03 子犬
久しぶりにこの表情を見た、と思う。
旅の道連れは、感情を表に出すことを少しばかり苦手にしているタイプで、どうしていいか戸惑った時は、無表情に困惑を一割ばかり混ぜたような顔になる。
そういえば、こういう表情も結構好きだった、と思い出した。
「……シュリ」
「何?」
「どうにかしてくれないか」
相変わらず困惑の混じった、でも生真面目な視線を受けて、シュリは少し考え、足元へと視線を落とす。
そうして、もう一度ヘルムートを見つめた。
「苦手なの?」
「苦手というわけではないが、飼ったことがないから扱い方が分からん」
「なるほど」
確かに、ヘルムートが小動物と戯れている所を想像するのは、少々難しい。
大動物ならいいというわけでもないのだろうが、少なくとも騎乗用の軍馬なら上手に扱うのだろうなと思いながら、シュリは足元にしゃがみこんだ。
そして、ヘルムートの長靴(ちょうか)にじゃれついている子犬へと手を伸ばす。
「よしよし。革が好きなのは分かるけど、この人の靴は駄目だよ」
言いながら抱き上げると、小さな子犬は甘えた声で鳴いた。
この茶色のむくむくした子犬は、この村に入る少し手前でどこからか現れて、そのまま二人に付いてきたのだ。
そろそろ日暮れ時で、今夜はこの村で宿を取るつもりだったが、宿屋の前まで来ても子犬は二人にまとわりついて離れない。どうしたものかと立ち止まったら、ヘルムートの長靴にじゃれはじめた。
現況に至った経緯を説明するのなら、そんなところだった。
「犬は革が好きなのか?」
子犬が引き離されたおかげで、少しほっとしたのだろう。
シュリの抱き上げた子犬を見つめながら、ヘルムートが問いかける。
「うん。食べるんじゃなくて噛むのがね。特に子犬は、革製品なら何でもボロボロにしちゃうんだ。靴とか剣帯とか。そういうものは、犬の届く所に置いといたら絶対駄目なんだよ」
「そうなのか」
「そう。でも、この子、どうしようね」
余程人懐っこいのだろう。シュリに抱かれた子犬は、尻尾をぶんぶんと振り、シュリの顔を嘗め回している。
腹は空かせているようだが、怪我一つないころころとした体型を見る限り、おそらく今朝か昨夜くらいまでは飼い主か、親犬の元にいたと見て間違いない。
だが、村の真ん中で立ち止まって、これ見よがしに子犬を抱えているのに、通り過ぎる村人は、旅人に向かってにこやかに会釈するものの、「誰々さんのところの犬に似てるねぇ」などと話しかけてくることはなくて。
「この辺って、ここと昨日泊まった村以外に村はないよねえ? 街道も一本道だったし」
「まぁ、森で暮らしている者も居ないことはないだろうがな」
「うーん。飼い主探しをする時間はあるけどな……」
シュリは首をかしげる。
もとより当てのない、気の向くまま足任せの旅である。時間は有り余っているといっていい。
けれど、一人旅でもないため、どうしたものかと思った時。
ヘルムートが口を開いた。
「別に俺は構わんぞ」
「え?」
「お前のことだ。どうせ、その子犬の素性をすっきりさせたいんだろう。先を急ぐ理由もないし、お前の好きにすればいい」
「────」
「何だ?」
「いや……いいのかなと思って」
子犬を抱いたまま、少しばかり戸惑ったようにシュリは答える。
「あのさ、ヘルムート。僕にそんな好き勝手ばかりさせると、付け上がるよ? そうなったら困るのは君じゃない?」
一応シュリは、何かを決める時には必ずヘルムートにも意見を求める。
だが、ヘルムートは物事に執着しない主義なのか、自分の意見ははっきり言うものの、シュリの意見に真っ向から反対することは少ない。
その結果、シュリがいいと思った方に物事が流れることが多く、共に旅を始めてから一ヶ月あまりが過ぎて、さすがにシュリも気が引けてきたというか、これでいいのかな、という気がしてきていたのだ。
けれど、ヘルムートは。
「別に」
「別に、って……」
あっさりと懸念を切り捨てたヘルムートに、シュリは青い目をまばたかせる。
だが、ヘルムートは、いつもと同じ淡々とした口調で言った。
