千年の孤独 05

 全てが流れ、変化してゆく世界の中で彼だけが変わらなかった。
 千年を超える長い歳月の間、自分だけを見ていた唯一の存在。
 何度でも何度でも、現れては消えて。
 人ごみの中でそのまなざしに出会う度、自分が感じた絶望と歓喜を彼が知ることは決してない。
 何度も何度も、出会い、別れて。
 それはこれからも永遠に続いてゆくはずだったのに。




 茫然と静雄の傍らに座りこんでいた臨也は、ふとまばたきし、顔を上げて空を見つめた。
 先程見たときに比べると、星の位置が随分と変わってしまっている。世界が夜の衣を脱ぎ捨てる支度を始めたのだろう。黒とも見まごう深い藍色だった空の色が幾分明るくなりつつある。
 ―――朝が来る。
 あと数時間も経てば、世界は目覚める。
 まばゆい太陽が昇り、闇の眷属が徘徊していて良い世界ではなくなるのだ。いつまでも、この場でこうしているわけにはいかない。
 臨也は唇をぐっと噛み締め、まずは自分のナイフを拾い、それから地に倒れたままの静雄の身体に手をかける。
 身長も厚みも自分を上回る青年の肉体はずっしりと重かったが、人間を超える吸血鬼の身体能力ならば、どうにか抱えて飛べる程度のものだった。
 ちらりと周囲に目を向け、彼の持ち物である巨大な金の十字架と上半身を覆っていた白銀色の鎧は、ここに置いてゆくしかないと判断する。聖遺物である十字架には触れられないし、鎧は飛行の重しになるだけだ。
 これらの品と大量の血痕を見れば、バチカンはエクソシストがまた一人、吸血鬼によって殺されたのだと判断するだろう。そして、イザヤという預言者の名を持つ吸血鬼の罪状目録に項目がまた一つ、追加される。
 それはこの数百年の間、連綿と繰り返されてきた儀式のようなものであり、今更どうとも感じない。
 ただ、今回は金の髪と鳶色の瞳を持つエクソシストの失踪の理由は、いつものようなナイフによる出血死ではない。バチカンが当面の間知ることはないだろうその事実が、どうしようもないほどに臨也を打ちのめしていた。
「――――」
 現実に見切りを付けるように臨也は伏せていたまなざしを上げ、薄れかけた闇の中で漆黒の大きな翼を優雅に開く。ゆっくりと、だが力強く羽ばたいて風を掴む音を重く微かに響かせながら、臨也は静雄を腕に抱えたまま空へと舞い上がった。
 そして人目に触れぬよういつもよりも高度を下げ、人家から離れた所にある例の忘れられた共同墓地(カタコンベ)がある森を目指して夜の空を飛ぶ。
 程なく深い森が眼下に広がったが、安全な隠れ家ではあっても暗く湿った地下に静雄を運び込む気持ちにはなれず、森の奥にある泉のほとりへと臨也は降り立った。
 泉といっても、湧き出した冷涼な水が大きな水たまりを作っており、広さ深さ共に池と呼ぶ方が正しいだろう代物である。
 その水面に向けて枝を大きく広げた常緑の巨木の陰に臨也は静雄を下ろし、日中でも直射日光が射さない角度を選んでその身を横たえた。
 そして自分もまた、翼をしまって先程と同じように彼の傍らに腰を下ろす。
 先程と同じように意識のない彼の顔を覗き込み、手を伸ばして頬にそっと指先を触れた。
「シズちゃん……」
 白く血の気を失った頬は、それでも仄かな温もりを宿している。ゆっくりと指先を滑らせて確かめれば、呼吸も脈動もひどく弱かったが、確かに保たれていた。
 だが、そのことは臨也にとっては何の救いにもなりはしない。
 こんな状態に陥った人間は、これまでも数え切れないほどに見てきた。いずれも自分が、最初の頃は誤って、その後は単なる楽しみで牙にかけた人々だ。
 彼らは臨也にその生き血を吸われ、やがては―――。
「君だけだよ、自分から俺に血を吸うよう仕向けたのは……」
 何と馬鹿なことをしたのか、と思う。
 致死量を超える血を吸血された人間は吸血鬼と化す。そんなことはエクソシストであれば基礎以前の知識であろうに。
 飢えた吸血鬼がひとたび血を口にすれば、理性は沫雪のように溶け消え、自分が満足するまで――時には相手を死に至らしめるまで血を貪り吸う。そうと知っていながら、静雄は敢えて血の味のキスを臨也に贈った。
 それはどういう意味であったのか。
 おそらくは明瞭であるだろうそれを、しかし、臨也は考えることを拒絶した。
 考えたくなどなかったのだ。
 静雄が何を望んでいたのかなど、理解したくはなかった。
「俺は君なんか大嫌いだ。昔も今も。君なんて普通に死んでくれればいいんだよ。何度だって、君がくれたナイフで殺してあげたのに」
 なのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
 九十九回も彼を殺したのは、決してこんなことのためではなかったのに。
 なのに、彼は今。
「―――…」
 地の底の奈落にまで引きずりこまれるような感覚に蝕まれながら、臨也はぎゅっと手のひらを握り込む。
 そして、彼の傍らで時が過ぎ、満ちるのを、ただ待った。







