千年の孤独 06
臨也の本宅は、深い深い森の中にあった。
かつては貴族の狩猟館として使われていたもので、今から二百年程前に当時の持ち主を誑かして譲り受けたのである。
三階建の装飾の少ない質実剛健な造りは、歴代の所有者の武張った性格を忠実に反映したものだった。臨也もそれをそのまま受け継ぎ、使用している。
所詮、独りで住む家なのだ。飾り立てることに意味を見出すことは難しかった。
屋敷が間近になったところで臨也は静雄に指示をして、正面玄関前へと降り立たせる。
初めての飛行であったというのに難なく翼をたたみ、しっかりと地面に立った静雄は、臨也を抱きかかえたまま物珍しげに周囲を見回した。
「すげぇ屋敷だな」
「うん。滅多に帰ってはこないんだけどね」
帰ったところで何があるわけでもないし、近隣には餌場となるような都市もない。
ゆえに、各地を放浪していることが圧倒的に多い臨也だったが、時折、無性に独りになりたくなることがある。
そういう時に帰る場所――帰ることのできる場所は、この屋敷しかなかった。
中へ、と静雄に告げて、玄関ポーチの階段を上らせる。
言葉に従い、静雄が巨大な正面扉の前に立つと、音もなくすうっと重い扉が内側から開かれた。
「うおっ!?」
「大丈夫。出迎えてくれたんだよ」
「出迎え?」
「そう」
驚く静雄に小さく笑い、臨也は室内を指差す。静雄が思い切ったように中に足を踏み入れると、ぽぽぽぽっとホワイエの壁の燭台に火が灯り、背後で扉が閉まる。
燭台の炎が作り出す薄明かりの中、黒を基調としたお仕着せを着た少女が、二人の目の前で慎み深く頭を下げていた。
「人間……じゃ、ねえな。幽霊か?」
ゆっくりと頭を上げた少女の姿は清楚なメイドそのものだったが、半ば透けている。
明らかにこの世の存在ではないが、エクソシストの静雄にとっては見慣れたものであるのだろう。さほど驚くでもなく問いかけた。
「そうだよ。昔からこの屋敷の世話をしてくれてる子たちの一人」
「そうか」
少女の亡霊を悪いものとは感じなかったのだろう。あるいは、自分も今は同類だという自覚があるのか。静雄の反応は肯定的なものだった。
そんな静雄に向かって少女はにこりと微笑み、それから腕に抱かれた臨也に心配げな顔を向ける。
「ただいま」
臨也が微笑むと、ほのかな思念波が届いた。
少女らしくか細く控えめなそれは、これまでになく消耗した臨也の身をひどく案じている。
私を使って下さい。そう求められて、臨也は微苦笑した。
「大丈夫だよ。少し休めば元気になる。第一、そんなことをしたら君が消えてしまう」
肉体を持たない少女が精神エネルギーを喪うことは、そのまま消滅を意味する。だが、少女は頑固に首を横に振った。
そして、請うようにじっと臨也を見つめる。
――あなたの役に立ちたいんです。
――行き場を無くしたこんな私に、あなたは優しくして下さった。最後にあなたのお役に立てるなら本望です。
重ねてそう求められて、臨也は少女を見つめ返した。
彼女は何一つ隠そうとはしていなかった。ひたすら真っ直ぐに見上げる瞳は、半ば透けてはいても、この世のものならざる美しさで澄んでいることが見て取れる。
そして、その美しさは彼女の心映えから生まれていることも。
その心映えは、覚悟と諦観という名であることも。
彼女を長年見ていた臨也の目には全て明らかだった。
「……もういいの?」
そっと問うと少女はうなずく。
「そっか。……それじゃあ、もらうね」
彼女が満足だというのなら、それに逆らう余地はない。
傍目からどう見えていようと、臨也は彼女のではなく、命令する権限も彼女の意志を拒む権限もなかった。
今までありがとう、と少女の名を呼び、彼女の半ば梳けた黒髪の頭に手を触れる。
嬉しげに微笑み、目を閉じた少女の姿は臨也の手の下で淡くキラキラと光る。その輝きはゆっくりと薄れてゆき、やがて静かに少女は消えた。
「おい……」
「……うん」
少女の気配がもうどこにもないことを察したのだろう。静雄が戸惑いと共に声をかけてくる。
臨也は少しばかり呼吸が楽になったのを感じながら、うなずいた。
