太公望の天幕から武王の天幕へと向かう途中、前方に人影を見い出して、楊ゼンは少し歩調を早めた。
「天化くん」
東の空に昇った大きな満月を見上げながら煙草をふかしていた彼は、呼びかけた声に振り返る。
「もう治療は終わったのかい?」
「ああ、俺っちはね。王サマも、そろそろ終わる頃さ。スースは?」
「今、少し起きていたけれどね。長時間、太極図を使い続けたせいで、かなり疲れているみたいだよ」
近付いて見れば、天化の素肌の腹部には真新しい包帯が厚く巻かれている。だが、ほんのかすかにではあるが、既に新たな血が赤く滲みはじめていた。
一年ほど前に妖怪仙人・余化によって刻まれ、一向に治る気配がなかった呪いの傷は、昼間、異形と化した紂王との激しい戦いによって、大きく傷口を広げてしまったのである。
出血量も一気に増え、月明かりに照らしだされた天化の顔は、決して周囲の暗さのせいだけではなく血の気が薄く、青ざめて見えた。
「君も、もう休んだ方がいいよ。今は無理や無茶をしてもいい時じゃない」
「太乙さんたちにも言われたさ」
軽く笑って、天化は腹部の傷に手を当てる。
その顔から、すっと笑みが吸い込まれるように消えた。
「──なぁ楊ゼンさん、ちっとだけ俺っちの話、聞いてくれねぇさ?」
「いいけど……」
そういう天化の声も気配も、どこかひどく沈んでいて、楊ゼンはうなずきながらも注意深く彼を見つめる。
「俺っちさー…」
ややあって、天化は口を開いた。
まなざしを地表に落としたままの横顔に、何とも言いがたい影が走る。
「スースにひどいこと言っちまったんだ、昼間」
「師叔に?」
「うん。楊ゼンさんと宝貝人間が戦ってる最中、二人でダラダラしてた時にさ」
ややうつむいたまま、天化は静かな声で続けた。
「もうちょっとだけ、しっかりしてくんねーと信じられなくなりそうだって。……親父やコーチも、あんたに見殺しにされたんじゃねーかって、さ……」
「それは……」
「言った途端、スースは顔色変えたさ」
当然だろう、と楊ゼンは思う。
天化が突いたのは、たとえ口や態度に出すことはなくとも、太公望自身が誰よりもそう感じ、自分を責めている部分だ。
その、十二仙や武成王の死という重みを、改めて天化に突き付けられるのは、胸を刃で刺し貫かれるよりも痛かっただろう。
「それ見てすぐに後悔したさ」
小さく自嘲の笑みを浮かべて、天化は至る所に篝火の焚かれた宿営地にまなざしを向けた。
「ちっと考えれば分かったことさ。スースがあんな風にダラダラした態度をしてる時は、絶対に理由があるんだって……。
スースは、俺っちたちや兵士を不安にさせたくなかったさ。だから、体力は限界だったのに、わざと怠け者のフリしてたさ。そんなこと、楊ゼンさんは最初から分かってたんだろ?」
「──スーパー宝貝を使用する時の消耗は、並の宝貝の比じゃないから……。元始天尊さまでさえ、聞仲を相手にした後はあんな状態だからね。いくら師叔でも、妲己に対抗して太極図を使い続けるのはきついだろうと、最初から思ってはいたよ」
そう答えれば、天化は自嘲の笑みを少しだけ深くして、再びまなざしを遠くへ向ける。
「その通りさね。けど……スースは何も言い返さなかったさ。倒れちまったせいもあるけど……そうじゃなくても、きっと何にも言い訳しなかったさ」
「師叔はそういう人だよ」
「うん」
素直に天化はうなずいた。
「俺っちも本当は分かってたさ。スースが本当はすっげえ優しくて、めちゃめちゃ責任感が強い人だってことは。
──分かってたのに、動きたくても動けなかったスースに俺っちは……」
「天化くん……」
「こーいうことばっかりさ。スースは俺っちを信頼してくれてるのに、俺っちはスースを責めたり、心配させたり、さ」
……どうしてなのだろう、と自嘲する声が聞こえるようだった。
だが、天化が気休めや元気づけの言葉を欲していないことは明らかだったから、楊ゼンは沈黙を守る。
「楊ゼンさんはスースを信頼してるさね」
「してるよ」
確認とも問いかけともとれる言葉に、楊ゼンはうなずく。
「どうしてかと訊かれても困るけどね」
「なんでさ?」
不思議そうに天化は軽く目をみはった。
楊ゼンは静かな笑みを浮かべ、まなざしを夜の向こうに向ける。
「理由を付けようと思えば、いくらでも付けることはできるよ。優しい人だから、頭の切れる人だから……、でも、それらはどれも、あの人を信頼している理由のほんの小さな断片でしかない。間違ってはいないけれど、真実のすべてを現せるものでもない。
……あの人だから。他の人が聞けば理由になってないだろうけれど、本当に僕があの人を信頼している理由は、それだけなんだ」
「まるでノロケみたいさ」
