#021:はさみ
甘さよりも、すがるような響きの勝る声。
毎夜、血が滲むほどにきつく立てられる爪。
様子がおかしいことには、最初から気付いていた。
その原因を推測するすべすら、この手にはなく、また手にしようと思ったことさえないのだけれど。
「そろそろ次の手を打たねばのう・・・・」
ぽつりと呟いたのは、いつもと同じ、夜の静寂(しじま)。
室内に満ちていた熱はとうに立ち消え、月のない闇に感情の窺えない声が、しんと染みる。
「・・・・どこから戦力を補充するつもりです?」
「あいにく、この期に及んで、おぬしの裏をかける程の秘策は持ち合わせてはおらぬよ」
「そうですか」
短く答えて、寝台に零れ落ちている黒髪を指先ですくう。
長さのない髪は、ぱらぱらと元通りに零れ、決して宙にとどまろうとはしない。
「また、御自分で行かれますか」
「また、な」
躊躇のない返答に、相変わらず酷い人だな、と心の中で安堵するように呟く。
決して、他人を真実信じることも、頼ることもない。
そんな馬鹿げた行為は、天地がひっくり返ってもすることはないし、できないのだ。
胸の中に修羅の焔を──吹きすさぶ風しか感じられない荒野を巣食わせている者に、そんな余裕などあるはずもない。
そのことを哀しいと思う感覚すら、既にこの人にも自分にもない。
「聞くだけ無駄だとは思いますが、一応の目安は?」
「・・・・半年が限度、だと思う」
「妥当ですね。それ以上、兵を動かさずに居るわけにはいかない。既に半年近く、地上では兵を周の領内にとどめてしまったんですから」
「うむ。正直、兵を遊ばせすぎたと思っておる」
「半年を過ぎた時には、僕の独断で兵を動かします。成果がどうあれ、殷とぶつかる前には必ず戻って下さい。僕の指揮では諸侯が納得しませんから」
「分かっておるよ」
それきり、彼は黙り込む。
そして、夜具の中を少しだけ移動して、こちらの胸に頭を預けるようにした。
珍しい仕草ではない。が、肌の触れ合う温もりに、出立は夜明けなのだと・・・・既に彼の中では決まっていることを悟る。
だから、何も言わないまま、さらさらと流れる髪を梳いた。
「・・・・・結局、時期が少し早まっただけだったな」
しんと響いた声には、自己憐憫は微塵も含まれていなかった。
───遅かれ早かれ、この戦いの過程において必ず仙界は陥ち、数多くの命は羽虫よりも儚く踏み潰される。
もはや咲いた花が散るに等しい事実を確認する、それだけの淡々とした声に、そうですね、とうなずく。
「妲己は間違いなく、能力的には聞仲よりも上ですよ。正攻法で来れば、ですが」
「遊びを仕掛けるにしても、十二仙程度の相手では、せいぜい虫けら程度の扱いしかせぬだろうな」
「ええ。僕やあなたでも、似たようなものですよ。もっとも、僕たちに対しては多少、策を凝らしてくるでしょうが」
「つけこむ隙があるとしたら、それだけだな」
そう言い、また口を閉ざす。
おそらく考えていることは同じだった。
妲己は周軍と仙道に対して、彼女にとっては退屈しのぎ程度の意味しかない凄惨な遊びを仕掛けてくる。
だが、そこに、たとえ遊びであっても勝利する気が・・・・自身の血を流してでも、何かを守り通す気が含まれているかどうか。
答えは。
───否。
彼女もまた、間違いなく胸中に何かを抱えている。
あの金の瞳に浮かんでいるのは、自分たちの知る、吹きすさぶ風しかない荒野ではなく、もっと違う何か。
たとえるなら、覗く者を引きずり込む底のない暝すぎる淵のような。
光り輝いていると感じられる程に濃い闇のような。
果てなく、あの妖姫を突き動かしているものが、必ずある。
そして、それが求めるものは。
決して、地上の栄華ではない。
そんな砂で作った城よりもくだらないものに意味を見出せるほど、彼女は愚かではない。
───あの、どんな宝玉にも勝る、艶やかに濡れた瞳が見ているものは。
それは、おそらく限りなく美しいもの。
清浄に、あるいは凄惨に。
金剛石のように、あるいは黒曜のように、眩しく、あるいは暝く、この上なくきらめくもの。
そうでなくば、何故、あの稀代の妖姫が心を奪われようか。
「あなたが魅せられないことを祈ってますよ」
さすがに意外だったのか、彼が顔を上げる。
「わしが、あやつに?」
「ええ。彼女は、異種ではあるけれど同類ですから」
「────」
否定はなかった。
けれど、それでも、と静かな声が響く。
「・・・・確かに、あやつがわしに手をさしのべる可能性はある。だが、わしがその手を取ることはないよ」
きっと、妖姫の手は、血の通ったこの世のものとは思えないほどに美しいだろう。
天上の調べのように、美しくたおやかに、甘く優しく誘うに違いない。
けれど、要らない、と凛と響く声が拒む。
「その言葉、信じてもいいですか」
これまで一度も使ったことのない言葉でそう告げると、また彼は目を軽くみはった。
底なしの深い色に沈む瞳を、灯火台の小さな炎だけが照らす薄明かりの中で見つめると、彼は目を伏せるように一つまばたきして。
「・・・・愛しておるよ」
ゆっくりと顔を、こちらの胸に伏せる。
その肩に、そっと腕を回して抱き寄せる。
「僕も愛してますよ」
そうとだけ告げて、目を閉じる。
───明日の存在など、信じたことはない。
世界に一つしかない温もりを肌に感じていても、それはまるで蜃気楼のように頼りなく、決して信じようとは思えない。
何一つ、確かなものも、すがれるものもない。
なのに、何故か。
さらさらと崩れてゆく刻の狭間で、鋭い刃が研がれている音が──鋭利な金属が擦れ合う、ひそやかな音が聞こえる。
そして。
絹よりも細い、蜘蛛の糸に似た何かが、
一本一本、断ち切られてゆく、
かぼそい悲鳴のような、
音が。
「呼んで下さいね、僕を」
「おぬしを?」
「ええ。あなたに言っても無駄だということは分かってますけど。でも、僕はあなたを手放す気はありませんから」
「───うむ」
唐突で脈絡のない発言は、むしろ彼の領分。
だが、それでも彼は、静かにうなずく。
自分が、いつでもうなずくように。
おかしいということは分かっていた。
この夜も、自分の言葉も、彼の紡いだ言葉も。
すべてが一つ一つ、見ても分からないほどかすかに、だが明らかに歪んでいる。
どちらが先に、位相がずれた世界へと足を踏み入れたのかは、どうでもいい。
ただ。
「もうすぐ夜が明けますね」
「・・・・まだだよ」
「そういうことにしてもいいですが」
ここにあるのかどうかも分からないほど儚い、この温もりを今夜だけは抱きしめていたかった。
終了寸前、というほどでもないですけど、でも、そろそろ本当に終盤。
しかし、シリーズ名は、まだ迷ってます・・・・。
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