花や散るらむ
疲れ切り、うんざりしきった気分で自室の扉を開ける。
途端、感じた違和感と呼ぶにはやわらかく、涼やかな香りに三蔵は眉をひそめて、ややうつむいていた顔を上げた。
見慣れた室内は、特に変わりはない。燭台の灯は消され──というよりは黒く燃え尽き、半月の光が窓から音もなく差し込んでいる。その中、一つだけ今朝、この部屋を出た時とは決定的に違うものがあった。
───淡い月光の中、まるで白く輝いているような薄い花片。
月光に透ける玻璃細工を思わせる花に、萌え始めたばかりと分かる赤褐色の稚い葉が何ともいえない優美さを添えたそれは、一枝の山桜だった。
ゆっくりと卓に近づいてみれば、その花枝は古ぼけた銅の花立に無造作に生けられている。
花そのものは五分咲きといったところだろうか。まだ幾つもの蕾が可愛らしくついており、室内の空気が三蔵の動きに合わせてそよいでも、散る気配は微塵も見せない。
「───…」
こんなことをする心当たりは一人、というより一匹しかいなかった。
三蔵はしんと静まった室内の奥を衝立越しに見やる。特に足音を消すでもなくそちらに近づけば、それは無邪気に寝台の上で丸くなっていた。
否、あまりその表現は的確ではないかもしれない。
悟空は毛布にくるまり寝台の縁に腰掛けた格好のまま、上半身のみを横倒しにして小さく体を丸めている。どう見ても、三蔵が戻るのを待っていて、待ちきれずに眠ってしまった形だった。
無言で、眠る小さな子供を見下ろし、それから三蔵は卓上の山桜へと視線を戻す。
──この十日間というもの、悟空を構ってやった記憶は見事なまでになかった。
春の彼岸会という、前後六日間も続く傍迷惑な行事とその前準備のために、『三蔵法師』として、まさに早朝から夜更けまで勤行だの説法だのを勤めねばならず、とてもではないが、悟空とまともに会話するだけの暇を見つけることはできなかったのである。
しかし、放りっぱなしにしておいた割には、悟空は不満を騒ぎ立てることもなく、仕事の邪魔をするような騒動を起こすこともなかった。妙にサルが静かだと、三蔵もちらりとは思わないでもなかったが、多忙を極める中でそれ以上を気にするのは無理だった。
少なくとも今日、たった今までは。
───無造作に飾られた、一枝の山桜。
それが何を意味するのか分からないほど、三蔵は鈍くはない。
「また勝手に外に出て行きやがって……」
慶雲院の敷地内には通常の桜よりも、むしろあでやかな八重桜や枝垂桜が多い。ましてや自然種の山桜は一本も植えられていない。となれば、悟空は間違いなく寺の敷地の外で、この花を見つけたのだ。
そして、もしかしたら初めて目にしたかもしれないその花を見上げて。
「────」
この十日間というもの、食事すら一緒にはしてやっていなかったのに、それに拗ねる様子も見せず、夜が更けてから戻ってくる三蔵に、おかえり、と笑いかけてきた。
さすがに今夜は力尽きたらしいが、昨夜までは何度言おうと、この子供が先に寝ていたことは一度もない。
昨年秋にここへ連れてきたばかりの頃からは想像もできない殊勝な態度であり、何か企んでいるのか、ごまかしたいことでもあるのかと勘繰りたくなるが、思い返せば昨年の暮れあたりから、重要な行事の最中に悟空が騒動を起こすことはなくなったような気がする。
普段の騒々しさが嘘のように、行事が執り行われている間中、境内をうろつくこともなく、朝から晩までどこか人目のつかない場所に姿を晦ましている。
おそらくサルはサルなりに、周囲の状況を理解し、何かを考えているということなのだろう。そう思うと、何か奇妙な心地がする。
こんなサルに労わられるほど自分は落ちぶれてねえ、という気分がふつふつとこみ上げてくるが、それを口に出すには、目の前で眠る生き物は少々無邪気すぎた。
傍らに立つ三蔵の気配にも気付かず、悟空は自分の腕を枕に、くうくうと小さな寝息を立てて眠っている。
