春光遼遠    ─戻り来ぬ月 余話─







 バナーの峠で行き逢った賊の後始末を正軍師に頼み、湯を使って、ゆっくりと休んだ翌朝。
 城の桟橋に立ち、出航準備が整うのを待っている時から、既に彼の顔は、傍に居た自分には分かる程度に青ざめていた。
 知り合った直後……あのルカ・ブライトとの決戦の日の朝も、こんな風に緊張に顔をこわばらせているのを目にしたけれど、今回はその比ではなく、追い風に乗り、滑るように穏やかな水面を船が行くに従って、彼は見る見るうちに表情を失くしていった。
 セイ、と名を呼べば、はっと我に返ったようにこちらを見て、わずかに顔を和ませるものの、到底、緊張が解けるには至らず。
 その、あまりにもらしくない、見慣れない様子に、やはり、この子は、この先に待ち受けているものが何なのか気付いている……否、確信しているのだと、思わざるを得なくて。
 そういうことであるのなら、と、予想できる全ての事態に対応できるよう、彼の横顔を痛ましい思いで見守りながら、ただ考えていた。
 その時、自分はまだ彼の幼馴染を知らず、予想が外れればいいのに、と密かに思ったりもしていたのだけれど。






「坊ちゃん、お茶のお代わりはいかがです?」
「ああ、もらう」
「はい。──どうされたんですか。一昨日の夜からずっと、そんな調子ですよ。難しい顔をされて……」
「……そんなに不機嫌そうに見えるかい? お前が気にするほど?」
「ええ。ものすごく。久しぶりに見ましたよ、今みたいな坊ちゃん」

 きっぱりと言い切られては、肩をすくめるしかなく。

「………向こうに行っている間に、ちょっと悶着があっただけだよ。本来、僕にとっては全然関係のないことなんだけどね。気に食わないものは気に食わない」

 溜息と共に、ごく短く理由を告げる。

「言っておくけど、セイは何も悪くない。あの子はいつもと同じように、どこまでもひたむきで、真っ直ぐだった。僕が機嫌を損ねているとしたら、その周囲の連中に対してだ」
「周囲、ですか? 同盟軍の方がどなたか……?」
「ああ、そっちにも居るね、約一名ばかり。それともう一人、少しばかりどうかと思うのも居るけれど、そっちは身内だから。情状酌量の余地もあるんだが……」
「はあ」
「同盟軍とは全然違うところに、言語道断に気に食わないのが二名ばかりいてね。かといって当事者ではない僕が手を出すわけにはいかないし」

 こんな言い方ではさっぱり分からないだろうと思いながらも、詳しく説明する気にはなれなかった。
 他国の問題ということもあるが、それ以上に詳細に言葉にしたら、更に気分が悪くなりそうで。




 ──自分としては初めて足を踏み入れるミューズ市街、更にはジョウストンの丘にある議場に近づくほどに、セイの顔色は白くなっていった。
 さすがにナナミも気付き、しきりに心配して声をかけるほど、明らかに様子はおかしくて。
 けれど、自分が何か口出しをする場面ではなく。
 そうして、由緒ある議場で初めて顔を合わせた、セイの大切な幼馴染は。




「とりあえず、お茶をどうぞ」
「……機嫌の悪い僕には、とりあえず茶と茶菓子を与えておけばいい、とお前は思ってないか?」
「いいえ、とんでもない。少しでも気分が落ち着かれたらいいと思っているだけですよ」
「……ありがとう。すまないな」
「いいえ」




 ──十七の年で成長を止めた自分と、似たような背格好の若者だった。
 良家の生まれであることが知れる立ち振る舞いに隙はなく、顔立ちは整っていて、切れ者であることが一見で伺えると同時に、物事を思いつめて視野を狭くしがちな気質も、そのまなざしに垣間見えた。
 決して悪人ではない。けれど、自ら敢えて悪人になろうと足掻いている陰が、どこかにちらついている。……そんな匂いがする彼の傍らには、事前に聞いていた通りに旧知の男の姿があり。
 一歩、室内に足を踏み入れた瞬間から、不快なものが込み上げてくるのを止められなかった。
 そんな自分の直ぐ前で、一行の先頭に立ったセイは、かえって覚悟が決まったのか表情は硬いものの、顔色を取り戻していて。
 そして繰り広げられた予想通りの展開に、セイからの依願ではなく、自分は自らの判断で動いた。