その返答に、天化は小さく笑った。
「でも、親父もそんなこと言ってたさ」
「武成王が?」
「昔、聞いたことがあるさ。あんまり親父がスースを信頼してるから、不思議になって……。そしたら親父は、最初に会った時、こいつは何かをすると直感したって。野生の勘さね」
おそらく武成王も、何もかもをひっくるめてそういう表現をしたのだろうと、楊ゼンには見当が付いた。
他者に対する絶対的な信頼というのは、突き詰めれば理由など存在しない。
優しいから、決断力があるから、知恵があるから、そんな具体的な理由の羅列はこじつけに過ぎなくて、その人がその人であるからこそ惹かれる。それが人望というものなのだ。
太公望しかり、姫昌しかり、武王しかり……彼らはそこに在るだけで、人心を引き寄せる。
一挙一動、言葉や表情、その存在のすべてで。
「でも俺っちは、親父やコーチがスースを信頼してたから、かえって疑ってばかりなのかもしんねぇ。俺っちは親父やコーチをすごく尊敬してたから、二人に比べると、スースは親父たちが絶対の信頼を置くほどすごい人には見えなくて……。つまんねぇガキの焼き餅さね」
何とも言えずに楊ゼンは、自分とはまったく違った立場で太公望を見ている青年を見つめる。
天化が口にしたのは、何となく見当のついていたことではあるが、改めて聞かされると奇妙な新鮮さがあった。
結局、誰もがそれぞれの理由、それぞれの心理でもって戦いに参加し、太公望に従っているのだ。それを正しいとか正しくないとか分類することなど、誰にもできはしない。そういうことだった。
「楊ゼンさんは、そういうのはなかったさ?」
「──まぁ多少はね…」
問われて楊ゼンは、やや言葉を濁す。
──自分の才能に自信を持っていた分、むしろ天化より質が悪かったかもしれない。
普段は思い出さないし、太公望も忘れてくれているようだが、二人の初対面はひどいものだった。
ただ、太公望は、楊ゼンに対しては最初から自分の実力の片鱗を見せたのに対し、天化をはじめとする他の若い道士たちには、彼らに実戦経験を積ませようとする意図もあって、滅多に力を見せつけるような真似をしないから、その辺りも認識の差につながっているのに違いない。
「今から思うと、すごく馬鹿なことをしたよ。でも、師叔は無礼な態度を見せた僕に対して、嫌がらせをしてやると言いながら、本気で怒ることも、僕のプライドを傷つけるようなこともしなかった」
「スースらしいさ」
天化は小さく笑い、そして一呼吸おいてから、
「楊ゼンさんは、本当にスースを大事に思ってるさね」
どこかしみじみとしたものを含んでそう言った。
「見てるとよく分かるさ。いつもむちゃくちゃ気を遣って、スースにしんどい思いさせないようにしてて……」
「天化くん……」
名前を呼んだ楊ゼンに、天化は悪戯めいた光を浮かべた瞳で振り返った。
「楊ゼンさんの気持ちを分かってねえのは、スースと天祥くらいさ」
「…………」
その『師叔と天祥』という言葉に、楊ゼンは少し眉根を寄せる。恋愛に対する認識のレベル、という点では、二人は確かに横並びと言って良かった。
「でもスースも楊ゼンさんのことは信頼しきってるみたいだし、見込みはあるんじゃねえさ?」
「……さあね」
「そう言いながら、本当は自信持ってるさ?」
重ねて問われて、楊ゼンは何食わぬ顔で肩をすくめる。
──図星ではあった。
太公望の心がこちらに向けられていることは確信しているし、別に恋愛秘密主義というわけでもない。
けれど、自分の感情を認識しきれず戸惑いながらも、少しずつ心を預けてくれる太公望の自然な変化を、楊ゼンは大切にしたかった。
だから、天化に冷やかす気はないと分かっていても答えない。
そんな楊ゼンに対し、天化はそれ以上問いつめることもなく、天幕の脇で萌え上がる篝火を眺めやる。
「少し羨ましい気もするさ」
そして、ぽつりと言った。
「好きとか嫌いとかそういうことじゃなくて、楊ゼンさんと師叔みたいに心底、相手を信頼できる関係って、なかなかねぇさ」
「……そうかな」
「そうさ。楊ゼンさんだって、スース以外にそういう人はいねぇさ?」
「そうだね……」
大きく小さく、まるで生命あるもののように躍動する炎を見つめながら、天化は続ける。
「スースは俺っちを気に掛けてくれてるし、信頼してくれてるけど、それは楊ゼンさんに対するものとは違うものさ。親父やコーチもそうだった。……結局、俺っちはまだ誰とも対等じゃねぇのさ」
その言葉に、自分はどうだろう、と楊ゼンは考える。
誰よりも信頼しているし、信頼されているとも思っている。
だが、本当に自分と太公望は対等だろうか。自分が信頼するように、彼は信頼していてくれるのだろうか。
