満月 - FULL MOON -
「それで、一体どうするわけ?」
「どうしようねぇ」
やっぱり意外、と内心で感心すらしながら、ティルは最近の定場所となっているデュナン湖に面した空中庭園のあるバルコニーに寄りかかり、頬杖をつく。
確かに、同盟軍の軍主には人を惹き付けるところがある。が、しかし、よりによってこの相手に、ここまで気に掛けさせると言うのは、かなりすごい。
自分も嫌われてはいないはずだが、こんな風に陰で気を使ってもらったことは、断言してもいい、これまで一度もないはずだ。
否、それどころか、もともと口の悪い奴だが、『誰かのために』他人に絡むような真似を、彼の十七年ばかりの人生の間で他にやった例があるのだろうか。
(こういうの、何て言ったっけ。驚天動地とか前代未聞とか……)
「どうしようねえ、じゃないだろ? まったく……善処するとか何とか言ってたくせに」
冷ややかな苛立ちを含んだ声に思考を中断されて、ティルはちらりと人二人分ばかり離れてバルコニーに背を預け、実に不機嫌そうに腕を組んでいる相手を見やった。
「善処、は一応してるんだけど」
「結果が伴わなきゃ意味ないだろ」
「まぁ確かに」
湖からの心地よい風を受け止めながら、のらりくらりと答える。
その態度が、相手の不快をいっそう煽ることは承知の上だ。
別に絡まれて腹を立てているわけではないし、むしろ、言われて当然のことだと思っている。ただ、今日は天気も良くて、何となく気分的に今は真剣になる気がしない、それだけの理由である。
(それに気付いたら余計怒るかな。いや、もう気付いて怒ってるのかも)
ルックも、喧嘩を売る気はあるかもしれないが、別段悪意があってティルに絡んでいるわけではないし、また、同盟軍の軍主のことのみを気遣っているのでもない。
(分かってはいるんだけどね……)
わざわざ喧嘩腰で諫言されるまでもなく、本当は自分の中でも、とうに答えは出ているのだ。
自分は決して、一所(ひとところ)に居られるような人間ではない。
紋章のことが第一の理由だが、素性としてもトラン共和国とは絶対に縁を切ることが出来ない立場にある。
今回のことも将軍バレリアと国境防衛部隊の派遣のみなら、ごく普通レベルの友好同盟の遵守で済んでいたのだが、自分が同盟軍に手を貸していることで、諸外国は、トランの国を挙げての支援、という印象を受けてしまっている。
別な言い方をすれば、自分がこの地に赴く事そのものも政治的情勢に左右される浮き草のような現象にすぎず、トランと同盟軍の関係が悪化すれば、自分も貸した手を引っ込めざるを得ない。
これは自分が個人意思でやることだから、という理屈はティル・マクドールという人間には適用されないのである。
(他者から見たら、僕は「トラン大統領の地位に、まだ就任していないだけ」なんだもんな……)
トラン大統領のレパント自身が、自分は仮に大統領の座を預かっているだけだと公言しているのだ。この問題に関しては、もはや、ティルの自由意志など無きに等しいと言ってもいい。
もっともティル自身は、政府の要請を頭から無視する形で極力、故郷からは距離をおいているのだが、人の目というものは案外侮れないもので、どれほど素性を隠していても、一定期間以上同じ土地に滞在していれば必ず、『トランの英雄』とティルを結びつける者が出てくる。
そんな状況を避け、望んでもいないのに背負っている政治的影響力を周囲に及ばせないようにするためには、街から街、国から国へと影のように通り過ぎてゆくしかないのだ。
そんな自分が、たまたま出向いた先で、足元にじゃれついてきた子犬をちょっと撫でるくらいならまだしも、純粋に慕ってくれている相手を気まぐれや一時の感情で構うのは、本来、絶対に良いことではない。
(ない、と分かってるんだけど)
しかし。
「……頼まれたから、友人として少し手を貸すだけ。それ以上にもそれ以下にもしないよ」
脳裏に真っ直ぐすぎる茶水晶の瞳を思い描きながら、ティルは気のない口調のまま答える。
と、ルックは、ふん、と鼻を鳴らした。
「表面的には、だろ。外面だけはいいから、人間相手なら、それもどうにか通じるかもしれないけどね。紋章はそうはいかないよ。特に君のソウルイーターは」
「───…」
頬杖をついて、ティルは眼下に広がるデュナン湖の水面を眺める。
天気の良い今日は、遠い沖合いの波はきらきらと陽光を反射して白く輝き、見下ろした真下辺りの湖水は、どこまでも透明な青に深く澄んでいる。
次に旅に出る先は海辺、それも大陸南方の海岸を目指してみようか、と脈絡なく考えて。
「確かに、こいつがセイを食らうのは困るけどね」
ゆっくりとティルは口を開いた。
「でも、紋章は基本的に宿主の意思なくして発動しない。ソウルイーターも例外ではないんじゃないのか?」
ちらりと隣りにまなざしを向けると、ルックもわずかに顔をこちらへと向けていた。