 あの時、前に進み出たのは、自分にとっては当然の行動で、取り立ててどうこう言うことではない。
 むしろ、自分の胸のうちに在ったのは、目の前の男たちに対するものよりも、ここへ来るために船に乗り込む直前、軍主殿をよろしくお願いします、と耳打ちした正軍師の顔だった。
 無残な結果を予測していて尚、軍主に一切の情報を伏せる。
 あまつさえ、他国人の自分を利用して、窮地に陥るだろう軍主を守ろうとする。
 その姑息さが、ひどく腹立たしく感じられたのは、マッシュ・シルバーバーグという心底からの尊敬に値する軍師を、自分が知っていたからだろう。
 正軍師は、マッシュに破門されたという経緯も関係しているのだろうが、表立ってマッシュの弟子だと公言はしていない。
 しかし、それでも、あの高潔な人格に一時とはいえ師事した経験があって、それでこれなのか、という思いを止めることはできなかった。

 とはいえ、正軍師の策に著しく機嫌を損ねてはいたものの、窮地を打開する援軍が来ることだろうは疑っていなかった。
 同盟軍は、決してセイを失えない。ましてや、ハイランドに降伏されてはたまらないのだ。
 そして案の定、混乱に陥った議場とミューズ市内をビクトールの先導によって脱出し、フリック率いる遊撃軍と合流して、東回りにクォン城に帰還する途中。
 ラダトの町で、セイは、ここまででいいですから、と今回の事に付き合わせたことを自分に詫びた。




「僕に詫びたり礼を言ったりする必要はないんだけどな……」
「はい?」
「セイがね。何かというと最近、ごめんなさいとかありがとうございますとか、僕に言うから。いいって言ってるのに。僕が好きでやってることなんだから」
「真面目ないい子ですからねぇ、セイ君は」
「だからね。時々……」
「時々、何ですか?」
「いや……」




 顔色はまだ悪いまま、それでも精一杯の微笑を浮かべて、ありがとうございました、と。
 そして、疲れ果てたように重い仕草で、ごめんなさい、と頭を下げるセイに、かける言葉はなかった。
 何を言っても今は虚しいばかりだと、また、周囲に大勢の人々が居る前で何を言えるものかと、ただ、必要な時にはいつでも呼んでくれればいいから、とそれだけを告げて。
 ラダトからバナーへ向かう船に乗った。
 そして一日が過ぎた今日。




「グレミオ、やっぱり出かけてくるよ」
「えっ?」
「クォン城まで。どうしても気になるから。そうだな、向こうに長居する気はないけど、また三日くらい留守にする」
「え、でも一昨日の夜、帰ってこられたばかりですよ?」
「むしろ僕は、お前には悪いけど、帰ってこなければ良かったと思ってる。セイが何と言おうと、クォン城までついてゆくべきだった。少し気持ちが落ち着くまでは、そっとしておいてあげようと、あの時は思ったんだけどね」
「はあ……」

 結局のところ、何も説明していないのだからグレミオが理解できないのも仕方はない。
 しかし、構っている暇はないと、ソファーから立ち上がって、歩き出しながら部屋着の襟元の紐子(ニゥズ)を外した。

「ちょっと急ぎたいから、うちの馬じゃなくて、レパントの所に寄って駅馬を借りる。アイリーンがお前の焼き菓子を気に入っていたから、手土産にできるようなものがあったら包んでくれ」
「あ、はい。直ぐに」

 ばたばたとグレミオは居間を出て行き、そして自分もまた、外出の用意を整えるべく私室に向かった。










「これはこれはティル様。よくおいでになられました」
「悪いね、レパント。また頼み事に来たんだが……」
「何ですかな? ティル様の頼みとあらば、多少の無理は白を黒と言いくるめてでも通しますぞ」
「それは大統領としてどうかと思うけどね。──実は北の国境までの駅馬を借りたいんだ。ちょっと急ぎで同盟軍本拠地まで行きたい」
「……簡単すぎて、聞き届け甲斐がありませんな。どうせならば、もっと無理難題を言っていただけた方が皆、喜ぶのですが」
「…………だから、大統領や大統領府の官僚たちがそれじゃ駄目だろう?」

 苦笑しながらも、故国から遠ざかっている自分に対し、未だにそれだけの気遣いをしてくれることに謝意は伝える。
 駅馬というのは旧赤月帝国時代からあったものを、トラン共和国となってから更に実用的に整えた公的機関で、主要な街道沿いに、十里毎に簡単な宿泊施設を備えた駅舎を整備し、駅馬と称する複数頭の替え馬を配置したものだ。
 政府発行の鑑札を見せれば誰でも利用でき、火急の場合にも、これを利用して首都まで高速で情報が伝達される仕組みになっている。

「そういえばバレリアから報告がありましたが、同盟軍とハイランドの和平交渉は決裂したそうですな」
「決裂以前だよ、最初から罠だったんだから。……レパント」
「はい」
「同盟軍と結んだ君の判断は、どうやら正しかったようだ。この戦い、途中でどう転んでも、最後の最後には同盟軍が勝つ」
「ほう……」

