腕の中で声を殺して泣き続ける、その痛々しい姿に。
 来て良かった、と心の底から思った。










 休むのは後から幾らでもできるから、と休憩なしでトラン政府の駅馬を四頭乗り継いで、そのまま国境を越え、ラダトから再び、顔見知りになった同盟軍の駐留隊に馬を借りてクォン城に着いたのは、ちょうど午後のお茶の時間だった。
 自宅を出たのが朝早い時間だったから、通常なら半日以上かかる道程を、三分の二程度の所要時間に短縮したことになる。
 けれど、かつて、これくらいの強行軍は日常だった日々を経験しているから、クォン城に足を踏み入れた段階でも、さしてティルは疲労を覚えてはいなかった。
 そのまま、今日は朝以来、姿を見ていない、と問うた誰もが答える城内を、軍主の少年を探して歩き回り。
 最後の目撃情報があった地点から、一番人気(ひとけ)のない方角に進んだその先。城内のどこからも死角となる小さな陽だまりに、彼を見つけた。

 湖に面して聳え立つ断崖の上にある緑に囲まれた小さな空間で、春の日差しにきらきらと輝く湖面を、膝を抱えて座り込んだセイは、何をするでもなく見ていたようだった。
 声をかけると、振り返った彼の瞳は、いつになく、どこかぼんやりとしていて。
 彼の置かれた状態の深刻さを感じつつも、自分相手にこんな軍主らしからぬ表情を晒せるだけ、まだ良いかと思いながら、隣りに腰を下ろし、敢えて、何故、という問いを向けた。
 人々の上に立つ軍主が……その役割と責任を十分過ぎるほどに自覚しているセイが、この城の内外において、心の内を吐露できる存在があるはずもない。
 そう分かっていたからこそ、敢えて、ほんの数日前の記憶と感情を揺さぶる残酷な問いかけをして。
 初めて目にする彼の涙を引き出した。

 結果を予想して仕向けた事ではあっても、身も世もなく泣き崩れる姿を目の当たりにすれば、心が痛む。
 腕を伸ばして抱きしめながら、ごめんね、と口の中で呟いた身勝手な声は、セイの耳には届かなかっただろう。
 そんな自分の腕の中で、慟哭、という表現しかしようのないほどに泣きながら、しかし、セイはそれでも泣き声を上げることはなくて。
 それは軍主としての自覚ゆえの事かもしれないが、もしかしたら……、と成長期に入ったばかりのまだまだ華奢な背を抱きながら、考えていた。
 物心ついた頃から、あの幼馴染と義姉が常に共にいたが故に、もしかしたらセイは長ずるに従い、声を殺して一人、泣く術を身につけたのではないか、と。
 何よりも先に、周囲の人々の感情を思いやる性格のセイが、一番大切に思う彼らが心配し、悲しむと分かっているのに、涙を見せられるわけがない。極力、自分の辛さ悲しさを隠し、相手を安心させるために浮かべる笑顔が、そのまま、今の軍主としての笑顔に繋がっているのならば。


(──僕は、そんな君のために、何をしてあげられるんだろうね……?)


 声を立てることなく、ただ泣き続ける背中を抱きながら、遠く霞む春の空を見つめて。
 そして、ひそかに目を閉じた。










 夕暮れが忍び寄る中を、こっそりと城内に戻り、レストランの厨房に直接赴いて、ハイ・ヨーに部屋でも食べられるようなサンドイッチやミートパイといった軽食を詰めてもらったバスケットを片手に、最上階にある軍主の部屋に辿り着く頃には、セイはかなり落ち着きを取り戻していた。
 居間の卓上を片付け、慣れた様子で茶を入れて、いただきます、と手を合わせて。
 まず手に取った野菜サンドを、ぱくりと一口食べ、美味しい!と顔をほころばせるセイの様子に、食事を美味しく感じられるのなら、もう大丈夫だろうと思いながら、自分も広げられたバスケットの中身に手を伸ばす。
 半日をあの陽だまりで過ごしていたセイだけでなく、自分も昼食を取り損ねていたのは同じだったから、しばらくの間は、料理の感想や、それに関連した日常のことを他愛なく喋りながら、食事に専念する。
 そうしてバスケットの中身が粗方、空になった頃、デザートの杏仁豆腐を匙ですくいながら、ぽつりとセイが口を開いた。

「……やっぱり、僕は軍主として足らない部分が多すぎるんでしょうね」

 自嘲というよりは、単に事実を確認するような、そんな静かな表情で。

「今日マクドールさんが来てくれるまで、あの場所で今までのこと、ずっと思い出してたんですけど……。もう少し僕が、色々な事をちゃんと知っていて、理解していたら、今回の事ももう少し上手く立ち回れたのかなぁって……」
「──どうして、そんな風に思うの?」
「どうして、って言われても……結局、和平交渉は罠でしたし、そうだと分かっていても何もできませんでしたし」
「でも君は、ミューズで起こる事を予測できていたんだし、状況としてミューズに行かないわけにはゆかなかっただろう? たとえ僕が君の立場にあったとしても、僕も君と同じように行動した。さほど展開は変わらなかったと思うよ。軍主として、君は何も足りなくなんかない」
「そう、ですか……?」