「消えちゃった」
そう言い、二階に行って、と求める。
「一番奥が俺の寝室だから」
「……ああ」
臨也と少女が何をしたのか、理解はしているのだろう。静雄は複雑な葛藤を表情に上らせつつも、臨也を抱えたまま歩き始める。
少女のおかげで自分の足で歩ける程度には回復していたが、臨也は敢えて静雄の腕に自分の身を委ねた。
錬鉄製の凝った手摺のついた階段を上り、奥へと向かう。
臨也の寝室は広かった。だが、一人の上、滅多に帰らない部屋に大した意味などあるはずもない。
それでもきちんと整えられたベッドは静かに主人を迎え、その上に下ろされてはじめて臨也は一つ息をつくことができた。
ベッドの縁に腰掛ける形でまなざしを上げれば、静雄が何かを言いたそうな顔でこちらを見ている。
臨也が口を開きかけた時、控えめなノックの音が響いた。
「――入って」
声をかけるとドアが開き、先程消滅した娘とは別の半透明の少女がワゴンのティーセットを押して入ってくる。服装は同じお仕着せである。
黒地の控えめに広がるスカートと白いエプロンドレス。クラシカルなメイド姿は、やはり少女の清楚さを引き立てていた。
「ありがとう。あとは勝手にやるからいいよ」
臨也の言葉にこくりとうなずき、静雄に向けて丁重に一礼してから少女は出てゆく。
ドアが閉まると、静雄は呆れたような顔で臨也を見下ろした。
「一体何人いるんだ」
「十人くらいかな」
「何でそんなに」
「何でって言っても……。彼女たちには行き場がないから、かな」
「行き場?」
「うん」
うなずき、臨也は立ち上がる。まだ足に力が入らない感じはするが歩けないほどではない。
ワゴンの元に行き、ティーコジーを外して熱い茶を二つのカップに注いだ。そして一つを静雄に渡す。
「あの娘達はね、殺されたものの、自分がどうして殺されたのか理解できなくて天に昇れなかったんだよ」
一人一人、出会った場所も時代も違う。だが、哀れな最後は皆、似たり寄ったりだった。
「男に乱暴された挙句に首を絞められたり刺されたり、時には息絶えるまで凌辱されたり……。苦しくて辛くて怖くて、でも帰る場所もなくて、どこに行けばいいのかも分からなくて。そういう娘たちがどうなるか、君は知ってるだろ?」
「……ああ」
きちんと導かれなかった魂は悪霊化する。恐怖と苦痛に魂を食われて、自らが恐怖と苦痛を撒き散らす存在に変わってしまうのだ。
そうなる前に信じる神の僕に導いてもらえれば良いが、さもなくば魂は奈落に墜ちる。
「俺が彼女達を見つけてしまうのは、どうしてかは分からない。俺には彼女達を天に送る力はないのにね。でも、出会うのは何かの縁だから、彼女達が来たいというのならここに連れてくるんだ。ここなら静かに過ごせるから」
「そんな娘たちが十人近くも、か」
「もっと居たよ。さっきの娘みたいに俺に力をくれて消えてしまった子が何人もいる」
長い長い時間を過ごしていれば、時として大きなダメージを負うこともある。そんな時、彼女達は無条件に我が身を差し出してくれるのだ。
臨也に力を与えたところで、自身が消滅するだけで天には昇れないのに。
そんなことのために彼女達をここに集めているわけではないのに。
亡霊と吸血鬼。他に還る場所のない、寄る辺ない存在が、ひそやかに寄り集まって暮らしているだけだ。
けれど、臨也は生きていて、彼女達は既に生きていない。
その絶対的な差ゆえに、臨也がどうしても必要としている時、死せる彼女達は臨也を生かすために存在そのものを捧げてくれるのだ。
「君がエクソシストのままだったらね。彼女達を天に導いてもらえたかもしれないけれど」
「……まぁ無理だな。俺はもともと神なんか信じてねえ。司祭としての才能は全然ねぇよ」
その言葉に臨也は小さく目を瞠る。
「バチカンにいたのに?」
言うと、静雄は肩をすくめた。
「神はいるのかもしれねぇし、いないのかもしれねぇ。ただはっきりしてるのは、神が実在しようがしまいが人間は皆、色んなもんを背負いながら生きていくってことだ。
