01 雨上がり
とんとんとん、と足取りも軽く、シュリは宿屋の階段を下りて行く。
その後ろ姿──亜麻色の頭を、なんとはなしに見やりながら、ふと、時間が戻ったようだ、とヘルムートは思った。
あの頃、一体何度こんな風に、この後姿を見ながら階段を上り下りしたことだろう。
かつてゼーランディア軍が本拠地としていた五層の甲板を持つ巨大船・黄金の暁号には、珍しいエレベーターという設備もあったが、シュリはもっぱら階段を使うことが多かった。
足があるんだから使わなきゃ、というのが当時の彼の弁だったが、見かけによらず、意外にせっかちで待つことが嫌いなところのあったシュリには、自分の足で駆け下り、駆け上ることのできる階段の方が性に合っていたのだろうと思う。
そもそも彼は、育ちのせいもあるのか、時間を無駄に使うこと、骨惜しみをすることを極端に苦手としていた。
あの頃、もう少し休んでいればいいのに、と思ったことは何度もあるが、しかし、かといってヘルムート自身がシュリに注意を促したことは一度もない。
というのも、ゼーラント軍に参加したばかりの頃、あまりにもせわしなく動き続けるシュリを見かねて口を開きかけた時、傍にいた仲間に、言うだけ無駄だと止められたのだ。あれがあいつの性分なんだから、放っておけ、と。
そうして休みなく動き続けて限界に達した時には、軍師のエレノアや、フレアを始めとする女性陣が強制的に彼をベッドに追い込んでいたから、その過程で男たちが口を挟む隙は全くと言っていいほどなく、本当にシュリが力尽きて倒れるのは、その左手の紋章が絡んだ時に限られていた。
だが、今にして思えば、その性分ばかりでなく事実、シュリは逸(はや)っていたのだろう。
罰の紋章は、宿主の生命を削る。
一刻でも早く、その命があるうちにと思うのは、彼がリーダーの立場にあった以上、当然のことだったと言ってもいいかも知れない。
だが、シュリはそんな内心の焦燥や葛藤を、表には全く出さなかった。ヘルムートとて、あれほど頻繁にシュリと行動を共にしていなければ、彼の行動を、貧乏性とも呼べる性格のせいだとあっさり受け流してしまっていただろう。
近くに居たからこそ、時には無謀に過ぎたシュリの行動に違和感を覚えることができたのだ。
(だが、シュリは今も生きて、ここに居る)
相変わらずせわしなく動き回ってばかりいるし、人の言うことを聞いているのかどうか疑いたくなるようなマイペースぶりも健在だ。
けれど、あの頃の強いまなざしとは異なる、ひどく楽しげな光を躍らせた瞳で。
一緒に行こう、と。
極上の悪戯を思いついた子供のように笑ったのだ。
「ねえ、ヘルムート」
「何だ」
焼き立てのパンと温かなスープ、季節の果物という簡単な朝食を食べるだけ食べてから、おもむろにシュリがヘルムートの名を呼んだ。
「あのさ、一つだけ約束しない? これから一緒に行く上で」
「約束?」
「うん」
「言ってみろ」
ミルクティーの入ったティーカップを片手に、こちらを見るシュリの瞳は朝の光を透かして、真夏の波頭を思わせる明るい青にきらめいている。
そのことを確認してから、ヘルムートは自分のカップをソーサーに戻して先を促した。
「ありがとう。──あのね。本当の事、言うようにしようよ。隠し事や嘘が必要なこともあるのは分かってるけど、そういうのできる限り無しにしたいんだ。なにしろ僕と君の二人しか居ないんだし」
気まずくなった時に誰も仲裁してくれないもんね、とシュリは小首をかしげるように呟いて。
「絶対、っていうのは僕も君も人間だし、無理だと思うから、できる限り。……駄目かな?」
「──…」
シュリの提案に、ヘルムートは考える。
彼の言葉は簡潔で、内容にもどこにも無理はない。
反対する必要性は見当たらなかった。
「いいだろう」
「ほんと?」
「ああ。お前の言う通り、二人しか居ないのなら、互いの言動を信頼するということは旅の大前提になる。遠慮をしていいことはないだろう」
「うん、やっぱりそうだよね」
良かった、と満足そうにうなずく。
「じゃあ、約束。僕は君が何を言っても、君の事は多分、嫌いにならないから、何を言ってくれてもいいよ」
「……多分、な」
微妙な言い回しだと思った。
絶対と言われても現実味が薄いが、だからといって多分と言われると、飲み込みやすいものの何となく引っかかるものがある。
ささやかな箇所にこそ反応する、人間の心理は深遠なものだった。
だが、シュリはヘルムートの反応など構う気はないようで、
「うん。多分。でも絶対に近い多分だから、信用してくれていいよ」
「何だそれは」
あっけらかんと言われてしまうと、こちらとしては苦笑するしかなく。
仕方ないとヘルムートはうなずいた。
「そういうことなら俺も、お前が何を言っても、頭ごなしの否定はしないと約束しよう。お前の言い分も聞かずに反対するようなことはしない。多分、だがな」
「……ねえ。なんだか僕のこと、全然信用してないように聞こえるんだけど。気のせいかな?」
「さて。自分の心に聞いてみたらどうだ」
「うわ、嫌な言い方〜。僕だって、今となってはそうそう無茶はしないよ? あの頃はあの頃、今は今なんだから」
「それなら、俺がそう思えるようになるまで早く実績を積んでくれないか?」
「ひどっ!」
大げさに目をみはって、シュリは拗ねたようにヘルムートを見やる。
が、ヘルムートは意に介さなかった。
シュリと共に行くことに異存はないが、あの頃のような無茶ばかりされては困るのである。他の仲間もいない今、以前と同じ調子で振り回されては、ヘルムートの方が体力的にも精神的にも到底持たない。
シュリが自分を信頼しているというのであれば尚更に、旅の相棒として、それは強調しておきたいところだった。
「あの頃、こういう事を言うのは俺の役目ではなかったがな。今後は言うべき事は言わせてもらうぞ。手始めに今まで言う機会がなかった事を一つ、自分の限界を過信するな。むやみやたらに敵や事件に突っ込んで行くな」
「……二つじゃない」
口を尖らせてシュリは恨めしげな上目遣いでヘルムートを見たが、すぐに肩をすくめて気分を切り替えたように笑顔になった。
「まぁ、いいや。ヘルムートがそう言うのは、僕を心配してくれてるからだもんね。そういうのは言ってもらわないと困る。僕も言いたいことは言うつもりだし」
「ああ」
「じゃ、おなかも一杯になったし、そろそろ出ようか。とりあえず、どこに行く?」
隣りの椅子に置いてあった荷物を確認しながら、シュリが問いかける。
「お前はどちらに行きたい?」
「僕? そうだねぇ……。村を出たところで道に棒を立てて、倒れた方に行くっていうのはどうかな?」
「……早速の無軌道ぶりだな」
「だって先の予想を立てて計画通りの行動をするのには、もう飽きちゃったんだ。いいでしょ、行き当たりばったり」
「……好きにしろ」
「うん」
うなずいて荷物を肩にかけ、シュリは立ち上がる。
ヘルムートもそれに習い、二人は連れ立って小さな村の宿屋を出た。
end.
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