 そうなのかな……、とわずかに首を傾けて呟く姿は、まだ心の内に何かを思っていることが明らかだったから、それならば、と問いかける。
 意識しているのか無意識なのかはともかく、こうして言葉にしたという事は、つまり、聞いて欲しい、吐露してしまいたい思いがセイのうちにあるはずだったから。
 常と変わらぬ口調で、何故、と。

「ミューズに行く前か、戻ってきてからか……何かあった? もし何かあるのなら、言ってごらん。今は僕しかいないし、僕は同盟軍には関係のない人間だから、君が何を言っても他には洩らさないよ?」
「────」

 こちらの誘い水に、口にすべきかどうかを迷うように、うつむいて杏仁豆腐のシロップをゆるりとかき混ぜ。
 そのままセイは小さく言った。

「……僕、本当はマクドールさんをお迎えに行く前に、シュウさんの所に行ったんです。どうしても聞きたいことがあって……」
「シュウの所へ?」
「はい……。ジョウイが皇王になったことが、どうして和平に繋がるのか分からなかったから……。シュウさんの方が、僕よりもずっとレオン・シルバーバーグの怖さを知っているはずだと思ったんです。でも……」

 うつむき、寂しげに口ごもるセイの様子に、もしや、という思いが閃く。

「もしかしたら……言いたい事も全部言えなかった? 君が考えた事をシュウに……」
「────」

 沈黙は、そのまま肯定だった。
 その様を見つめて、言葉にしがたい思いが胸中に込み上げる。
 けれど、今この場では、その感情を封じて。

「そう……。それは辛かったね。君が軍主として考えた事を発言しようとしているのに、それを妨げるなんて軍師のしていい事じゃない。──でも、セイ?」
「はい」
「それだけじゃないだろう? あの時は僕が聞くべきことではないと思ったし、聞く暇もなかったけれど……」
「え……」

 心当たりがあったのだろう。
 顔を上げてこちらを見たセイの、どことなく甘い色をした茶水晶の瞳が、少しだけ驚きと怯えを含んで見開かれる。
 それに触れられたくない思いは十分過ぎるほどに伝わってきてはいたけれど、敢えて真っ直ぐに瞳を見つめ返して。

「ジョウストンの議場から脱出する時、君はビクトールに謝っていたね。あれは何故? 少なくとも、あの時は謝るべき場面ではなかった。……ビクトールは、分からないと言いながら、分かってはいたようだったけれど」
「───…」

 静かに問いかけると、セイの瞳がまた泣き出しそうに歪んだ。
 そして、そのままの表情でうつむいて。

「……言わないで、下さい……」
「何を……?」
「僕がこれから言うこと……。他の誰にも、絶対に言わないで下さい。約束してもらえますか、マクドールさん……?」
「セイ……」

 彼が自分に約束を求めたのは、初めてだった。
 普段の、自分にとっては造作もない『お願い』とは全く異なる重さを持った、祈りのようなその言葉に、うなずく。
 セイの思いに見合うだけの真摯さを込めて。

「約束するよ。絶対に他言はしない」
「…………」

 見上げてきた泣き出しそうな瞳が、躊躇いを呑み込むように瞬きをして。
 おずおずとセイは目を伏せて、口を開いた。

「……マクドールさんは、ミューズ市長だったアナベルさんって御存知ですか?」
「名前だけは。面識はないけれど、立派な女性だったと聞いているよ」
「はい……。僕もほんのちょっと話しただけでしたけど、すごい人だと思いました。本当にミューズや都市同盟のことを考えていて……」
「そのアナベル女史が……?」
「──他の人には言わないで下さいね? ……アナベルさんはビクトールさんと昔からの知り合いだったそうなんです。ビクトールさんが傭兵隊長をやっていたのも、アナベルさんがお願いしたからだったって聞きました。二人が話してると、すごくお互いのこと信頼して、尊敬もしてるみたいに見えて……僕でも何となく、そうなのかなって分かるくらい……」
「ビクトールが……」

 それは初耳の話だった。
 ビクトールが都市同盟の出身であることは知っていたが、まさか、女傑と名高かったミューズ市長とそんな個人的な関係があろうとは想像したこともない。
 ましてや自分の事を語ることの少ない彼の傭兵が、自らそんな事を口にするはずもなく。

「ああ……。だから、君はビクトールをミューズに来させたくなかったんだね。アナベル女史が亡くなってから、まだ一年も過ぎていないから……」
「……はい……」

 セイの泣き出しそうな瞳に、今にも涙が零れそうに滲む。

「僕……その事も、シュウさんにお願いに行ったんです。もちろん、そんな詳しいことは言いませんでしたけど、ビクトールさんはアナベルさんと親しかったみたいだから、って」
「ちょっと待って、セイ。それは勿論、ミューズに行く前の話だね?」
「はい……」
「それで、シュウは何と?」
「…………分かりました、って……」
「──信じられない…」

