「太公望さん!?」
 高い声を上げたのは、ずっと彼に肩を貸していた小柄な少女だった。
 その声に真っ先に反応したのは、彼の片腕である青年道士。
「師叔っ!」
 大地に膝をついた彼に駆け寄り、少女に代わって身体を支えるために手をさしのべる。
「大丈夫ですか、太公望師叔!?」
「……平気、だ…」
 その声に、肩で息をしながらも太公望は答えた。
「騒ぐでない。兵士に…気付かれる。少し、立ちくらみがしただ…け……」
 だが、言い終えぬうちに言葉が途切れ、力を失った身体が正面で膝をついていた楊ゼンの胸の中に倒れ込む。
「師叔!!」
「太公望さん!!」
 血相を変えた二人の呼びかけに返事はなく、既に太公望は意識を失っていた───。

*            *

     妲己に操られた兵士と、改造された紂王を相手とした、尋常ならざる牧野の戦いが終結してから数刻。
 戦の後始末と、明日の朝歌入場の準備は、武王の指示によって急ピッチで進められていた。
 だが、その傍らに小柄な軍師の姿はない。
 戦いが終わり、武王が兵士達に一通りの指示を与えて散らせた直後、太公望は張りつめていた気が緩んだのか、とうとう倒れたのである。
 長時間、妲己を相手に太極図を使い続けた彼の身体は、とうに限界を超えてしまっていたのだ。ある意味、それまで意識を保ち続けていたこと自体が、彼の並外れた精神力の現れだといって良かっただろう。
 その場面にいたのが少数の幹部達だけだったのを幸い、武王はその事実を兵士達には隠し、ほどなく設営された天幕で密かに彼を休ませるよう取りはからった。
 たとえ、倒れた原因がただの疲労であっても、末端の兵士に伝わる頃には危篤の重病となってしまいかねないし、太公望が倒れたということ自体、士気に大きく影響が出る。既に朝歌に反撃の余力はないと分かっていても、兵士を動揺させるようなことは避けなければならなかった。
 だが、その点、太公望はもともと自分の幕舎には衛兵を置くこともしないし、身の回りのことも彼自身か四不象、武吉が片付けてしまうため、一般の兵士が彼の幕舎に近付くことはまずない。だから、日も暮れぬうちから彼が床に付していても、兵士達に気付かれる可能性はほとんどなかった。
 そして、特に身体に異常はなく、疲れきって眠っているだけだろうという楊ゼンの診断に安堵した一同は、ならばそっと寝かせておいてやろうという武王の提言にうなずき、何事もなかったように明日のための準備を続けたのだった。

 

 眠りの淵から意識が浮上するのは、深海からゆっくり浮かび上がる感じにどこか似ている。
 海に潜った経験はおろか、見たことさえ数えるほどしかなかったが、そんなことを思いながら太公望は閉ざしていた瞼を開けた。
 ───薄暗い……。
 見上げているのが天幕だということに気付くのに、少しだけ時間がかかった。
「気が付きましたか?」
 横──正確には、斜め左上からかけられた張りのある高い声に、ゆっくりと視線を向ける。
「邑姜……」
少し癖のある髪、気の強そうな眉。
 そして、何よりも印象的な深い色の大きな瞳。
 羌族の頭領を名乗った少女が、まっすぐに太公望を見つめていた。
「今、何時頃だ?」
「酉の刻です。少し前に日が沈みましたよ」
「そうか……」
 となると、一刻半ほど眠っていたことになるのだろう。
「ずっと付いておってくれたのか?」
「ええ。私の存在は明日の打ち合わせには、あまり重要ではありませんから。──本当は、楊ゼンさんが付いていたそうな顔をしていらっしゃったんですけど……」
「────」
 その言葉に、ふと太公望は引っ掛かるものを感じた。
 勘の良い娘だから、もしかしたら気付いたのかもしれない。
 思い出してみれば、先刻、自分が倒れた時にも真っ先に駆け寄り、支えてくれたのは楊ゼンだった。その後は意識が遠くなって夢うつつの記憶だが、ここに運んでくれたのも彼だったと思う。
 楊ゼンが自分の信頼する右腕であることは周知の事実なのだが、彼の態度は勘繰ろうと思えば勘繰れる……ものなのかもしれない。
