空と花と太陽と
「早く、早くっ! こっちだってば!!」
「うるせぇ。騒ぐな、サル」
久しぶりに足を踏み入れた、慶雲院の裏手に広がる雑木林は、春の初めの何ともいえない明るさに満ちていた。
落葉樹が中心の木々は未だ新芽を広げることなく、その精髄をあらわにしたような梢の形をくっきりと空に投げかけている。そして、その向こうの空は、少しばかり感じる肌寒さにもかかわらず淡く霞み、穏やかながらもきらめくような陽射しが、春の訪れを告げていた。
その中を先に先にと駆けて行く子供には構わず、三蔵は自分のペースで歩き続ける。
厚く降り積もった枯れ葉は、少しばかり頼りないほどやわらかく一歩ごとの重みを受け止め、久しぶりのその感覚に感慨めいたものを覚えながら、煙草が美味い、と三蔵は素直に思った。
いつか、師やクソジジイに言われた通り、冴え冴えと月の澄んだ夜の一服は格別ではあるが、春先の、まだ生物の気配の薄い、淡い陽射しの香りしかしないような雑木林の中で吸う煙草の味も、また甲乙つけがたいほどに染みる。
普段、どこにいても薫物(たきもの)の香りから逃れられない寺院の中でばかり煙草を吸っていることも影響しているのだろう。愛飲しているMarlboroの味が、いつになくくっきりと立って、手持ちのソフトケースの中身が空になるまで、今日は煙草を手放せなさそうだ、と思う。
「三蔵、早くって言ってるだろーっ!」
姿が見えないほど先に進んでいた悟空が、なかなか追いついてこない三蔵にじれたように雑木林の中を勢いよく駆け戻ってくる。その姿は、まるっきり野生の子猿のようで、三蔵は溜息混じりに眉をしかめた。
「うるせぇっつってんだ。俺は昨日までの彼岸会で散々働いた後なんだよ。ちったぁのんびりさせろ」
深々と煙草を吸い込みながら不機嫌に言うと、悟空は微妙な表情になる。
寂しかったのに、という色。構って欲しいのに、という色。でも困らせたくないし、という色。一緒に楽しみたいのに、という色。ホントに三蔵が疲れてるのならどうしたらいいんだろ、という色。
そんなあらゆる感情の色が入り混じって幼い顔に浮かぶのを瞬時に見て取り、三蔵は内心、溜息をつく。腹芸などという器用な真似とは、一生、この猿には縁がないのだろう。
「急がなくったって桜は逃げやしねぇんだよ」
「……うん…」
諭すような言葉にうなずきながらも、悟空は横目で窺うように三蔵を見上げる。
その大きな金色の瞳が何かを考えていることには気付いたが、素知らぬ顔で新しい煙草に火をつけ、再び深く吸い込む。と、悟空が何かを思いついたように、一人でうんとうなずき、打って変わって明るい表情で前を向いた。
何を思いついたのか。どうせロクなことではないだろう、と三蔵は思う。
もう先に駆けてゆく事はせずに、三蔵の歩調に合わせるように隣りを歩くことからしても、悟空の思考はあからさまだ。おそらくは、こうして一緒に歩くことができるだけでも十分に楽しいし嬉しい、とでも自分を納得させたに違いない。
つくづく、このサルは馬鹿だ、と思うのはこんな時だった。
何が楽しくて嬉しいのか、飽きもせずに自分に付きまとい、偽ることを知らないような笑顔を向けてくる。
半年近く前、五行山の岩牢から連れ出してやったことが刷り込みとなって、子猿が親を慕うような感情を悟空に植えつけてしまったことは分かっているが、だからといって、その対象がどうして自分なのか、とは思わざるを得ない。
食事だの寝床だの、生きてゆくために最低限のものは与えてやっているが、だからといって、この騒々しく落ち着きのない子猿に優しくしてやった記憶はないし、今後してやるつもりもない。