 日が昇り、天を巡って沈み、夜露が辺りを静かに輝かせる。
 それが三度過ぎたところで、変化が起きた。
 傷ついた獣のようにじっとうずくまっていた臨也は、はっと顔を上げて、大地に身を横たえたままだった青年の傍らにひざまずく。
 そして、変化をほんのわずかでも見逃すまいとまなざしを注いだ。
 か細い、肉眼では胸の動きが殆ど見てとれなかった呼吸が少しずつ深く、確かなものに変わってゆく。
 そのまま、じりじりと一秒が千秒にも感じられる時が過ぎて。
 やがて、投げ出されていた指先がぴくりとかすかに動いた。
 それから。
 濃い色の睫毛に縁どられた瞼が小さく震え―――。

 鳶色の、光の加減によっては金にも見える目が呆と天を見上げ、それからゆっくりと動いて臨也のまなざしを捕らえた。

「……臨也?」

 低くかすれたその声を耳にした瞬間。
 臨也は、静雄の頬を力任せに殴りつけていた。




「っってえなあ!! いきなり何しやがる!?」
「うるさい!!」
 怒鳴る静雄に構わず、臨也はその襟元を掴み、三日間堪えに堪えた言葉を迸らせる。

「どうしてこんな真似をした!? 俺に血を吸わせれば、どうなるかくらい分かってただろう!?
 どうして人でないものになろうとした!?
 一度なってしまったら、もう決して戻れないのに!!
 もう二度と、人としては生まれることができないのに……!!」 

 吸血鬼を呪われた存在とする教会の解釈は、あながち間違いではない。吸血鬼の因子は悪性のウイルスのようなもので、吸血鬼化すると生物としてヒトとは異なる存在になってしまうため、死後もヒトとして生まれ変わることはできなくなるのだ。
 最後の審判が本当にあるかどうかは別として、少なくとも吸血鬼はその際にも魂が復活することはないのである。それは教義上、神の国に迎え入れられることがないということであり、神を信じる人々からは吸血鬼は忌避されて当然の存在だった。
 そして、そんなことは、エクソシストとしての教育を受けた静雄は百も承知しているはずなのだ。
 吸血鬼がどれほど忌まわしい存在であるか、懇々と説かれているはずなのに。
 ゆっくりと持ち上げられた静雄の手は臨也の頬に触れ、確かめるようにするりと撫でる。
 夜露に冷えた頬を、温かな指先がひどく優しく。

「俺だけ何度も死んで生まれ変わって。そこにどんな意味があるよ。最後に辿り着く神の国とやらには、手前は絶対にいないのに」

 真っ直ぐに臨也の目を見つめ、静雄が告げた言葉は、臨也の心を切り裂くには十分すぎる刃だった。
 過ぎた激昂は言葉にならず、臨也の喉を詰まらせる。
 臨也は声にならない悲嘆と憤怒を込めて静雄の襟元を掴み上げ、何度も地面に叩き付けた。その程度では、もとより頑丈な上に吸血鬼としての強靭さを手に入れた彼には何のダメージにもならない。だがそれでも、何故、どうしてと無言の抗議を繰り返さずにはいられなかった。