「シュリ、お前が自分のことをどう思っているのかは知らないが、お前は我儘には程遠い人間だ。何事につけてもマイペースなのは確かだが、自分のことも他人のこともよく見ている。少なくともこの一ヶ月の間、俺は、お前の言動に嫌なものを感じたことは一度もない」
「───…」
「第一、遠慮しないと最初に言ったのはお前だろう。嫌だと思えば、俺はそう言う。だが、お前の言う『好き勝手』は、高の知れていることばかりだ」
「あまり俺を見くびるな、シュリ。お前が心配するほど、俺は許容量の狭い男じゃない」
「───…」
「シュリ?」
「……そういうことを素面(しらふ)で言わないで欲しいんだけど……」
「?」
子犬を抱き潰しながらの呟きは、幸か不幸かヘルムートの耳には届かなかったらしい。
抱き締められ過ぎた子犬が腕の中でもがいたが、シュリはその場にへたり込みそうになるのをこらえるのに精一杯で、そこまで気が回らない。
と、我慢しきれなくなったのだろう、子犬がシュリの手に噛み付いた。
「痛っ!」
抱いていた手の力が緩んだ瞬間、もがいていた子犬が地面に落ちる。そうして、不器用に背中から落ちた子犬は、またそこで小さな鳴き声をあげた。
「きつく抱き過ぎだ。大丈夫か?」
「あ、うん。血は出てない」
シュリが愛用している指なしの革手袋は、薄手だが丈夫なものだ。
噛み付かれた痛みはあったものの、子犬の牙の大半は革手袋が食い止めてくれたようで、怪我らしい怪我はなかった。
「それでも消毒しておけ。健康そうな子犬だが、獣は獣だからな」
「うん、分かってる」
うなずき、間近にあるヘルムートの顔を見上げて、シュリは溜息をつく。
「……ヘルムートって結構ずるいよね」
「? 何のことだ?」
「ううん。僕の勝手な感想だから、気にしなくていいよ。それよりもさ」
地面に落ちた衝撃から立ち直り、今度は自分の長靴にじゃれついている子犬を指差して。
「こいつの飼い主探し。してもいいんだよね?」
「ああ、構わないが……」
「じゃあ決まり。とりあえずは、宿屋の食堂で聞き込みしようよ。誰かが、この子犬を見たことあるかもしれないし」
有無を言わさない調子で押し切って、子犬を再び抱き上げる。
そうして宿屋の戸口に向かいながら、ちらりと背後を振り返った。
「──文句ある?」
そう尋ねると。
呆気に取られたような表情をした後、ヘルムートは。
「いいや。ないさ」
珍しくも、楽しげな笑みを返した。
子犬の飼い主探しは、宿屋での聞き込みが功を奏して、森の炭焼き小屋のじいさんの犬が二ヶ月ほど前に生んだ子犬の一匹であることが分かった。
翌朝、ついでだからと街道を少し戻って炭焼き小屋に子犬を届けに行き、そのまま二人は再び旅路へと戻って。
「あー、可愛かったなぁ」
「そんなに言うなら、もらってこれば良かっただろう。爺さんも構わないと言ってくれてたんだし」
「でもねぇ。お母さんに飛びついてったでしょ、あの子犬。あれを見ちゃったら、引き離すのはやっぱり可哀想かなーって」
「……それはそうかもしれんが」
「あー、でも、つまんない。もし飼い主が見つからなかったら、あの子にテッドって名前付けようと思ってたのに」
「……おい」
「だって、あの茶色い毛の色、テッドにそっくりだと思わない? テッドはあんなに愛想良くなかったけど」
「……シュリ」
「気に入らない? じゃあ、あと茶色い毛色の仲間っていうと……ハーヴェイとか、トラヴィス…は、ちょっと色が赤っぽいかな。あと男で茶髪と言うと……」
「シュリ。仲間の名前を犬につけようとするのは止めろ」
「え、駄目?」
「良いとか悪いとかいう以前の問題だ」
「そうかなあ。僕なりの記念碑のつもりなんだけど」
「そんな記念碑は誰も喜ばん。……まったく、好き勝手云々をいう前に、そのセンスをどうにかすることを考えないか」
「何も問題ないと思うけどなぁ」
「大有りだ!」
……真昼の街道は、どこまでものどかだった。
end.
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