その氷蒼の瞳に先を促されていると感じ、ティルは続ける。
「僕が知る限り、ソウルイーターが魂を食らったのは、その相手が死んだ直後だ。テッドは例外だったけど、他の相手に対しては、死ぬ前に紋章が発動した気配はなかった。彼らの命を奪ったのは、僕を含めた『人間』だ」
「……それで?」
「つまりはソウルイーターが彼らを直接、殺したわけじゃない。魂を食らいたいがために、戦乱に巻き込まれる運命を僕にもたらしたのか、そういう運命を生まれ持っていた僕を選んだのか、ただの偶然なのか、その辺りは定かじゃないけどね」
淡々とそこまで言い、ティルは言葉を切る。
黙って聞いていたルックの表情は変わることなく、
「──君は、まだ四人分しか魂食いを経験してない。真の紋章の特性を推測するには、早すぎるんじゃないの?」
温度の低い声が、冷ややかに指摘する。
それに対し、ティルは分かっている、と気のない態度を崩さないままうなずいた。
「真の紋章の力は、人知の及ぶところじゃないということは分かってるよ。僕の言っていることは、単なる希望的観測だ」
「それが分かっていても、グレッグミンスターに引っ込むなり、また旅に出るなりする気はないわけ?」
「そうしてもいい、というか、そうするべきなんだろうけどね。この戦争が終わるまで、旅には出ないって言っちゃったからなぁ」
「──君、本当に馬鹿じゃないのかい」
「どうだろうね」
さらりとティルが受け流すと、今度こそうんざりし切ったようにルックは深い溜息をついた。
「ったく……。君があんな所でのんきに魚釣りをしてると分かっていたら、絶対に行かせなかったのに……」
その言葉に、おや、とティルは思う。
「珍しいね。過去を悔やむ発言」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
怒鳴られても、珍しいものは珍しいのである。
ルックの性格は前向きなのか後ろ向きなのか、正直なところティルにも良く分からない部分があるのだが、少なくとも、過ぎた事を嘆くのを聞いたことは一度もない。
他人が過ぎた事を悔やむのに対し、痛烈な批判を口にすることはあっても、その逆はまず無かったはずだ。
だからこそ、少しの驚きと、それを上回る興味を覚えて、つい。
「僕のせい、ということにしておいてもいいけど……でもさ、ルック」
我ながら悪い癖だな、と思いながらティルはにっこりと笑顔を浮かべて見せる。
「他人の事情にそんなに絡むなんて、君は、僕とセイのどっちをより好きでいてくれるのかな?」
「───っ!?」
今度こそ、怒髪天を衝いたのだろう。ルックの眉と目が見る見るうちに吊り上り、これまで見た中で一番険しい……それこそ人を頭からバリバリと食ってしまいそうな表情で、こちらを睨みつける。
それに構わず、
「セイのことは他人のこと言えないくらいに気に入ってるみたいだし、僕にも何かと喧嘩腰で嫌味混じりの諫言してくれるし。判断に迷っても仕方がないだろう?」
笑顔で言葉を重ねると、見て分かるほどにルックのこめかみに青筋が浮いた。
「──君って奴は……!!」
「怒った?」
ぐぐっと握り締められたまま小刻みに震える相手の拳を見て、ティルは笑顔を少し意地の悪いものに変える。
「でも、お互い様だよ、ルック。答えに窮することを聞く方が悪い」
「そんな理屈が通ると思って……!?」
「思ってる。少なくとも君に対しては」
「───っ!」
ティルの切り返しに、ルックは咄嗟に応じることができない。
それを見て、ティルは改めてバルコニーの手摺に寄りかかった。
「僕には君ほどの紋章に関する知識はない。でも、考えられるだけのことは考えた。そして、頼まれて手伝ってやってもいいかと思った。更に、セイに約束した以上、途中で不履行にはしたくない」
よく晴れ渡った空の青を眺めやりながら、淡々とティルは言葉を紡ぐ。
「リスクが大き過ぎる事は承知してる。僕のしていることは、勝率が極端に低い、一か八かの賭けみたいなものだ。──だけどね、ルック」
ちらりと視線を向けると、ルックはまだ、ひどく険しい顔をしており。
「現時点では、僕は手を引く気はない。本当にやばいと思ったら、セイを泣かせてでもここから離れる心積もりはあるけどね」
「────」
さらりとした口調の中に、ほんの一欠けらだけ、本気を交えて告げると、ルックの表情の中に苦虫を噛み潰したような色が加わった。
当然といえば、当然だろう。
誰が何と言おうと今は馬耳東風、と明言したのである。事が事であるだけに、不快と呆れを覚えないはずがない。
だが、これだけ言えば、ルックはこれ以上の物言いを放棄する、という確信がティルにはあった。
どういう状況にせよ、何を言っても無駄、という感触を得た時のルックの見切り方は実に早い。やるべきことはやった、と半ば強引に自分自身を納得させて、さっさと退場してしまう。