その背負う荷物……運命とかいうやつには神の采配が働いてるのかもしれねえ。だが、背負って歩いていくのは俺たち自身だ。神じゃない。神は居たとしても、俺達を見てるだけだ」
そうだろ、と静雄は臨也を見る。
そうだね、と臨也はうなずいた。
サムソンのように生まれながらにして異様な怪力を授けられた静雄は、これまでに様々な苦悩と向き合わざるを得なかったのだろう。
人は異質なものに敏感で、冷淡だ。群れの安寧を破壊しそうなものは容赦なく排除しようとする。
静雄がこれまでどんな人生を送ってきたのか、臨也は知らない。けれど、異端の力を持つ東洋と欧米の混血の子供には、おそらく教会以外、行く場所などなかったのだろう。
教会の外では悪魔の仕業とされるだろう怪力も、神の名のもとに使えば使徒とみなされる。遠巻きに畏怖されることには変わりなくとも、生きてゆくことだけは許されるのだ。
だが、静雄がそんな存在になってしまったのも、元はと言えば臨也のせいだった。
二千年もの昔、臨也が余計な好奇心を持たなければ、幼馴染であった彼も真っ当な命の環の中にあっただろうに。
その上、今回はとうとう人ではない魔の領域にまで彼を貶めてしまった。
静雄はそうなることを望んでいたのだと言う。けれど、臨也は元凶である自分を許すことはできなかった。
――もう、どこにも帰れない。
――彼も帰してあげられない。
密やかに唇を噛んだ臨也は、まだ半分程度しか茶の減っていないカップをワゴンのトレイに戻す。
そして静雄に歩み寄り、その手からも空になったカップを取り上げた。
自分のために魔に堕ちてしまった大切な大切な幼馴染。そんな彼に対し、臨也が差し出せるものは一つしかなかった。
「シズちゃん」
名を呼び、そっと手を差し伸べる。指先が頬に触れても静雄は避けなかった。
触れる肌が自分よりも熱く感じるのは、ここまで飛んできたことで血行が良くなっているだけだろうか、それとも他の理由があるだろうか。
どちらでも大差はないと思いつつ、臨也は静雄を見つめる。
「おなか、空いてるよね?」
吸血鬼化した直後の異様な餓えは、臨也の血によって収まっただろう。だが、その後、数時間をかけてここまで飛んだのである。エネルギーは間違いなく消耗しているはずだった。
「そうでもねえよ」
「嘘つき」
臨也は嗤い、右手を引いて自分の口元に持って行き、指先に歯を立てる。ぷつりと皮膚が切れ、深紅の雫がすぐに滲んだ。
「臨也」
咎めるように名を呼ばれたのを無視して、静雄の口元にその指を伸ばす。すると、手首を掴まれた。
「大丈夫だよ。あの子のおかげで俺は回復できたから。君に貪り食われたところで俺は死なない」
吸血鬼同士の吸血行為で死ぬことができたら、どれほど良いだろう。そんなことができるのなら、今すぐにでも臨也は静雄にすべてを差し出していた。
けれど、現実には衰弱するだけだ。吸血鬼だけでなく闇の眷属は、いずれも忌まわしいほどに強靭な生命を持っている。
無論、弱ったところをエクソシストにでも発見されれば殺されることもあるだろうが、極限まで血を吸われても、吸血鬼はそれだけでは死ねなかった。
「俺をもらって、シズちゃん」
美しい娘でも攫ってきて与えてやれたら、どんなに良いだろうかと思う。若く新鮮な血はとても甘く、活力に満ちている。
けれど、静雄はそれを受け付けない気がした。
吸血鬼として長い時間を過ごせば、いずれは獲物が死なない程度に精気を分けてもらうことにも馴れるかもしれない。しかし、今はまだ無理だろう。
今、与えてやれるのは、この穢れた身だけだ。祝福を喪っている代わりに魔力だけは強い、この血。
静雄が望むのならば最後の一滴まで捧げても良かった。
「このまま衰弱する気はないんだろう? 吸血鬼も飲まず食わずでは消耗する。かといって、それだけでは死ねない。永遠に餓えたままでいるつもり?」
敢えて冷酷に問いかければ、静雄の表情がゆがむ。
その間にも傷付けた臨也の指先からは血がしたたり落ち、じゅうたんにぽつりと紅い染みを作った。
「――覚悟を決めて、何かしら食うしかねぇってことかよ」
やがて呟かれた声は苦かった。
臨也を捕らえておきたい衝動だけが先走って、後先を考えていなかったのだろう。彼らしいと言えばそれまでである。