 突如陥った尋常ならざる関係に、自分がまだ迷い、戸惑っていることを知っているから、楊ゼンもその点に関しては、それなりに気を遣ってくれているようなのだが、改めて振り返ってみると、彼は自分に対する好意そのものは、まったく隠そうとはしていないのである。
 だから、そういう関係だとまでは気付かなくても、必要以上の感情のやりとりが介在している、と気付かれる可能性がないとはいえない。
 そう思うと、ひどく気恥ずかしくて、このまま死んだ振りでもしたくなる。
 だが、太公望はそんな思いは顔には出さず、薮から蛇を突つき出さないよう、努めて平静に言葉を紡いだ。
「おぬしが重要でないなどということはないよ。今日は本当におぬしのおかげで助かった」
 言いながら、太公望はゆっくりと上半身を起こす。
 短い時間とはいえ熟睡できたおかげで、全身が鉛と化したようなひどい疲労は随分楽になっていた。
「おぬしが率いてきてくれた羌族の騎兵と、おぬしの叱咤がなければ、わしは妲己に負けておったかもしれぬ。……もっとも、あれで勝ったとは言えぬがな……」
 ──妲己は最初から、この戦いを楽しむつもりでいた。
 太公望を適当にいたぶり、人間の兵士達の決着が付いたところで改造した紂王にすべてを押し付け、自分は高みの見物に回ったのである。
 その後、申公豹と何か話しているのを太公望は目の端に留めたのだが、紂王の変貌ぶりに気を取られている間に彼女は消えてしまった。
 彼女がどこへ行ったのかは見当が付かない。ただ、朝歌には、もう居ないだろうと思う。
 既に、彼女は紂王を──殷を見捨てたのだから。
 それを考えると、何故、天化が紂王を討とうとしたあの場面で、妲己と組んでいる王天君が横槍を入れたのか合点がいかないのだが、それはまた少し別の問題だった。
「それより……」
 今は、もっと気になることが目の前にある。
 聞きたくとも聞く暇がなかったことを尋ねるのに、今は絶好の機会だった。おそらく、彼女もそれを見越して、自分の側に付いていたのに違いない。
 だから、太公望は躊躇わずに切り出した。
「おぬしが呂氏というのはどういうことだ、邑姜。羌族の統領の血統は、わしを残して絶えたはずだぞ」
 黙っていたことを責めるつもりはなかった。
 ただ、無性に知りたかった。
 彼女が一体何者なのか。
 本当に自分と血が繋がっているのか。
「──私は」
 太公望の視線を受けて、邑姜は静かにまばたきする。
「あなたの妹の曾孫なんです」
 短い答えに。
 太公望は大きく目を見開く。
「英…鈴の……!?」
 うわずり、かすれかけた声に邑姜はうなずいた。
「何故……? 英鈴は、あの時……」
「私が聞いたところでは、お兄様が縄を千切って逃がして下さったそうです。三日目の新月の夜に、闇にまぎれて……。小さな子供が一人逃げたところで、殷の兵士達はそれほど懸命に捜索しなかったようですね。何せ、既に十分な人数を捕らえていたんですから……。
 そのまま、ひいおばあちゃんは西へ逃げて、行き倒れ寸前のところで他の部族に拾われたそうです。その部族も殷の襲撃から逃れて移動していた最中で、最後にあの隠れ里へ辿り着いたと私は聞かされました。
 そこで成人して、助けてくれた家族の息子と結婚して生まれたのが、私のおばあちゃんです」
 邑姜の言葉を聞きながら、無意識のうちに、太公望は掛け布をきつく握りしめていた。
 少しでも力を緩めたら、全身の震えが抑えきれなくなりそうで──…。
「──助かった…のか。英鈴は……生きて、おったのか。兄上が……」
 うつむいて小さく呟く声も、ひどく揺らいでいた。
「そうか……」
 そして、しばらくの沈黙の後、太公望はゆっくりと顔を上げ、邑姜を見つめた。
「──何やら懐かしい気はしておったのだ。単におぬしが羌族だからかと思っておったのだが……それも道理だよ。おぬしの性格は妹によく似ておる。あれも、幼いながらも聡明で気丈だった。だからこそ、逃げ延びられたのであろうな……」