むしろ常日頃は邪険に扱っていることが多いし、絶えることのない騒ぎや悪戯に、元より他人よりも短いと自負している堪忍袋の尾を切らされることも日常茶飯事であり、そんな時は容赦なく叱り飛ばし、殴っている。
それなのに、相も変わらず懐いてくる悟空の心理が知れない、と思うのだ。
あるいは、この生き物は、世間相場で言うところの普通の神経回路は持ち合わせていないのかもしれない。だとすれば、自分がどれほどぞんざいな扱いをしようと、寺院がどれほど異端者に冷酷な場所であろうと、居心地の良いはずのないここから決して出てゆこうとしない悟空の態度も、説明が付かないこともない。
つまりそれは、突き詰めれば、悟空がいつか飽きるまで自分の傍に在り続けるという結論になりかねなかったが、それに関しては三蔵は敢えて突っ込んで考えないようにしていた。
(一生、サルの子守なんざ冗談じゃねえ)
想像するだけでうんざりするような未来図に眉をきつくしかめ、新たな煙草に火をつける。
その時、隣りを歩いていた悟空が明るい輝きに満ちた声を上げた。
「あ、見えてきたよ! あっち!」
幼い手が三蔵の袖を軽く引き、もう一方の手で雑木林の奥を指差す。
あいにく人間離れした悟空の視力に三蔵は追いつけず、すぐにはそれが見分けられなかったが、それでも導かれるままにそちらへと進むうちに、木々の間に白いものが見え隠れすることに気付いた。
気まぐれのように、雑木林の奥に一本だけ咲き誇る山桜。
よくも見つけたものだという思いと同時に、こんな奥まで一人できて、この方向音痴の子猿がよく夕餉に間に合うように帰ってこられたものだという驚きに満ちた感慨が浮かぶ。
だが、それは何気なく悟空に告げた瞬間に、霧散した。
「だって寺が見えるもん。ほら、あれ」
悟空が指差すままに肩越しに振り返れば、硬い新芽の付いた梢の向こうに慶雲院の五重塔の青い屋根瓦や、その上に伸びる宝塔が見えている。
確かに、これならば迷うことなく帰れるはずだと思いながらも、やがて葉が生い茂る季節になったらどうする気だ、と三蔵は暗澹たる気分に陥った。
こうして散策する分には十分に広い雑木林とはいえ、所詮は長安という大都市の一角にあるものでしかなく、慶雲院の寺領の一部に過ぎない。ゆえに、たとえ迷ったところで、歩いていればそのうちに雑木林の外へは出られるし、外に出たのであれば誰かに慶雲院への道を尋ねることができる。
だから、三蔵はたとえ悟空がここで迷子になったところで、捜索してやる気はなかったのだが、困ったことに、この子猿は迷子になると三蔵を呼ぶのだ。
それも、ただ呼ぶのならいい。しかし、迷子の子猿は、不安げに泣き叫ぶのである。
そのおかげで、悟空がここへ着たばかりの秋の始めから初冬にかけて、一体幾度、この雑木林を始めとする慶雲院の近隣に足を向けるハメになったのか、もう思い出したくもない。
最近はそういうことがなくなって、子猿にも多少は土地勘ができたのかと思っていたのだが、どうやら甘かったらしい。
どうしてくれようか、と考えて三蔵はひらめく。
たとえ春が過ぎ、夏になったところで、慶雲院は移動しない。木々の葉の向こうに、常にそれは在るのである。
「悟空」
「なに?」
「今はいいが、そのうち葉が茂ってきたら寺の目印は見えなくなる。そうだな?」
「……うん」
さすがに悟空自身もそれは分かっていたのだろう。俺も困ってるんだけど、と小さく言いながら、悟空は上目遣いで三蔵を見上げた。
「だったらだ。手近な木を見つけて、それに登れ。てめぇみたいなチビでも、木の上からなら寺が見えるだろ」
「──うん!」