 駅馬担当の官僚に利用希望の旨を伝えて、準備が整うのを待つ間、雑談がてらに口にした言葉に、レパントが考え深げに目をまばたかせる。

「それはまた……。根拠をお伺いしてもよろしいですかな?」
「それぞれの軍主の向いている方向の差さ。今回初めてハイランドの新皇王を見たが、王としての資質は悪くない。ただ、皇王の責任を全うするために政務を行っている。対して、同盟軍の軍主は、民衆のためを第一に考えて、彼らの命と生活を守るために良きリーダーであろうと努めている。いざとなった時に自国の民を守り切るのはどちらか、考えるまでもない。
 民衆というのは、権力者が思うほど愚かじゃないんだ。僕達の解放軍がそうだったように、無辜の民の味方であることを終始貫いた側が、最後には民衆の支持を得て勝利する。たとえ、何年、何十年と時間がかかってもね。それは歴史が証明しているよ」
「なるほど。確かにセイ殿は、あなたに似ていると感じました。彼ならば、自身が傷ついてでも民衆の安全を採るでしょうな」
「僕と比較するのは、やめてあげてくれないか? 同じ天魁星といっても、全然タイプが違うんだよ」

 しみじみと言うレパントの言葉に、再び苦笑しながらティルは応じた。

「一度会っているから分かるだろうけれど、セイはいいリーダーだよ。ひたむきで真っ直ぐで、決して仲間を裏切らない。友好国のトランに対して不利益をすることも決してないだろう。──もっとも、同盟軍の軍師については微妙だけどね。本職が商人だけあって、利用できるものは何でも利用したいタチだ。マッシュの元弟子だが、むしろレオンに感じるものがあるらしい」
「それは少々危険かもしれませんな。今の所は、さほど危うい策は立てていないようですが……」
「軍主のイメージを壊したくないんだろう。だから、おそらくセイが軍主でいる限り、同盟軍とトランの友好関係は崩れないよ。バレリアと義勇軍も、ほぼ無傷で返してもらえるんじゃないかな」
「それは喜ばしいことですが、派遣した以上は、十分に役に立ってもらわねばなりません。今後のためにも」
「トランが赤月帝国に軍事力で劣ると思われるのは困るからね。まあ、あの軍師がトラン義勇軍の戦闘力をお飾りにするわけがないし、バレリアなら十分な働きを見せるさ」
「ええ。私も期待しておるのですよ、彼女には」

 うなずき、しかし、とレパントはティルの瞳を見やる。

「ティル様のお話には、一つ重大な欠陥がありますな」
「ああ、あるね」
「お話されたことは全て、セイ殿が同盟軍軍主であることが前提です。セイ殿に万が一のことがあれば、全て崩れる。跡を継ぐ人物次第ですが、事によっては北方政策はすべて練り直しになります」
「だから、それを防ぐために僕が行くのさ。トランのためというよりは、個人的にあの子のことを気に入っているからだけどね」
「報告は届いておりますよ。セイ殿も足しげく、この街に通って来られているようですな」
「あの真っ直ぐな目でお願いされると、とてもじゃないけど断れないからね。想像できるだろう?」
「できますな」

 真面目くさった表情でレパントが首肯して、親子ほども年齢の違う二人は、肩を並べて笑い合い。
 そこに準備が整ったと知らせに来た大統領府の役人に、うなずいた。

「それじゃ行くよ。アイリーンにもよろしく伝えておいてくれ。あとシーナやバレリアに伝言があるのなら、聞いておくけれど?」
「いやいや、ティル様を飛脚代わりにはできません。どうぞ道中、お気をつけて」
「ありがとう」

 特権を利用して私用に駅馬を借りる代金に、己が知りえた北方の情報と、それに関して思うところを披露して、ティルは足早に大統領府を出る。
 そして、春の盛りの眩しい日差しに軽く目を細めつつ、顔を上げると、正門の前には、一頭の毛艶のいい葦毛が手綱を引かれて待っていた。

「どうぞ、ティル様。少々気の強い馬ですが、足の速さは折り紙つきです」
「世話をかけたね。感謝するよ」
「いいえ、とんでもありません!」

 故国の若き英雄を間近に見、言葉を交わせただけでも至福だと言わんばかりにしゃちほこばって敬礼をした兵士に微苦笑して、ティルは身軽に馬上の人となる。
 そして、軽く鐙(あぶみ)で若駒の腹を蹴り、北の国境へと向かって一路、駆け出した。

...to be continued.

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