だが、悔いたところでもう決して戻れはしない。祝福は永遠に失われたままだ。
この世界一愚かで滑稽な男がどうしようもなく憎らしく、そして愛おしかった。
「そうだよ。生き続けるためにはエネルギーを摂取し続けるしかない。俺を食べて、シズちゃん」
痛む心を隠して誘い掛ける。
鳶色の瞳は痛みを隠しもせずに臨也を見つめ、やがて苦く顔をしかめた。
「それしかねぇんだな」
「そう。これが君の愚かさの代償だよ」
臨也はうなずく。
そして再び血に濡れた指を静雄の口元に近づける。今度は避けられなかった。
温かな唇に指先を触れ、血を塗りつける。静雄の唇が小さく動き、伸ばされた舌がぺろりと血を舐め取る。
「すげぇ甘ぇな。血なんてクソまずいだけだと思ってたのによ」
「うん」
分かる、と思った。
二千年前、初めて他人の血を口にしたときの驚き。自分に対する激しい嫌悪。
絶望に最も近い感情が今、静雄にも降りかかっている。
だが、静雄は真っ直ぐに臨也を見つめた。
「お前もこんな思いをしたんだな」
確かめるように言われて、臨也はまばたく。
「どうかな」
「この期に及んで隠そうとすんな」
「君に言えないことなんて幾らでもあるよ」
二千年前は家族よりも近い距離にいたのだとしても、そこから魂が歩んだ道は両極端ほどにも違う。聞かせるだけの勇気を持てない出来事は、それこそ数え切れないほどにあった。
たとえば、幾人を楽しみのためだけにいたぶったか。たとえば、幾人を死に至らしめたか。
バチカンが預言者と同じ名を持つ吸血鬼について知り得ていることは、事実のほんの数分の一だ。
静雄とて勿論、それくらいのことは察しているだろう。だが、推測と事実を聞くのとでは心の受ける衝撃に大きな乖離がある。
臨也の行いを聞いて、静雄が離れていってくれるのならばいい。けれど、きっと静雄はそうはしない。
葛藤し、臨也のことを嫌悪し、憎みながらも傍にいようとするだろう。
そこまで静雄を苦しめるつもりは、臨也にはなかった。
静雄の方も臨也の覚悟を感じ取ってはいるのだろう。鳶色の瞳を鋭く光らせたものの、問い詰めはしなかった。
「そのうち全部、吐かせてやるからな」
「やれるものならやってみなよ」
これまでと変わらぬ剣呑な言葉を交わし、静雄は臨也の背を、臨也は静雄の首筋を引き寄せる。
重なった唇はやはり甘い血の味で、目を閉じてただ味わうしかなかった。
貪るようなキスの後、静雄の唇はそのまま臨也の頬に触れ、すべやかな肌を首筋の方へと這い降りてゆく。程なく頸動脈を探り当て、そこをぺろりと舐めた。
逸る鼓動を持て余しつつ、目を閉じたまま臨也が待っていると、静雄が口を大きく開く気配がして一秒の後、ぶつりと肌に鋭い牙が突き立てられた。
「―――っ!」
双牙による挿入がもたらしたのは痛みではなく、突き抜けるような快感だった。
前回からまだ半日も経っておらず、身体が感覚を忘れていないせいもあるだろう。声さえも出ないほどの衝撃を臨也は必死に噛み殺す。
だが、すかさずじゅるりと血を吸い上げられて、目の裏に星が散るような感覚に下半身が崩れた。
力を喪った臨也の肉体を、静雄は難なく支えて血を貪る。
「……っ、ふ、あ……ぁ」
一吸いされる度にぐらぐらするような快感が臨也の首筋から生まれ、全身を貫いてゆく。必死に静雄のシャツに爪を立て、感覚を逃がそうとするが到底耐え切れるものではない。
臨也は身をよじって逃れようとしたが、それさえも静雄にきつく抱きすくめられていては無理だった。
「っあ、あ、シ…ズ、ちゃ…ぁ……っ!」
過ぎる快感に切れ切れに喘ぐ臨也の固く閉じた眦から涙が零れ落ちる。
惑乱してすすり泣きながら、このまま逝けたら、と臨也は夢うつつに思う。
誰よりも大切で愛おしい幼馴染の腕の中で、この呪わしい血をすべて貪られて逝くことができたら。
本当にこの命の全てを差し出すことができたなら。
どれほど幸せだっただろう。
だが、現実はそうではない。どれほどこの身を貪られようと臨也は死ねない。静雄もまた、死ねない。
