもを抱え込んで、悲しみや痛みを他人と分かち合うことでえられる救いも慰めも、自分には求める資格がないのだと戒めて、心を張り詰めている。
自分自身が何一つ望むことを許さない、その、脆さと紙一重の強さ。
だが、己の幸福を求めようとしない、その生き方が歪んでいるのだということに、一体、太公望はどれほど気付いているのか。
「あなたは、あらゆる人の幸せを望んでいるけれど、幸せというのはまず、自分自身と自分にとって大切な人が幸せであるというところから始まるんですよ。
だから、たとえ世界が理想郷のように平和になっても、あなたが不幸せなままだったら、あなたを大切に思う僕たちは皆、本当の意味で幸せにはなれないんです」
その簡単な心理を理解してくれたら……、と思う。
もちろん、理解したところで、そこから変わることは簡単ではない。
自分もまた、太公望と出会ってから変わってゆく己を受け入れるまでに、かなりの時間がかかった。
一人であることに慣れているものにとって、他人に心を開き、己を委ねることは、とてつもなく難しい。
自分の殻を破るのは、断崖の際から飛び降りようとする時の気分にも似た、本能的な恐れとためらいを伴うのだ。
だが、一度乗り越えてしまえば、それは力に変えられる。
あらゆる不安や恐怖でさえ、強さに変えられるほどの想いがあれば、何一つ怖いことなどない。
たった一つ、命に代えてもいいと思うほど大切なものがあれば、どんなに辛いことがあっても人は生きてゆくことができる。
「僕は、あなたを好きだと自覚してからずっと、あなたのために何ができるのか……、そして、あなたに何を望んでいるのかを考えていました」
静かに眠る太公望に、楊ゼンはささやきかける。
たった一人の、大切な大切な存在に。
「僕はずっと、あなたの役に立ちたいと思っていました。そして、僕を信用して欲しいと……」
その次には、自分を理解して欲しいと思い、また、自分を傷つけることを厭わない太公望を守りたいと思った。
それから、辛さや哀しさを分けて欲しいと思った。
太公望のことを一つ知る度に、少しずつ変わっていった自分の心。
そして、今は───。
「僕はあなたを守るだけでなく、辛さを分かち合うだけでなく、共に生きて変わってゆきたい。他の誰の為でもなく、あなたと僕自身の為に」
それが、長い間太公望を見つめ、彼の哀しい心の内を知って、ようやくたどりついた答え。
自分が生きることと、太公望を想うことの意味。
もう、迷いはしない。
「愛しています……あなただけを──…」
揺るがない自分の心を確かめて、楊ゼンはそっと太公望の額に口接ける。
深い眠りに落ちている太公望は、目覚める様子もなく安らかな寝息を立てていた。
全世界を引替えにしてもいいと思うほど愛しい相手の温もりを腕の中に感じて、楊ゼンは目を閉じる。
夜明けまではまだ遠く、星明かりだけが二人を包んでいた。
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