 そっと伸ばした手が、邑姜の癖のある黒髪に優しく触れる。
「顔立ちはさほどでもないが、髪の感じは英鈴に似ておるのう……」
 邑姜を見つめる太公望の瞳は、これまでに誰にも向けたことがないほど優しい色をしていた。
「──おぬしが、居ってくれて良かった。この世に生まれてくれて……良かった」
「太公望さん……」
「おぬしが居らなかったら……こうして会えなければ、わしは英鈴の事を知ることはできなかった。ずっと自分が天涯孤独だと信じたまま……」
 静かに太公望は言葉を紡ぐ。
「心から感謝するよ。これがどういう運命の巡り合わせによるものであっても、だ」
「───…」
 きっぱりと言い切られた言葉に、平静を保っていた邑姜が、ふと表情をわずかに揺らした。
 だが、太公望は優しい瞳の色を変えないまま、触れた時と同じように、そっと邑姜の髪から手を退く。
「羌族の統領、か」
 そして、複雑な沈黙がのしかかって来る前に、太公望は口を開いた。
「先程のおぬしの指揮は見事だったのう。五万もの騎兵をああも統制することは、百戦錬磨の将軍でもなかなかできぬことだ。大したものだよ」
「……皆、殷には恨みを持ってますから。殷を倒して、羌族でも普通に生きられる世界を造ることができるのなら、羌族は誰一人、戦うことを厭いません」
 その言葉に、太公望は少しまなざしを遠くする。
「──そうだのう。羌族でも平和に……幸せに生きられたら、どんなにか……」
「そのために太公望さんは戦っていらっしゃるんでしょう? それに羌族が……統領の私が協力するのは当然のことです」
「うむ……。わしも嬉しいよ。羌族が周を興す礎の一つとなる──そんな夢物語のようなことが現実になるとは思わなかった。わしは所詮、仙道の身だからのう。羌族出身とはいっても、それは過去のこと。今更、わしが羌族だと名乗ることはありえぬ」
「………」
 言葉を途切れさせた邑姜に微笑って、太公望はまた少し話題を変える。
「おぬしはこのまま、明日の朝歌入場までつきあってくれるのか?」
「ええ。もし必要でしたら、この先も周に留まっても構いません」
 問いかけに邑姜は落ち着いた表情で答え、その言葉に太公望は顔を明るくした。
「それはありがたいのう。殷そのものはこれで滅びるが、この国は土台から荒廃しきっておる。いつ乱が起こるやもしれぬから、羌の騎兵の機動力があると随分助かるよ。それに、おぬし自身にも政治の才があるようだし……」
 そこで、はたと太公望は思い付く。
「邑姜、おぬし武王の目付けになってくれぬか?」
「目付け、ですか?」
「うむ」
 太公望はうなずいた。
「あやつには天性の資質があるし、近頃はかなり王としてしっかりしてきたのだがのう。もともとが甘やかされて育った放蕩者だから、連日、執務卓に向かって書類の決裁をするなどということは苦手なのだ。
 そういう奴だから、西岐だけならまだしも、この広大な国全体を統治するとなれば、補佐があやつの弟の周公旦一人では執務が滞ってしまうのが目に見えておる。だから、おぬしにも手伝ってもらいたいのだよ」
「……つまり、あの人にきちんと仕事をさせろ、ということですね」
「うむ」
 身も蓋もない邑姜の言葉に、太公望は再び大きくうなずく。
「まぁ強制はせぬがな。ただ、武王もおぬしのことは嫌ってはおらぬようだし……。考えて、良ければ引き受けてくれぬか」
「いいですよ」
 あっさりと邑姜は即答し、そして小さく笑った。
「あの人は、誰かが傍についていないといけないような感じはしましたから。喜んで私は引き受けます」
「……そうか。かたじけない」
 年令に似合わず、落ち着いて怜悧な印象を与える彼女だが、笑うと野に咲く花のような愛らしさがある。
 その笑顔に、太公望は遠い面影を見い出して、懐かしむように目を細めた。
 ──と、その時。
「お目覚めですか、師叔」
 響きの良い声が外からかかり、幕舎の入り口の帳を払って長身の人影が入ってきた。
「楊ゼン」