二人して世界の黄昏まで歩き続けるしかない。
二人の前にあるのは永遠と名付けられた寂寥の砂漠だった。逃れる術はどこにもない。
独りならば耐えられた。二十年に一度、唯一人の存在と邂逅できる。それだけで満足していられた。
けれど、もう独りではない。そのことが臨也を打ちのめす。
二千年もの間どうやって独りで立ち続けていたのか、それさえももう分からなくなり始めていた。
「――っ、あ、は……」
一体どれほどの血を貪られたのか。臨也が息も絶え絶えになった頃、やっと静雄の牙が抜かれる。ずるりと引き上げてゆくその感覚にさえ、臨也は弱々しく背筋を震わせた。
ぐったりと力の抜けた臨也の身体を静雄は軽々と抱き上げ、ベッドの上に運ぶ。
「臨也……」
熱を帯びた声が名を呼び、そっと頬を撫でられる。その手の優しさに臨也がぼんやりと意識をたゆたわせていると、不意に強く抱き締められた。
服越しに重なった身体が熱い。そう気付いて、臨也は静雄の背を抱き返す。
「いいよ、シズちゃん」
何を求められているのかは理解していた。
臨也自身は吸血鬼となって以来、久しくその衝動を喪っていたが、静雄はまだまだ人間としての感覚を残している。吸血行為で興奮が高まれば、肉体が反応するのは当然だった。
一方、臨也の肉体もたっぷりと注がれた快楽に昂ぶり、慄いている。
吸血鬼の獲物となった人間が何故抵抗できず、夜な夜な血を吸われることを許すのか。その理由を初めて臨也は真の意味で理解していた。
サキュバスと同じだ。彼らが交合による強い快楽を獲物に与えて虜にするのと同様、吸血鬼の吸血もおぞましいほどの快感を獲物の肉体に植え付ける。
加えて臨也は、元より吸血鬼として首筋が性感の弱点である。抗えるはずなどなかった。
「俺が欲しいなら全部あげる」
血の最後の一滴までをもくれてやっていいと思ったのだ。今更、躊躇うはずもない。
何をされてもいい。そう思いながら静雄の背を撫でる。
すると、好きだ、と熱情を押し殺したような低い声で耳元で囁かれた。
「お前が好きだ」
「……うん」
俺も好きだよ。そう思いながら、背を抱く手にぎゅっと力を込める。
彼が望んでいるのだとしても、言葉に出して愛を告げることはできなかった。
本当に大切だからこそ、世界に只一人の存在であるからこそ、彼を貶めてしまった自分をどうしても許すことができない。
すべての元凶である己に、甘く優しい愛の言葉を紡ぐ資格など到底あるとは思えないのだ。
愛おしくて、苦しい。
苦しくて悲しくて、それでもどうしようもないほどに愛おしい。
表裏一体の想いに苛まれながら臨也は静雄を受け止め、深い口接けに応えて、広い背を撫でる。
静雄の指がシャツのボタンにかかっても、その下の素肌に触れても臨也は何一つ抵抗しなかった。求められるままに臨也は細い肢体を震わせ、甘い声を上げる。
「っふ……、あ、あ…っ、やぁっ」
二千年もの間、追い追われた。その執着の度合いを示すかのように静雄の愛撫は執拗で貪欲だった。
口唇と手指でくまなく肌に触れ、肌に幾つもの薄赤い跡を刻み込んでゆく。
血を吸われているわけでもないのに、ありとあらゆる箇所から精気を吸い取られているかのような深い酩酊感と恍惚感に耐え切れず、臨也は嫋々とすすり泣いた。
経験など一度もないにも関わらず、首筋を舐められ胸元を弄られるだけで芯から身体が甘く蕩けてゆく。
小さな肉粒を指の腹で捏ね回され、摘ままれるだけで、じんとつま先まで痺れるような快感が全身を貫き、びくびくと腰が跳ねた。
「ひ…ぁっ、シ、ズちゃ……っ、あ、あ…んっ」
何をされても気持ち良くてたまらない。
程なく過ぎる快楽にぐったりと力の抜けた肢体を押し開かれ、最奥をまさぐられる。
誰にも触れられたことのない秘処を暴かれて、臨也はほろほろと甘い涙を零しながら、力なく首を横に振った。
「やぁ、っ、あ……、ひぅっ、あ…っ」
これ以上触れられたら。
表皮に触れられているだけでも骨の髄まで沸騰しそうなのに、静雄の熱まで身の内に受け入れたら。
きっと狂ってしまう。過ぎる快楽に泣き狂うばかりの獣になる。
