#071:誘蛾灯







いけない、と感じた。

行ってはいけない。
追ってはいけない。
近づいてはいけない。

それは、はたして誰に向けた警告だったのか。
軍師の命令に背いた青年か。
自分か。
それとも、彼か────。








何だ、と思った。
初めて対峙する相手ではない。
その光すら吸い込む暗黒星雲のような気配を知っている。
知っているはずなのに。

「・・・・・・おぬしは何者だ」

訊くな、と何かが叫んでいる。
今直ぐ、血気に逸った配下の青年をも見捨てて、この場を離れろ、と。
あの男の下へ逃げ帰れ、と。

「おぬしは・・・・・本当に、あの王天君か・・・・?」

辺りを包む禍々しい気配。
ひたひたと迫りくる深紅の霧雨。
見間違えようもない。
間違えるはずがないのに。



赤い霧の向こうで、闇の化身のような気配が、にやりと笑う。



「質問してる暇があんのか?」

嘲笑う声は、冷ややかにまとわりついてくる。

「テメェが悠長なことをしてる間に、あの馬鹿ガキは死んじまうぜ」

重く、冷たく、まるで闇が音声と化したかのように。

「なぁ、綺麗事の大好きな軍師さんよ。テメェは誰一人、殺したくねぇんだろ? なんせテメェはお優しすぎるもんなぁ」

───この声。
この声は。

「何者だ!? おぬしは・・・・・!?」

訊いては、いけない。
これ以上、近寄ってはいけない。
これ以上、言葉を交わしてはいけない。

けれど───。





何故、この男がここに居るのか。
まるで、全てを見越していたかのように。
かの妖姫は、こんな場面では決して手を出してこない。
否、既に殷王朝にも紂王にも用がないことは、牧野の戦いの終盤、紂王を見捨てて去ったことからも明らかだ。
そう、あの時、あの場面で横槍を入れてきたのも、この男だった。
今、紂王が死んだら歴史が変わるから、と。

歴史が変わる?
この場に及んで変わることなど有り得ない。
武王が人々の眼前で紂王の首を取れば、殷は周へと変わる。
その舞台が、牧野の平原であっても、朝歌の禁城であっても同じこと。
変わるとしたら、それは───。

「おぬしは天化に・・・・・仙道に、紂王の首を取らせたいのか!?」
「さぁてな。だが、少なくともテメェが慌てふためく様は、こうやって見ることができてるぜ」

いい気味だ、とせせら笑う。
その表情は。

まるで全てを見透かしているようで。


───ぞくりと、背筋に震えが走る。


「どうすんだ? モタモタしてっと愛しの天化ちゃんが、更に愛しの紂王さまをやっつけちまうぜ?」

その言葉に、はっと我に返る。
赤い霧は朝歌の街並みを包みこみ、全てを溶かし尽くす雨を蕭々と降らせている。隙間だらけのあばら家ばかりが立ち並ぶ、今現在の朝歌の家屋では持ち堪えようがない。
一向に情報が引き出せないことに苛立ちながら、大極図を揮(ふる)う。
途端、硝子の箱を叩き割ったような、音にならない音が鼓膜に響いて。

高く、狂ったように笑い続ける、耳障りな声ばかりが、長く残響の尾を引いて消えて行く。




「───何者だ」

呟き、自分の全身が汗にぐっしょりと濡れていることに気付いた。
冷たい汗の感触に、思わず体が震える。

「何が目的だ! 王点君!!」

───あの声。
全てを嘲笑う、冷たくまとわりつく刃のような声。
あれは。
あれは───・・・。

「───っ」

声にならない声で、ただ一人の青年の名を呼ぶ。
今直ぐ、傍に来て欲しかった。
強く抱き締め、名を呼んで欲しかった。
あの低く耳元に響く、揺るぎのない声で。
自分の名前を。

けれど。

同じくらい強い感情で、来てくれるな、と祈っている。
今だけは、彼にだけは自分に近づいて欲しくない。
今の・・・・冷たい汗に濡れ、震えている自分を見られたくない。
こんなにも動揺している自分を。

こんなにも──怯え、怖がっている自分を。



「御主人・・・・」

主人の身を案ずるように寄って来た霊獣を安心させるように、その頭に軽く片手を置く。

「禁城だ、スープー。急ぐぞ」
「ラジャーっス!」

忠実な霊獣の背に乗り、夜空を駆ける。
けれど、風を切って飛ぶ霊獣の速度にも、惑う心は振り切れず。


───楊ゼン。


声は声にならないまま、風の中に消えた。










久しぶりの天葬。(シリーズ名を短く変更してみました。)
この場面を書くのに、久しぶりに原作の単行本を引っ張り出しました。
そうしたら、思わず読みふけってしまいました。
なんでこんなに面白いんだ、封神演義・・・・・。


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