「今、雲中子さまが到着されましてね。会議が中断したので、様子をうかがいにきたのですが……お元気なようですね。外まで声が響いていましたよ」
 穏やかな口調で言いながら、楊ゼンは寝台に歩み寄る。
「雲中子さまが到着されたということは、武王の治療が始まったのですか?」
「ええ」
 うなずいた楊ゼンに、邑姜は太公望の方へ向き直った。
「太公望さん、私も武王の所へ行ってもよろしいですか? 彼の傷の具合が気になるので……」
「そういえば、応急処置をしたのはおぬしだったな。わしは構わぬよ。長い間付き合わせてすまなかった」
「いいえ。──では楊ゼンさん、後をお願いします」
 そういうと邑姜は隙のない動作で立ち上がり、幕舎を出ていった。
 細い後ろ姿を、太公望と楊ゼンは見送る。
「──しっかりした娘ですね」
「うむ。あれは傑物だよ」
 太公望の返事に、楊ゼンはくすりと笑った。
「師叔に似てますよ。あの年頃の師叔も、きっとあんな感じだったんでしょうね。崑崙に上がった頃の師叔は、とても真面目で優秀だったそうですから」
 その言葉に、太公望は楊ゼンを見上げる。
「おぬし、聞いたのか?」
「ええ、先刻に武王から。武王は昼間、騎馬に同乗している間に聞いたそうですよ」
「そうか……」
 太公望を見つめながら、楊ゼンは邑姜が座っていた椅子に腰を下ろした。
「良かったですね」
「………」
 燭台の灯火だけが照らす薄明かりの中でもはっきり分かる瞳の優しさに、太公望は言葉もなく楊ゼンを見上げる。
「彼女がいるという事は、あなたは一人きりではないという事です。あなたと同じ姓を……同じ血を持つ存在が、この世にいる。素晴らしいことですよ」
「楊ゼン……」
 優しい言葉に、太公望は答える言葉がなかった。
 そういう楊ゼンの唯一の血縁は、既にこの世に存在しない。
 そればかりか、養い親までも。
 現在の彼は、正真正銘の天涯孤独なのだ。
「師叔」
 だが、そんな思いを読み取ったのか、楊ゼンは微笑する。
「いいんですよ、僕は。父や師匠に大切に愛された記憶がたくさんありますから。けれど、あなたの優しい記憶は、辛い記憶で塗り潰されてしまっていたでしょう? それが少しでも取り戻せたのなら、僕も嬉しいんですよ」
「───…」
 いつもこうだ、と太公望は思う。
 どこから、どうしてそんな言葉が出て来るのかと不思議になるほど、楊ゼンの言葉は優しい。
 自分は何も返せないのに、いつも彼は深い深い優しさで包み込んでくれる。自分の弱さもずるさも、十分に知っているはずなのに。
 そういう彼だから。
「……生きていてくれるなんて、夢にも思わなかった」
 つい、本音がこぼれてしまう。
 誰にも──たとえ独り言であっても、口に出すつもりなどなかった言葉が。
「妹が……生き延びて、子まで成しているなんて……」
 聞いて、欲しくなる。
 優しく髪を梳いてくれる温かな指を、どうしても振り払えない。
「わししか生き残らなかったのだと、ずっと思っていた……」
 椅子を立ち上がり、寝台の縁に腰を下ろした楊ゼンの胸に引き寄せられても。
 その温もりに抗いきれない。
「──生きていたのなら、会いたかった。もう一度だけで良いから……会いたかった……!」
 込み上げる想いと、強く抱きしめてくれる腕の優しさに、目の奥が熱くなるのを太公望は懸命に抑える。
「我慢しなくてもいいんですよ」
 それを察したのか、耳元で優しい声が囁いたが、太公望は唇を噛み締めて感情の波をやり過ごした。
 楊ゼンがそれを望んでいるのだと分かっていても、そこまで甘えることを自分に許すことはできない。
 ───だが。
「──何故……会えなかったのだ……?」
 どんな形であれ、甘えは甘えだ。
 自分の裡に秘めておくべきことを口に出すのと、涙を見せるのと、一体どれほどの差があるというのか。
 ……けれども、言葉が口をついて出る。
 邑姜には言わなかった、昏く心にのしかかる感情が。
 抱きしめられた胸の温かさに、零れ落ちてゆく。
 駄目だと思っても、止まらない。