今回は彼にしては珍しく、のらりくらりの受け答えだけでは退かなかったが、それでも、もう何かを言う気は失せたはずだった。
「……本当に、どうして君みたいな馬鹿が真の紋章を持ってるんだ」
「それは僕も是非とも知りたい」
盛大な溜息をついたルックは、苛立っている時の癖で、少し乱暴に前髪をかきあげる。
そして、横目でティルを睨んだ。
「本当にリスクを背負う覚悟はあるんだろうね?」
「できることなら、そのリスクが現実になる前に逃げ出せることを祈りたいけどね」
「真の紋章がそんな甘いものなわけないだろう」
吐き捨てるように言い、ルックはしばらくの間、虚空を睨みつけて沈黙する。
まだ何か言いたいことでもあるのか、とティルは湖から吹き寄せる風を背に感じながら、ルックの次の言動を待った。
「──ティル」
「うん?」
久しぶりにこの声で名を呼ばれて、少々驚きながら返事を返した時、
「ルック、マクドールさん!」
別の方向から二人揃って名を呼ばれた。
見れば、空中庭園の向こうの大きなガラス扉を開けて、セイが笑顔で足早に歩み寄ってくる。
条件反射的に片手を挙げて応じかけたティルの胸元を、隣りから伸びた手がいきなりぐいと引き寄せた。
「ルック?」
今度こそかなり驚いて、思わず名を読んだティルに構わず、ルックは低めた声で素早くささやく。
「僕の知っている範囲での話だけど、ソウルイーターは天魁星も真の紋章主も食らったことはない。あくまでも、僕の知る限り、だけどね」
「え……」
何を、と聞き返しかけたティルを、引き寄せた時と同じ唐突さでルックは突き放す。
そして、さっさとガラス扉の方に向かって歩き出した。
らしくもなく呆然と背を見送るティルの視線の先で、すれ違いざまに足を止めてセイと二言三言交わし、その姿は城の中へと消えてゆく。
そうして代わりに、セイがティルの前にやってきた。
「マクドールさん、ルックにも言ったんですけど、これからティント方面に出かけるんです。どうせ関所で通せんぼされて竜口の村より向こうは行けませんから、今日はただの偵察だけなんですけど……。一緒に行ってもらえますか?」
「あ、うん」
もちろん、とうなずいて。
ティルはまだ半ば思考停止したまま、自分の目線よりも少しだけ低い位置にある茶水晶の瞳を見つめる。
「? どうかしました?」
「いや……何でもないよ」
「そうですか?」
答えながら、ティルはふつふつと笑いが腹の底から込み上げてくるのを感じた。
「……まったく……」
「マクドールさん?」
笑いは、すぐに忍び笑いから本当に笑いに変わる。その様子に、セイがきょとんと目を丸くするのを感じたが、込み上げてくるものは止まらない。
「どうしたんですか?」
「いや……。ルックって、やっぱり良い奴だよね、っていう話だよ」
「? ルックは口は悪いけど、優しいですよ」
「うん、知ってる」
それはもう嫌というほど、とティルは内心で呟く。
結局、今回もやはり自分を気遣ってのことだったのだ。
放っておけばいいものを放っておけない、しかも最後には貴重なネタまで披露してくれた少年のお人よし加減に、本気で笑みが浮かんでくる。
(どっちが馬鹿なんだか……)
可笑しさに片腕で腹の辺りを抱えながら、ティルは顔を上げて目の前のセイにまなざしを向けた。
「セイ、ちょっと」
「はい?」
来い来い、と犬を呼ぶ時のようにちょいちょいと指先で招き寄せると、セイは素直に一歩足を踏み出して、二人の間の距離を詰める。
そのことにティルは笑んで。
まだ成長しきっていない少年の右肩に額を預けるような形で、顔を伏せた。
「マクドールさん?」
「うん……」
服越しであっても、かすかな温もりが触れた箇所から伝わる。
その事を素直に、嬉しい、と思った。
「ありがとう」
静かに、けれどはっきりと口にして、ティルは顔を上げる。
そして、きょとんとしたままのセイに笑いかけた。
「ティント方面だったよね。それじゃ行こうか」
ルックも下で待ってるだろうし、と言うと、セイはわずかながらに首を傾げたものの、元気よくうなずく。
「はいっ」
そして、二人は城の中へと歩き出しながら、他愛のない会話を交わす。
「僕とルック以外には、誰が行くの?」
「えっと、ナナミとフリックさんとビクトールさんかな。最初は、クライブさんにも声かけようと思ったんですけど、なんか考え事してるみたいだったから……」
「ああ、彼はねー」
僕と知り合った頃からそうだったけど、何か難しそうだよね、と応じながらティルは手を伸ばし、重いガラス扉を押し開ける。
二人を城内に迎え入れたガラス扉は軋み音も立てることなくゆっくりと閉まり、その後には、ただ眩しい空の下、夏の訪れを感じさせる色鮮やかな花だけが、湖からの風にゆったりと揺れていた。
...to be continued.
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