もしそうならば、それ以上の喜びはないが、他人の心を手に取って見ることはできない。太公望の心の裡を本当に知るものは、太公望自身だけだ。
……だが、そんな思いを横に置いて、楊ゼンは天化に言葉を向ける。
「でも武王なんかは、かなり君を対等の位置で信頼しているように思えるけど……」
別に慰めようと思ったわけではない。
ただ、普段の護衛と主君というよりは年令の近い者同士の、悪友めいた彼らのやりとりを見て感じていたことを、率直に口にしてみただけだった。
だが、
「王サマか」
天化は、ふと考えるような目を見せた。
「……そうさね。王サマは、俺っちのことを信頼して分かっててくれるかもしんねぇさ」
でも、と続ける。
「今はまだ駄目だ。俺っちはまだ、親父にこだわってるから。親父を乗り越えなきゃ、俺っちはこれ以上先に進めねぇさ」
そう言った厳しいまなざしに、楊ゼンはふと危惧を覚える。
天化の気性も、呪いの傷のせいで必要以上に己を張りつめていることも分かっている。
つまりそれは、何をするか分からない、ということだ。
「天化くん。気持ちは分からないでもないけど、焦ったところでいい結果はでない。さっきも言ったように、今は無理をするべき時じゃないよ」
「……分かってるさ」
天化はうなずき、楊ゼンを振り返った。
「俺っちはもう自分の天幕に戻るさ。天祥も待ちくたびれてると思うし」
「……そうだね。とにかく身体を休めた方がいいよ」
「ああ。──じゃ楊ゼンさん、また明日さ」
「うん、おやすみ」
そのままいつもと同じ足取りで立ち去っていく天化の背中を、楊ゼンはしばらく見送る。
──分かっているとうなずきはしたが、天化の瞳に浮かぶ光は変わらなかった。
あれは、何かを思い詰めている者の瞳だ。
気をつけた方がいい、と考えて、楊ゼンは、太公望が何も言わなかったことにふと気付く。
いくら疲れていたとはいえ、太公望が身近にいる人物の心理状態に気付かないわけがない。ましてや、前々から天化のことは気に掛けていたのである。
そして、太公望は人の命に関わるような大事を、補佐役の楊ゼンに伝達し忘れるような人でもなかった。故意に言い忘れることはあっても。
「──とりあえず、兵をいつでも動かせるようにしておいた方がいいかもしれないな」
朝歌への出立は、明朝早くの予定となっているが、事態の変化によっては、繰り上げる必要性も生じてくる。
禁城に戻っているだろう紂王に何かが起こる時、そこにいるのは仙道ではなく、絶対に『人間』でなければならないのだ。
「あなたに嵌められたような気がしますよ、太公望師叔。僕の被害妄想でしょうが……」
万が一、天化が行動を起こしても、楊ゼンは現在、太公望の代理の立場にあり、武王の傍を離れて大っぴらには動けない。逆に、一人きり幕舎で眠っているはずの太公望は、その気になれば他者に知られることなく密かに動けるのだ。
太公望が倒れたのは真実、疲労の極地だったからだと分かっていても、勘繰りたくなってしまう。
だが、太公望が一人で対処したがる気持ちも、楊ゼンには理解できていた。
太公望は絶対に天化を死なせたくない──見殺しにしたくないのだ。
彼の父親も師匠も結果的に見殺しにしてしまった、彼を追い詰めてしまったのは自分の責任だ……と思っているだろうことくらい、簡単に推測できる。
楊ゼン自身としても、天化はやや気性が激しいきらいはあるものの、優れた素質を持つ道士だと評価している。長い間、共に戦ってきた仲間として、犬死にのような最期を迎えさせたくない気持ちは強い。
しかし、あの様子では、今の天化を説得するのは、太公望でも難しいだろうとも楊ゼンは思う。
だが、太公望以外、彼を説得できる人物は既に居ない。
仕方がない、と楊ゼンは溜息をつく。
とりあえず、自分の手が及ぶ範囲でやれることをやるしかない。第一、天化が何かをすると決まったわけではないのだ。
彼も、人間の手で革命を成し遂げることが、どれほど重要かということくらい理解しているだろうし、何より天祥の存在がある。父親を亡くしたショックからようやく立ち直った幼い弟を、更に打ちのめすような真似をするとは考えにくかった。
太公望も、それらを考え合わせて暴発の可能性は低いと判断し、何も言わなかったのだとも考えられる。
「明日、か」
おそらく明日、長かったこの戦争がようやく終わる。
だが、はたして無事に夜明けを迎えられるのか。
しばらくの間、厳しい表情で夜空を見つめ、そして楊ゼンは、足早に武王の待つ天幕へ向かった────。
End.
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opening text by 「ポールシュカ・ポーレ」 Origa