「否、それ以前に何故、わしと妹だけが生き延びた?」
「師叔」
 抱きしめる腕の力が緩められて、太公望は楊ゼンの胸から顔を上げる。
「何故、わしは元始天尊さまに拾われ、邑姜は太上老君の養女となった?」
 張りつめた深い色の瞳を、楊ゼンは真摯なまなざしで受け止める。
「一体……どこが始まりなのだ……!?」
 決して大きくはない、けれど険しい声に、楊ゼンは躊躇いつつも口を開いた。
「──昔、同じようなことをあなたはおっしゃいましたね。何故、自分がスカウトされたのは、村が襲われた直後だったのかと……」
 それは随分前の話だった。
 まだ封神計画が始まって間もない頃。初めて二人が出会ってから、それほど時間は経っていなかった。
 太公望が崑崙に上がった経緯を知った楊ゼンが、何のために封神計画を引き受けたのか、と尋ねた時、返答の後に太公望は付け足したのだ。
 わしは封神計画を頭から信用しているわけではない、と……。
「そうだ……。元始天尊さまにとって、わしは多分、効率良く封神計画を進めるために選ばれた駒なのだろうと、あの時、わしは言ったな」
 太公望は、かつての己の言葉に眉をしかめる。
「ずっと……そう思い続けておったよ。だが、それはわしだけではなかったのか? わしの血族までが、どうして生かされている!?」
 楊ゼンにぶつけたところで、何の意味もない疑問であり、憤りであると分かっていた。
 それでも言葉が止まらない。
「そもそも……どうしてわしの村が襲われたのだ? あれは本当に偶然だったのか!? 運が悪かっただけなのか……!?」
「師叔……」
 気遣うように名を呼んだ低い声に、太公望は小さく深呼吸して唇を噛み締める。
 疑問をぶつけるべき相手も、憤りをぶつけるべき相手も楊ゼンではない。
「……すまぬ」
「いいえ。八つ当たりでも何でも好きなだけ言って欲しいと言ったのは僕です。あなたの辛さをこうして分けてもらえるのは嬉しいですよ」
「だが、こんなことをおぬしに言うのは筋違いだ。わしが言うべき相手は……」
「太公望師叔」
 言葉を遮った響きのいい声は、きつくはなかった。むしろ常と同じで、ひどく優しく聞こえる。
「いくらでも僕を利用して下さいと言ったでしょう。天才と呼ばれるくらい不可能な事なんて殆どない僕が、あなたのためなら何でもすると申し出ているんですから、上手く使わなければ損ですよ」
「だが……」
 なおも抗弁しようとした太公望の唇に、楊ゼンはそっと指を触れることで止める。
 この問題に関しては、ずっと堂々巡りが続いている。
 また繰り言になるだけだと分かっているから遮ったのだということは、言われずとも太公望には理解できた。
「──話が逸れましたね」
「いや……良いよ。おぬしに聞いてもらっただけでも随分……」
 気が楽になった、とは口にしがたくて、太公望は語尾を濁す。
 楊ゼンに八つ当たりをぶつけたのも、その結果、少しだけ気分が落ち着いたことも、己の弱さずるさの証明のようで受け入れがたかった。
 ──けれど、これは現実。
 自分の中には、どうしようもないほど弱い部分があり、そして、それを楊ゼンの優しさが救い、支えてくれている。
 どれほど己を叱咤し、厳しく律しようとしても、楊ゼンの存在に甘え、安堵する自分がいるのは、まぎれもない事実。
 そのことを、自己嫌悪し否定するばかりでなく、もっときちんと認めなければならないのかもしれない、と太公望は思う。
 けれど。
 ───わしにとって、楊ゼンは何なのだろう。
 信頼する片腕。
 確かにそう思っているのだが、それだけではない何かが存在していることも気付いている。
 でも、それが何なのか──何と呼べばいいのか、分からない。
「師叔」
 黙り込んでしまった太公望に楊ゼンはそっと手を延ばし、癖のない髪を梳く。
「僕は、あなたの傍にいますから」
「───」
「あなたの言う通り、あなたの背後には何らかの思惑があるのかもしれません。……いえ、その確率は高いでしょう。けれど、何があろうと僕があなたの隣りにいますから、あなたは前だけを……御自分の進む先だけを見ていらっしゃればいいんです」