 あの軍師、と思わず零れた声に、セイがはっと顔を上げる。

「駄目です、マクドールさん! 約束しましたよね、絶対に他の人には言わないって……!」
「──うん。分かってる。何も言わないよ。……それよりも、セイ」
「はい…?」
「君が軍主として足りないなんて、そんなことは全くない。君は十分過ぎるほどにやってる。他の誰も、君みたいに優しくて思いやりのある、立派な軍主になんかなれやしない」

 言いながら、ゆっくりと立ち上がり、卓を回ってセイの傍らへと歩み寄る。
 そして、セイの頭を胸にそっと抱き寄せるようにして、やわらかな髪を撫でた。

「でも、僕は……」
「あんな人の情の分からない軍師のことなんか気にしなくていい。この城に集まった人たちは皆、君の事をとても好きだし、ビクトールだって分からないふりをしても、きっと君に感謝している。
 君は何も間違っていないよ。昼間、言ったね? 今のままの君でいてくれたらいい、と。そのままでいいんだ。ゲンカク老師に大切にはぐくまれた君の優しさが、大勢の人を救ってる。だからもう、自分を責めなくていい。自分を傷つける必要なんか無いんだよ」
「マクドール、さん……」

 名を呼ぶ声と、抱き寄せた肩がかすかに震えて。
 再びセイが泣いていることを知り、抱きしめる腕の力を強くする。
 そしてそのまま、もう一度セイが落ち着きを取り戻すまで、やわらかな髪と小さな背中を撫でながら、彼を泣かせた者達のことを考えていた。










 その夜、結果的に自分はセイとの約束を、ものの見事に破った。
 部外者が口を出すべきことではないということは重々承知していても、セイをあれほど泣かせておきながら、その原因を放置しておけるほど自分は寛大な性格ではなく。
 セイが眠りに落ちるのを待って、そっと軍主の寝室を抜け出た。

 自分の言動を、あの軍師がどう受け止めたのかは知ったことではない。
 ただ、言うべきことを告げ、振り返ることもなく軍師の部屋を後にして、セイの元へと戻った。

 張り詰め、疲れ果てていた精神が、泣いたことで多少なりとも緩んだのだろう。自分が一時、部屋を出ていたことにも気付く様子はなく、セイは静かに眠り続けていて。
 彼の眠りが深いことを確かめた後、足音も気配も消したまま下弦の月が覗く窓際へ歩み寄り、まだ幼さの残る寝顔に時折まなざしを向けながら、夜が音もなく更け、そして明けてゆくのを見つめていた。










「もう帰るんですか……」
「うん。部外者がいつまでも城内をうろうろして、君が何か言われるといけないしね。君も落ち着いたみたいで、僕も安心したから、一旦グレッグミンスターに帰るよ」
「僕の事なんていいんですよ。それより、今回もマクドールさんに心配かけて迷惑かけただけで、さようならなんて……」
「それこそ、どうだっていいことだよ。僕が勝手にのこのこ現れたんだから、君は利用しておけばいいの」
「そんなこと、できませんよ」

 困ったように上目遣いに見上げてくるセイに微笑みながら、ぽんぽんと頭を軽く撫でる。

「また来るから。セイも、いつでもうちにおいで。用事とか口実とかなくても、来たい時に来ればいい。グレミオやクレオやパーンも楽しみにしてるんだよ、セイが家に来るのを」
「僕を? どうしてですか?」
「まぁ僕が原因なんだけどね。長い間留守にしていて、やっと帰ってきても、旧知の誰かを家に招待するわけでもない。当主がそういうまるで隠居老人みたいな生活をしてるから、君が訪ねて来てくれるのが皆、嬉しいんだよ。人が多い方が食事も楽しいし」
「あ、そうですよね。お客様って毎日だと困りますけど、たまにだと嬉しいですもんね」
「そういうこと。だから、遠慮なんかしなくていいからね」
「──はい」

 一瞬、いいのかな、と言いたげに迷い、けれど、にこりと笑ってうなずいたセイの頭をもう一度撫でて、ビッキーの前へと進み出た。

「じゃあビッキー、バナーの村まで頼むよ。またね、セイ」
「はい。来て下さってありがとうございました、マクドールさん」
「どういたしまして。じゃあね」

 手を振るセイに右手を振り返して、身体が淡い光芒に包まれるのに任せる。
 浮遊するような、重さのない水の中に飛び込んだような奇妙な一瞬の感覚の後、視界に開けたバナーの山並みの上に広がる空は、今日もよく晴れていて。
 眩しさに目を細めながら、その遥かな青を見上げた後、ゆっくりと家に帰るべく歩き出した。

...to be continued.

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