番外28:驟雨
あまりにも、おかしかった。
互いに多忙を極めたことは、これまで何度もある。
幾日も顔を合わせなかったことは勿論、互いの温もりから数ヶ月遠ざかったことも一再ではない。
けれど、こうして毎日顔を合わせ、言葉を交わし、温もりに触れられる距離に居ながら。
今の彼は、目の前に居ながら居ないようで。
だからこそ、無意味だと分かっていても。
数ヶ月前から始まっている捩(ねじ)れの続きだと承知していても、言葉を発しないわけにはいかなかった。
「どうしたんです」
発した問いかけは、追い詰めるだけのことにしかならないかもしれない、と分かっていた。
黄昏時、厚い雲に覆われた空は常よりも早く薄闇を誘(いざな)ってきてはいたが、幸か不幸か人ならざる目を持つ自分には何の関係もない。
開け放したままの窓から、軽く窓枠に預けた背に、雨の気配を帯びた風がゆるく吹きつけてくる。鼓膜に届く遥かな遠雷は決して幻聴ではなく、夕立が降り始めるのは時間の問題だと思われた。
「何があったというんですか」
それは、決して言うべき言葉ではなかったかもしれない。
これまで自分たちの間で、答えを求めるような──本心を暴くような問いかけをしたことは一度もなかった。
問いかけはいつも、虚空に向けた木霊(こだま)を聞くのにも似ていて、まるで予定調和のように、お決まりの言葉を返し、返されて終わるばかりだった。
それを虚しいと思ったこともないし、これからも思うつもりもない。
だが、それでも聞かずに──問わずにはいられなかった。
もしかしたら、自分たちの関係における禁忌を犯しているのかもしれない、と思いながら、それでも。
「師叔」
さして広くもない部屋の向こう、出入り口の扉に近い場所で、彼は立ちすくんでいた。
出て行こうとしかけたその姿勢のまま、深い色の瞳ばかりが張り詰めたようにこちらを見つめている。
……幾つもの季節を共に過ごしてきた。
だからといって、それに意味を感じたことなどない。
共に居たから。
口接けを交わし、体温に触れたから。
そうしたところで、一体どれほどのことがあるだろう。
彼のことで分かることなど、何もない。
唯一つ、彼も自分も、どうしようもない空漠を……風の吹きすさぶ荒野を身の内に巣食わせている、そのことだけを除いては。
彼のことなど何も知らないし、知る気もない。
けれど。
「師叔?」
身じろぎ一つせず、まばたきすることも忘れたように息すらも詰めたその様は、まるで怯えた小さな獣のようだ、と思う。
彼のこんな姿など、想像すらした事はなかった。
彼は彼であり、自分は自分であり、それは決して冒されることのない不文律にも似て、冷然と聳(そび)えていたはずなのに。
だが、目の前にあるもの、それが全てであって。
だとすれば、彼の意識は今、何に向けられているというのか。
この自分に?
彼自身に?
───それとも、全く未知の何か……これまでは決して在り得なかった、自分でも彼でもない存在に?
「師叔、あなたが何を感じているのかは知りませんが、言ったでしょう? 多分この世界が終わるまで、僕はあなたに執着し続けると」
そう言ったのは、いつの夜のことだったか。
「何があっても、あなたを手放す気なんかありませんから。逃げても、地の果てまででも追いますよ。僕はそんなお優しい性格はしてませんからね、縛り付けてでもあなたには僕の手の届く所に居てもらいます」
傲然と、そう告げた言葉に。
かすかに、彼の唇が震えるように動く。
「何です?」
「──わしが……」
灯火がまだ灯されない薄暗い部屋の中、厚く垂れ込めた雨雲ばかりが見える回廊を背景に、ひたと神経を病んだ者を思わせる一途さで、こちらを見つめたまま。
らしくもない掠れた声は、とうとう堪え切れずに降り始めた驟雨に半ば掻き消される。
「わしが……わしで無くなったら?」
その時は……?と呟くように口にして。
それは、とこちらが言葉を発するよりも早く、獣のように身を翻した細い後姿が開け放したままだった扉から回廊へと消える。
反射的に体が動きかけたが、一瞬の空白を挟んで、肩の力を抜き元通りに窓枠に背を預ける。
深い庇(ひさし)に遮られて、天から降り注ぐ大粒の激しい飛沫は届かない。が、冷ややかな水気を含んだ風が、一筋二筋、流したままの髪を無秩序に舞わせる感覚に、かすかに眉をしかめた。
「──あなたがあなたで無くなったら? それが何だというんです?」
腕を軽く組んだまま、目を閉じれば、屋根瓦を叩く激しい音だけが耳に届く。
「それとも僕が僕で無くなったら。あなたはどうするというんですか?」
またたくまに雨雲を伝って近づいた迅雷が、虚空を閃光で切り裂き、鼓膜を揺さぶる轟音をとどろかせる。
───永遠など、信じたことは無かった。
自分自身も、自分以外の存在も、信じようと思ったことすらない。
修羅に灼けた瞳に映る世界は、いつでも全てが均等に、自分とは何らの関わりも無いところに存在していて。
端(はな)から他に意識を向けようと思ったことなどなかった。
けれど。
それでも徒(いたずら)のように生じた、唯一つの執着だけは。
あの日から薄れることなく、身の内に巣食う風と共に、今も尚あって。
今更、どんな要因が生じたところで、変われはしない。
彼も、自分も。
吹きすさぶ風はやまず、不毛の大地に草木が芽生えることもない。
ただ、その地において一人よりも二人で居ることを選び、望んだ。
それ以上でもそれ以下でもなく、また他のどんな形にもならないのだ、自分たちの関係は。
そんな進みもせず、退がりもしない状態を、永遠などという感傷に満ちた言葉では呼べない。
だが、それでも自分たちは未来永劫、そこに立ち続ける。
そればかりは、おそらく何者にも否定は出来ないし、させる気もない。──そう、彼自身にさえ。
「水を得て、生命を育む力を生じたとしても、月は月ですよ。それとも、あなたはそんな月を地球と呼ぶつもりですか?」
彼が何を感じているのか。
何に怯えているのか。
それを知る術は、自分の手にはない。
今はただ、回廊の向こうに消えた細い後姿を追わずに居る、それしか自分がするべき事はなかった。
出たばかりのTATOの新譜を聞いていたら、突然このシリーズが書きたくなりました。
何故か、と考えてみたら答えは簡単でした。
ファーストアルバムが、このシリーズの製作BGMとしてエンドレスだっただけのお話。
このシリーズも残すところ、あと4話。
カウントダウン開始です。
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