「臨也」

 低い彼の声が、そんなに荒れてくれるなと乞うように名前を呼ぶ。
 だが、切り裂かれた心の痛みは胸の内で荒れ狂い、喉元まで込み上げ、滂沱の涙に変わる。
 魂が軋むような激しい衝動に耐えきれず、臨也は獣が吠えるように哭いた。

「君だけは何があっても吸血鬼にしたくなかったのに!
 何度でも君は俺を見つけてくれる。それだけで良かったのに!
 君がこの世に存在していてくれる、俺のことを何度忘れても、何度でも俺だけを追ってきてくれる。
 俺はそれだけで良かったのに……!!」



「なのに、どうして……!?」



 泣いても叫んでも、胸の痛みはわずかも和らがない。
 二千年もの間、追い追われた果てに自分のために吸血鬼になってしまった幼馴染の胸にすがり付いて。
 臨也は、ただ泣き続けた。







 何十分、何時間泣き続けたのだろうか。
 泣き疲れ、涙も枯れ果てた時、臨也は静雄の腕の中にいた。
 いつの間にか彼は体を起こし、上体を常緑樹の巨木に預けた格好で、膝の上に臨也を抱いていた。臨也が泣き続けていた間、一言も口を挟むことはなく、ただ臨也を抱き締め、髪を撫で、背を撫でてくれていた。
 そんな男の温もりを感じながら、彼の心臓は変わらず動き、体も温かいのに、彼はもう神の祝福を失い、帰るべき場所を失ってしまったのだと臨也は考える。
 そう思うだけで、また新たな涙が滲むようだった。
「……どうしてこんな真似をしたの」
 延々と泣いた後の声はかすれて割れ、ひどいものだった。澄み切った青空のようと絶賛された美しい響きなどどこにもない。
 そんな臨也を慰めるかのように静雄の手は、また臨也の髪を撫でた。
「お前とずっと一緒にいる方法が他になかった」
 短い答えに、臨也の内でまた怒りの炎がかっと燃え上がる。だが、疲れ果てている今、その炎は手のひらに包みこめてしまうほどに小さかった。
「一緒にいてくれなんて頼んでない」
「分かってる。ただ、俺が嫌だった」
 臨也をしっかりと腕に抱いたまま、静雄は低く続ける。
「エクソシストだとかそんなことは関係なくて、とにかく俺は、お前を捕まえたかった。でも捕まえたって、一緒にいられるのは何年だ? 五十年か? 六十年か? お前は、その先も何百年も何千年も生きるのに? 俺の知らない所で誰かに殺されたり、誰かのものになっちまうかもしれねぇのに?」
 冗談じゃねぇと思った、と静雄は言った。
「お前に生まれ変わりの話を聞いたら、尚更、駄目だと思った。お前は俺のものだ。二千年前からそう決まってたんだ。絶対に逃がしてなんかやらねえ。となったら、方法は一つだろ」
「――だからって、こんな……」
 人であることを捨てなくても、と臨也は唇を噛む。
「君は何にも分かってない。吸血鬼になっていいことなんて一つもないんだ。他の生き物から精気を奪わなきゃ生きていけないし、簡単に死ぬこともできない。人の世界に戻ることも、人と繋がることもできない。何もかも喪ってしまうんだよ」
「そんなもん、分かってるっつーの。俺の職業が何だったと思ってんだ」
 すべて覚悟の上だと、臨也の髪を撫でる静雄の指先が告げる。