「他所の場所に行った時もだ。慶雲院はあの通り、無駄に馬鹿でかい。少し高い所からなら、どこからでも見えるはずだ」
「うん! 三蔵、すっげえ!!」
「バカ猿。これくらい、ちょっと頭を使えば誰でも分かることだろうが」
自分自身、これまで気付かなかったことは棚に上げて三蔵は言い捨てる。
だが、悟空はそんなことには思い至らない様子で、目をきらきらさせて三蔵を見上げた。
「ありがとな」
嬉しげに言い、だが、すぐに、アレ?、という顔になる。
「……さんぞー」
「何だ」
「俺……、外に行ってもいいの?」
「今更何を言ってやがる」
現に今、どこに居るのだと三蔵は眉をしかめた。
「どうせ言っても聞きやがらねぇだろ、テメェは。だったら迷子の予防措置を講じたほうが建設的だ」
「………ふぅん?」
予防措置、あるいは、建設的、の意味が分からなかったのだろう。曖昧な顔で悟空は首をかしげた。
その無邪気そうな顔をじろりと睨みつけて、三蔵は、しっかりと釘を刺す。
「いいか、だからといって、寺が見えねぇような場所や、夕メシまでに帰ってこれねぇような場所に行ったら承知しねえからな。また迷子になって俺を呼びつけてみろ。三日間、メシ抜きだ」
「えっ! ヤだっ!!」
「だったら大人しくしてやがれ」
「──ちぇ…」
「なんか文句あるのか?」
「ない、ない!」
今日の食事が抜きになっては困ると思ったのだろう。悟空はぶんぶんと扇風機のように首を横に振る。
その様子を見やって、よし、と三蔵はうなずいた。
そうして二人は、また歩き出す。山桜の木は、もう目の前だった。
春の陽射しを受けて、八分咲きの桜はまさに輝くようだった。
園芸品種とは異なる、すんなりと優美な樹形と美しくも清楚な花の形、そして赤子が手を広げたような赤褐色を帯びた若葉が、言葉すら奪う自然の造形美を造り上げている。
しばしの間、二人とも言葉もなくそれを見上げ、やがて我に返ったように悟空が三蔵を呼んだ。
「ね、三蔵」
何だと見下ろすと、少しばかりはにかむような、珍しい表情で悟空がこちらを見上げている。
「あのさ、やまざくら、って言ったよね、これ」
「──ああ」
「どうやって書くのか、教えてよ」
「………」
悟空が漢字を教えてくれとねだるのは、これが初めてではなかった。
出会った当初から悟空は、かな文字の読み書きはできていたが、漢字については殆ど無知と言ってよく、ただ形によって知っているものと知らないものを分けているだけのようだった。
しかし、漢字の一つ一つがそれぞれに意味を表しているということは分かっているらしく、時折、それを教えてくれと言うことがある。ちなみに、一番最初に教えた漢字は、『悟空』と『玄奘三蔵』だった。
面倒くさいな、と三蔵は溜息をつく。
だが、こういう場合に限っては、一度教えたことは飲み込みがいい。それを考えれば、一度きりの手間だともいえるのである。
諦めて、三蔵は手近な枯れ枝を拾い、地面に厚く積もっている枯葉を足で払った。
大きく、端整な字で『山櫻』と大地に記す。
「上が、やま、で、下が、さくら、だ。やまは山、さくらは、この花の種類だ」
「山の……櫻?」
「そうだ。こういう風に自然の中に咲いてるから、そういう名前が付いている。ちなみに、寺にあるのはこっちだ」
今度は、『八重櫻』『枝垂櫻』と書き、横に振り仮名もつける。
「やえざくら、しだれざくら?」
「八重、は数字の八に重ねる、つまり八重咲きのことで、花びらが何重にも重なって咲くタイプをいう。枝垂は、枝が垂れ下がる。文字通りの意味だ」
「八重櫻、枝垂櫻」
口の中で転がすように呟き、悟空は地面に書かれた美しい字の形をじっと見つめる。