そんな本能的な怯えに苛まれて、臨也は嫌々と頑是無い子供のようにかぶりを振る。
だが、静雄は容赦しなかった。ひくひくと震えている敏感な粘膜をとろけるまで舐め回し、ぽってりと紅く色付いたそこを長い指でかき回す。
「そ…んな、やっ、あ、やだぁ…っ、お…かしく、なっちゃ、ぅ…っ」
感じてたまらないところを骨ばった指にぐりぐりと捏ねられ、犯されて、臨也はとめどもなく甘い声を上げながら泣きよがった。
「っあ、やっ、も、やぁ…っ、ひぅ……っ!」
静雄が指を抜き差しする度に、ぐちゅ……ちゅぷ、とひどい水音が響く。生まれて初めての快感を覚えた柔襞は歓び狂いながら静雄の指を食い締め、舐めしゃぶる。
気持ち良かった。どうしようもなく気持ち良くて、ただシーツに爪を立て、四肢を震わせることしかできない。
そんな風に煮えたぎった糖蜜のような快楽に溺れていた臨也は、静雄がふと零した呟きを咄嗟に捉えることができなかった。
「すげぇ気持ち良さそうだな」
意味は分からなかった。ただ、呟きに潜む冷たい怒りのような響きを感じ取って、臨也は僅かに自分を取り戻す。
泣き濡れて霞む視界を懸命に見開き、まばたきをして涙を払おうとした。
「な……に……?」
「指だけでこんなよがりまくりやがってよ。手前、どんだけ淫乱なんだよ」
「え……」
彼が何を言っているのか分からなかった。強い欲情と憤りにぎらぎらと光っている静雄のまなざしを臨也は呆然と見上げる。
すると、静雄が苛立ったように再び指を蠢かせた。乱暴に抜き差しされて、ぐじゅ、ぐちゅりと淫らな粘着質の音が下肢から響き渡る。
「ひぁっ、あ、ふ、ぁ…っ、や、そこ…ぉ……っ」
「なぁ、これまで何人にその声を聞かせた?」
「っあ、あ、ん……っ、……?」
「そのエロい顔もどんだけ晒してきたんだよ……!?」
静雄の指が容赦なく敏感な箇所を責め立てる。同時に言葉でもなじられて、臨也はやっと静雄が何に憤っているのかを理解した。
「や…っ、ちが……!」
「違う? 何がだ」
「ひぅっ! あ、んんっ……!」
ぐりっと指を中で捻るように回されて、臨也はびくびくと震える。だが、泣きよがりながらも必死に弁明を試みた。
「違、う……っ、本当に、知らない……! 他の人なんか、知らない……!」
快楽に弱いのは闇の眷属の特徴だ。種族を問わずたとえ処女であろうと淫蕩に誘い、よがり狂って貪欲に快楽を貪ろうとする。人とは心身の全てが違うのである。
臨也もまた、その例に漏れなかった。それにもかかわらず、これまで一度も快楽の経験がなかったのは、単に魔族のもたらす官能を激しく嫌悪していたからに過ぎない。
「ほ…んと……、本当だから……っ」
信じてくれと懸命に訴える。
静雄だから許したのだ。抱かれてもいいと……抱いて欲しいと思った。そのことだけは疑われたくなかった。
「シズ…ちゃん……!」
身を苛む甘すぎる愉悦に喘ぎながら、お願い、とまなざしで縋る。
その必死の思いが通じたのかどうか。静雄が指の動きを止めた。
「本当に経験ねぇのか」
「ない! あるわけないだろ!」
改めて問われて、臨也は大きく否定する。すると静雄は空いていた方の手で、臨也の頬をするりと撫でた。
「っふ…ぁ……っ」
そのまま敏感になった肌を首筋から胸元まで撫で下ろされて、臨也は堪えきれない快感にびくびくと身体を震わせる。
「初めてなのにこんな風になっちまうのかよ」
「……人じゃないんだから……仕方がないだろ」
魔に堕ちれば心身も否応なしに作り変えられる。好きでこうなったわけではないと、まなざしを逸らして言外に告げれば、数秒の間の後、こめかみに唇が落された。
「シズちゃん……?」
温かな感触にまなざしを上げると、静雄と目が合う。落ち着きを取り戻した鳶色の瞳は今、何とも言えない表情で臨也を見下ろしていた。
「疑って悪かった」
「……ううん」
人の基準に照らし合わせれば、到底、未通の身体の反応ではない。静雄の誤解もやむを得ないことだろうと臨也は小さく首を横に振った。
「でも、本当に信じて。魔族だろうが人間だろうが、他の奴に触らせたことなんかないよ」