「楊ゼン……」
 嘘のない瞳に見つめられるたびに感じる、この哀しさにも似た切なさは何なのか。
「あなたは独りじゃないんですよ」
 優しい言葉と共に顔を寄せられて、太公望は少しだけ躊躇いながらも目を閉じる。
 触れるだけの優しいキスをして楊ゼンが離れていっても、気恥ずかしくてすぐには瞼を開けられない。
 初めて彼に口接けられてから、まだ二十日余り。
 触れたいのは自分の我儘だ、と言った楊ゼンの言葉を受け入れた上での行為ではあるが、まだ慣れることなど到底できなかった。
 そのまま再び楊ゼンの胸に引き寄せられて、優しく抱きしめられる。
「──大丈夫ですから」
 耳に心地よい低い声に、波立った心が静まっていくのを感じて、太公望は肩の力を抜き、楊ゼンの腕に身体を預けた。
 広い胸はどこまでも優しく温かく、揺らぐことを知らない。
 卑小なこの心を躊躇いもなく抱きしめ、支えようとするその確かさに、目の奥が熱くなるような切なさが込み上げる。
「師叔……」
 名を呼ばれる。それだけのことで、安堵して深呼吸する自分が間違いなく心の中のどこかにいる。
 それだけは絶対に否定できないのだ。
 ……やがて、その温もりに太公望が再び眠気を覚えはじめた頃、楊ゼンはそっと抱きしめていた腕を解いた。
「明朝はいよいよ朝歌入りですから。準備は僕たちに任せて、師叔はゆっくり休んで下さい」
「うむ……」
 疲労が残っているのは事実だったから、促されるままに太公望は、ゆっくりとした仕草で寝台に横になる。
 彼が眠る態勢を整えるのを待ってから、楊ゼンは肩まで毛布を引き上げてやり、枕に流れる癖のない髪を軽く指先で梳いた。
「──本当は、ずっと付いていてさしあげたいんですけどね」
 やや溜息の混じった声に太公望は楊ゼンを見上げ、甘やかに微笑み返されてかすかに瞳を揺らす。
「目を閉じて下さい」
 そして、静かな声で告げられた言葉にも、太公望は抗わなかった。
 大きな瞳が閉ざされるのを見届けて、楊ゼンは上体を屈め、瞼に優しく口接ける。
「……おやすみなさい、師叔」
 低いささやきを残して、楊ゼンは寝台の傍を離れ、静かに幕舎を出ていった。

 

 彼の気配が遠ざかったのを感じて、太公望はそっと目を開ける。
 ──眠るように促された時、本当は、楊ゼンの温もりが心地よくて離れがたかった。
 そんなことを感じた自分の弱さが、情けないというよりも辛い。……けれども、どこかひどく切ない気もして、太公望は唇を噛む。
 一体、自分は彼に何を求めているのか。
 脳裏をつきまとって離れないその問いが、また浮かび上がりかけたが、どうせ答えは出ないと分かっているから、太公望は一つ息を付いて目を閉じる。
 とにかく眠らなければ体力は回復しない。
 ──朝歌入城は、明日。
 そのために兵士が起床して動きだすのは、夜明け前だ。
 ならば、『彼』が動くのは朝歌までの距離を考えると、おそらく真夜中過ぎ。
 先回りをするのなら、こちらはその半刻前には動かなければならない。とすれば、あと二刻ほどは身体を休める猶予があるはずだった。
 目を閉じたまま、太公望は考えを巡らせ、そして心の中で、すまぬ、と楊ゼンに詫びる。
 ──本当は『彼』の危険性を、楊ゼンには真っ先に告げておかなければいけなかった。
 だが、こればかりは、どうしても自分一人で決着をつけなければならない。
 『彼』をここまで追い詰めてしまったのは間違いなく自分の責任なのだから。
「すまぬ……。楊ゼン……」
 しかし、おぬしに手を出させるわけにはいかないのだ、と言い訳して。
 太公望は一つ深呼吸する。
 ──おやすみなさい、師叔。
 そして、耳に残る優しいささやきに誘われるように、束の間の眠りに意識を沈めていった────。











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