そして、うん、と納得したように笑顔でうなずいた。
「『山櫻』が一番綺麗だ」
「……どうしてそう思う」
「だって、字の形が綺麗だもん。『八重櫻』と『枝垂櫻』も綺麗だけど、俺は一番、『山櫻』が好き。きっと本物の花見ても、『山櫻』が一番好きだと思うよ」
屈託なく言う悟空に、三蔵はふと『悟空』という名前を思う。
誰が名づけたのかは知らないが、『空』を『悟る』者という名を持つこの子猿は、『山櫻』『八重櫻』『枝垂櫻』という字面(じづら)を見て、それぞれの花の姿を思い描いたのだろう。そして、人の手による改良品種である、『八重櫻』『枝垂桜』という見るからに華やかな字面ではなく、『山櫻』という見事なまでに目の前の花木をあらわした漢字の美しさを選んだのだ。
「ありがと、三蔵」
字を教えたことにだろう、悟空は満面の笑顔で礼を言うと、再び地面に書かれた文字へと見入る。
その様に何となく溜息を覚えながら、三蔵は手にしていた枯れ枝を放り出し、山桜へと歩み寄った。そして、その根元へと腰を下ろす。
桜は遠くから眺めてもよし、近くから眺めてもよし、だが、真下から見上げるのが一番美しいのだと教えてくれたのは、在りし日の師だった。
白い法衣が汚れるのも構わず、こうして桜の根元に座り込み、煙管をふかしていた姿を今も昨日の事のように思い出せる。
「───…」
こうして思い返せば、師と過ごした十二年余の日々は、最後の一晩を除いては、どれも哀しいほどに美しく、懐かしいばかりの記憶に彩られているようだった。
「んしょ」
と、すぐ隣りから声が聞こえて、閉じかけていた目を三蔵はみはる。
見れば、いつのまに来たのか、真横に三蔵と同じように座り込んだ悟空が、へへ、と笑顔を向けてきた。
「きれーだなっ」
笑って頭上に揺れる花を指差し、嬉しげな表情でじっと見上げる。
その横顔に何か言うことはもう諦め、三蔵は後頭部を山桜の幹に預けて目を閉じた。
「──俺は寝るからな。起こすなよ」
「えっ、なんで!? こんなに綺麗なのに!」
「だから俺は寝不足だと言ってんだろうが。いい加減に黙れ、サル」
「サルって言うなよ!」
文句をつけつつも、寝不足の一言が効いたのだろう。悟空はぶつぶつ言いながらも静かになる。
だが三蔵は構わず、温かな陽射しに誘われたように急速に襲ってきた睡魔に身を任せる。
そして、そのままどれほどの時間が過ぎただろう。不意に、ことんと左腕にかかってきた重みとぬくもりに、三蔵は意識を引き戻されて薄目を開けた。
「────」
案の定というべきか、左腕に寄りかかるようにして悟空がすうすうと寝息を立てている。一瞬、頭をはたいてやろうかと思ったが、それをするには三蔵もまた眠気の方が勝っていた。
それに、よくよく考えてみれば三蔵ばかりでなく、悟空も寝不足なのに決まっているのだ。朝はともかくも、夜は毎晩、普段の就寝時刻よりも二刻近く遅くまで起きていたのだから。
「……クソ猿…」
溜息をつくように、左腕にかかる重みとぬくもりはそのままに呟き、再び目を閉じる。
やがて日が傾き、やわらかな風が春の黄昏の涼やかさを帯びるまで、静かな時間はどこまでもただ、穏やかだった。
End.
というわけで、オマケでした。
無自覚に悟空を甘やかし、可愛がっている三蔵さん……。自分では邪険にしているつもりなのが、少々滑稽でもあり憐れでもあり。これじゃ子猿が懐かないはずがないでしょうにねぇ。
細心の配慮をもって真心からの愛情を惜しみなく注がれた子供は、愛情深い人間に育つ。私の持論です。
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