その丸い頬は幼児並みにぷっくりとしていて、相変わらず大福のようだな、と三蔵は思う。実際、叱り付ける時に思い切り摘まんで引っ張ってやると、本物の餅並みにどこまでも伸びて少々面白かったりするのだ。
こうして改めて見ても、半年前にここに連れてきた時から、この生き物はさほど成長していないように三蔵の目には映る。きちんと測れば多少は背が伸びているのかもしれないが、せいぜいが1cmか2cmといったところだろう。
元々が人間外の生き物だということもあるのかもしれないが、あと十日余りで14歳だという年齢にしては、どこもかしこも幼く、成長も遅いように思える。
それは取りも直さず、まだまだ当分の間、この生き物には手がかかるということで、三蔵としては面白くないことこの上ない現実だった。
と、むにゃ、と何かを呟いて悟空が小さく身じろいだ。
目覚めた訳ではないようで、安らかに目を閉じたままの顔に、にへ、としか形容の仕様のない笑みが浮かぶ。
「──ん……さん、ぞ……」
不意に寝ぼけた声で名を呼ばれて、三蔵はまばたきし、それからきつく眉をしかめた。
「勝手に人の夢を見て笑ってんじゃねえよ、バカ猿」
ちっと舌打ちして溜息をつき、背の半ばまでずり落ちた毛布に埋もれたような、半端な格好で丸くなっている小さな身体を一旦抱き上げ、寝台の真ん中に寝かしつける。
春とはいえ、まだまだ夜は冷え込む。風邪でも引かれたら、只でさえうるさい生き物が更にうるささを増すに違いなく、それを防止するためだけの措置ではあったが、要らぬ手間をかけさせられていることには変わりがなくて、
「世話ばかり焼かせやがって」
小さな肩まで毛布と布団を引き上げてやりながら、三蔵は苦々しく悪態をついた。
そして、自分も夜着に着替えるべく、壁際の衣装用の長持の方へと歩み寄る。
と、灯火の尽きた淡い闇の中、ほのかに感じるか感じないかくらいの山桜の香りが鼻先をかすめて、思わず一瞬、法衣を脱ぎかけた手が止まる。
「──ちっ」
幸か不幸か、一連の行事の終わった明日は三蔵の公休日である。この十日ばかり異常なほどに大人しくしていた分、恐らく悟空ははしゃぎまわってさぞかしうるさくなるだろう。
だが、かといってようやく手にした休日に、うるさいサルから逃れるためだけに外出するような面倒な真似もしたくない。
「……仕方ねぇ」
うっかりでも何でも一旦拾ってしまったものはどうしようもないのだと、だが、この生き物がこの場所を出てゆきたがった時には、いつでも喜んで叩き出してやる、ともう何十回ともなく思った事をまた心に呟きながら、三蔵は身につけていた第一級正装を脱ぎ捨てる。
ほどなく静寂の訪れた部屋の中、懸命に唯一人を思う子供が生けた山桜の花枝だけが、窓から差し込む月明かりにやわらかく輝いていた。
End.
前回の『spring comes around』の三蔵視点バージョン。
文句をつけながらも、やっぱり三蔵様は子猿に甘いようです。多分、現在はものぐさ全開でも、もともとの性格は生真面目で几帳面なんじゃないでしょうか。江流時代は何かとお師匠様にお小言言ってたし。というより、やっぱり優しいのかな。
どうしようもなく手のかかる生き物を、放っておけばいいのに、本気で怒りつつも放っておけない彼がかなり好きです(笑)
なお、彼岸会は日本特有の行事で、他国の仏教にはないそうですが……まぁ御愛嬌ということで。
ちなみに、タイトルの『花や散るらむ』。一体どこで聞いたフレーズだっただろうと丸一日考えて思い出しました。渡辺美里の15年以上前の歌、『卒業』のサビの歌詞でした。
「はらはらと涙あふれてくる 花や散るらん 一枚きりの切符」
すごく好きだったんですよね、この曲。雰囲気の似た『桜の花の咲く頃に』も。いまだに時々カラオケで歌います。
というわけで、ここまで読んでくださった方にのみ贈る、オマケです(^_^)
(といっても大したものじゃないですが)
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