「それでも俺は、お前が欲しかったんだ。俺だけのお前、お前だけの俺になりたかったんだよ」

 馬鹿なことを、と臨也は目を伏せる。
 涸れたはずの涙が、また一粒二粒と零れ落ちる。
 今更すぎると分かっていても、人でなくなってしまった我が身がどうしようもないほどに悲しかった。
 本当はこの二千年、繰り返し悔やんできたことだ。あの夜、下衆な好奇心にかられて外に出てゆかなければ、この身が人でないものに変えられることはなかった。幼馴染の人生を狂わせることはなかったのだ。
 あの小さな町で自分たちは生涯、喧嘩をしながらも楽しく暮らせたはずだった。
 なのに、一つ狂った歯車は二人の人生の何もかもを大きく変え、こんなところまで追いやってしまった。
 自分ばかりならば良い。自業自得と納得し、諦めて人ではなくなった生を謳歌できただろう。
 だが、幼馴染まで巻き込んでしまったことは、臨也には悔やんでも悔やみきれない痛恨の失態だった。

「お前は、もう俺を許す気はねぇかもしれねえ。でも、俺はお前が好きだ」

 ずっと一緒に居てぇんだよ、と静雄の声が、どこか痛切な響きを含ませて告げる。
 お前をもう一人にしたくはないのだと髪に口接けを落とされる感触に、臨也は胸の内で、俺だって好きだよ、と呟いた。
 人として、ただの幼馴染として暮らしていた時、二人の間にあった感情は確かに友愛であったと思う。一緒に居ると楽しかったし、本気で毎日のように喧嘩もした。だが、それを超える感情ではなかったように思う。
 それが狂ったのは、やはり臨也が人でなくなってしまった後だ。
 彼は人が違ったかのように臨也だけを追い求め、臨也もそんな幼馴染の姿に激しい憤りと悲嘆を感じないではいられなかった。
 その果てに自分の手で彼を殺した瞬間、それまでの全てが壊れてしまったと感じた。それは故郷を捨てた時以上の深い、奈落の底のような絶望だった。
 そして、彼を喪ったと信じて過ごした二十年余の後、路上で金の髪と鳶色の瞳を持つ彼に再会した時、込み上げた衝動をどう表現すればよいか。
 大声で笑いながら泣き叫びたかった、あのとてつもない感情の嵐を。
 そして、もう一度彼を殺すしかなかった時の魂を引き千切られるような悲嘆を。
 それから後の歳月については言うまでもない。何度も出会い、殺し合い、最後はナイフでその心臓を貫く。そんな茶番劇を気が遠くなるほど何度も繰り返すうちに。
 いつしか臨也は彼を深く愛していた。
 愛さないわけにはいかなかったのだ。
 前世のことなど何一つ覚えていなくとも、彼は彼だった。臨也だけを永遠に追ってきてくれる唯一の存在だった。愛さずにいられるはずなどなかった。
 そして、だからこそ彼だけは、彼から譲り受けたナイフで殺す以外の命の奪い方をするまいと固く決めていた。逆に、このナイフで他の者の命を奪ったことも一度もない。
 彼とだけは、かつて故郷の町で散々にやり合ったようにナイフ一本で渡り合う。
 そう固く心に誓っていたのに。

「俺は君なんか嫌いだよ。大嫌い」

 そう告げる傍らからも涙が零れて止まらない。
 臨也の言葉に込められた意味をどこまで理解しているのか、静雄の腕は臨也を抱き締め、手指はただ優しく髪を撫でる。
 触れ合う場所すべてが温かかったが、しかし、その温もりは髪一筋ほども臨也を救わなかった。
 ―――もう、どうにもならない。
 ―――彼も自分も、もうどこにも帰れない。
 永遠にも等しい互いの命が尽きるまで、共に薄闇の世界を彷徨い続けるしかない。
 目の前に白々と広がる現実に押し潰される心が、声にならない悲鳴を上げる。
 もう彼を殺さなくても良いということを、今は到底喜ぶことはできなかった。 