遠い昔、人であった頃には成人もしていたから、多少の女性経験はあった。だが、すべては二千年前のあの夜が最後だ。信じて、と告げると、ああ信じる、と低い声が返った。
その響きに宿る誠実さに臨也は小さく微笑み、両手を上げて静雄の頬を包み込む。
「君が俺の初めての男だよ。嬉しい?」
「……初めてで最後、だろ。他の奴に譲ってやる気なんざ、これっぽっちもねぇよ」
「なに……っあ……っ!」
何を言うのかと臨也が口を開きかけた途端に、再び届く限りの深みまで長い指で犯される。柔襞を撫でられ、かき回されて臨也は甘い悲鳴を上げた。
「っあ、ん、や……っ、ずる、い…っ」
「お前にはこれくらいでちょうどいいだろ」
「よ、くな……っ、あ、やっ、そこ……っ」
「ここか?」
「だ、めっ、駄目…ぇっ、ひぁ、あああ……っ!」
容赦なく責め立てられて泣きながら身をよじり、必死に逃れようとするが、身の奥を苛まれているのにどうにかなるはずもない。
官能に震えて弱々しくもがく脚が時折、静雄の肉体にぶつかったが、それすらも彼の興奮を煽ることにしかならないようだった。
やがて最奥を苛んでいた指が抜き去られ、ぐいと太腿を大きく押し開かれる。
「シ…ズ、ちゃ……、っあ、ああああっ!」
臨也が呼吸を整える間もなく、圧倒的な質量を持つ熱塊が、とろとろに蕩かされてはいても無垢なままの柔襞を容赦なく貫き、犯してゆく。
痛みは微塵もなかった。代わりに気が狂いそうなほどの圧倒的な歓びが全身の細胞という細胞を焼き尽くし、骨の髄までがぐずぐずと甘く溶け崩れてゆく。
その凄まじさに臨也は声も出せずに昇りつめ、断末魔を迎えた小動物のように身体を激しく痙攣させた。
だが、それでも尚、静雄は更なる深みへと容赦なく押し入ってくる。
「ひっ、あ、ああ、ぅあ……っ」
歓びに酔い痴れてびくびくと慄いている柔襞を逞しい熱塊に深々と抉られ、臨也は息も絶え絶えに甘い悲鳴を上げた。
静雄もまたひどく興奮しているのだろう。泣き濡れた視界に映る彼の瞳は、今や真紅に光り輝いていた。
燃え盛る血のような色が美しくないわけではない。けれど、慣れ親しんだ鳶色の瞳ではない。
そのことがひどく胸に痛くて、臨也の眦からまた新たな涙が零れ落ちる。
「シズ、ちゃん……っ、シズちゃん……!」
何度も何度も繰り返し、彼の名を呼ぶ。今や、静雄の熱は最奥にまで届いていて、そのとてつもない圧迫感と甘美さに臨也は呼吸さえままならない。
けれど、それでも名を呼ぶことをやめようとはしなかった。
「シ、ズちゃ…ん……っ」
「臨也」
一途に名を呼び続ける臨也に何を感じ取ったのか。
低く熱を帯びた声で名を呼び返した静雄は、そのまま臨也の目じりに口接け、溢れ落ちる涙を唇で拭う。
そして、臨也をぎゅっと抱き締め、呟いた。
「ごめんな」
――こんな形でしか一緒に生きてやれなくて。
――こんな形でしか愛を示してやれなくて。
ぴたりと重なり合った胸から伝わってくる声なき叫びに、臨也はたまらず静雄の背に両腕を回す。
慟哭しているのは臨也だけではない。静雄の魂も同じだった。
前世の記憶はなくとも、彼の魂はこの二千年を覚えている。全てを刻み込んでいる。
光の中で笑い合っていた日々を、夜の中で追い追われた日々を。
二度と戻らない日々を遥か遠くに見上げながら、それでもこの愛に殉じるにはこんな形しかなかったのだと、慟哭しながら愛しい魂を抱き締めている。
臨也が人に戻れる術があるのなら、幼馴染だった彼はどんな手を使ってでも戻しただろう。彼とて臨也を救いたかったのだ。
だが、それが叶わない以上、共に死ぬか、さもなくば共に闇に堕ちるしかなかった。
他に二人の魂が交わる道はどこにもなかったのだ。
「好きだ、臨也。俺はもうお前さえいればいい」
切なく響く低い声に、臨也はぎゅっと彼を抱き締める。
お前さえいればいい、ではなかった。
他にはもう何一つ、彼の手の中には残っていないのだ。故郷も身内も友人知人も、身分も、人としての未来さえ今の彼にはない。
臨也が吸血鬼と化した時点で、あるいは臨也に一番最初に殺された段階で、彼は諦めるべきだったのだ。
臨也に対する執着を忘れ、命の環に帰るべきだった。