 そしてまた、どれほどの時間が過ぎたのだろうか。喉を鳴らす小さな音に、臨也は静雄の胸にもたせかけていた頭を上げた。
 ぴったりとくっついていなければ分からないだろう微かな生命の音。
「シズちゃん……」
 顔を見上げて名を呼べば、静雄は気まり悪げに目を逸らす。その表情に、ああ、と臨也は思った。
「気付かなくてごめん。おなか、空いてるよね」
 人間から吸血鬼へと体細胞が作り変えられた直後は、猛烈な渇きに襲われる。遠い昔のことではあったが、臨也にも覚えのある感覚だった。
「臨也……?」
 何を、と戸惑った顔で名を呼ぶ静雄に構わず、向かい合わせになる形で静雄の膝の上に座り直す。
 そして、白いシャツの襟首をぐいと開いた。
「いいよ、シズちゃん。俺の血をあげる。ここは人家から遠いから直ぐに獲物を探すのは難しいし、単に精気というだけなら吸血鬼の血の方が人間の血よりも勝ってる」
 静雄は即答はしなかった。
 ただ、金色に燃え立つような瞳が、月下にさらけ出された白い首筋を凝視している。おそらくは人としての禁忌の感覚と、吸血鬼としての食欲との間で板挟みになっているのだろう。
 だが、そう長く葛藤していられるものでもない。砂漠で渇き切った旅人が水を前にして、長らく我慢などできないのと同じだ。
「シズちゃん」
 決して意趣返しをしようという気持ではなかった。ただ、少しでも早く彼の葛藤に決着をつけてやりたくて、臨也はおもむろに自分の人差し指の指先に尖った歯を立てる。
 そして、白い肌にぷつりと浮かび上がった紅玉のような雫ごと、指先で静雄の唇を撫でた。
「―――っ…!」
 静雄の血の匂いは、たまらなく甘いものと臨也には感じられた。静雄には臨也の血はどう感じられただろうか。
 餓えた獣のような呻り声を上げた静雄は飛び掛かるような動きで臨也の両肩を掴み、細い首筋に生えたばかりの牙を突き立てる。
 肌を穿たれるぶつりという感触と同時に広がる疼痛のような甘やかな感覚に、臨也もまた低い呻き声をあげた。

 吸血鬼は吸血行為によって同族を増やす。つまり、吸血行為が吸血鬼の生殖行為そのものとなるのだ。
 そして、生物である以上、生殖行為は強い快感を伴うのが常である。快感があれば、本能的にそれを求めるように生物は作られているからだ。DNAのからくりは素晴らしく巧妙で、ヒトでない化け物であろうとそこから逃れることは不可能だった。

「っあ……あ、ん、ふぁ…っ……」
 ただ血を吸い、吸われる。それだけの行為であっても、粘膜を擦り合わせるのと同等の快感が生まれる。
 臨也にしてみれば、まったく経験のないことではなかった。少なくとも遥かな過去に一度、臨也を吸血鬼に変えた女吸血鬼によって、この快感を経験している。
 だが、その後は一度も同族に吸血行為を許さなかった。臨也にとって、この快感は自分の人生ばかりか幼馴染の人生までも狂わせたものであったからだ。それを同族によって二度も味わうことは屈辱以外の何物でもなかった。
 しかし、今は違う。
 静雄が血を啜り上げるごとに全身を貫く甘い感覚に、臨也は静雄の首筋に縋り付くことで必死に耐える。
 経験が遠い過去に一度しかないだけに、感覚も歯止めがきかない。自分が血を吸うのとは全く違う受け身の快感は、臨也をたやすく惑乱の海に落とし込んだ。
「すげぇ……滅茶苦茶甘い」
 一旦牙を放した静雄が滴るような艶を帯びた低い声で囁き、血の滲む傷口を舐め上げる感触さえも、臨也にとっては、ただの快感でしかなかった。
「くそっ、止まんねぇよ」
「シ、ズ、ちゃん……っ、ん…あ、ああ…っ…ん」
 再び首筋に顔を埋めた静雄に、きつく血を吸い上げられる。
 それだけで臨也の脳裏は白く霞み、求められる歓びに世界がぐらぐらと揺れた。その凄まじさは遠い日に感じた快楽の比ではない。
 否、あの時は一方的に強引に与えられただけで、それは真の快楽とは程遠い暴力に等しいものだった。
 比べて今、自ら望んで血を与えているのは長い長い年月を恋焦がれた、ただ一人の存在なのである。全身の血が沸き上がるような快感は純粋な歓びに他ならなかった。
 そうして、どれほどの血を貪られただろうか。
 やっと静雄が離れた時、臨也は指一本すら動かす力もなく、ずるりと静雄の腕の中に崩れ落ちた。
 脳味噌が沸騰するような快感は勿論のこと、精気までかなりの部分を奪われてしまっては、どうすることもできない。
 だが、静雄を責める気にはなれなかった。
「悪ぃ、歯止めが効かなくて……」
「最初だから仕方ないよ。そのうち加減は覚えるから……」
「それよりもお前、大丈夫か?」
「平気。この程度なら、ちょっと栄養補給して休めば治るよ」
 そう告げ、気だるさに任せて静雄の胸に頭を寄せる。
 小さく吐き出した息は、まだ熱を帯びて震えており、肌もまだ初めて知った本物の快感に甘く疼いている。
 つい先ほどまで泣き暮れていたのにこれかと、臨也は自分の中にある獣性に自嘲しながら、静雄の速い鼓動の音を聞く。
 彼もまた初めての吸血行為に興奮しているのだと思うと、何ともやるせない思いが胸に満ちた。
「シズちゃん」
「何だ」
「そろそろ翼を出せると思うけど、俺を抱いて飛べる?」
「翼?」
「そう。背中の肩甲骨のあたり、熱くなって疼いてきてるんじゃない?」
「――言われてみれば、っ、ぐ……!」
 己の背を振り返ろうとした静雄が、不意に低く呻く。
 臨也にも覚えのある感覚だった。何もなかった背中に翼が生える。その異様な感覚は忘れようにも忘れられるものではない。
「大丈夫だから……逆らわずに身を任せて」
 骨と筋肉が軋むような感覚に全身を震わせ、手負いの獣のように呻く静雄の肩をそっと撫でる。
 そうして何分が過ぎただろうか。
 ばさりと大きな音を立てて、漆黒の翼が臨也の視界に広がった。
「っは、あ……は……、何だよ、これ……」
「翼だよ。俺にもあるだろ」
「翼……」
「うん。でも随分と大きいね。これなら俺を抱いてでも軽々と飛べそうだ」
 もともとの体格差もあるだろうが、静雄の翼は彼の体を覆っても余りある大きさで、惚れ惚れとするような力強さに満ちている。
 夜の闇を映したようなその翼を見上げながら、臨也は告げた。
「いつまでもここに居るわけにもいかないから、俺の家に行こう」
「お前の家?」
「そう。少し遠いけど多分、夜明けまでには着ける。ここから真っ直ぐ、北西方向に飛んで? 国境近くまで」
「――分かった」
 ここにいても仕方がないと言うのは、彼にも良く分かったのだろう。
 静雄はうなずいて立ち上がり、臨也を胸に抱え直す。臨也も彼の負担を少しでも軽くできるよう体をぴったりと寄せ、その背に両腕を回した。
「クソ、初めてだってのに、お前を抱えて飛ぶのは心配だぜ」
「大丈夫だよ。ちゃんと飛べるし、君は俺を落したりもしない。でも、疲れたら言って。途中に降りて休めるポイントは何箇所かあるから」
「分かった」
 じゃあ行くか、と静雄は確かめるように生まれたての翼を数度羽ばたかせる。そして、ゆけそうだという感覚を掴んだのだろう。
 少しだけ脚力を溜めて地を蹴った静雄は宙に舞い上がる。大きな翼が風を掴む風切り音は臨也のものよりも重く、獰猛な響きだった。
 感覚を確かめるかのようにしばらくの間、ゆっくりと翼を羽ばたかせていた静雄は徐々に速度を上げ始める。
「よし、段々分かってきた。飛ばすからな、しっかり掴まってろよ」
「うん」
 臨也がうなずき、背に回した両腕に力を込めると、ぐんと静雄の飛ぶスピードが上がる。
 見る見るうちに遠ざかってゆく森と、その向こうの決戦の場となった荒野、そして、その遥かな彼方にある故郷まで続く空を静雄の肩越しに見つめ―――。
 臨也は、静雄の腕の中でそっと目を閉じた。

to be continued...

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