けれど、そうしなかったのは彼自身だ。臨也にはどうすることもできなかった。
「シズちゃん……」
あまりにも愚かで悲しい男を抱き締めて、泣き濡れてかすれ、震える声で臨也は懸命に言葉を紡ぐ。
「俺を全部あげる……。シズちゃんが欲しいなら、全部あげるから……、だから、」
傍に居て。
血を吐くような思いで、臨也は告げた。
「ずっとずっと傍に居て。俺をもう独りにしないで」
それはずっと言いたかった言葉だった。
同時に、静雄に与えることのできる唯一の言葉だった。
「ああ。絶対に離さねえし、離れねえ。この先、永遠にお前と一緒にいる」
「うん、うん……」
静雄を強く抱き締めたまま、臨也は何度もうなずく。
本当はずっとそう言ってもらいたかった。
人間と吸血鬼では決して叶うことのない願いだった。そもそも種が違う。生きる時間も違う。
けれど、それでも彼は何度でも臨也に出逢ってくれたから、もう十分だと自分を慰めていた。
そんな叶うとも思ってはいなかった祈りが通じた。だからといって、到底喜ぶことはできない。
今この瞬間を幸せだと感じることもできない。
だが、今、臨也は静雄のものだったし、静雄もまた臨也のものだった。その事実だけは決して覆らない確かさで、この腕の中にある。
そのことに、ただ涙が零れ落ちてゆく。
――好き。
――本当に誰よりも何よりも、君を愛してる。
この想いが免罪符になるなどとは到底思えないし、思わない。 けれど、祈るようにぎゅっと爪を背に立てれば、抱き締める力が強くなった。
「臨也……」
低い囁きと共に、静雄がゆっくりと動き始める。
突き上げられ、かき回されて、身体の奥深くで甘すぎる毒のような快楽が次々にはじけた。
「っあ……ああっ、シズ、ちゃ……ひぁっ!」
そのあまりの切なさに臨也は哭きながら自らも腰を揺らめかし、最愛の幼馴染を身と心の全てで愛し尽くす。
そして、長い長い交歓の果て。
互いの肉体と血を貪り合った二人は、固く抱き合ったまま、光すらも差さない奈落へと墜ちていった。
* *
どこに行こうか、と尋ねると、海が見てぇな、と彼は答えた。
それは遠い遠い昔に、旅に出るとしたらどこに行きたい?、と問うた時に帰ってきた答えと同じだったから、臨也は思わず小さく笑った。
そして、何がおかしいんだよと憮然とした彼をまあまあと宥め、じゃあ海辺に行こう、と告げた。
北の海ではなく、南の海。
あの時、いつか行けたらいいねと言って行けなかった場所。
青く透き通った大海原は、彼の金に染めた髪によく映えるだろう。心はまだ悲しみに満ちていたが、そう考えるだけでほんのりと温もりが灯るような気がした。
「それじゃ、行こうか」
「ああ」
終わりのない旅路に持ってゆくものは、身の回りの所持品が僅かにあれば足りる。手ぶらのような気安さで、静雄と臨也は森の中の屋敷を出た。
臨也の旅立ちは、いつでも黄昏だ。闇の中でしか生きられないモノには、夜明けと共に旅立つような真似などできない。
いつもと同じような時刻。同じようないでたち。
けれど、唯一つだけ違うことがある。
そう思いながら臨也は隣りを見上げる。
東の空に淡く光り始めた星を見ていた静雄は、臨也の視線に気付いて目線を下げる。
何だ、と目顔で問われて、何でもないよ、と臨也は笑った。
そして、左手を差し伸べる。
静雄は少し驚いたように見つめた後、すぐにその手を取った。
温かく大きな手のひらに、臨也のやや細い手が包み込まれ、軽く握られる。
もう二度と離されることのない手だ、と臨也は思った。
このまま二人、世界が黄昏を迎えるまで永い永い時間を歩き続けることになる。
ずっと独りだったのに、もう独りではない。そのことに未だに戸惑いを覚える。
けれど、この手を離すことはもう無理だった。
行こう、と促し歩き出す。
木々の間から覗く秋の空は朱金色の夕映えの輝きを徐々に喪い、代わりに深い藍色に覆われてゆく。
夜が来るのは、もう直ぐのことだった。
End.
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